第三章:東京の毒と、二人の選択
深まる関係性と忍び寄る困難の影
季節は、肌を焼くような猛暑がようやく和らぎ、空が高く澄み渡る、心地よい秋へと静かに移ろいでいた。オフィス街を吹き抜ける風も、どこか乾いた、しかし爽やかな香りを運んでくる。鳩屋フーズとの、長く、そして波乱に満ちた共同プロジェクトも、ようやく最終的な調整と受け入れテストのフェーズへと突入し、トンネルの先に、確かなゴールの光が遠くに見え始めていた。それに伴い、プロジェクトの中心メンバーである結城 創と佐伯 小春の関係性もまた、否応なく、新たな局面を迎えていた。あの夏、互いの内面で激しく燃え上がり、そして揺れ動いた複雑な感情の波は、決して穏やかになったわけではない。むしろ、それは地下水脈のように、より深く、より複雑な潮流となり、二人の間に、もはや互いに無視することも、そしておそらくは後戻りすることもできない、名前のない、しかし極めて特別な繋がりを、密やかに、しかし確実に形作り始めていたのだ。
(結城 視点) 結城は、ここ最近、自分が佐伯小春という存在に、完全に「飼い慣らされて」しまっているのではないか、という、屈辱的とも言える疑念を、打ち消すことができなくなっていた。いや、「飼い慣らされた」という受け身の表現は正確ではないかもしれない。むしろ、彼女の存在そのものが、彼の、完璧にコントロールされているはずだった日常にとって、そして彼の精神的な安定にとってさえ、いつの間にか、不可欠な構成要素、あるいは、デフォルトでインストールされているべき基本ソフトウェアのように、彼のシステム深くに組み込まれてしまっていたのだ。その事実に対する自覚が、彼を苛立たせ、そして同時に、奇妙な安堵感をもたらしていた。 例えば、重要な経営会議や、神経をすり減らすような海外投資家とのカンファレンスコールの前、彼は、無意識のうちに、彼女が給湯室で淹れた、何の変哲もないインスタントコーヒーを飲むようになっていた。彼の秘書が用意する、高級豆を使った淹れたてのコーヒーよりも、なぜか、彼女が差し出す、少しだけぬるくて、時には少し薄すぎたり濃すぎたりする、あの、何の変哲もない、キャラクターもののマグカップ(おそらく彼女の私物だろう)に入ったコーヒーが、不思議と、彼の張り詰めた神経を最も効果的に落ち着かせ、思考をクリアにする、一種の精神安定剤のような役割を果たしていたのだ。 また、以前の彼であれば、時間の無駄、あるいは部下への示しがつかないとして、決してしなかったであろう、業務時間外の、些細で、そして全く非生産的なコミュニケーションを、彼は、なぜか、彼女に対してだけ、いとも簡単に許容している自分に気づいていた。彼女が、週末に「気分転換に」と焼いたという、少し形が不揃いなクッキーを「もしよかったら…」と、おずおずと差し出してきた時。あるいは、彼女が、故郷の家族から送られてきたという、見たこともないような素朴な味の菓子を「皆さんでどうぞ」と休憩スペースに置いていった時。彼は、以前なら丁重に断るか、受け取っても部下に分け与えるか、あるいは密かに処分していたはずなのに、ごく自然に手を伸ばし、「……ああ」「…悪くない」などと、ぶっきらぼうながらも受け入れる言葉を発し、それを口に運んでいた。甘すぎることもなく、洗練されているわけでもない、その、ある意味で平凡極まりない手作りの味が、なぜか、彼の、高級レストランの味に慣れきったはずの舌に、奇妙なほど優しく、そして懐かしく感じられるのだった。まるで、遠い昔に忘れてしまった、何か大切な感覚を思い出させてくれるかのように。 彼は、自分の中に生じているこれらの、論理では説明不能な変化を、依然として、合理的に分析し、理解することができなかった。「なぜ、他の誰でもなく、この女なのか?」「なぜ、これほどまでに、彼女という、本来なら取るに足らないはずの存在が、自分の精神状態や、時にはパフォーマンスにまで、影響を及ぼすのか?」その明確な答えは、依然として見つからない。だが、もはや、その答えを、理性だけで探そうとすること自体が、不毛であるような気もしていた。ただ、否定しがたい事実として、彼女が傍にいる時の自分は、いない時の自分よりも、ほんの少しだけ、肩の力が抜け、呼吸が楽になり、そして、人間らしいのかもしれない、と。そして、その、認めたくない事実に、彼は、言いようのない居心地の良さと、同時に、自分の築き上げてきた、冷徹で、孤独で、しかし安全だったはずの世界が、足元から静かに崩壊していくかのような、深い、深い危機感を覚えていた。佐伯小春は、彼にとって、もはや手放すことのできない、唯一無二の、しかし、彼という存在そのものを変質させかねない、極めて危険な「必需品」となりつつあったのだ。依存は、弱さだ。そして弱さは、敗北に繋がる。彼はそれを、骨身にしみて知っているはずだった。
