姉のこと(幽霊について)
1、
その時,殆ど出会い頭にその人から言われて意外だったことをいまも覚えていた。
これまで学校や仕事、アルバイトを経て母以外からの女性から受ける親切や愛情を感じたことがそれまで一度たりともなかったわけではないが、いつもごく当たり前のしなやかさを持って生まれたように身に付けているように見える大人の女性がはなつひと言に対して、わたしのようにその時周りの皆全員がはっとしたわけではない。それを聞き流す事と、わたしのような存在を見逃すことと、もし今さら普通の人間と違いを取り立てていえば、わたしはそれを待って居たのかもれない。けれどその時のわたしは、なぜ周りの犬を追い払わないのか,なぜ,怪我をそのままにしておくのかというようにごく当たり前の疑問を投げつけられたようになぜ、ごく当然に多くを顧みようともせずその時まで、まるで自分が選んだ生活のひとつとして、あるいはわたしの身体の一部として,それを受け入れていたのか,それに受け答えしてきたのか、またその消耗を誰のせいでもなく自分の責任だと感じて来たのかを改めて考えさせられたのだった。その時からたしかにわたしの意識のなかに振り分けるべき物事を見る目が培われてきたのだった。
わたしが物心がついてから身の回りに沢山いる幽霊について、説明しなければならないことは膨大にある。けれどいますぐに物分かりの良い相手に、それを他愛ない世間話として話す程度のわかりやすい物事を述べるとするなら、ひとつにそれがましになった出来事があったのだった。それは先に述べた様なピアノ教師との出会いではなく、けれどそれもまた今や,そのきっかけとおなじように夏に起きた出来事にある。その年の夏は涼しく,わたしは冷たさや影を求めるように合間を塗って歩き回るようなこともなかった。わたしは数年間出ずっぱりのように同じような場所に現れてはそこにいる同級生と遊び、それから外に居続け,陽を吸収し続けるような日々だった。
わたしはいつしか神社に来ていた。その場所は実家にある庭とよく似ており,わたしは苔むした神社の石造りの階段を汗をかきながら登り詰める。そこは小さな街の中にぽつりとある、突然現れた空洞みたいな場所で,上まで上がると生えそびる木の影から街の様子が見てとれた。そこからは友達の家も見えたし,工場も、またその廃墟もいくつか見下す事が出来て,不思議とどこからか何かの音が聞こえて来るのだった。わたしはそうしている日々、工場で働いているものが一体どういう中身でどこへ出荷されているのか父に聞いてみたことがあった。それは確かに単純な加工を施して誰かの食卓にあがるためのものだったが、けれど何度も何度も私はそれについて、それからそれに似たようなことを聞き出しては父や母の口からそれが、小さな一つの成り立ちを持っている事を知り,それから訳を知り,世の中は秩序だらけだったんだと思い,それを好き勝手に作り出したというのにそれもまるで人の内部みたいにまったくもって役割ばかりを持って現れているような気がしていて、私は本を開く高校生のように、それから恋人というものをまだ知らない大学生のように同じ感触を探し求めていた。そうやって、動物がいつもわけなく歩き回るみたいに慣れ親しめることわりをいくつも自分のなかに落とし込もうとし続けた。
幽霊というのは、彼らはまず、自分がどうして存在しているのか知らない。なぜそうしているのかも分かっていない。いわばあぶれたものとしてあちこちを彷徨っていて、それからなんの脈略もなく―彼らにとってはそれは大した理由も理屈もあるのだが―こちらに話しかけて来ては,当たり前のようにそこに居座り続ける。
そういう空間を、例えば壁があり床があり,天井があり、閉じ込められた水槽にいるみたいに,彼らのことわりが何でもそう思わせてくるのだった。…
苔むした緑の模様を眺めては自分の心がそれとはまったく似つかわしくないのに、それが露をはらんでいてどうなっているのか触りたくなる時みたいに自分にもそれが分かるんじゃないかとときにそう思わせてしまうのだ。
夏休みとあらば遊びに行く場所というのは不思議で、それの成り立ちをもう既に知ってしまっていた頃、わたしはそれが盛りではない時の姿とも一年じゅう傍らでみ続けていたようで、昔から大人が集まる様子を片隅からじいっと眺めたり、天気の良い日に陽を避けるみたいにして訪れては,木陰に座り込んでお菓子を食べていた頃のいじらしさみたいのを未だに陽が照り返るほどに葉がそびえて居ない時みたいにやはりまだあるんだと感じていたらしい。まるでそれが、急に指名されてどもりだすクラスメイトか、かつての自分そのもののように思える事もあれば、不思議なのは、子ども心にそうするのはおかしな事だと感じていたようで,その事を誰かに話したり誘ったりした事が一度でさえもなかったことだった。学校の裏地だったり、友人がいつも留守にしている時の庭だったりその時の私にはそういう場所がいっぱいあり、自分では気づいていなかったが確かにあの時,わたしは子どもとして世間からあぶれていたんだと思う。
2、
男なのか、女なのか分からないような人と出会い,その人は確かに世界のなかでただ一人,誰のことも批判できない所に閉じ込められているみたいだった。わたしは、それを周りの人が誰も気にも留めない事を不思議に感じつつ、けど周りの人が同様にそうするみたいにその人が,元から持ち合わせてきたと思えるような動き方、それはピアノの蓋の開け方だったり、その触り方,それから言葉を発するときや話し終わるときの神経の使い方なんかにただ見とれてるだけで何日も過ごしてしまっていた。わたしは声をかける。たまに天気の話なんかをする。それから、趣味の話を持ちかけてみたりもする。
付き合って行くうちにわかったが、もし人を知る上でその生活のなかで占める物事に対する関心や、かける時間みたいのがその人の全てといっていいのだとしたらその人の趣味へののめり込み方は理系の大学院生がするようなそれだったから、ある意味でその話は的を得てもいたし、私はときどき何の話をしているのかがよく分からなくなっていった。そうしているうち,天気が移り変わっていくさなか、わたしたちの言葉も気分も変えて行くときもあって、けど最初に挨拶したときの言葉通りいつも誰の批判も否定もせずにするその人に対して,今度は周りがまるで、反応が返ってこないドラを叩くみたいにいらいらし始めるみたいだった。
「いつもの事だから」とその人は言い,そういったことを繰り返し続けた後で,ある程度,わたしは満足していた。わたしからすれば、永遠に学生然として居座り続けることの方がずっと行儀が悪く、それから白状に見えていたのだし。…けどそれはある時またたくまに、私が数日眠っているような間に壊されてしまったようだった。
そうなった後でわたしも彼女もあっという間にかつて閉じ込められていた様な混乱するだけの場,それは暗く嵐が吹いているだけの時間に逆戻りしてしまっていた。ある時,私は何回もその場所に陥れられたのだった。数年前の話…そこには色んな人が居て,多分彼女も居たはずだった。けど私が言うような開会式や、それから休みの日のこと,スポーツ祭の話しなんかはまったく彼女には通じなくなっているようで,いま思えば、それが私が彼女のことを「分かる」ようになったきっかけだったのかもしれない…
いったいどこに?
本当のことが私には一向に分からなかった。私は話が通じないとあらばすぐに逃げ出すたちだったけれど、彼女も彼女で、自衛をずっと昔から心得ていた。例えば記念日さえも忘れているような相手に向かってわたしはなんて声をかければいいのか、それからそれがどういう関係上にあればいいのかが分からず,全く別の問題で混乱して居たのだと思う。たとえば、それを兄弟にするみたいに、言葉を尽くしてあげることとか、気軽にすること、慰めてあげるような事が、かつての自分みたいに必要だったのに。
それから自分もずっとそうしてもらっていたのに、わたしにはというと、ぐんぐん成長して行くだけの幹みたいに受け取った後で、すっかりそれを忘れてしまっていたのだった。
幽霊があちこち動き回り,それから神経を逆撫でするような空気を放っている間,大抵はそれが何も起きて居ないことにしてなければならなかった。わたしはそれが我慢できなかったので、思ったときに思った通りの感想をのべ、それは幽霊ばかり見えている彼にとっておかしいことに見えているみたいだった。一方で、同じようなとき彼女が言う事はときどき取り止めがなく、それか偶然を信じているみたいに見えることもあった。
そういうのが、シュミなの?
うーうん。
……?
…分かりにくかったのは,彼女がいくつもの事を周りにひた隠しにしていたからで、一番の理由は、それを分かりやすく説明する事が出来ないとこに居たからだった。
恐れるってこと。わかる?
うん
一番恐ろしい事を皆が隠し持って居て,わたしとあなたではそれがまだ別のものだったみたい。
事実は私は,それから彼女も、ある時からずっと死んでいたからだ…。ある意味で。いや、ずっとずっと、誰かから殺され続けていたのだった。彼女はいまや男として暮らして居て,私は,明らかに女に見えた。彼が漏れ出さないよう努めているのはそれは、わたし以外の人間には話せないことで、それは会ってすぐに気付くくらいに簡単なことだったがわたしが知らなかったのは,それが毎日少しずつ人にどう影響を与え続けてたのか書いてある書物みたいなものだった。
結局、停滞がそこにあるとするなら、彼がどれくらい酷い目に合っているのか実際まだ何もわかって居ない間それは起こりうることで、けど皆が,幽霊も老人もそうするみたいに、死んでしまってる人というのはそうは気付かない素振りをしてるように見えるもので、わたしも,彼女も、やり方は違えど,同じ所に居ながらも全く違うやり方でそれを切り抜けて来て居た。そうしていまに至るまで,なぜか、系統は違えども他人の持ち得ないような伝え方で常に他人と話して来て居た。その理由も、理屈も、やり方もわからない他人はいらいらし、それからある時には私たちが二人とも女だからという理由でもっと暴力的な方法を心得て行くみたいに見えた。
ある意味で他人がそう思い込んでるみたいに、全てひた隠しにされているなかで要領をえるまでわたしは常に喚き続けて居た。そうしているあいだ、彼女は彼女で自分のパニックと戦わなくてはならなかった。それも、どういう理由で訪れたのか,いつ終わるのか分からないまま、完全にそれが自分のせいで陥った室内だということが、賢いせいで分かり切っているため永遠にそこから一人では抜け出せなくなってしまって居たのだ。
慣れ切ってたっていうことなのかな・・・
私は多分そう言った。
「わたしは何も選べないってとこに閉じ込められたあと、泣いて泣いて、それを本当に私以外の誰かの手に渡したいって思ってた。
・・・それが本当のわたしの人格で、わたしの毎日だった。正直に言うと,私一人では本当に問題を解決させた事がないの。」
それは本当の事だったが、そう言った途端自分がどう見えるのか分からなくなった。
それで…もし、そういうあなたを全て受け止めたら,一体その後どうなるのか一度も経験した事がなかった。私は凄く弱かった。見た目よりもずっと。それなのにそれを愛だって言ってしまうことがどうしてできるのか…
わたしは、いつも、もっと単純な人間だった。それがいまは彼女をどれくらい傷付けるってことが、それからは何か心に刺さってるみたいな出来事に思えるくらいだった。その時はもう、わたしは私のままでもう、彼のことを愛していたんだと思う・・・
「そうなる度、これは何度も起こった事だって目が覚めるみたいに思った。そのたびに私は、何回も目を瞑って思い出そうとしてみた。
だから初めての出来事は、そんな風に片一方は愛にまみれたままで・・・。
それからか細いだけの理屈も同じように、器用に掬い取ってあげれると思った。おかしいよね?でもそんなふうに思い込めるんだね、人って…
それからは、現実とその裏側が入れ替わるみたいな事を繰り返すようになった。そうするうち、わたしもこういうことだったんだってやっと納得するようになった」
3、
その日もいつもの通り,まだ子どもの時の背丈に戻っていた私たちは,皆で遊ぶ事にしたのだった。集まるのは決まって開けた場所で、近くに建物が建ってない事を確認してから数人で待ち合わせてから来る。そうしているのはアキが怖がっているからでそう言うとこにいつも幽霊が潜んで居るような気がしていた。
アキはすごく怖がりで,わたしは時々それをわざとしているんじゃないかと感じる事もあった。
ねえ。幽霊に返事をしたらだめなんだよ、と姉が言い、どうしてと聞くとそうしたら、会話が終わらなくなるからだよと言ったのでわたしも成程と思った。
誰かを怖がらせればいいんだ、そうしたら自分らの役回りが順番こになって,一人が割りを食う事も無くなるんじゃないかな…
誰がそうするの?
