本当に痛いアクション映画が観たいんじゃ!!
――昨夜の話である。
ワインを飲みながら、アマプラで何気なく映画を選んでいた。
そしたら出てきたのが『神探大戦』。
「なんかの戦いもの?」と再生ボタンを押した……ら。
――ぶっ飛んでた。冒頭から、マジで。
主人公の神探(探偵)は、完全に目がイッちゃってて、ほぼ気がふれてるレベル。
しかも事件解決が、ロジックじゃなくて**「暴力×霊感×火力」**でゴリ押し。
で、その相棒で、ヒロイン役の女刑事は――まさかの妊婦。
ちょっと待て。
なんで妊婦? っていうか、
戦ってる最中に、その場で赤ちゃん産んでるんだけど!?(笑)
銃撃戦のど真ん中で、
もう、出産シーンとアクションがシームレス合体してんの、意味わからん。
日本だったら企画書の段階で「却下」のハンコ押されて終わるだろ。
「これどこの国の映画だよ……」と思って調べたら、
舞台は、今まさに大変なことになっている――香港だった。
そんな2人が、香港の街を爆走しながら、
“爆発! 殴打! 謎の精神世界!”を駆け抜けていく。
もはやこれは、なんでもありの、完全な暴力エンタメ映画だった。
そして観終わった俺は、しみじみと思ったのだ。
「やっぱり……“痛い映画”が、ええ……!」
軽いパンチじゃ足らんのじゃ。
沈む拳が、観たいんじゃ……!!
*
◆◆始まりの痛み:日本任侠と香港ノワールの系譜◆◆
【1】十代の頃に出会った、“あの痛み”
俺は忘れない。十代の頃。
こっそりビデオで観た『仁義なき戦い』。
暴力が、ちゃんと暴力として描かれていた。
友情は裏切られ、信頼は銃で吹き飛ばされ、
「やるか、やられるか」しかなかった世界。
そのあと、ツタヤで出会ったのが『男たちの挽歌』。
あのスローモーションの銃撃戦。
「儀」「友情」「裏切り」「最期の弾丸」――
全部が、男の命を削る重みで描かれていた。
そうだ。
俺はあの頃から、映画の中に“本物の痛み”を探し続けていたのだ。
◆◆拳が語る真実:韓国アクションにおける「痛み」の探求◆◆
【2】ドンソク兄貴の拳、それは“質量そのもの”だ
<重さで殴る映画の象徴、それがマ・ドンソク>
そして俺が信頼を置く拳がある。そう――
韓国アクション界が世界に誇る、“拳の重量級”ことマ・ドンソク兄貴である。
短髪でちょっとでぶっちょ。
でも、拳を振るった瞬間、音が違う。
「バチン!」じゃない。**「ゴドンッ……!」**だ。
低周波の破壊音。骨と筋肉が“沈む”重み。
拳が語るのは正義ではなく、質量と決断。
『犯罪都市』でも『悪人伝』でも、
兄貴の拳が画面に映った瞬間、俺は思う。
「あ、これ、即死じゃね?」
もはやアクションじゃない。制裁だ。
殴られたやつの骨伝導で、観客の鼓膜まで震える。
本当に“痛み”が画面から伝わってくる拳。
それが、首をへし折るドンソク拳だ。
……とにかく、あの拳に勝てる武器なんて、この世にあるんだろうか。
でも、“刃物”という視点なら、ひとつだけ思い出す映画がある。
【3】「アジョシ」のナイフは、心を抉った夜の記憶
<切る映画の代表格。これは“刃物の痛み”の話だ>
韓国映画には、もうひとつの“痛覚の神”がいる。
『アジョシ』。ウォンビン主演。
ラストの救出シーン、あの目――完全に「殺るぞ」の目だ。
ナイフで、拳で、体ごとぶつけてくるアクション。
観てるこっちが息を呑むほどリアルで、痛そうじゃない。痛い。
◆◆令和の「痛み」:進化する日本のリアル・アクション◆◆
【4】「ベイビーわるきゅーれ」は、“黙って殺る”系
そして、最近の日本映画にも逸品がある。
『ベイビーわるきゅーれ』。
若き殺し屋女子コンビ。見た目は地味。日常生活もユルい。
でも、戦闘になると一転する。
・あの無駄のない動き。
・拳も蹴りも、感情ゼロ・表情ゼロ。
・銃を構えるときに「ふんっ!」とか言わない。
・静かに、サクッと“仕留める”だけ。
「なんだろう……この怖さ」って思う。
カッコいいとか強いじゃなく、**「この子たち、マジで殺してるわ」**という説得力。
“格闘”というより、“ルーティンで人を処理してる”感じ。
相当なリハーサルを重ねて、手抜きせずに創り込んでいる。
リアルで、怖くて、そして最高に誠意を感じる。
【5】「孤狼の血」──撃つべき時は撃て。主役でも殺せ。