(小春 視点) 小春にとっても、結城 創という存在は、出会った当初とは比べ物にならないほど、大きく、そして彼女の世界の中心に、無視できないほどの重さで位置するようになっていた。最初の頃に感じていた、息が詰まるような絶対的な恐怖心や、彼我の差に対する圧倒的な劣等感は、完全に消え去ったわけではない。彼の、全てを見透かすような鋭い視線や、時折見せる、氷のように冷たい、一切の妥協を許さない合理性には、今でも、反射的に、心がきゅっと縮こまることがある。 しかし、それ以上に、彼と共にプロジェクトの困難を乗り越え、日々の仕事を通して、彼の持つ、常人離れした知性や、どんな逆境の中でも決して揺らがない強靭なリーダーシップ、そして、あの完璧な、人を寄せ付けない仮面の下に、時折、ほんの一瞬だけ垣間見える、不器用な優しさや、人間的な弱さ、あるいは隠された孤独の影に触れるたびに、彼女の中で、彼に対する感情は、より深く、より複雑な層を成していくのを感じていた。それは、単なる上司への尊敬や、憧れだけではない。もっと別の、温かくて、時には切なくて、そして、自分でもどうしていいのか分からなくなるような、特別な感情。 彼が、難しい顔で長時間モニターを睨みつけた後、ふと、彼女の存在に気づいたかのように、ほんの一瞬だけ、眉間の皺を緩め、まるで「まだいたのか」とでも言うような、呆れたような、しかしどこか柔らかさを含んだ視線を向ける瞬間。彼女が、徹夜で仕上げた、自分なりに工夫を凝らした資料に対して、「……まあ、悪くない。ここの視点は、少しは評価できる」と、ぶっきらぼうな口調ながらも、具体的な部分を挙げて、わずかながらも認めるような言葉をくれる瞬間。あるいは、彼女が仕事で大きなミスをしてしまい、自己嫌悪で落ち込んでいる時に、直接的な慰めの言葉は一切ないけれど、「……で、どうするつもりだ? 落ち込んでいる暇があるなら、リカバリープランを考えろ。時間は有限だ」と、彼らしい、突き放すような厳しさの中に、ほんの少しだけ、前を向くための、具体的な道筋を示唆してくれるような、そんな言葉をかけてくれる瞬間。 そんな、他人から見れば取るに足らないような、些細な出来事の一つ一つが、彼女の中で、彼への、揺るぎない信頼と、そして、おそらくは、はっきりと自覚することをまだ恐れている「特別な想い」と呼ぶべきものを、ゆっくりと、しかし確実に、太く、強く、育て上げていた。なぜ、これほどまでに、彼のことが、頭から離れないのだろう。なぜ、彼のふとした表情の変化一つ一つに、こんなにも自分の心が、まるで天気のように、目まぐるしく揺さぶられるのだろう。その明確な答えは、まだ、彼女自身にもはっきりと分からなかった。ただ、この、広すぎて、人が多すぎて、そして時々、心が凍えるほど冷たく感じる、巨大な東京という街で、彼という存在が、自分にとって、いつの間にか、荒波の中の灯台の光のような、あるいは、激しい嵐の中で船を繋ぎとめる、重く、頼もしい碇のような、唯一無二の、そして、もう決して手放したくないほど、かけがえのない大切なものになっていることだけは、痛いほど、確かだった。彼がそばにいてくれるなら、きっと、どんな困難だって乗り越えられる。そんな、何の根拠もない、しかし、彼女を強く支える、確信のようなものが、彼女の中に、静かに、しかし力強く芽生え始めていた。
だが、二人の関係性が、このように、互いにとって、かけがえのない、そして日々、複雑な色彩と陰影を帯びて深まっていく、その静かな水面下で。結城を取り巻く、華やかで、しかし常に危険と隣り合わせのビジネスの世界には、暗く、そして不穏な嵐の前の静けさのような影が、静かに、しかし確実に、その濃度を増しながら、忍び寄り始めていた。