て、それはお前がいつもするに決まってる
わたしは笑い,そうやって誰が一番弱虫なのかが露呈しないうちに、姉も私も歳を取るうちに別の方法を取るようになった。
別にいつも、木の枝持って振り回してるだけが「集まり」じゃないしね。
でもそうしてたいんだよ。
なんでさ
だって、時間がいっぱいあるからさ…
…
家に帰ったって,ずっと同じだよ。同じルールで俺たち生きてるだけ。
じゃあ、おまえ好きな人の話しろよ。
…
(あーあ、また始まった…)
わたしはことの成り行きを見守っている。
なんで,今
アキがそう応える。
お前にはそれしか得意な事がないからだよ。ほら。俺が大人にしてやるから、言ってみろって。
それで、あろうことか姉もその日はその話の中に加わってどうなるのかいく先を期待しているみたいな顔で居て、そのせいで,わたしも居心地が悪くなった。そんな風になるまえ、わたしもなん度も同じような悪戯を受けた事を思い出し、けど学年が上がり,お互いに係の仕事を与えられ,色んな事を知って行くうちに向こうのほうから結局それをやめてしまった。
じっと見られてる方はまた、他人を喜ばすみたいに何か言おうとする。
でも
なに?
だって、…俺みたいなのが…
…
(言わせてるのか、言いたいのか・・・。)
私はいつもいる居心地の良い場所のことを思い出し,また姉がどうしてるのか見た後で、どうして姉はこういうときどこかへ行こうとするのかまた考えてみる。
いっぽうで彼はというと,わたしが考え込んでいるのにも気づかずに眼鏡を掛け替える。それからいつもみたいに話して,ただ笑いかけてくるだけだった。
ただ,それだけのことだった。
4、
家のドアが全く開かないままで数日過ごし、その間びゅうびゅうと風が吹いていたのでもしかすると夏に近い季節なのかもしれなかった。
水道管は地下で一生懸命に音を立てて街をいつもの通りに構築しようとしていて、私も、私の家も何度もその街の息遣いの中に飲み込まれそうになり,それは静寂でいつも通りに家族に飲み込まれたまま沈んで行く精神の安息のように未だ思えていた。それから、ここへ来る人も誰も居なかった。
そうしてベッドの中わたしは唐突に,ある事を思いつく。水道菅の蛇口からはみでている水を見向きする事もせずわたしは自らの手で締め、私は今,家の中にあるものをふいに思い出して猫以外で飼っているゆいいつの生き物、小さな熱帯魚を一匹見殺しにしてしまおうとその日の夜,ふたたび集まりから帰って来たあと、布団の中で思いついたのだった。
…安息について、わたしも時々考える。母や周りの人間が口にするようなどうしようもない出来事ばかりが,生活を構築しているのが、正真正銘の子どもみたいだった時のことだった。
わたしは悪戯するときみたいに何回も蓋を開けては中を覗いてみた。蓋を閉めると狭いだけの世界は真っ暗になるだけで、飼う方はもう義務を放棄していつ死ぬのか,それをどう誰にも見られずに片付けるのかしか考えていなかったが、その事に気がつきもせずに泳ぎ回る魚を見ているのはちっとも感傷的な事ではなかった。他人が居なくなる事はとにかく時間と日にちの流れをわたしに思い起こさせた。
それからある時またあの空き地での集まりへ向かった。
姉もまた友達も学校での出来事に心を囚われているようで、いつもみたいに騒がしく話し合っている。
「わあわあ喚いてるだけだからさ。何が言いたいのかって聞いてるんだけど」
あたまが悪いんだ
でもあいつ,理科と社会は出来るらしいよ
ふーん。テストでも見せてもらったの?
姉は言い,私も会話に加わろうとして男子の顔を見る。
いつの間に?ふと思い,何年前からこの集まりに顔を出してたんだろうと突然考え出す。
見てない。
あんた騙されてるんじゃない
そういって笑い,でもこういう姉の嫌味に慣れているらしい相手は,大して反応もしないであーあ、と言葉を漏らす。
駄菓子屋でさあ、一度何か盗んでさ。それが成功したって何か強烈に思ったみたいだね。だからあいつ、クラスに来たあともそういうのがやめられなくなってんだよ。
ふーん。
麻薬みたいなものだね。
私が言うと,男子が私の顔を見る。
「大人を騙すっていう事以上の成功体験はないよ。たしかに…」
幽霊みたい。
そう?
いや、カラスみたいだ。
だけどそれが、怖くなってきてるんだよ。だんだん…だからあいつ、仲間を増やそうとしてて、こいつにも声を掛けてくるらしいよ
ふうん。
おまえは?
私は無いかな
おまえは?じゃあ。
「ないよ」
ふうん…
じゃあ。わかった。私がそいつと仲良くなってくるから。…それからそうやって声を掛けて来たら、私がそこに行くから…そうしたらあなたと委員長で、先生を連れて来ればいいんじゃないかな。
姉はそう言って、何かわくわくしているみたいだった。
私は、嫌な予感しかしなかったが姉はと言うと、未だ数年前までは男女もなく喧嘩をしていた事をいま、そうして思い出してるのかもしれなかった。
「俺覚えてる。こいつがグラウンドで正面切って喧嘩して,鼻血だしてたときのこと」
えーそんなこと、あったっけ。姉は言ったが、私はそんなことは全く覚えていなかった。
けど、帰り道私はどうしても腹が立っていた。姉は隣で涼しい顔をしてテストのことや体育での話をしていたが,いまはもう数年前とちがって髪の毛も長く伸ばしていたし、それにクラス委員をしながらひとつ上の男子生徒と話してるときの姉の顔も知っていた。
あいつ,私の友達にもふっかけてくるんだ。水飲み場で、しかもおんなじ子を狙って話しかけて来るんだけどいつも,服びちゃびちゃなの。何やってるんだと思う
うーん
クラスで一番ばかな子とつるんで、水掛け合って遊んでるんだよ。5分休みになんでそんなことするの?意味わかんないよね。男子って
そう言ってから、二人でくふふふ、と笑う。
…でも、私もあるよ。新しい私の定規、盗まれてた
あー知ってる
あんな真新しいの折って捨ててたんだよ。話したこともないし、別に何もしてないのに。
ほんとに、自分以外の友達いるやつが憎くてしょうがないって感じ
…
ねえ、あーいう話のときのアキって何か変な顔するよねと姉は言い,わたしは「そう?」と答えるが,内心あたりまえでしょと思っていた。姉はやはり、わたしの心の内などは意に介さないままだった。
わたしは猫と、それから自分のしでかしたことの共犯について考え出すほどその日特に劇的な横入りも起こらなかったせいで,いつも子どもが何事もそうしているように、遊びの一つを終えただけで夕方になると綺麗さっぱり私はその事を忘れていた。音を立て、久しぶり窓を開けてみて、わたしはようやく、ひさしぶりに本当に息をすいこんだような気がした。
熱帯魚が死に、わたしはそのぶよぶよの死体を片付けた。生きている魚は触れるのに、死んだ魚はいったいどうしてこうも気持ちの悪いのだろうと思い、暫し私は家の庭先でそれを眺めていた。
土に魚の体を埋めている間、この魚の体の中にある何かが私に向かって咎めているからだろうかと考えていた。そうしながら掘り起こした土を魚の体にかけ、それから、周りに生える雑草を元通りに手で整えていった。
・・・・
呪いも幽霊達も、存在してはいないようなものらの事を思うとき、その感触が、あの時に触れた苔むした岩のような湿り気と同じように感じられていたし、それから、常に姉の元へと降りてくる中年の男の声、乱暴なわめき声、私の元へも来る雑多な女の声、家族と偽り続ける声だって、幽霊たちのかたちがたしかにこの中に同じように詰め込まれていて、確かに他人にとって変わったそのときのことを夢見ているような気がし始めていた…
じりじりと頭には日が当たり、しばらくの間誰も私には声をかけてこなかった。部屋に戻ると、猫が1匹でぐっすりと眠っているだけだった。
5、
もう何度か同じような場所で彼と会った。それまでは殆ど天気の悪い日ばかりで、晴れたかと思うと急に雨が降ったりしていた。ほぼ毎日、回数を重ねるごとにわたしは彼がいる生活の方が当たり前のようになっていき、そうしてたった一月ほどのちになればそれがなくなることをもはや考えもしなくなっていた。
自分の年齢の事だったり、相手の家での立ち振る舞いのことだったり、いつも人と関わるとき気にする事の大半についても考えてはいないようだった。過去を思い出すほどそこが混沌であることや、自分達よりも多くの家族や腐敗し続ける幽霊ばかりで常に生活を埋め尽くされている事も,互いにとくに珍しいと感じないでいることは、やってみれば簡単なようでこれまでの自分にとっては一番難しいことで、私はその事を全て知っている相手がいることに喜び、今は浮かれているみたいだった。
いったい何飲んで暮らしてるの?
