エピローグ:最期の巡回(ラウンド)
夜勤明けの朝日は、刺すように冷たかった。
駅から徒歩二十分。排気ガスにまみれた環状線を歩きながら、九条蓮は自分の右手の甲を何度も見つめた。そこにはもう、神を屠った紋章も、無限の力を示す光もない。ただの、荒れた指先と乾燥した皮膚があるだけだ。
ワンルームの狭い台所。鍋の中のカレーは、数日前に自分が作ったままの姿でそこにあった。一口食べれば、安っぽいスパイスの味が舌を焼く。
(……夢だったのか?)
体感時間は数ヶ月。だが、現実は数分、あるいは数秒の出来事だったのかもしれない。そう笑い飛ばそうとした時、テレビの液晶が青白い光を放った。
『――速報です。三年前、市内の高齢者連続殺人事件。被告・伊藤に対する判決公判が本日行われ、最高裁は一審の死刑判決を支持、控訴を棄却しました……』
画面に映し出されたのは、ゼノ――伊藤の顔だった。
異世界で見た「罪の受肉」そのままの、酷く疲れ果て、だがどこか澄んだ瞳。
九条は、手に持っていたスプーンを落とした。
そこからは、自分でも驚くほどの行動力だった。
かつての職場でのコネクション、弁護団への執拗な接触。介護士という立場から「被告の精神状態に関する意見書」を提出するという建前を作り、法務省の特別許可を取り付けるまで、九条は躍起になった。
そして、2週間が経ち、面会室の分厚いアクリル板越しに、二人は再会した。
「……九条か。久しぶりだな、酷い顔してるぞ」
ダボダボのスウェット姿の伊藤は、少しだけ笑った。
あの異世界でレベルが文字化けした怪物とは、到底思えないほどに小さく、脆い顔付きだった。
「伊藤さん。あんた、本当に行くのか。……あそこで俺たちがやったことは……」
「……ああ、覚えているさ。あの地獄のようなリハビリも、神様へのケアプランもな。……だが九条、あれはあっちの世界の話だ」
伊藤は、自分の細くなった右腕を見つめた。
「俺がこの手で、現実に老人たちを殺めた事実は消えない。……俺たちの生き方は、俺たちが決める。……そう言ったのは、あんただろ。……俺は、自分の人生の終止符を、自分の罪で打ちたいんだ。……それが俺の、最後の自由だ」
九条は頷くしかなかった。
介護士は、患者の生を支える。だが、最後にはその「死」をも尊重しなければならない。
伊藤が選んだのは、延命ではなく、自らの罪による『尊厳死』だった。
面会は、一度きりだった。
それから二年後。
初雪の降る日の午前、伊藤の死刑が執行されたというニュースが流れた。
九条は、いつものように夜勤をこなしていた。
詰所のモニターには、いつものように心拍数を示す波形が並んでいる。
ふと、ナースコールが鳴った。
かつて自分を刺した「加藤」の部屋からだ。
この二年で「加藤」の状態は悪化しており、今では看取りとして扱われている。
九条は迷いなく席を立ち、廊下を歩く。
彼のポケットには、一通の手紙が入っていた。
執行直前の伊藤から届いた、たった一行だけの遺書。
『――九条、お前のケアプランは、まだ終わってないはずだ』
九条は病室のドアを開け、横たわる老人の枕元に立った。
「……加藤さん。どうされましたか」
老人は虚ろな瞳で、天井を見つめている。何も訴えず、ただ天井を見つめている。
九条は、異世界で得たあの無限の力など必要としなかった。
ただ、温かいタオルで老人の顔を拭い、優しく寝返りを打たせる。
伊藤があの日、死を持って「終止符」を打ったように。
自分はここで、誰かの「続き」を支えていく。
この世界という名の巨大な病棟で、最後の消灯が来るその日まで。
「……食事を始めましょうか。明日も、生きていくために」
窓の外、雪は静かに降り積もっていた。
九条蓮の新しいアセスメントは、今、始まったばかりだ。
『異世界最強介護士〜神を看取った男たちのケアプラン〜』――完