(結城 視点) 結城は、最近、以前には感じたことのない種類の、重く、そして嫌な予感を伴う「空気の変化」を、ビジネスの最前線で、しばしば肌で感じるようになっていた。それは、まだ具体的な、目に見える脅威として現れているわけではない。だが、長年、弱肉強食の厳しいビジネスの世界で生き残り、そして常に勝ち続けてきた彼の、研ぎ澄まされた、獣のような鋭敏な嗅覚が、何か、良くない変化の兆し、あるいは、自分に向けられた悪意の波動のようなものを、はっきりと捉えているかのようだった。 きっかけは、一つではなかった。懇意にしている、業界でもトップクラスの、酸いも甘いも噛み分けた老獪な企業弁護士からの、珍しく歯切れの悪い、詳細を語らない、しかしそれ故に、どこか不気味な含みのある忠告めいた電話。「結城さん、最近、少し…業界全体の空気が変わってきているように感じます。特に、当局の目が、新興のIT企業に対して、厳しくなってきている。念のため、過去の案件、特に、数年前に手がけられた、あの、少しアグレッシブだったM&A関連のデューデリジェンス資料や契約書を、もう一度、専門家の目で、徹底的に洗い直しておかれた方がいいかもしれません」。あるいは、彼が全幅の信頼を置いている、冷静沈着なCFO(最高財務責任者)が、珍しく、その表情に隠しきれないほどの厳しい険を浮かべて持ってきた、いくつかの長年のライバル企業の、ここ数ヶ月における、不審なまでの大型資金調達や、結城の会社のトップエンジニアに対する、露骨なまでの高額な報酬での人材引き抜きの動きに関する、詳細なレポート。「…少し、きな臭い動きが続いています。偶然とは思えません。我々、ネクストリームに対する、何らかの組織的な攻撃、あるいは、我々の事業基盤を揺るがすような、大きな仕掛けの準備段階である、という可能性も、残念ながら否定できません」。 そして、何よりも、結城自身の「過去」という名の時限爆弾。彼が、ネクストリーム社を、ゼロから、誰もが不可能だと嘲笑したこの規模にまで、驚異的なスピードで急成長させる過程で、決して綺麗事だけではない、時には法や倫理のグレーゾーンすれすれの、あるいは、完全にアウトかもしれない、強引で、アグレッシブな、そして敵を多く作るような手段を、成功のためには、躊躇なく使ってきたという、彼自身が誰よりもよく分かっている自覚があった。ライバル企業の機密情報を、非合法な手段で入手し、それを交渉で有利に利用したこと。有望な技術を持つが経営難に陥っていたスタートアップを、市場価格よりも不当に安い価格で、半ば脅迫的に買収した過去。規制緩和の施行前の、法的な抜け穴を巧みに突いた、革新的だが、同時に、後に大きな訴訟リスクを孕む可能性のあるビジネスモデルの強行。それらは、これまで、彼の驚異的な成功を支える原動力となってきた、いわば「必要悪」だったのかもしれない。だが、光が強ければ、影もまた、それと同じだけ、あるいはそれ以上に濃くなる。その影の部分に、恨みや、妬みや、復讐心が、マグマのように蓄積されているであろうことも、彼は理解していた。いつか、その影の部分が、彼の成功に対する反動として、巨大な牙を剥いて、彼自身に、そして彼の築き上げてきた全てに、襲いかかってくるのではないか。そんな、漠然とした、しかし常に心の片隅から消えることのなかった不安が、彼の心の奥底には、常に存在していたのだ。 そして今、その漠然とした不安が、いよいよ現実のものとなりつつあるのかもしれない、という、強い予感。まるで、遠くの水平線に、最初は小さな点のように見えていた暗雲が、気づけば急速に広がり、空全体を覆い尽くそうとしているかのような、そんな、息が詰まるような感覚。彼は、まだ、その具体的な脅威の全貌や、それがいつ、どのような形で襲いかかってくるのか、正確には掴めてはいない。だが、何かが、彼の築き上げてきた、この巨大な、しかしどこか脆さも孕んだ帝国を、そして、もしかしたら、彼がようやく見つけかけた、佐伯小春という、不器用で、しかし温かい光を放つ存在との、この、まだ形にならない、脆く、しかし彼にとってはかけがえのないものになりつつある繋がりをも、根こそぎ破壊しようとしている。そんな、漠然とした、しかし無視することのできない、強い危機感が、まるで冷たい蛇のように、彼の背筋を、ゆっくりと、しかし確実に這い上がってくるのを感じていた。彼は、いつものように、周囲には完璧なまでのポーカーフェイスを保ちながらも、その冷静な仮面の下で、水面下で、静かに、しかし最大限の警戒態勢を敷き、来るべき嵐に備え始めていた。この、静かに、しかし確実に忍び寄る困難の影に対して。そして、その影が、彼にとって今、本当に守りたいと願っているもの——それは、もはや会社や成功だけではないのかもしれない——に、どのような、そしてどれほどの破壊的な影響を及ぼすのか、まだ誰にも、彼自身にさえも、全く、予測することはできなかった。ただ、戦いの火蓋は、もう切られようとしている。そのことだけは、確かだった。
最大の困難の発生