わたしは彼に聞いてみる。
普通だよ。と彼はこたえる。
…スーパーで買った牛乳飲んで,野菜とかたまに肉食べてるだけだよ…
ふーん、と言い、その姿を想像してみる。
「君って何か,近くにいる人とかに、影響されたりしてるように見える時あるよね。」
私はちらと顔を見て聞いてみる。
「そんな事ないよ。」
「そう?何か大事な事忘れて、一生懸命に頑張ってる事、あるでしょ」
「それは皆だって…きみだって同じでしょ」
「まあ私は、そう見えているのかもしれないけど。」
「僕が頑張ることといったら、学生の頃から得意分野と思ってることくらいかな。それくらい」
「へえ。何の学部だったの?」
「文学部」と彼は言う。
「ふーん」
「何か思う?」
「ううん。
けど私、君のことたまに分からない時あるの。
たまにじゃなくて、会ってない時いつもかもしれない。」
「そうかなあ。普通だと思うけど…」
「そう?きっと、あなたは私のことをただ見ていたいだけの人なんだなあと思った。」
言われたせいか、彼は私の方を顔をあげてみる。私はそれを、心地よいとも悪いとも思わずに、ごく当たり前の事をただ、どう仕分けしていけばちゃんと自分のためになるのかと思った。
例えば家に出入りしている叔母や、父や母の体を全て覆っている冷たさを私も半分くらいは感じていた。
それから彼等が時折り感じているような苛立ちを、私自身その時にも感じざるを得なかった。
なん枚も合わせた影みたいに知らなかったことを見るみたいに、そんな風に毎日気分が変わるってどんなだろうとか、そんなに体重が軽そうな男の人なんてこの世に本当にいるんだろうか、とわたしは考えていて、私は今、互いに見えない部分がこのまま、手を付けていないせいで歪み続けていったとして、それが一番最後に根をあげる時、そしてそれはこれ迄に何度もあったが、その度にわたしが完璧に忘れ去っていったような物事として再び目の前に現れるようなことってあるんだろうか。そう考えていて、それはどういう形でいつ、現れるんだろうと思っていた。
例えば夢中になれるものをまた見つけ出したとして、その中に居る時が終わってしまえば日常的には、ずっとこの家の中か学校で幽霊と共に居るような日常の中におり、そうしている限りは二人とも引っ張り続けるほどの理由も、性格も、自分達の関係の中では出てこないような気がしていた。
けどそれじゃあ、ここで今こうしている自分達はいったいなんなのだろうか。
やーい、吃音症!
姉がそう叫ぶと,向こう側にいた男子は動きを止めてこちらを見た。
そんな事してないと寂しくってしょうがないんだろ!
そう言うと傍にいた男の子は笑い,私も思わず笑ってしまっていた。
それから顔を真っ赤にした後でそいつはまったく喋らなくなった。いつも廊下ですれ違ったり、トイレに行く時に出くわすと「ぱんつが」とか「女のあれが」みたいなことを言っては、身体のどこかを触ったり,叩いたりしてくるやつだったが、いまはいったい、どうしようか考えてる間の、図体ばかりがでかい動物を見てるような気分になってきてわたしはすぐ「ねえ行こ、」と声を掛けて姉の袖を引っ張った。
姉はおもしろくってしょうがないみたいな顔をして,つい数日前までユウとも悟とも優しく接していた声色とまったくちがう言い方で、相手を罵るのをまったくやめない。
先生が連れられてやってきたころ、私たちはダッシュでその場から逃げ出した。はじめに話していた通りに、行き先も誰が何人いたかも分からないようにと決めておいたルートで駆け抜けて行く…
姉は座り込み、まくった袖から伸びた腕に巻き付いた包帯を手際よく巻き取って行き,私はそれを眺めながら「いったい何やったの?」と聞いてみる。
「ん?見せて,って言ったんだ。あいつ、ソフトボールやっていて,それだけは得意だったみたいだから。
私も得意だから,どれくらいのボール投げれるのか競争しようって」
「ふーん。それだけ?」
「うんそう。見たいなあって」
「ひっどい」
私が言うと、姉はきゃははは、と笑い出し、それから見せたかったな,あいつが私が,怪我してるから今日はごめんねって言ったら,すごく残念そうな顔して、それで仲間とこれから、ソフトボールするから見てて欲しいって言い出してね、とまくしたてる。
「だけど、ちょっとやり過ぎなんじゃない?」
わたしが言うと,ばかだなあと姉は言う。
「…いや、やり過ぎというか、興奮しすぎ」
私はじっとこちらを見る姉の顔を見て、多分姉のほうが私よりずっと、頭に血がのぼりやすい、と思っている。
「…だって、どうしておんなは我慢しなきゃなんないのよ」
しってる?あいつ、いつだって自分だけがよく見えるように周りとも口裏合わせててね…いつも見張ってるのよ。知らない?女子がトイレ行ったり、一人で歩いたりしている時に皆でいたずらしようって
「…」
全部全部,周りも気づかないようにって気をつけながら。ずうっと、影に潜んでいてね…
「ばっかみたい。そうおもわない?
正々堂々は、もう古いって。テレビに出て来るようなのが自分には合わないからって,アメリカのダークヒーロー目指してるみたいな口ぶりでさあ、人前でおしっこ漏らすみたいなことをだよ。それを女子にって目星を付けて、ずううううっとやってるんだから。」
ちがうよ、と私は言い,お姉ちゃんがわかってないのはあいつらが、興奮しやすい生き物ってことだよ。
それに、何されたかなんて構ってないんだよ。あいつは…
「喧嘩したくて,いじめしたくてやってる相手にお姉ちゃんは色目使ったんだから、やり返しにくるよ
きっと…」
わたしは、クラスの女子がその子らの前では駆け足で通り過ぎていた時の事を思い出していた。
「そおかなあ…」
姉は呟き,首をかしげる。
「そんなに、あいつってばかなの」
「ばかだよ。トイレ行った後で,手洗わないって自慢して歩いてるようなのだよ。クラスの女子と男子が、ああいま俺だけを見てるんだぞって一人で、盛り上がっちゃってさあ…」
「うん」
「…まあ、でも先生に行ったから」
ね。と言って姉は私に笑いかけ、それに皆もいるし、「ちょっとたよりないけど」と言い、ふーん、と私もやっと返事をする。
はいこれ、と彼が手渡してくれたのは小さな鉢植えだった。私はその包み紙ごとを受け取り,表面を覗き込む。
「これなに?」
「ビオラ」
「へー。」
それからそれを、食卓のテーブルの上に置いた。
「これ、いいね。」
私はテーブルの上からそれを見下ろして、その鉢植えの風貌を眺める。彼は満足そうな顔をしていた。
「…付き合いたての相手から,すごく素敵なもの貰ったらどうしようって思わない?」
「うーん。そうかな?」
彼は涼しい顔で目の前に座っている。
「だってまだ何も知らないのに。これからのこと、まだ何も分からないのに今、いきなり思ったことをしてくれてもなあって・・・。」
「ああ。たしかにね。」
「でもこれだったら、いまのわたしたちにちょうどいいかも。」
手でそれを抱えるように触れ、私は鉢植えのかたちを確かめてみた。
彼はふふ、と笑い、
「贈り物の選び方って、普段の人付き合いが出るんだね」
「うん。そうね」
「けど、これだって素敵でしょ。一生懸命選んだんだよ」
私は頷く。「うん。分かるよ。ありがとう
・・・いつ咲くのかな」
うーん、と言った後で、もうすぐだよ、と答える。これが見た目よりも丈夫で、日が差していたらその間ずっと咲いてるんだ、と言う。
「ふうん。」
「どうしたの。なにか、考え事でもしているの?」
私は顔をあげ彼の方を見るが、からかっているように軽く微笑んでいる。
・・・だって、でもしょうがないじゃない。ずうっと病気なんだもの」
「ん。なに?」
「だから、その。・・・・家の猫のこと。言ってなかった?」
「ふうん・・・」
どんな猫、と聞かれ、私は困り果て、飼ってもいない猫のことを思い浮かべてみた。それからその適当な特徴を考え出すと、それを彼に伝えてみる。
・・・・・
彼ははじめおかしな顔をしていたが「ふうん」と言って頷くと、それからしばらく黙り込んでしまった。
私は鉢植えの中にひっそり植えられているビオラの芽や既に生えている葉の色を眺めたまま、彼が何か言うのかを待っていた。別に、どこかへ逃げ出してくれたとしてもよかった。関係性というのはいつもそういうものなんだし。
けど私にとって、未だに猫の方は大事にあたたかい部屋の中で、囲いをつけたままで飼っていなくちゃいけなかった。
暫くして顔を上げてみると、彼はテーブルの上に置いてあった紙にペンを持って何か書き始めるようだった。
「なに、それ?」
「…」
ちらと見るだけで彼は私の問いには応えなかった。時々彼がする気ままな態度に私は戸惑っていたが、私は彼の背中を見つめながら飲んでいた紅茶のカップを下げに行った。戻る前に、再び後ろから彼のしていることを覗き込んでみるが、彼が書いているのは見たことのあるようなものではなく、恐竜が骨を咥えている絵だった。
「・・・」
「きょうりゅう。ほら」
「・・・ほんとだ。」
「恐竜みたいに描いた、絵」
「なんで、そんなことするの?」
笑いかけてくる彼が見せようとした紙をわたしはその手の下から抜き取り、自分の手元でじいっと見てみる。
「これ、かわいくない。・・・憎たらしいかお」
「まだ、書き終わってないよ。返して」
そう言って手を差し出して来た彼の顔を、私はじーっと見てみるが、ただおかしそうに笑っているだけだったので、ざわざわした気持ちになる。そうしている間に彼はわたしの手からチラシを取り返したかと思うと、言っていたようにふたたび書き始めるかと思ったそれを自分の手元でくしゃくしゃに折り曲げてしまった。
「あ!」
あっというまの出来事にわたしが驚いていると、彼はいつのまにか立ち上がっていた。そうしてお互いに向かい合う手前の姿勢のまま彼の方からキスをする。
・・・
「・・・ふふ。」
「・・・」
「・・・した?」
「ねえ。」
・・・・わかんない、と私は彼から肩だけ抱き留められたままで応える。そのまま軽く体をハグしたかと思うと彼はすぐに体を離し、先ほど座っていた椅子の方に向きなおし、機嫌よくどこかで聞いたことのある歌を歌い始めた。
・・・ねえ。あなたは、そんなに寂しかった頃があったなんてうそでしょ、と私は聞いてみる。
「ううん。本当だよ」と彼は言う。
そうなると、私もこれまでの道のりを思い返してみたくなっていた。
他人から見ても間違えて辿って来ただけだったことの中に見えてたことが自分にとって当然になったあとで、また不意に分からなくなり、全く会えることが無い日もたくさん続いた。
