第一章:老人の楽園(エルダー・パラダイス)
肺に流れ込んできたのは、ひどく冷たく、そして不快なほどに乾いた空気だった。
九条蓮が再び意識の輪郭を掴んだとき、最初に感じたのは、石畳の硬い感触と、鼻を突く「饐えた臭い」だった。それは現代の施設で嗅いだ消毒液の混じった臭いとは違い、もっと原初的な、泥と獣、そして老人の加齢臭を煮詰めたような悪臭だった。
(……生きているのか、俺は)
ゆっくりと目を開ける。視界が白濁から徐々に鮮明な色彩へと変わっていく。
空はどんよりとした鉛色で、太陽の光さえも老衰しているかのように弱々しい。
九条は上体を起こし、自分の体を確認した。胸を貫かれたはずの痛みはない。制服は血で汚れていたはずだが、今は見たこともない黒い、しなやかな革の意匠を凝らした衣服に変わっている。そして、右手の甲には――。
「……なんだ、これは」
不気味な黒い紋章が、皮膚の下で脈打つように淡く発光していた。
その瞬間、頭の中に濁流のような情報が流れ込んでくる。
【世界観情報のダウンロード……完了】
【固有能力:『叛逆』を固定。対象へのアセスメント能力を大幅強化】
この世界の名は「カナン」。
年齢こそが階級であり、絶対的な法。六十歳を超えた者は「聖老」と呼ばれ、若者の命、財産、尊厳のすべてを自由に処分する権利を持つ。
「……ハッ。笑えない冗談だ」
九条は乾いた笑いを漏らし、ふらつく足取りで路地裏から大通りへと出た。
そこで彼が目にした光景は、地獄そのものだった。
大通りを闊歩しているのは、豪奢な毛皮を纏い、若者の背中を「椅子」にして休憩する老人たち。一方で、道を這いずっているのは、骨と皮ばかりになった若者たちだった。
「おい、そこ。見ない顔だな」
背後から、不快なしゃがれ声がした。
振り返ると、三人の老人が立っていた。中心にいるのは、金糸の刺繍が入った法衣を着た男だ。その瞳には、かつて九条を刺し殺したあの老人と同じ、若者への純粋な「加害欲」が宿っていた。
「……あんた、誰だ」
九条が冷たく問い返すと、周囲の老人たちが一斉に絶句した。
「……今、何と言った? この奉仕種が。聖老であるワシに向かって……口を利いただと?」
男の顔が怒りで赤黒く染まっていく。その時、九条の右甲にある紋章が焦熱の輝きを放った。
【アセスメント開始……対象:聖老ボリス】
九条の視界に、ボリスの身体情報が文字列となって浮かび上がる。
怒号を上げるたび、男の口元から「カポカポ」と情けない音が漏れていた。合っていない入れ歯。歯肉が痩せ、保持力を失っている証拠だ。
(……入れ歯の不適合。咀嚼能力の著しい低下。それに伴う低栄養状態。……皮膚の緊張の喪失、筋肉の萎縮。こいつ、見た目だけは着飾っているが、中身はスカスカだ)
九条の脳内コンピュータが、冷徹な結論を弾き出す。
咀嚼が満足にできないため、食事量が極端に落ちている。エネルギー摂取不足によるサルコペニア(筋力低下)。一見すると魔力で威圧感を出しているが、基礎体力は限界に近い。
「おい、衛兵! この無礼な小童を捕らえろ!」
重厚な甲冑を纏った「衛兵」が現れた。彼らもまた老人だが、禁忌の薬で肉体を維持している。衛兵が棘のついた鉄の捕縛具を九条に突き出してきた。
「……抵抗するなよ、若造」
その瞬間。九条の一歩が石畳を爆砕した。
「判定。……あんた、もう『保たない』だろ」
目にも留まらぬ速さで懐に飛び込んだ九条は、ボリスの法衣の胸ぐらを掴む。
「な、何を――」
「入れ歯が合ってないぞ。まともに飯も食えてない奴が、威勢だけいいのは滑稽だな」
九条はボリスの喉元に手を添えた。
ボリスの顔は恐怖で引き攣る。至近距離で見れば、その肌は脱水状態で枯れ果て、少し力を入れるだけで容易に裂けてしまいそうだった。
「魔力はあっても、それを支える栄養がない。基礎代謝さえ維持できていないその身体……今ここで、俺が『強制終了』してやる」
九条は、かつて施設で教わった「口腔ケア」の要領で、ボリスの顎の付け根に指を掛け、一気に力を込めた。
――バキッ。
下顎が外れ、合わなくなった入れ歯が石畳に転がり落ちる。
支えを失ったボリスの肉体は、低栄養による脆弱さゆえに、自重さえ支えきれず地面に崩れ落ちた。
「ひ、ひぃぃ……あ……あ……」
声にならない呻きを上げるボリス。衛兵たちが襲いかかろうとするが、九条は冷徹な瞳で彼らを一瞥した。
「次はあんたたちの番だ。……見たところ、あんたたちのその『若返り』、維持するための内臓がもうボロボロだろう? どこから壊してほしいか、選ばせてやるよ」
九条蓮の「看取り」という名の虐殺が、ここから始まった。