秋が深まり、街路樹が赤や黄色に鮮やかに色づき始めた、そんな、どこにでもある穏やかな月曜日の朝。しかし、その日は、結城 創にとって、そして彼が、文字通り血と汗と、そして時には非情なまでの決断をもって一代で築き上げてきたIT帝国、株式会社ネクストリームにとって、全てが崩壊へと向かう、悪夢の始まりを告げる日となった。いつものように、夜明け前に起床し、ストイックなまでのルーティンであるジムでのハードなトレーニングと、栄養バランスだけを考慮した味気ない朝食を済ませ、誰よりも早く、静寂に包まれたオフィスに入った結城は、都庁を眼下に見下ろす自室の、イタリア製の本革チェアに深く身を沈め、淹れたての、苦いブラックコーヒーを片手に、その日の世界の経済ニュースと、刻一刻と変化するテクノロジー業界の動向に、鋭い視線を走らせていた。週末の間に世界で起こった出来事を把握し、数百通に及ぶメールを瞬時に処理し、分刻みで組まれた今日の自身のスケジュールを再確認する。それは、彼にとって、この数年間、一日も欠かさず繰り返されてきた、完璧に計算され、コントロールされた、彼の日常の始まりの儀式のはずだった。
だが、その、静かで、しかし常に張り詰めた空気を纏う彼のルーティンを、無慈悲に引き裂いたのは、彼のスマートフォンに表示された、見慣れない国際番号からの着信ではなく、彼の右腕であり、会社の財務状況を誰よりも正確に把握しているはずのCFOからの、尋常ではないほど切迫した、掠れた声の内線電話だった。 「しゃ、社長っ! 大変です! い、今すぐ、お手元の端末で、〇〇経済新聞の電子版のトップページを、ご覧になっていただけますかっ!」 その、普段は、どんな危機的な状況下でも、ポーカーフェイスを崩さず、冷静沈着な分析と報告を行うはずのCFOの声が、明らかに動揺し、恐怖に近い色を帯びて上ずっている。その異常事態を瞬時に察知した結城の背筋に、まるで氷柱を突き立てられたかのような、冷たいものが走った。何か、良からぬことが起こった。それも、会社の存続に関わるような、尋常ではないレベルの、致命的な何かが。彼は、一瞬の逡巡の後、自分でも気づかぬうちに震えている指で、デスク上の最新型タブレット端末をひったくるように手に取り、指定された、国内最大手の経済新聞社のウェブサイトを開いた。そして、そのトップページに、まるで悪意を持ってデザインされたかのように、巨大なバナー広告のように表示されていた、衝撃的な見出しに、彼は、文字通り、呼吸が止まるほどの衝撃を受け、息を呑んだ。
『【スクープ】急成長IT界の寵児ネクストリームに重大疑惑! 4年前の大型M&Aにおける粉飾決算・インサイダー取引・独禁法違反の疑い濃厚か!? 金融庁・証券取引等監視委員会も重大関心! 関係者を名乗る複数の内部告発、本誌に詳細な証拠資料を提供』
その、ゴシップ誌顔負けの、扇情的な見出しの下には、数年前に結城が、業界の度肝を抜くようなスピードと、半ば強引とも評された価格と手法で成し遂げた、ある中堅の優良ソフトウェア企業「ソフト・イノベーションズ社(仮名)」の買収案件について、これまで一切公にされてこなかった、極めて詳細な、そしてネクストリームと結城個人にとって、致命的に不利となり得る内部情報が、これでもかというほど、赤裸々に、そして悪意に満ちた筆致で書き連ねられていた。曰く、買収価格を不当に低く抑えるために、結城がソフト・イノベーションズ社の経営陣(の一部)と裏で結託し、同社の経営状況や将来性を、意図的に過小評価するような情報を流布したのではないかという、情報操作の疑惑。曰く、買収監査の過程で発覚したはずの、同社の偶発債務や訴訟リスクを、結城が意図的に隠蔽し、あるいは過小評価して、投資家や金融機関に報告していたのではないかという、重大な不正会計(粉飾決算)の疑義。曰く、買<x_bin_356>の最終段階で、結城が、未公開の重要情報を利用して、関連会社の株取引で不当な利益を得ていたのではないかという、インサイダー取引の疑惑。そして、極めつけは、その買収によって、特定のエンタープライズ向けソフトウェア市場におけるネクストリーム社のシェアが、寡占状態となり、公正な市場競争を阻害する、独占禁止法に明確に抵触するレベルに達しているのではないかという、極めて深刻な指摘。記事は、匿名の「ネクストリーム元役員」や「ソフト・イノベーションズ元社員」、「取引銀行関係者」とされる、複数の人物たちの、具体的で、生々しい証言(と称するもの)を、これみよがしに引用し、極めて一方的かつ扇動的な論調で、ネクストリームという企業と、その象徴である結城 創という存在を、社会的な公正さや倫理観を踏みにじる、強欲で、アンモラルな、社会悪そのものであるかのように断罪していた。ご丁寧にも、結城の、数年前に撮影された、いかにも冷徹で、自信過剰で、傲慢に見えるような表情の写真まで、悪意を持ってトリミングされ、本文中に大きく掲載されている。