・・・分からないということがなお一層私のことを不思議な気持ちにさせていた。姉に問い詰めるが,その事を知っていて言いたくないようで、わたしはまだそこでは、妹で居させられるままだったのかもしれない。
でもときどき、それも私が外で友達と会っているときの態度なのかもしれなかったが、私は相手の気分をよそに、じゃあ一人こうしていること自体が、たとえば水遣りの水しか飲み込めない植物みたいで、埋め合わせることも出来なくなりただ一人と一人ずつで寂しいだけなんじゃないかと思えて来るのだった。
新しい自分自身のものになった鉢植えの花の芽がどんどん伸び、それから葉とつぼみが露になっていくのを見るのが日課になってきたころ、私は本当に―それもふたたび、セックスのなんたるかについて分かったような気がしていた。姉も私もそれについての暗喩をことばに忍ばせてときどき話しては、わたしは笑うしかなかったが姉はなぜか冗談をいうときにはいつもより毅然とした態度でいてただふらふらしていただけの彼の笑顔や、自分の気持ちも、改めて見てみるとただの欲望を秘めてるだけの男女同士が、その場で心地いいと言える役割を見せていただけだったのかもしれないと思う。そういう空間は無論,閉ざされていた過去があり、いつから既にあったのかはもう分からなかった。
姉はいつもどおりのいでたちのままで男女に構わず話しかけていた。
わたしも、あなたの前ではただただ相手の人間性と体力が試されるのかもしれない、と言い、姉は「それはあなたこそがそうだ」と応える。
…トランプとか、カードゲームをするみたいにね、相手にどういう持ち物があるかって初めは分からない時は、まだまわりもきっと混乱してるのよ。
「考え過ぎ・・・」
そう返されて,わたしはむっとする。
そっちこそ、考えてたくないんでしょ、面倒だから。そう言うと姉はきょとんとしていて、たしかに、それだから私のいうことはいつも本意で伝わっていないのだろうと思う。
…
まるでルールの枠から外れ出た絵柄でも眺めているみたいだ。
石で出来たテーブルに映る物は人の影であろうと金属の鈍い光のように見えていて、それを見るたびにたしかに瘡蓋みたいな存在もここにあると感じるのがわたし自身ここにいるときの気持ちなのかもしれなかった。
夜に包まれる頃、夜にそこへまた映り込むものが私だと言いたくなって来た時、たとえば金属のごつごつとした感触はいつも人とは少しも相入れなくなる。冷たくて身なりにそぐわないその場所でも、反射の力のせいで光はそこにある形を思わせている。そう思うときはいつも私の思い込みのように感じていたのだと思うし、そのせいで、何度も同じ気持ちはそこでまた消え去っていった。
姉の弁明に私もいっとき心を任せてみて、頑なだった口をいったん開いてみればたわいのない事だったから、ただ単にそれは小さい頃の夢を聞いているみたいで心地がよかったのだった。それはたしかにわたしの趣味だったというよりもはっきりと姉が私の方を見て,私に相応しい役柄を見出してくれていたということに他ならず,姉はそうやって、一日互いが何をして過ごしていようが私のことを待っているという態度をいつまでも崩さなかった。
けれど毎日というのは全くまた同じ一日が訪れるというわけではなく、私たちのそれも周りに誰かが訪れるたび、知らぬ間に袋小路に入り込んでいたときなんかに思い知らされるのだった。そういう時姉は音もなく私の前から姿を消した。はじめは連れ去られたのじゃないかと考えることもあったが、ある時は私の前でも頑なな顔を見せて行く姉のことを考えてみるに、もしかすると自分から好んでそうしているのかもしれないと次第に考えるようになった。
…そうしてそれが、互いが顔を見ない間に思い付くように暗い穴へ繋がるあらゆる事として、勝手にひとりでに広がって行くこともあった。
「・・・病院通いしなければならない体のことって知ってる?そうしなければ体に毒が溜まって死んでしまう病気って思っているよりも沢山あるのよ。
もし、そうなったら、毎日スケジュール帳に同じ印を書き入れなきゃならない・・・。スタンプを押すみたいに、自分の時間が消耗されていくのね。
わたし、そのことを考えると本当に自由じゃない気分ってこういうことなんだろうなって思う」
「ふうん・・・」
彼は通り過ぎる人を見ながら応える。
「猫が居るのも、それなりに大変なことよ。」
私がそう言うと彼は笑っていた。
私が始めて訪れた彼の部屋にはたくさんの見たことのない残骸があった。私が彼とある程度親しくなってから初めて出会した彼の側面には私の未だ把握できていないことも含めて幾つかあったが、出会ったばかりの頃、わたしは、それを他の多くの男のする事と大して変わりのないようなゲームのせいかと思っていた。
そこでわたしの目を引いたのはくつものコンドームの箱で、それは部屋の目に付く場所に置いてあり、中に未だ入ってるものや、空っぽのものもあったりしたのだった。私はそれをはっきりと取って触ったという訳ではないのにそれ以来、それが彼にとって重要な何かであるということ、わたしと真向うまでに彼がして来た事だと知っていて、けれど取り立ててそれを片付けようとも、それからそれが一体どういうことか尋ねてみようともどうしても思えなかった。
いつしか、それが話題にあがったときのこと、彼はまるきりそのことを悪いとも思っていないようだった。わたしはそれで、彼の言動と無邪気さに面食らったのだった・・・
それもまずわたしの為になっているのだと確信しているそぶりで、それとはまた別にそのゲームの中にいる限り、私の存在を丸きり忘れてしまっているようにも見えていた。
彼は彼で私のことには構わずに自分の生を証明するために同じことをし続けていた。
その日もテーブルの上にいくつかの文房具や、父や弟が大切にしていた玩具が置き去りにされてあった。数年間そこに置かれているその中で、私にとってお気に入りのものはただ一つだけだったが、いつもは他の人はそれに見向きもしなかったのだが・・・私がその「証明」の言葉に気がついたのは、赤の他人から、彼の印象を聞いた時がはじめてのことだった。
・・・・
私は彼から体を離して改めて、彼の口元を眺めてみた。
彼は微笑んでいたが、もし今も私が本当のことを尋ねたらきっと私にとって不可解なことばかりを話し始めると思う。
彼はそういう私を見てわたしの事を、小さな子供みたいに感じ取ったのか、微笑みかけ慰めるための言葉をかけようとしてくれる・・・・
…まだ、誰にも話してないよ。私は彼に向って言う。
「・・・・」
本当はすごく怖がってたことも、それから本当に待つ以外の手段なんてひとつも持ってなかった事も。
けどそんなことが、・・・待つしか無いなんてことと、待ち続けるだけの生き方がこの世に一体どれだけあるんだと思う。
「だけど、・・・いまは何ともないのに?」
彼が呟く。
口元を見ながら、私は首を振った。
「…」
あれからは死、っていうことがその時からずうっと傍らにあるの。
それで、もうずうっと・・・長い間幽霊たちのことばかり、考え続けてたから何がいけないのかもう分かんなくなっているの
「私も、あなたも」
人間のやることって終わりがないんだね
「そうね」
きっと、だからこんなとこまで辿り着いたんだね。
かつて、家の中にいて薄っぺらい服だけを身にまとい、何の頼りもない自分が一生懸命に一人で,ドアの鍵を開けようとしていたときがあった。
あるいはそれはトイレに通じるための廊下で、夜中に私が一人で目を覚まして通り抜けた通路の中でもあり、けれど、大きくなるとそこにはいつも男の幽霊が付き添っていた。
いつの間にかそれらのやり取りは幽霊そのものの存在感のようにも思えていて、思った通りにそれはいつも家の奥深い通路にも通じているのだ。
私が風呂へ入るときや友人と話すとき、家の中の部屋にいる時も、私のそばへ来て幽霊たちは好きな事を勝手に囁いていった。あるいはわたしの身体を触り,私が怒るか、塞ぎ込むまでずっとそれを辞めないでいた。そうしていつまでも夜の深いところから罠に嵌りに行った時の少女になったみたいに、私をそこからずっと抜け出せなくさせていった。
「・・・・・」
私は姉の目を覗き込んでみた。
それから、そこに映る鈍い輝きを目で追い、それが誰かのものだと思った後で,それが例えば、誰かが見つける唯一の光明だったみたいにして――そう思ってみる。
最初に、彼が来た時私は本当にほっとしたの。
姉は何も言わない。何の結果も出ていないところにまだここで、二人で居るからだった。
私は姉の顔を見る。目を伏せて、何かを考えているようだった。でも互いに何に傷付き、何を覆い隠そうとしているのかも明白だったのに、私から「すべて」の意味をここで話そうとしてもただ辛くなるだけだった。
「魚は水から飛び出ない時のことを勇気がない、みたいに普通の人は言うの。直接じゃなくたって、会話の端々にそういう言葉をたくさん含んでいた。」
「…」
「だけど、ただ知らないだけよ。本当は、人間だって皆同じだよ。」
・・・
「こんなに心地いい、言葉なんて全くいらない当たり前の救いに。恋すること、愛すること,そう思い込む以外に強いものが、…お姉ちゃんはこの世界のいったいどこにあるんだと思う」
姉は私の方を見る。
「私、いけないって言われても・・・ここからもし出たら、またきっと、元に戻っちゃう。」
「…ここって・・・」
「・・・・この、小さな家の中から。」
私はその続きを言おうとする。いつもここで、姉がどれくらいわたしよりも強いのかが分からなくなっていた。
「ここまで生きて来るまでの間に、私はすべてを諦めてきて・・・。
あなたもそう言っていて・・・。
あなただって、本当は分かっている筈なのに・・・・。」
「・・・」
「もう、おかしなことしかないの。」
「…私だって。」
姉は私の顔を見る。
常夜灯のわずかな光が誰かの足元を薄暗く照らしている。その顔はよく見えなかった。
――けれど私自身さえ、今更改めて話しては居なくても、家の中に閉じ込められた後で限られた空間で,少ない知恵を絞って何かをずっと考えていたのだと思う。
私は周りの大人たちと同じように生活を保ってはいたが、けれど多分、いやになるほどの長い期間のなか、未だにその事をずっと怖がっていた。
他人の目から見られることは唯一私にとっての大嫌いな事でもあったのに、幽霊はそう知っていて私をいつも普通にはさせなかった。私は結局長い間を家族とともに過ごし、それから多くの人に晒され続ける事になった。
そうして、わたしが家の中に置き去りにされていったことも、それから何度も私の身体を食べに来る,理由なんてまったく持たない数多くの、数えきれない程の人間が私の上をずうっと、十数年も通り抜けて行ったという事を一人きりで思うのは怖くて怖くて仕方がなかったのだ。
