序章:終焉の夜勤
深夜二時。
特別養護老人ホーム『悠久の園』の廊下には、死を待つ者たちの吐息が澱みのように溜まっている。
九条蓮は、ナースステーションのモニターが放つ、目に刺さるような青白い光に顔を照らされていた。空調の低い唸りは、まるで巨大な獣の死に際の呼吸のようで、鼓膜をじわじわと圧迫する。
鼻を突くのは、重く、甘ったるい死の予感だ。
徹底して消毒されたはずのリノリウムの床からは、拭い去れない排泄物のアンモニア臭が立ち昇る。それに混ざるのは、脂が酸化したような、あるいは古本を湿った場所で放置したような、乾燥した老人特有の肌の匂い――加齢臭。それは、どれだけ換気をしても九条の肺の奥底に張り付き、離れない。
「……また、始まったか」
スピーカーから漏れる、地を這うような呻き声。402号室。
九条は重い腰を上げた。二十五歳。本来なら人生で最も瑞々しいはずの彼の皮膚は、日光を遮られた植物のように青白く、目の下には消えない隈が刻まれている。
かつて、彼は「救い」になりたいと願っていた。癌で逝った祖父を、最期まで献身的に支えた介護士たちの背中に憧れた。死という逃れられない運命の前で、せめて人としての尊厳を守る。それは尊い聖職であると信じていた。だが、現実は彼をあざ笑い続けてきた。
402号室の扉を開けた瞬間、乾いた衝撃が九条の頬を打った。
「遅いんだよ、この役立たずが!」
投げつけられたのは、排泄物の詰まった尿瓶だった。中身が九条の制服を濡らし、強烈な臭気が立ち昇る。
ベッドの上に立ち上がっていたのは、入居者の加藤。御年八十五歳。かつては大企業の役員として、数千人の部下を顎で使ってきた男だ。
加藤の瞳には知性など微塵も残っておらず、ただ「若者を支配し、辱める」という原始的な欲望だけがぎらついている。
「申し訳ありません。何か御用でしたか、加藤さん」
九条の声は、もはや感情のフィルターを通していなかった。
プロの観察眼が、無意識に加藤の身体をスキャンする。
激しく震える指先、節々が結節状に腫れ上がった関節。――リウマチの進行。握力はほぼ皆無。
前のめりの姿勢、すくみ足。――パーキンソン症候群の疑い。重心移動に極端な制限あり。
そして、その肌。角質が剥がれ落ち、粉を吹いたような乾燥。それは、栄養状態の悪化と、自身の身体を顧みなくなった精神の崩壊を告げている。
「用だと? 決まっているだろう! 腹が減った! 飯だ! 豪華なやつを持ってこい!」
「今は深夜です。朝食まであと五時間待ってください」
「黙れ! ワシが食いたいと言えば、今すぐ用意するのがお前の仕事だろう! 税金泥棒め!」
加藤は、枯れ木のような手で九条の腕を強く掴んだ。驚くほど強い力――いや、それは力ではない。対象にしがみつき、離さないという「執着」だ。皮膚が捻れ、鈍い痛みが走る。
九条は、自分の腕を掴むこの手が、明日にはまた自分に排泄の介助を求めるのだという事実に、猛烈な吐き気を覚えた。
感謝などない。
あるのは「若者は老人のために消費されて当然」という、この国に蔓延る暗黙の暴力だけだ。
その時、廊下で怒号が上がった。
「逃げろ! 監禁だ! 若造たちがワシらを殺そうとしているぞ!」
認知症の連鎖反応(BPSD)。深夜の施設は、一瞬にして暴動の戦場へと変貌した。
次々と部屋の扉が開き、車椅子を武器にした老人、杖を振り回す老婆たちが廊下へ溢れ出す。彼らの瞳は一様に濁り、それでいて獲物を見つけた捕食者のような活気に満ちていた。
「離してください、加藤さん。外が危ない!」
「死ね! お前のような生意気なガキは、ワシが躾けてやる!」
加藤は九条を突き飛ばし、狂ったように笑いながら廊下へ出た。
九条が後を追おうとした瞬間、背後から複数の手が伸び、彼の服を掴んだ。
「金を出せ!」「ワシの息子をどこへやった!」「この人殺し!」
九条は床に叩きつけられた。無数の重い足が、彼の背中を、頭を、容赦なく踏みつけていく。
床に顔を押し付けられた九条の視界に、割れた窓ガラスの破片が入り込んだ。月光を反射して、銀色に輝いている。
(ああ……終わったんだ)
何かが、自分の中で決定的に崩壊する音がした。
優しくありたいと願った心。誰かを救いたいと祈った誇り。それらがすべて、薄汚れたリノリウムの床の上で、泥に塗れて消えていく。
「どけ……離せ、この……死に損ないどもが……!」
九条が絞り出した声に、一人の老人が反応した。
手に鋭利なガラスの破片を握りしめた男。九条はその男の身体的特徴を、死の間際ですら冷静に観察していた。
――右側麻痺。左手に持ったガラスの角度、45度。踏み込む足の震えから、次の一撃に全体重が乗る。
男が破片を振り上げる。九条は避けることもしなかった。ただ、冷めた瞳で、自分に迫る「終わり」を見つめていた。
――熱い。
胸を貫かれた衝撃は、痛みよりも先に、焼けるような熱としてやってきた。
何度も、何度も。銀色の破片が九条の肉を裂き、温かい血が床に広がっていく。
周囲の老人たちは、それを止めるどころか、楽しげに手拍子を叩き始めた。
(憎い。……殺してやりたい。こいつも、この世界も……全部)
意識が遠のく中、九条の憎悪は純粋な結晶へと変わった。
その時。
血溜まりの中に、一人の女が立っていた。背中から生えた漆黒の翼。夜を切り取ったようなドレス。サキュバス。
「……いいわね。その腐りきった魂、とても美味しそうだわ」
女は九条の耳元で、甘く、残酷に囁いた。
「貴方の人生は、ここで終わり。でも、貴方の『絶望』はまだ始まったばかりよ。……やり直したい? 奪い尽くしたい?」
「……ああ。力が欲しい。……あいつらを、地獄へ叩き落とす力が」
「契約成立ね。……ようこそ、老人の楽園へ」
九条蓮の意識は、底知れない闇へと堕ちていった。