「……っ…ぐ…!」 結城は、言葉にならない、獣のような呻き声を漏らし、タブレットを持つ手が、激しい怒りと、屈辱と、そして、おそらくは、心の奥底から湧き上がってくる原始的な恐怖で、わなわなと、抑えきれないほど震えるのを感じた。これは、断じて、ただの飛ばし記事や、ゴシップ記事の類ではない。その情報の詳細さ、具体性、そして何よりも、このタイミング——ネクストリームが次の大きな成長フェーズへと移行しようとしている、まさにこの絶妙なタイミング——で仕掛けられたという事実。明らかに、強い悪意と、ネクストリームを社会的に抹殺しようとする明確な意図を持って、周到に準備され、そして実行された、組織的な攻撃だ。リークされた情報の質と量を考えれば、内部の、それもかなり高い地位にいた人間、あるいは、買収されたソフト・イノベーションズ社の関係者で、結城に対して深い、個人的な恨みを抱く人間の仕業である可能性が極めて高い。そして、その背後には、おそらく、結城のこれまでの成功と、そのアグレッシブな経営手法を、苦々しい思いで、そして深い妬みをもって見つめてきた、長年の、そして強力なライバル企業の影が、色濃く見え隠れしていた。彼らが、内部告発者を唆し、あるいは買収し、そしてメディアを巧みに利用して、この「ネクストリーム潰し」を仕掛けてきたのだ。そう直感した。 「(…嵌められた…! あの時の、あの案件か…! くそっ…!)」 全身の血が、怒りで沸騰し、頭が割れるように痛む。そして同時に、足元から、まるで底なしの暗い奈落へと、ゆっくりと、しかし確実に引きずり込まれていくかのような、冷たく、重い恐怖感。彼は、この瞬間、自分が、見えない、しかし強大な敵によって、巧妙に、そして非情に仕掛けられた罠の、まさにその中心に立たされていることを、骨身にしみて、はっきりと悟った。
その、悪意に満ちたスクープ記事は、投じられた爆弾のように、まさに燎原の火のごとく、瞬く間に、他の大手メディア、テレビのワイドショー、そして無数のインターネットニュースサイトやブログに転載され、SNSを通じて、制御不能な速度で日本中に、いや、世界中にまで拡散された。ネクストリーム社の名前、そして結城 創の名前は、わずか数時間のうちに、「時代の寵児」「若き天才経営者」「日本経済の希望」から、「強欲な拝金主義者」「コンプライアンスを無視する悪徳企業」「社会の敵」へと、その評価を、まるでジェットコースターのように、180度転換させられてしまった。昨日までの賞賛は、今日には、手のひらを返したような、激しい非難と罵詈雑言へと変わっていた。
結城の、そして会社の代表電話は、文字通り、鳴り止まなかった。主要な大口取引先からの、記事の事実関係の確認と、今後の取引継続に関する、強い懸念と、時には非難の色さえ滲む問い合わせの電話。会社のメインバンクであるメガバンクの担当役員からの、融資条件の即時見直しと、追加担保の要求を示唆する、氷のように冷たく、そして事務的な連絡。そして、ネクストリーム社の成長を信じて、多額の資金を投じてきたベンチャーキャピタルや、エンジェル投資家たちからの、裏切りに対する怒号と、株主代表訴訟をも辞さないという、脅迫に近い詰問の電話。社内も、もはやパニック状態に陥っていた。社員たちは、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、あるいは、不安げな表情で、ひそひそと囁きあい、オフィス全体が、まるで嵐の前の不気味な静けさのような、重く、息苦しい空気に包まれていた。すでに、何人かの優秀なエンジニアや、将来を嘱望されていた若手社員からは、退職の意向が、人事部を通じて、結城の耳にも届き始めていた。いくつかの、契約寸前まで進んでいたはずの大型プロジェクトは、クライアント側から、理由の説明もなく、一方的に「白紙撤回」あるいは「無期限延期」を告げられた。当然、佳境を迎えていたはずの、鳩屋フーズとの共同プロジェクトも、その例外ではありえなかった。