『孤狼の血』が痛快だったのは、ただ暴力的だったからじゃない。
「この人は撃つべきだ」と思ったら、たとえ物語の“主役格”でも躊躇なく殺す。
そこにブレがない。ドラマ性より生存と理屈の優先順位が明確。
それがたまらなくリアルだった。
本物のリアルな暴力は、“物語”も“主人公”も守ってはくれない。
銃の前に立つ者が誰であれ、撃つ理由があれば撃たれる。
「こいつは主要キャラだから撃たれない」なんて、監督の都合などは通用しない。
しかも、そこに“後悔”や“感傷”の尺すら与えない。
淡々と、しかし確実に、命が終わる。
だからこそ、「生きている」キャラたちの空気が濃くなるのだ。
──殺すなら、理由が要る。
しかし、生かすなら、そこにはもっと明確な理由が必要なんだ。
そして、その判断は“神”ではなく、“観ている観客”が下すべきだ。
白石和彌監督の美学には、深作欣二の『仁義なき戦い』の遺伝子がある。
「暴力とは何か」を描く系譜が、しっかりと根付いている。
【6】「アウトレイジ」──沈黙と報復の美学
北野武の『アウトレイジ』は、暴力が無言で支配する空気感に満ちていた。
裏社会のルールに“義理”も“筋”もない。ただあるのは、沈黙と報復の連鎖。
誰がいつ裏切るか分からない緊張の中で、会話は最小限、行動は致命的。
撃つ側にも“哀しさ”がない。ただ、淡々と殺す。
北野監督が影響を受けたのは、アメリカン・ノワールや日本のヤクザ映画が持つ冷酷なリアリズムだ。
言葉を極限まで削ぎ落とし、暴力そのものを語りの手段として用いる。
その無駄を排したストイックな演出が、むしろ研ぎ澄まされた快感をもたらすのだ。
◆◆命の論理:シリアスな作品における「死」の必然性◆◆
【7】命を軽く扱う映画に、魂なんてない
最近の映画は、命を簡単に“助けて”くれる。
「敵がなぜか情けをかけてくれる」
「味方が絶妙なタイミングで登場して救出してくれる」
……いやいや、撃てよ。
撃たれるべきシーンで撃たれない映画には、
命の重みも、死のリアリティもない。
【8】嘘なら嘘でいい。でも、シリアスをうたうなら別だ
『インディ・ジョーンズ』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』は大好きだ。
あれは最初から「冒険活劇です!」って宣言してる。
だから飛ぶし、滑るし、死なないし、生きてる。それでいい。
最初から“嘘”だと分かってるからこそ、誠実に楽しめる。
でも、問題は**“リアル”や“シリアス”をうたっておきながら、命に都合のいい展開をする映画**だ。
そんな映画は、信用できない。
嘘なら嘘でいい。でも、シリアスをうたうなら別だ。
リアルを語る覚悟があるなら、“痛み”からも、“死”からも、逃げるな。
【9】テロ映画に、甘さはいらんのじゃ
俺が惚れたドラマがある。
『ホームランド』と『24 -TWENTY FOUR-』だ。
どちらも、主人公がとんでもない窮地に追い込まれる。
捕まる。裏切られる。信用を失う。
でも、その状況に甘さが一切ない。
「生き延びたこと」が奇跡ではなく、命を削った代償として描かれていた。
そして何より、敵は、撃つべきときに撃ってくる。
だって、テロリストだぞ。──話せばわかる日本人じゃない。
*
じゃあ聞くけどさ──
CIAのエージェントが、テロリストのアジトで拘束されたとする。
映画だと、なぜかここから意味不明な展開になる。
「お前にはまだ使い道がある」
「我々の交渉材料として……」
「お前の反応を試している……」
──いやいや、そんな理由なら撃て。即殺せ!
ボスが静かに部屋に入ってきて、無言で額を撃ち抜く。
──ズキューン!!
それでいい。
むしろ、それが“正しい”。
映画が命を語るなら、
**「死ぬべき人間は、ちゃんと死なせ」**というリアリティは必須だ。
◆◆結論:映画には、“覚悟の痛み”が必要だ◆◆
・アクション映画なら、“拳の重さ”を
・サスペンス映画なら、“死の重み”を
・テロ映画なら、“甘さ”を捨ててくれ
映画、嘘だからこそ――
逃げずに、誠意のある嘘をついてほしい。
そして最後にもう一度言わせてくれ。
ワシは酔っている……いや、違う。
ワシは、映画を心底愛している!
だから――“本当に痛い映画”が、観たいんじゃ!!