直撃した飛来物は
サクリ、と僕の足が整えられた芝生を踏む。
と同時に、フェリシエ嬢が音もなく前に現れてどこからともなく飛んで来た小石を受け止め、何事もなかったように僕の後ろに下がった。
……だ、だいじょうぶ、大丈夫だ。
飛び跳ねそうになる心臓を抑えて、一歩、また一歩と、城の中庭を進んで行く。その間にも小枝と鉄柵の破片らしきものが飛んで来たりしたが、彼女の宣言通り、僕には届かない。
歩を進めてやって来たのは、花咲く庭園を一望出来るお気に入りのベンチ。腰を下ろして深呼吸した空気のあまりの爽やかさに、吐き出した息が震えた。青い芝生、生け垣の緑と土、ふわりと漂う薔薇の強く華やかな甘い香り。
――…空気って、こんなに美味しかったんだなぁ……埃っぽくないし、熱もこもってないし、息苦しくもない! ……ッ、感動のあまり泣きそうだ。
もう一度深呼吸して空を見上げれば、清々しく晴れ渡る澄んだ青色を鳥たちが羽を広げて進んでゆく。なんて自由で素晴らしいのだろう。ぼんやりと見ていると僕の悩みまで飛んで溶けていくようだ。
「……あぁ……お茶でも飲みたいな……」
気を抜きすぎてポツリと零れ落ちてしまった言葉に、待機していた侍女と近衛騎士達が反応した。
「殿下、簡素ではありますがすぐにお茶の準備をさせて頂きます。少々お待ち下さいませ」
「え? いや、準備は不要だよ。僕がこんな場所に居ては、フェリシエ嬢はもちろん皆も危ないだろう。お茶なら部屋で貰うよ」
「ご安心下さい、殿下。我々が防御魔法を展開致します。フェリシエ殿に頼りきりなど、近衛騎士の名折れです。彼女に負けぬよう、必ずお守り致します。存分に気分転換なさって下さい」
結局彼らの熱意に押し負けて、その場でお茶の用意がされることになってしまった。
危険な目に合わせて申し訳ない気持ちで一杯で「すまないね、ありがとう」と言葉にしたら、「こんな時しか殿下のお力になれない頼りない我々ですが、どうぞもっと我らをお使い下さい」と温かい眼差しを返されてしまった。
いやいや、僅か一分でお茶の準備を整えた君たちが頼りないなんてことはない。我が国の人材が優秀すぎて困る。彼らが仕える完璧な王子様のハードルがどんどん上がっていってしまう。
そうして、座っていたベンチに小さなテーブルを添えただけの簡素なティータイムが用意された。テーブルの上も“飛ぶ”危険を考慮しての最低限で、マグカップに入れられた紅茶とカラフルな包み紙の上に広げたクッキーしかない。もっとも、これが最近お茶する時の定番だ。軽いティーカップも熱々のティーポットも皿も、よく飛ぶ危ないヤツらなので。
それでも気分転換には十分だ。
もう一度皆にお礼を伝えて、独りで楽しむのも気まずいのでフェリシエ嬢に声をかけた。
「フェリシエ嬢、せっかくだから貴女も一緒にどうだろうか?」
「わ、私が、ご一緒に、ですか?」
突然の誘いに驚いたのか、彼女は赤い瞳を丸くして動揺している。普段飛来物を冷静にテキパキと処理している彼女も動揺することがあるんだと、ほんの少し笑ってしまった。
固まって動かない彼女へ「ほら、早くおいで」とベンチのスペースを開けて呼ぶ。
「……ッ!」
ギュッと口を結んだ彼女の目が鋭くなる。
えッ、睨み返してくるほど嫌だった!?