「社長、先ほど、鳩屋フーズの担当取締役から、正式に連絡が入りました。今回の報道は、あまりにも影響が甚大であり、現時点では事実関係の確認も取れないため、社として、プロジェクトの進行について、緊急に、そして慎重に協議する必要がある、と。つきましては、遺憾ながら、本日をもって、一旦、全ての共同作業、および貴社との連絡を、公式にストップさせていただきたい、とのことです……。おそらく、向こうの佐伯さんにも、彼女の上司から、本社を通じて同様の指示が出ているようで、先ほどから、彼女の会社のメールアドレスへの連絡が、全てエラーで返ってくる状態です…」 プロジェクトマネージャーが、もはや顔面蒼白となりながら、震える声で結城に報告に来た。結城は、その、事実上の「プロジェクト凍結宣言」とも言える報告を、椅子に深く腰掛けたまま、表情一つ変えずに聞いていたが、内心では、まるで奥歯を強く噛み砕いたかのような、苦い味が口の中に広がっていた。当然の判断だ。むしろ、この、会社全体の存続すら危ぶまれるような状況下で、即座に契約解除と損害賠償請求を言い渡されなかっただけでも、彼らの、老舗企業としての、ある種の「義理」あるいは「温情」なのかもしれない。だが、それでも、あの、佐伯小春の顔が、鮮明に、そして痛みを伴って、彼の脳裏をよぎった。彼女は今、どうしているだろうか。この、あまりにも理不で、一方的で、そして彼女には何の責任もない状況を、あの真っ直ぐすぎる心で、どう受け止めているだろうか。彼女の、あの、曇りのない、純粋な瞳が、今、自分に対して、どれほどの失望や、あるいは軽蔑の色を浮かべているのだろうか。そう想像しただけで、彼の胸の奥深く、最近になってようやく存在を自覚し始めた、柔らかい部分が、まるで鋭利な刃物で抉られるかのように、激しく痛んだ。しかし、今は、そんな個人的な感傷や、彼女への気遣いに、思考のリソースを割いている場合ではない。彼は、CEOなのだ。この、沈みかけた船の、船長なのだ。
結城は、即座に、社内に最高レベルの危機管理対策本部を設置し、信頼できる役員、法務部のトップ、企業法務に精通した外部のベテラン弁護士団、そして広報・IRの責任者らを、役員会議室に緊急招集した。会議室の空気は、まるで葬儀会場のように、鉛のように重く、そして張り詰めていた。誰もが、ことの重大さを理解し、しかし、次に何が起こるのか、そして自分たちが何をすべきなのか、見当もつかずに、ただ結城の言葉を待っていた。 「状況は、最悪だ。だが、嘆いている時間はない。今から、反撃を開始する」 結城の声は、低く、静かだったが、その奥には、逆境の中でこそ燃え盛る、彼の、鋼のような強い意志と、決して屈しないという決意が、明確に宿っていた。 「法務チーム、弁護士団は、記事の内容の事実関係を、今から72時間以内に、徹底的に洗え。どこまでが真実で、どこからが歪曲、あるいは完全な捏造なのか。客観的な証拠に基づいて、一点の曇りもなく明確にしろ。そして、同時に、情報漏洩の経路を特定するんだ。誰が、いつ、どこで、どの情報を、どのメディアにリークしたのか。社内外を問わず、可能性のある人物を全てリストアップし、必要であれば、興信所も使え。裏切り者には、相応の報いを受けさせる」 「広報・IRチームは、今すぐ、反論のための戦略を立てる。現時点での公式コメントは、『記事の内容には、事実に反する点、あるいは極めて悪意のある歪曲が多数含まれており、現在、社内で詳細な調査を進めている。断じて容認できるものではなく、法的措置も含め、断固たる対応を検討している』で統一だ。だが、それだけでは、世論の鎮静化には不十分だ。我々の正当性を、社会に対して、どう、最も効果的にアピールしていくか。具体的な反論材料を精査し、それを、どのタイミングで、どのメディアを通じて発信するのが最適か。あらゆるシナリオを想定し、具体的な広報戦略プランを、明日の朝までに複数用意しろ」 「そして、CFO。最重要課題は、キャッシュの確保だ。資金繰りは、あとどれだけ持つ? 最悪の事態——大規模な訴訟、主要取引の完全停止、金融機関からの融資引き上げ、そして株主からの資金回収要求——を全て同時に想定した場合、会社はどれだけ持ちこたえられる? キャッシュフローを時間単位で再計算し、今すぐ、あらゆる手段を講じて、手元資金を最大化しろ。役員報酬のカット、不採算事業の即時撤退、資産の売却、そして、必要であれば、追加の緊急融資、あるいは新たなスポンサー探しも、水面下で準備しておけ。時間は、ないぞ」 矢継ぎ早に、しかし驚くほど冷静に、的確な指示が飛ぶ。彼の頭脳は、平時以上に、この危機的状況下でこそ、その真価を最大限に発揮するかのようだった。パニックに陥ることなく、複雑に絡み合った、絶望的に見える問題を、瞬時に分析し、優先順位をつけ、そして、打つべき手を、冷徹なまでに、次々と判断していく。その姿は、まるで嵐の吹き荒れる夜の海で、羅針盤も効かない中、沈みゆく巨大な船を、必死で立て直そうとする、孤独で、しかし熟練の船長のようでもあった。