私は一人で居て、ずっと自分は強くていじけていないと思い込んで暮らして来ていた。
全て分かった後で辿ってみれば,たしかにわたし自身もそのことを事実としてではなく、時々聞かせる部類の御伽噺みたいに考えているのかもしれない。
…あの家では女の子が埋められていて、夜ごとに、自分の本当の姿を見つけ出してくれる誰かのために、ずうっと何かを作って待っている・・・
学校で起きた出来事は、過ぎ去った後の家へと向かう道の中で随分と遠く離れてしまうみたいに思えた。家には常に幽霊が居て、それで居場所が満たされていない日など殆どなかった。確かな、それは感触でもあった。私はそれにずっと触れ続けて、確かに無視出来ないものをどうするのか時々は考えさせられていた。
変化はごくたまにしか訪れず、それはそこに人がいる分周期的に起きているのかもしれなかったが、その一つ一つは確かにそれなりの小さな理由があるみたいだった。
朝、姉は私に本を手渡した。
英語で書かれたその本の表紙を眺めてみる。授業中、時にぱらぱらとそれをめくりながら、やっぱり自分たちは似ているようでどこかが違うと何度目かに思っている…。
彼の顔、挨拶を思い出し、私にとってそれがあまりにさりげなかったせいなのかもしれない。わたしは勉強をしているふりをしながらそう思う。
ドアを開ける。姉の部屋へ窓からはレースのカーテンごしに日が差し込んでいる。姉が居ないその日、私は気まぐれでその部屋のドアを一度開けて中を覗いてみた。窓際の棚に、あのとき姉が手にしていた鉢植えが置いてあった。開け放たれたドアまで、外と家の壁の木の匂いがしている
わたしは中に踏み出し、窓の手前の棚に置いてある鉢植えへと近づく。そこで、土を目を近づけて鉢植えを眺めてみる。
それから…手に持っていたコップを傾け、その水をその土の上へと注いでみた。
それは染み込み、土は音もなくそれを吸い上げたようだった。
・・・何も変わりはないままでも、わたしはひとりで息を付いた。双葉は既に成長していた。苗はつぼみを一つ付けていた。
一方で私が彼からもらった鉢植えは私の部屋の窓に置いたままになっており、それはもう既にいくつかの花を咲かせていた。・・・それから彼の言ったことを思い出そうとしてみる。「これが見た目よりも丈夫で、日が差していたらその間ずっと咲いてるんだ。」そしてそれはその通りで庭先のどの花よりもその後もずっと咲き続けていた。
ある夜、目隠しをされたままで私は誰かから手を引かれていた。
わたしは家に居たときと同じ裸足でどこかの池に敷かれてある木の橋を渡っていた。
それは何度かぎいと大きな音を立て、その音がすると驚いたが、その先にもまだいやな感触のする騒がしい茂みがずうっと続いているようだった。いつもの夜のように直ぐそばまで声が聞こえてきており、私は直ぐに家のことを思い出した。あたりで騒いでいるのは男や女が何かを楽しんでいるような声だったが、それは多くの、名前を知りもしない人たちの声だった。家の奥や外から聞こえて来る荒々しい声、それからいまもわたしは足を一歩ずつ、引かれる手に従ってだんだんと早足で前に出しながら、すぐ傍に大きな池があることを何故かここで昔から知っていたのだと考えており、そのことを知らないふりをしている幽霊たちを見ながらもまた、その手に従うしかないままでいた。
取り留めのない言葉の群れの中に置かれてわたしが、従わされていたとしても考えなければならないことは常に、どこへ向かったとしてもまた一人でもとの家に戻らなければならないということだった。・・・
脚が水たまりに触れ、冷たく汚れるのが分かる。けれど未だ濡れた草むらを歩かされている。・・・大きな、鳥の鳴き声がして周りがざわめいたかと思うと、皆がそれを楽しんでいるみたいに思え、私は今夜の中に居るのだということを思い出した。
いつの間にか手が解かれていた。私は立ち止まり、それから目隠しを解く。
辺りは真夜中なのに、見たことのある大きな月が出ているせいで草むらは明るんでいた。
・・・そうだ。知っている・・・
相手の顔は見えない。けれどこちらを向いているのが分かる。それから、それらがすべて用意されたあとでいつからかそこにあるということも分った。
それは景色だと思ったが、多分もっとずっと昔のことでもあるようだった。
「こんなこと・・・」
何かを言おうとするが、再び遠くからまた鳥の鳴き声が聞こえて来る。
鳥たちが、空の向こうから群れになって飛んで来ているようだった。
ようやく私は相手の顔を正面から見据えてみた。けれどもう既にそれらの景色は誰かの自信と失望のあいだに置かれているように見えていて――
湿地帯にあるのは色々な木や葉が紅葉に染まりかけた草むらで、その中にいるときは皆がそれぞれ真っ黒い鳥に見えているのかもしれず、私もその中の一人としてそこに立っていた。風が吹き、私は自分の、黒い髪の毛を肌に受けてそれに触れてみる。
「このままでもいいの?」
私は聞いてみる。
けれどその答えには思っているよりもたくさんの言葉を要するようだった。
目を開ける。辺りは既に明るくなっていた。
・・・・
・・・・・箱庭だったんだ、ここ。
私は呟いた。
目の前に広がっていたのはさまざまな、雑多な花の群れのようだった。遠くまでずっと続いているその草むらと、わずかに手入れされた跡のある群生とを眺めまわす。
・・・それから、足元を眺める。私の立っている場所にはいくつかの塀があり、それに囲まれた花は背が高いのや、低いのなどが思い思いにその丈を伸ばし、咲きごろの花を咲かせていた。それぞれが気ままに時期を迎えているようで、辺りを見ればもう既に咲き終わっているものや、木の影でまだひっそり咲こうとしているものもたくさんあった。それが風が吹くたびに大きく揺れる。
箱庭、と言った後でそれがぴったりだと思うようになった。周りに人も居らず、ものも無いせいで、花の動きが音になってずっと揺れているように見えた。
「一体誰がこんなことしたの?」
姉が座り込んでその一画のひとつに、戯れるみたいに顔を近づけているのを見つける。
背の高い花の一つが、風が吹くたびにそのわずかな重みで私たちの周りで揺れている。
「避暑地みたい、ここ」
私がそう呟くと姉は小さく笑い出した。姉が笑うたびに、ワンピースの袖から出ている肩が小さく揺れていて、私も少しその気持ちがわかったような気がして笑う。
「確かにそうね。外は暑いもの」
姉はそう言って立ち上がる。
「・・・でも、驚いた。
こんな所があるんだ」
「…」
姉はまだ別のことを考えているみたいだった。
「あなたには分からないかもしれないけど、皆にとって大事な場所だったんだよ、ここは」
「大事って?」
「・・・皆で手をかけて、気が遠くなるくらいの時間をかけて育ててたの。」
改めて、周りで咲く花を見回した。
「でも」
「・・・」
「私のことを閉じ込めていたのに?」
「そうね。私とあなたがまだ知り合わなかったころ・・・
あなたはたしか困り果てて、最初に兄の道具を持ち出した。ずうっと昔の話。それもあの時から、皆で見ていたの」
私は唖然としてそこに突っ立っていた。
姉はまだ記憶の狭間の中にいるように見えた。そう考えてみればこの場所自体が本当に存在しているのかすら疑わしかった。
傍らにいつのまにか佇んでいる建物があり、その周りにこうやって花が群れて咲いており、その外側にも多くの草花が植えられているようだった。その、屋内の中は暗がりが広がり、自分達を取り巻く幽霊たちの声が今にも聞こえてきそうに思える。
「…私はいつも何をしたらいいのか分からなくて・・・・家に行ったら幽霊が居て、自分のことばかり話していて…それに何かするとしたって、でたらめばっかり。」
「うん」
「皆、嘘吐きばっかり」
「たしかにそうね」
「皆で、子供に嘘ついてたのよ」」
「賭けをしていたの。私と、その相手と…」
わたしは姉の顔を見る。
「けど、あなたは、誰が本当に何を考えていて、どういう人間なのかが分からない時があるから。」
姉はそう言って足元の小さな草花を見下ろす。
「ゲームって。それって大事なことなの。」
「ともかくそういう時が、何度も何度も違う形で表れてた。そういうときの私の気持ちをあなたに、本当に伝えるべきだって思うの。・・・あの時、あなたは私のことが自分勝手だと言って怒り狂って…」
「・・・」
「私はそれを、何度も無視したのよ。本当にあなたのせいで、信じられないくらいわたしは、性格が悪くなったわ」
それから目の前に生えていた花の一つを手で折って見せた。
「知らなかったんだもの」
「・・・うん」
「そう、思っているのかもしれないけど。
でも私は、ずっと許せない事のお陰でここまで生きてこれたんだもの。」
姉は笑顔のままこちらを向いている。
「…大っ嫌い」
「なにが?」
「・・・こんな、場所。
誰かの為にいつも咲いているみたいな、花・・・」
「…」
「…」
でも悲しいことにね、それは皆同じなのよ。
私は姉が呟いた方を見る。
急に風が吹いて、姉の髪の毛が舞い上がった。私も吹き付ける風に髪の毛を耳にかけなおしながら、一体何を期待していたのか思い出そうとしていた。
私は、改めて周りを見回してみた。周りの草花は風が吹くたびに音を立てながら揺れていた。
私はいろんな声を思い出そうとしてみた。父の若い頃の姿を知り、見知らぬ幽霊も出入りするようになってからぱったりと思い出さなくなってしまったさまざまな声。私に向って話しかけているようにしながら、ずうっとまったく別の場所に呼びかけていたような声のこと。
…こんな世界じゃなかったこともあった。周りの人はそれなりの日常の中で生きて居て、時々当たり前に私に親切を分けてくれるような存在だった。それぞれ、他人と思っている同士の生き方がそこにはあって、互いが別の場所を見ていたってそれでも良かったんだ・・・。それでもその時々を素直に分け合っていたんだとずっと思って生きてきたのに…
姉は何も言わず花の群れる方を見ている。
「幽霊たちはあなたを怖がっているのよ。いちばん。知ってる?あなたはそう、なっちゃいけないと皆からずうっと言われ続けて来たの。
皆が知っている理由を。でもそれ以上は私は言えない。言っちゃいけないことが沢山あるから。」
そう言うと姉は、先ほど摘んだ花を私へとよこす。それが正当な贈り物だと言わんばかりの表情だった。
私は首を振る。
「誰のためかも分からないようなものが沢山あって、勝手に咲いて、勝手に枯れて行って・・・・それって、誰のせいなの?