この状況どうしようと笑顔で固まる僕の横へ、彼女が「お、お隣、失礼致します」と硬い仕草で腰を下ろした。同時に、侍女がスッと彼女の分のマグカップをテーブルに追加する。いつの間に用意したんだ。未来でも見えているのか。この後どうなるのか、僕にも教えてくれ。
現実逃避しても仕方がないので、とりあえずマグカップの紅茶を口にしつつチラリと横目で彼女を見ると、紅茶を口にして落ち着いたのか、柔らかな眼差しで庭園の花を眺めていた。普段の騎士然とした姿とは真逆の、両手でしっかりとカップを握る仕草が彼女のご令嬢としての姿が垣間見えて……なんだかそわそわする。
「フェリシエ嬢、クッキーはお好きだろうか? これは僕のお気に入りの塩バタークッキー。クッキーの甘さを塩が一層引き立てていてね、癖になる美味しさなんだ」
平静を装いつついつもの王子様笑顔でクッキーをすすめてみる。彼女は「頂戴、致します」と短く返事をすると、無表情ながらもどことなくカクカクした動きでクッキーを口に運んで――
「……ッ! とても美味しいです!!」
ぱぁぁぁっと顔を輝かせて微笑んだ。
――僕の脳裏に、これまで彼女と過ごした日々が蘇る。
どんな時でも、どんな物が飛んで来ても、眉一つ動かさずに対処してみせる頼もしい彼女。必ず守りますと凛々しい顔で伝えてくれる格好良い彼女。騎士の礼をして真っすぐに立つ、まるで御伽噺からやって来たかのような理想の騎士様である彼女。
……え? そんな彼女が? こんな愛らしい顔で笑うの?? しかも本当に気に入ったのかもう一枚に手を伸ばして、今度はひとくちずつ味わうように小さく細かく食べつつ、白い頬をほんのりと赤く染めている。子リスかな?? ほんの数分前まで歴戦のドラゴンだったのに??
これまで飛んで来た何よりも凄い衝撃が、僕の心をぶち抜いた。
「……かわいいな、きみ……」
呆然した口からポロリと零れた呟きに、彼女も、僕も固まって。
彼女の顔がガッと一気に赤くなった。
つられるように、僕の顔にも熱が集まって来る。
な、何を言ってるんだ、僕は!!
「あ、いや、その――」
「もッ、申し訳ございません殿下!! わ、私、とんでもない幻聴が!! なんでも、なんでもない、のです!!」
「げ、幻聴……」
無かったことにされて悲しいような、便乗して有耶無耶にしたいような……いや、このまま有耶無耶にしてしまうのは品行方正の誠実で完璧な王子様がやることではないのでは? ご令嬢につい『可愛い』なんて言ってしまう軟派な人間だと思われては困る。ここはどうにか誤魔化さねば!
そう心に決めて完璧な王子様笑顔を浮かべた時、彼女は不意に立ち上がって正面から飛んで来た木片を受け止めると、照れた顔のまま居心地悪そうに――…バギッと、木片を真っ二つにした。僕の腕よりも太い木片を。素手で。クッキーを割るかのように。
……うん。やっぱり黙っておこう。沈黙は時に命を守る。
「あー……そろそろ戻ろうか、フェリシエ嬢」
「そ、そうですね。なんだか、暑くなってまいりましたし!」
「貴女のおかげでとても良い気分転換が出来たよ。本当にありがとう」
「この身には勿体無いお言葉でございます」
彼女は顔に赤みを残しつつも表情だけはなんとか取り繕って、立ち上がった僕の後ろに付いて歩き始めた。
護衛と侍女の皆にも改めてお礼を伝えておいたが、皆揃って生暖かい眼差しをしている。少し離れた場所に居たから僕の“例の呟き”は聞こえていないだろうが、何かがあったのは明白なのだろう。もの凄く居たたまれない。
やめてくれ! 時間差でじわじわ来る恥ずかしさで死にそうだ!
その眼差しから逃げるように執務に取り掛かったものの、傍に控える凛々しい彼女と、花咲くような微笑みの彼女が脳内を行ったり来たりしていて、心臓がそわそわして落ち着かない。
ダメだ、しっかりしろ、僕! 完璧な王子様はご令嬢一人に心を乱されたりなどしない!
それからはもう一心不乱に執務をこなして没頭することで、心の平静を保つことにした。緊急性のないものまで手を付けて片付けたので、「鎧という枷から解放された殿下がより一層張り切っている」「自身の呪いなどよりも民を優先されている」「我らも負けていられるか! 殿下のご負担を減らすんだ!」などなど、完璧な王子様のハードルが爆上がりしていたのを知ったのは、もう少し後のことだった。