しかし、彼のその、完璧に見える冷静な指揮官としての仮面の下で、結城は、自分が心血を注いで、そして時には道を踏み外してまで築き上げてきた、このネクストリームという名の帝国が、実はいかに脆い、砂上の楼閣であったかを、これ以上ないほど、痛感させられていた。成功は、確かに、富と、名声と、そして人々の称賛をもたらす。だが、同時に、それ以上の、暗く、粘着質な、妬みと、恨みと、そして常に破滅へと誘う甘い罠をも、その副産物として、確実に生み出すのだ。特に、この、華やかで、刺激的で、しかし成功と失敗が常にコインの裏表である、東京という名の巨大な賭場は、成功者に対して、表面的には笑顔で賞賛の言葉を送りながらも、その足元を掬い、引きずり下ろす機会を、常に、虎視眈々と狙っている、冷酷で、そして底意地の悪い、嫉妬深い側面を持っている。一度、躓けば、あるいは、ほんのわずかな弱みを見せれば、それまで熱狂的な称賛の声を上げていたはずのメディアや、利益を共有していたはずのビジネスパートナーたちが、まるで示し合わせたかのように、あっさりと手のひらを返し、死肉に群がるハイエナのように、寄ってたかって襲いかかってくるのだ。それが、この街の、抗いがたい魅力と、同時に、身も凍るような残酷な本質なのだ。 彼は、今まさに、その東京という街が、長年かけて醸成してきた「毒」に、全身を、そして魂の奥底までをも蝕まれ、飲み込まれようとしていた。築き上げてきた社会的信用。巨額の資産。そして、何よりも、彼が自身の存在価値そのものだと、心のどこかで信じて疑わなかった「若き成功者」としての、輝かしいアイデンティティ。その全てが、今、まるで脆いガラス細工のように、音を立てて崩れ落ち、砕け散ろうとしている。それは、彼にとって、単なるビジネス上の危機というレベルを遥かに超えた、彼という人間存在そのものの、根幹を揺るがし、存在意義すらをも問い直させるような、人生における、おそらくは最大の困難の始まりだった。そして、その、出口の見えない、暗く、激しい嵐の中で、彼は、自分が本当に守りたいものが何なのか、そして、そのためには、何を捨て、何を犠牲にしなければならないのか、という、あまりにも厳しく、そして残酷な選択を、近いうちに迫られることになるだろうことを、はっきりと予感していた。その、究極の選択肢の中に、あの、佐伯小春という、彼の世界とはあまりにも異質な、しかし、今や彼の心の中で無視できない存在となりつつある、あの不器用で純粋な女性が、どのような形で、そしてどのような重みを持って関わってくることになるのか、彼にはまだ、想像もつかなかった。ただ、彼女の、あの、どんな時も変わらないように見える、曇りのない、真っ直ぐな瞳だけが、この、暗く、重く、息が詰まるような、絶望的な状況の中で、唯一の、そしてあまりにも頼りなく、儚い、しかし、彼にとっては見失うことのできない、一条の光のように感じられていた。その光を、彼は、守り抜くことができるのだろうか。
過去と現在の人間関係の衝突
ネクストリーム社を襲った突然のスキャンダルと、それに伴う深刻な経営危機。それは、結城 創にとって、眠れない夜と、息つく暇もない対応に追われる、文字通り、ビジネスキャリアにおける最大の試練であったが、まるで嵐が、海に潜んでいたものたちを無理やり表層に引きずり出すかのように、あるいは、彼の危機的状況そのものを、ある種の「機会」と捉える者たちを引き寄せるかのように、彼の過去と現在を取り巻く人間関係にも、不穏な、そして極めて複雑な波紋を、次々と広げ始めていた。特に、彼が成功と共に手に入れ、しかし心のどこかで常に違和感を覚えていた、華やかで、しかし冷徹な損得勘定が支配する世界との間で、無視できない軋轢と、痛みを伴う衝突が生まれ始めていた。そして、皮肉なことに、その衝突の多くは、図らずも、佐伯 小春という、その世界とはあまりにも異質な、そして彼にとって特別な意味を持ち始めた存在を、その中心に据える形で、展開されていくことになった。