・・・こんなに、私のことを忘れたまんまで。幽霊みたいに皆が気ままに生きているせいで、持ち主が永遠に訪れないなんて」
姉はおどけた顔をして、その花を自分の手から地面へと離した。
ぬかるんだ、闇の中にいる。そのぬかるみは、半分が父の体で、もうひとつは長い年月の方だった。わたしは恐ろしくなったがそれは、得体の知れない他人の欲望がしでかすこと、それからそれを他人のような目線で再び知らねばならないということに対してだった。私が学年が上がり、外で友達と遊び、喧嘩をし、受験で悩み…本を読み、それから服を買いに行った…
人を好きになり、それから人間関係に、自分の性格に悩んだ…
そういう時父がそれを、皆の前でバリバリと食べたあとに、夜になって私の体を組み伏せてこう言った。
「見ろ」
そうして父は私の前で服を全部脱いで行ってしまった。
「見ろ。この世には、素晴らしいものがあるぞ」
数え切れないほどのそういった行いを父は人前では言い訳していたし、私に向かって本当の父親のように良いことを言う事もあったのに…
父親の体内みたいに思えた闇の中で私は息づき、それからぬかるんだままの足元を見ていたが、明らかにもう子どもでは無くなっていたと思い、それから、声が聞こえたような気がし、隣を見てみる。そこに姉が居るかと思ったが、傍らには誰も居らず、私はどんどん体温が下がって行くような感覚になった。その場で、自分の存在について考えようとし、そうだ私は、それを忘れていたのだと思った。
忘れさせられていたのだ。
目の前で多くの花が揺れている光景が目に入る。その場所を知っているのは姉以外誰がいるのかを聞いてみても姉は答えなかった。
多分それほど多くはないのだろうと思い、私はそれ以上聞いてみるのをやめた。
目に映してもあまるほどの草花が風に揺れる光景をずっと眺めながら、一体どうやったら無くなるの?と呟く。
姉は笑う。…忘れたらすべてが、無くなるよと答える…
私は自分の体を見下ろしてみる。靴を履き、それから短いスカートが揺れる姿が目に入るが、立っているのは姉といたような草木が群れている手入れされた庭ではなく石だらけの舗装されたアスファルトの上だった。
私は久しぶりに涙を流す。自分自身のあらゆることを何故いつも忘れていられるのかと思い、自分のためにその場で泣いていた。
周りでざわめいている幽霊の声に耳を傾けようとするが、幽霊たちは私がいつもと別のことを考えていると思って奇声を上げて騒ぎまわっている所みたいだった。
私はしばしそれを見ては自分が一体、そうしたら何をしでかすのか、それから何ができないのかを考えていたが、やがて恐ろしい考えが、父から乗り移ってきたような気がした。
…劣等感とか、嫉妬だとか憎悪って、思ってる以上に人に悪さをするんだよ。
「ねえ。もし、あなたが私のことを分からないと思って居るなら、それ全部あなたのせいなんだからね。」
・・・・「もしかすると父さんも母さんも、私達から何か奪って居たつもりなんてないって言うのかもしれない。ただ、あの場所で…わたしの中で、遊んでいたっていうだけのつもりなのかもしれない」
いつもの夕暮れ時。父も母も何処かへ出かけて行き、家の中は静まり返っていた。そうして、外を片付け、流しを洗い、これから食べるものを考えなければならなかった。このままで、私たち2人で何かを組み立て行かなければならないと言うような時間もそこに限りなくあるように感じていた。
そうして姉は、ため息を付く。
わたしは夜中じゅう、過去からえんえんとこの家まで続いているその幼児みたいな「遊び」をまざまざと覗き込んでしまっていた。
姉は手術をしているかのように見えた。表面上は何ひとつ変わりのないわたしたちの生活の中で知らぬ間に、水面下でわたしたちの血は流れ続け、それでも確かにからっぽだったような体の中にはいつのまにか息づいている臓器があるように思え、それは確かに度々何かを思い起こさせるのだった。たとえば、「父」の幻影。それから、かつて家族から言われたさまざまなシーン。
私が渇望しすぎることで夢と混同するようにしてあったさまざまなやりとり。
それらも再び、死んだようにしてそこにあり、そうしてそれらがかつて持ち、私に向って放っていた熱・・・わたしはそれらの意味をあらためて考え、そうしたあとでいくつも、だれかと過ごしていたような子供時代を自分のために手放すようなことになった。
そうしてそれを取り去ったあとでわたしがふたたび呼吸をするとき・・・その音はほとんど彼が、待っている間の鼓動と重なって見えていた。
それは私が、日常的に、毎日のように、それから夜が一日の大半だったと思うごとに繰り返される出来事だった。あまりに同じことばかりが起きるとき、わたしは時間やカレンダーを幾度も見直してみることになった。いったいいつからこうなったのか、それはどこからか区切られて日々があるはずだと思い、それはたしかにそうだったのに、けれど夜の感情があたりを覆いつくすようになると周りとそれはまったく区別がつかないようにも思えて来る・・・
けれどその唸り声を聞くうちに次第に自らの中に何か別の領域が出来ていくように、確かに別の情景が見え始めたのだった。死ぬこと、それから死んだと感じる事、それらは周りの社会からそうだと決め付けられ、それから自身も変わってしまうのであれば変質はある意味、そのときには誰かの思い込みのようでもあるのかもしれない。そうした後で、幽霊たちは再びこの世のことわりを身に付けた後で、もう既に他人というものなど全く関係なく存在できるのかもしれなかった。
そのための「家」だったのだ…と私は思った。
そのための質量を保とうとし続けていたのだ…
家の中に自然と降りる影が何かを覆い、それは夜になるほどに濃くなるとき、ある時ビリビリと雷が落ちるように空間を引き裂きながら、光るのではなく、ただ熱を放ちながら燃えているものを真夜中に再び目にした。
閉じ込められた別の世界の中でそれは、足枷のように見えた。誰かが、こぞって用意しているに違いなかった。
助けて!助けて!…助けて!
悲痛な叫び声が聞こえてくる。いつか、聞いたものと同じだったが忘れてしまっていた。
死んでしまう!死んでしまう!…
…このままじゃ死んでしまう!
その後でギャーッという、酷くつん裂くような女の悲鳴が聞こえたかと思うと、虫の足跡のようなかさかさという音が耳のそばで聞こえているような気がした。
わたしは、ぐっしょりと汗をかいて目を覚ます。
真夜中、私は姉のことをまだ知らず、異様に短い手足を眺めては自分がまだ幼いのだということを思い出した。
その夜の中で、何故か自分の方こそ死ぬべきだったという気分が重く頭を支配していた。…わたしは着ていた下着を寝巻きの下でたぐりよせると、それを脱ぎ捨てるために手を動かしていた。
わたしはまた、異様に幼かった。たしかわたしはもう学校を卒業し、新しい仕事を始めたのじゃなかったか…けれど前方に見えている自分の体は細く、小さいままに見えた。死ぬことは、それは単に気配だけで、何か予感のように体を支配しているように感じられた。私はやっとのことでそれを振り払い、下着を脱いだ。
これまで全く忘れていた数々の出来事―姉や、父の振る舞いとともに、わたしの周りを幽霊が行き交い、真夜中に私を捕えようとする直前に、こういう事があったのだという事をわたしは初めてそこで思い出していた…
それが、「母」のあえいでいる声は、ただの前兆だったという事。
その重い鎖がじゃら、と引き摺られているみたいに思えた。幽霊はこの家の中のあちこちに身を潜めていて、昼も夜も構わずに姿か、声を現す。
私がいつも見る母のいでたちは、どこかの安い衣料品店でとりあえず買ったようなシャツにジーンズのような格好で、誰からの目線も気にしない母は何度も同じ服を洗っては毎日のようにそれを来て私の友人達の前に現れた。また母にけちを付けたように思える人間であれば子どもも友人もかまわず、ゆきずりの警備員や受付の女、全てに対して母が向かうのが常だった。
けれどその母のいでたちこそがこの家の中でだけ用意された役柄だったようで、あるとき私は母が出演している番組を見たことがあった。そこにはいつもの母とまったく違う別の女が佇み、気取ったそぶりではにかんで座っていた。わたしの家族は、世間では誰もが名前を知るような公に出る仕事をしていたらしく、私はそのことを大きくなり、学校を卒業し、家を出る寸前に誰かから聞いてそのことをやっと知ったのだった。
母の肩書きは女優だったようで、それも調べたところによると日本人以外の血統と国籍を持っていたらしくそのことを知ってからは私は母が時折見せる激情やどこかこの土地と合わないような不条理、辻褄が合わない存在感などは全てその海を跨いだ向こうの国で培った当たり前だったのじゃないだろうかと思うようになっていた…
化け物になった母の悶絶は夜中じゅう続くことも、一日中続くこともあった。終わりのないうなり声はこの家に居る幽霊の誰よりも大きく、それからどれだけ母が長いことこの家に縛り付けられていたのか、父からも、周りの誰からも今は声を掛けられていないのか、姉の前にも、私の前にも頻繁に姿を現してはあたりをぐしゃぐしゃにしていくことがあった。
女か男なのかもとっくに分からなくなった母は、そのうめく声は年を重ねるごとに、日を重ねるごとに頻繁に、大きな声になっていった。
―なぜ、と思うよりも私は、不可解な気持ちにようやく腑に落ちたように母がかつて私の日常に存在していたときの記憶をひとりで思い起こしては、まったく笑ってしまうようなこともあった。
母はいつも、完璧に自分の領域を演じきるとそれに満足するのか、私にも姉にもいろんなものをくれるのだった。
いらなくなったペン、使い古したポーチ、小銭、賞味期限の切れたパン、とっくに流行りの終わったスカーフ、誰かからもらったというベタベタの甘いだけのお菓子。
全く美味しく無いお惣菜、腐りかけたフルーツ、安いから大量に買って来たと言う中学生用のマーカー。
同僚からいただいたという虫。
虫の卵とさなぎ。
箱を開けた後の大柄のマスク。
それらを頼みもしないのにたくさん手に持って来ては、やれ買い物はたのしいとばかりにテーブルの上に所狭しと積み上げて行った。
…
私たちがそれをバリバリと開け、用意された「性教育の本」を姉が目前でめくってはソファに投げ出すころ、着飾った母がテレビの中に登場しては、経済の行方だとか海外へ旅行へ行ってきた後の土産話などを話続けていた。
空の色が次第に濃くなり、夜になると吊り下げ式の電灯に手を伸ばして、姉はその灯をそっと点けた。
「お姉ちゃんは知っていたんでしょう」
「ええ。
・・・でも私が何歳だかなんて、聞かないでね」
姉はそう言い、私もつい笑ってしまった。
部屋ではひとつの花瓶に入れられている花が、棚の上で首を曲げてそのまま立ち続け、電灯からの影を床に投げかけている。
姉は私に自分のタオルケットを手渡してくれる。わたしはそれを手に持ち、それから目の前で広げてから投げ出していた足にそっとかけてみた。
「ねえ。私、思うんだけど…テレビやなんかで見るけど、いつも、直ぐに涙を流せる人はきっと、自分のことが好きで溜まらないのね」
「そうね」
姉はそう言って笑う。それから何かを言いかけるように口を開けたが、暗い闇の中で私は何度か視界を失ってしまっていたようだった。
姉がことと何かを置く気配を感じて、私はイヤホンを棚に置いた。それからもぞもぞとできる限りその下で足を伸ばして、わたしは目を閉じようとする。
「風邪、ひくよ」と姉から声を掛けられて、わたしは足元に固まってあったもうひとつの毛布をふたたびかけ直す。
「だけど、どうしてなの?」
「ん。」
「一体どうして、こんな風になったの?」
「こんな風に、って?」
「だって、わたしたちは私たち二人だけなんでしょう。まるで、世界が終わるみたい。こんな事ってどうやったら起こるの?」
私が枕に頭をつけたままで横を向き、暗闇の中でそう問いかけると、姉はわたしの瞼の上に手を重ねたようでなまあたたかい感触があった。
「…なに?」
「ほら、また忘れてる」
「何を?」
「どうしてそんなに、いろんなことを忘れていられるの?あなたが好きなもの、私知ってるのよ。だけどその事でまた、私を困らせるの…」
私は姉の顔を見つめる。
「じゃああなたはまだ、眠って暮らしているの?」
姉はそう言い、僅かに笑い声をもらした。
橙色に灯る姉の部屋の小さな灯に照らされた壁の一部と、薄暗闇に囲まれながら、それが完全な私自身の家という事を身に染み付いて感じながら、その蓋を閉じられている囲いにいまだに守られているのを感じていた。そこにいる姉が電気のひとつを消せば、再び暗闇が訪れることを知っている。
わたしは、寝返りを打ち、少し離れた場所で寝入っているように見える姉の顔をじいっと眺めてみる。
姉の顔は下から明かりを受けていて、暗闇のなかではいつものような表情がどうしても読み取れない。
小さな頃に真夜中に何度も起こされては、声の主を確かめるためにたくさんの名前を呼ばされた時のこと。
それは誰かが想像するよりもずっと果てしなく長く、それからどこで行き当たるのもわからず、手探りをしているような気分だったこと、そのせいで死ぬことは私にとって生きることそのものよりも身近なものとしていつからか感じられていたことも思い出していた。
姉の顔。最初に見たときの印象。
私とは似ても似つかないと思っていた全てのことと、それから次々と目まぐるしく変わって行った日常。
真夜中の、冷たい廊下を歩かされては外からも風が吹き込んで来ている間、たしかわたしははじめ、何も手に持っていなかった。
日の当たる廊下が鈍い色を反射している。その上を風が吹き、薄い色の木の葉が時折舞い上がってはその上に散らばって行った。
わたしが怪我をしたとき、まだ何も良いものを持っていなかったから、自分だけに起きた事は皆んななんだか自分のあかしみたいに感じてたの
姉はベンチに腰掛け、暑い日差しを受けながら汗を拭いていた。
家族が誰も居ない昼下がりに、暗く口を開けているような家を背に、祖父か叔父が用意したベンチに座りながら話していた。午後はいつも宿題もしないで話をするか、いつまでも遊んでいるような日が多かった。
「でもそれがいろんな人の迷惑になっているって。私、その事について脚色して話しすぎたの。」
「ふふ」
「私には周りが見えていないって。だけど個人的なことを聞かされるのが面白くないことってのは分かるけど、でも…」
私は口の中に入れていたアイスのスプーンを再びそれに差し込んでみる。
「つまらないから、そういう日は一人で私は家の片付けをすることにしたのかな。そうして、包帯が取れる頃、もうそれは、私自身の中に溶け込んでしまってた」
私はもう一度姉の方を見る。
「お姉ちゃんは?」
「なに?」
「数年前?それとも五年前だったかしら。
あの時、あなたはどうやって過ごしてたの?私、それを聞いたらあなたのこと少しは分かるかもしれないのに。
…何を見て、どういう人と会って、それからこの家の外で一体どこで暮らしてたの?」
「・・・さあ。あなたと同じかもしれない。」
「同じ、って…そんな、謎かけみたいな返事もうやめてよね」
「そんな事ないでしょう。いつも、きちんと向き合って答えてるのに」
私は思わず姉を見る。姉が嘘を付いているとは思わず、私はアイスのカップにスプーンを置いた。
「嫌なことばかりだったら言わないって、そういうのが正しい時もあるけど。
私もきっとそうするだろうし…」
「・・・・・」
私は見当違いなことを言ってしまったかと思い、思わず俯く。
「父や母がこの家にあんな姿になってもずうっと居るのはね、わたしたちのせいなの。
わたしたち二人のことをどうしても忘れられないからなのよ。
…幽霊になっても」
「…」
「なんでかな。あなたは、考えたことがある」
「だけど、あんなのが親なんて…いったい誰が信じるの?
正直いうとわたし、どこから間違えていて、どこが私だけの事なのかもうわからないのよ」
「だけどそれが、人間のかたちっていう事なんじゃない?自由気ままに、そうしていいって言われたら…皆そうするのよ。戦争が隣の国であったとして」
私は姉の顔を見る。
「…けど、それももう終わりね。」
「ええ。」
姉は微笑む。
「・・・だから、早く目を覚まして。」
空は薄曇り、ときどき流れた雲の隙間から日差しが注がれ、その度に暑い夏だということを思い出すような日だった。
日差しを受けたままで、あつい塊が胸の中から浮かんできては流れていく。はじめて、自分が家族のことを想って他人の前で泣いているのかもしれなかった。
・・・・・
これまで、誰かから愛されることすらなければ、別れを惜しむようなこともほとんどなかった。そうして育てられてきた両親たちの大きな体と、たしかそれは海へ行ったときのこと、もっと幼かったときのこと。ひとつひとつを何故か思い出しては、それがつくりものではなかったときのことを鮮明にいまも覚えているようだった。それは、おとぎ話の中に入れこまれてしまったようななんてことのない日常を守るようにして居てくれた誰かの声と、その感情に塗れるようにしてそこに居座っていたような大きな子供の姿だった。
それから、夜ごとに私の耳元まで迫って来ていた幽霊の声を思い出す。
「・・・だけど、思い出すなあ。
あのとき、あなたも私も、自分にとって寧ろ悪いものを選んだのね。
わたしたち、同じことしてるみたい」
私は姉の方を見ず、自分の足元ばかりを眺めている。しばらくして、ようやく息を吐き出して言う。
「だって、本当にそれしか無かったんだもの。
他の人は、そう言う気持ちを知りもしないんだろうけど」
朝早くから仏壇の掃除をする母親が水を取り換え、果物をしまい、はたきをかけている背中を見ながら数年前まではここに祖母が暮らしていて居候のように過ごしていたのだと思う。祖母が居なくなり、誰かがまた出入りするようになり、幽霊は生活臭を身にまとい、いつしか、私や姉の周りで生きることを夢見るようになっていき、その拙いサイクルの中で私が見て来たものを再び覗き込もうとすれば、その目は、まるで夢でも見ているようだったと思う。
幽霊が願い、夢見ている事をときどき思い出してみては、きっとあの時の言葉や、不可解な表情―それは人とは似ても似つかない不愉快な感情にあふれている、はそのせいでもあったのだと暫く後になってから腑に落ち、彼らにとってのゆいいつの一枚の鏡がそんなふうにして反射し返しているのが彼らにとっての生活の全てであって、それ自体でばらばらになったあとの体をひとつひとつ掻き集めるようにして暮らし続けていた母や父や、それから多くの幽霊達のその顔を思い出す時、それは果たして、全くどこの情景にももう結び付かなくなってしまっていた。
私は彼と二人で向かい合わせに座り、喫茶店のドアが音を立てて開くのを見ていた。彼は手帳を開き、新しいペンでそれに何かを書き込んでいる。
私はそれを見守りながら、コーヒーを飲み、ここ最近会った人たちー多くの雑多過ぎる人たちを思い出しながら、そのことを考えていた。
「きみって、初めて会った人ともいつもそんな感じでいるの?」
彼はページをめくり、「たぶん」と答える。
私は、コーヒーのカップに手を掛けて、それからまだ半分くらいは残っているその液体にどれだけの手間が掛かっているのか一瞬考える。
外へ出ると、強い日差しが差し込んで来るので思わず二人で目を閉じる。
ふと向かいの電線を見るとそこに何羽か鳩が止まって居るのが見え、飛び立ちもせずに行き交う人たちの上で息を潜めているようだった。
喫茶店のドアのベルの音が鳴ってドアが音を立てて閉まる。数日前まで雨が降っていてそれらの水が流れていった跡がまだ残る塀や側溝のしみが目に入る。
「地に足が付いた人間」、彼は言い、私は自分たちの足元を見ながら、重い革靴とスニーカーがそれぞれ砂利を蹴飛ばしながら歩くのを眺めている。わたしもその言葉を反芻してみて、なんだかただの兄弟みたいじゃないかと今更のように思うが、けれど確かに心の奥にはすかすかしている何かがあり、同時にその重みに安堵している自分がいるように思えていた。
いつもふいに思い出していた・・・姉がいつしか携えて来ていた幾つかの秘密を、それから一日たりとも私が忘れることが無かったのは、いったいなぜなのか。
それは期待だったのか、甘えだったのか・・・いや、それは多分、渇望にも似ていた。戸惑う間もなく、周りの世界の仕組みが一日また一日と様変わりしていき、戻れない場所まで届くのを私は姉と同じ場所から眺めていなければならなかった。
もしくは、それを埋め尽すようにしてあった初めの彼の印象と、彼がいつも持ってくる何ともつかないような色のコートやバッグや、その中に詰め込まれている雑多な、他人が触れえないルールのこと。それをもう当たり前のようにして私も扱っていたし、そうなれば吸い取り紙のようなわたしの本来や彼女たちの特有の気持ちは、ある意味で替えの効かないときどきの天気のようにあるだけで、容易に傘を持ち出してきてはしばらくの間それをしのいでいればいいだけに思えていた。
暗転。
―動物が生まれる。
傍らに居る男が呟いたので、私は夢から覚めたような気持でそれに返事をする。
「いったいどうして?」
誰も居ない町の中で会ったその相手と私は、まだ何についても話し終わっては居なかった。
けれど時々不意に嬉しそうに、私の知らない話を持ち込んでは知らぬ間にそれについて話しているみたいだった。
―いつか、知らないどこかで。
顔に笑みを浮かべたままで、その相手は応える。
「それって、いいこと?」
―・・・・・・。
―名前を教えてあげようか?
名前は●●●●
私はその名前が、懐かしいような、おぞましいことのような響きで聞こえている。けれど多分、遠くない未来にすべての意思を伴って私のもとに現れるということを誰かからささやくようにその時からずうっと聞かされていたのだった。
・・・・・・
ぽつぽつと降っていた雨はやがてざあざあと降る強い雨へと変わり、外に居る姉はきっと困っているだろうと思い私はその建物の中から出ようとする。
次から次へと地上へと降って来る雨はくさばなを打ち付けてはその首をもたげさせ、けれど傘を持っていない私はそのままで外へと出なければならず、姉の姿を見つけるころには自身もずっと外へ居たかのような姿になっていた。姉は何事も起きていないかのようにその庭の中心に立っており、多分何かの意思を持ってその中にあるものを見つめているのに違いなかった。
私は後ろから姉の姿を見つめてしばらく立って居たが、もう既に手に持って居たことに気が付き、折り畳まれた傘を差し出す。
「はい」
「…」
「あっちへ行かないの?もうみんな終わったって、そう言ってたよ」
姉は首を振り、私の傘は受け取らずに建物の方を向く。
雨の音で、ほとんど聞こえて居ないかも知れなかったが、なんとなくここまで来てしまったお互いがしていることのわけが分かっていたので、私は姉がどうするのかを見ている。
暫くして、はっとした私はその傘を自分で開き、それから自分達の元にさしてみる。
「…」
私は姉の方を見て、そのずぶぬれの姿をまじまじと見ながら、きっと、大人はこんなふうに子どもを見ているのだと思う。これまで飼ってきた犬や猫が、互いによく知っている中でする打算的なやりとりの中に目を瞑るようにして私や姉もかつては居て、それから、その成れの果てのような父や母や、幽霊たちの声を聞きながら、いったいどうして姉は未だにわたしに対してこんなことをするんだろうと思って居た。
「ありがと」
そう言って姉はわたしが持って居た傘の柄を手に取る。
思いがけず姉に触れたせいで、私は口籠る。それから元いたはずの方向へと二人で歩き出す。
道がぬかるんでいて、辺りを見回すととうに旬を過ぎた花が変色し始めた花弁を投げ出して雨に打たれているのが見えた。
「なんだか、小学生みたいに見える」
私がそう言うと、姉は「うん」と言う。
草むらの中を、音を立てて姉と歩く。姉が雨に濡れた髪を耳へかけると手からぽたぽたと水が垂れているのが見えた。私は姉が、元に戻ってしまったと何故か思っていた。姉が傘を握る手に力を込めるので、私はどちらが何を考えているのかが、また分からなくなりそうだった。
「・・・知ってる?幽霊って底なしなんだよ。」姉が呟く。
「・・・」
「…だから、幾ら興味を持たれても、愛情を注ぎ込まれても、自分がなんだか分からないから、いつまでもそれがどういう事なのか分からない…
だけどずーっと、『いい時』を繰り返すの。
人間みたいなのに、人間じゃ無い…」
「知ってるよ。だってわたしも、同じようなものだもの・・・」
「・・・・」
「ちがう?
・・・でもいったい何を考えていたのか、分かっちゃったの。
あなたはずっと、自分の目の前で私が泣いたり怒ったりしてくれればそれでよかったんだって。
でも私もそれでもいいって思ってた時があったの。あなたの、ペットでもいいって思っていられてるような時間が」
「どうして、そんなこというの?」
「お姉ちゃんが悪いんじゃないけど、・・・多分。でも、本当ならこんな家、無くさなきゃいけなかったのよ。
そうじゃないと皆、居られないような場所で、今更一人が認められたがってたって・・・・」
ざあざあと降り続ける雨の音とともに、地面は深い色を帯び、花は多分倒れて居るように見えている。
「全部うそなの。
・・・全部」
わたしがそう言っても、言葉はまだ周りの音に溶け込んで消えて行くだけみたいに思える。
身体がじょじょに冷えて来ていた。足も手も、温めるだけの暖房がここにはたった一台しか置かれておらず、手持ちの衣服もまだ十分に乾いてはいなかった。
姉は黙っている。聞こえていないのか、そういうふりをしているのかは分からなかった。
「この、家も、外の花も、
ここに集ってくる人たちも、すべて誰かの真似してるだけよ」
「…」
姉はしばらく黙り込んでいた。
「泣いてるの?」
「ううん」
たしかに、姉は泣いていなかった。それに多分私はまだ姉が泣いているのを見たことがなかった。
姉は息を吐いて、しばらくじっとしているみたいだった。外で降る雨の音のせいで、世界が果てしなく広がっていくという不安からしばらくの間だけ守られているみたいに見える。
「こうやって何日も過ごして、…けどそうするうち、きっと外にあるものも、周りのせいでいつの間にか何かを知るようになってるのね」
私は姉の方を見る。
「私、あなたの事よく知っているんだけど、本当は、ときどき全く分からなくなるの」
「…うん」
「私は、ずっと見ていたの。
雨が降ってる間、それから、日が差し込んできたあとでこの土はどんな風に変わって行くのかって」
「外の景色のこと?」
「…私の気持ちも」
姉は膝を折って、それを手で抱え込んで座っている。
「そうするしか出来なかったから」
「…」
「そうしたらもう、何十年も過ぎていて…
ねえ。子供の頃って、海岸にはいったいどうして海だけでなくてこれほど広い砂浜がずっと続いてるんだろうって、思うでしょ。
一体どうしてこんな広い砂浜が、誰が運んで、どうして足を滑らせないようにちょうど良く敷かれてるんだろうって思っていたけど、私にとって必要だったものも同じで、時間と一緒にいっぱいここへ溢れ落ちてしまっていたのね」
「ふうん…」
「あなたは、呆れてるかも知れないけど」
私は先ほど姉の姿と、夏の間に行った海や川での姉の姿と重ねて思い出そうとしてみる。
けど、あの時は父も母も居た。あのときお互いが何を考えていたのかを知る由もなく、私は一人で日差しを避けようと歩いていたし、近くの子どもが夢中になって魚を捕まえようとしているのを見ていた。
「でも、楽しかったな」
私はそう呟いたが、姉は何も答えない。
「案外、忘れてることって、皆で大笑いした事とか楽しかったことの方が多いのかもしれない」
「…うん」
「あの時も、今も、目の前に色んな人が来ていて、私はまだ子どもなんだってそう話して言ってた」
「…」
「…けど、こんなふうになるなんて。」
姉は首を傾けてこちらを見ている。覗き込んでいるみたいに、私はそれを家の庭先やソファの上で姉がそうしていた仕草みたいにして思い出す。
「こんなふうに、って?」
「ん…だからこんなに…あなたに、連れて来られた場所が、こんなに自然にあるっていう事」
私は冷えていて折りたたんでいた足を伸ばして、僅かにどこかから差し込んでいる明かりの元に、建物の内部が輪郭が照らされているのを、息を吐き出しながら眺めた。
「あなたは知ってると思ってた」
夜に入る頃のように身構える気持ちが失せた私は、あらためて外の事を思った。これほど冷えていてもまだ季節は秋にも差し掛かっておらず、外の草花たちは寒いとも思わずに今日の日を恵みの雨のように喜んでいるのかもしれない。
私はそうして、私に向かって知らぬ間に禁じていたあれこれのことを思い出そうとしていた…けれどそれは懐かしいというよりもごく手付かずの部屋だったようで、そのせいでかつての姉の眼差しを思い出していた。私は姉が一体何を考えているのかを知っていた。なぜか、最初に会った日からずっと。
姉のように、日がな見つめていた庭先の木、だったり、祖母が育てていた草花や鉢植えのこと、それから窓に置いたままになっている花を付けたビオラの事や、私にとってそれら全てのことは、まだ愛おしいというよりも産毛が生え揃ったばかりの思いのように、まだ雨にも晒されないままでただ日を待ちながら揺れているだけだった。私はそれに時々手で触れようともしたが、けどそれは、誰にも見せることは多分ないと思っていた。それは誰が感じているよりも強固な思い込みで、いま、微かで頼りない言葉を吐いているだけの姉の姿を見ていても、わたしの中にいる思いは、時々まだどこかへ隠れていたいと未だに感じているみたいだった。
…
「もう行く?」
私はそう呟く
「…雨が止んだら」
姉はそう言い、また元の姿勢を崩さずに窓の外を眺める。
ざあざあと、ふりしきる雨はコンクリートの上を這い、土の上まで来ると今度は迷う事なく地中に染み込んで行っている。
私たちの閉じ込められている、唐突に聳えたばかりの歯みたいな建物はその根をぐらぐらと揺らしながら、置き去られた家具をひっそりと抱え込んで、まだ息をしている。
―閉じ込められている…
私はそう思い、けど胸の中には安堵が広がっている。
それは、今降っている雨が、心を塞ぐほどの音ばかりを連れてくる事、姉が、不安になるくらい子どもの頃から変わっていない姿でいること、それからわたしが、全てを知った後にこうして逃げ出せないでいるせいだったのかもしれない。