(結城 視点) 危機管理対策本部での、連日の、神経をすり減らすような会議と、次々と下されるべき厳しい決断。結城は、心身ともに、すでに限界に近い状態だったが、CEOとして、そしてこの船の船長として、弱音を吐くことも、ましてや立ち止まることも、決して許されなかった。そんな彼の元に、一本の、予期せぬ、そして正直に言えば、今、最も顔を合わせたくない人物からのアポイントメント要求が、彼の秘書を通じて入ったのは、スキャンダル発覚から一週間ほどが経過した、ある日の夕方だった。相手は、数年前に、決して円満とは言えない形で別れた元恋人、西園寺 綾香。大手外資系投資銀行の、若くしてヴァイスプレジデントの地位に上り詰めた、誰もが認める才色兼備を地で行く女性だった。彼女は、結城がまだネクストリームを立ち上げたばかりで、世間的には全くの無名の存在だった頃から、彼の持つ、非凡な野心と才能、そして、おそらくはその端正な容姿に惹かれ、ある意味で、将来有望な「成長株」に「投資」するように付き合い始めた。そして、結城が驚異的なスピードで成功を収め、富と名声を手に入れるにつれて、彼の隣に立ち、その成功の果実を分かち合い、そして彼をコントロールすることによって、自らのステータスをも高めようとする「トロフィーワイフ」あるいは「ビジネス上の対等なパートナー」としての地位を、強く望んだ女性だった。彼らの関係は、純粋な愛情というよりは、互いの持つ社会的ステータスと、野心と、そしておそらくは、高度に洗練されたゲームのような肉体的な魅力によって結びついていた、極めてドライで、計算高く、そして常に緊張感を伴うものだった。最終的に、結城が、彼女の持つ、息が詰まるような過剰なまでの支配欲と、彼の成功に巧みに寄生しようとするその姿勢に、生理的な嫌悪感すら覚え、一方的に、そして冷酷に関係を終わらせたという過去がある。 「…創さん、久しぶり。大変そうね」 指定された、都心の超高級ホテルの、静かでプライバシーの保たれたラウンジの奥の席に現れた綾香は、昔と寸分違わぬ、完璧なまでに手入れされた美貌と、寸分の隙もない、最新コレクションの高級ブランドのスーツを纏っていた。その声は、電話で聞いた時と同様、どこか甘く、猫なで声のようでありながら、その瞳の奥には、彼の窮状を値踏みするかのような、鋭い、計算高い光が宿っていた。心配しているような表情を作ってはいるが、その裏には、隠しきれない好奇心と、もしかしたら、かつて自分を振った男の凋落に対する、密かな優越感のようなものが、透けて見えている。 「……何の用だ、綾香。言ったはずだ、俺は忙しい、と」 結城は、努めて感情を排した、冷たく、そしてぶっきらぼうな声で答えた。今、彼女と、こんな場所で、無駄な時間を過ごしている余裕など、一秒たりともないのだ。 「まあ、そんなに怖い顔しないで。本当に、ただ心配で来ただけよ。それに…少し、提案があって」 綾香は、わざとらしく艶のある仕草で、長い脚を組み替えながら言った。 「もし、創さんが困っているなら、何か私に出来ることがあるなら、本気で力になりたいと思っているの。知っているでしょう? 私の、金融界での、特に海外の投資家に対するネットワークは、かなりのものよ。もしかしたら、あなたの会社の、当面の資金繰りや、あるいは…そうね、今回の、厄介な訴訟沙汰の『火消し』に、私の人脈が、少しはお役に立てるかもしれないわ。もちろん、そのためには、私なりの『誠意』を見せていただく必要はあるけれど」 その申し出は、一見、魅力的で、親切なものに聞こえたかもしれない。特に、今の、資金繰りが逼迫し、四面楚歌の状態にある結城にとっては。しかし、結城は、その、蜂蜜のように甘い言葉の裏にある、彼女の真の、そして醜い意図を、即座に見抜いていた。これは、善意からの助けなどではない。巧妙に仕組まれた、取引だ。彼女は、彼の最大の弱みである、この危機的状況に付け込み、それをテコにして、再び彼との関係——おそらくは、以前よりもさらに彼女にとって有利な形での——を取り戻し、そして、あわよくば、彼が命懸けで築き上げてきた、ネクストリームという帝国の、富と権力の一部を、再びその手に収めようとしているのだ。その、あまりにも見え透いた、計算高さと、人の弱みを利用しようとする、ハイエナのような狡猾さに、結城は、吐き気を催すほどの、強い嫌悪感を覚えた。 「…必要ない。繰り返すが、俺の問題は、俺自身で解決する。君の助けなど、借りるつもりは毛頭ない」 「あら、本当に強情なんだから、昔から。…でも、本当にそれでいいのかしら? その意地が、あなたの全てを失わせることになるかもしれないのよ? それに…聞いたわよ、最近、ずいぶんと『地味』な女性と親しくしているんですって? 鳩屋とかいう、古臭い食品メーカーの、田舎から出てきたばかりの、世間知らずな女の子。まさかとは思うけど、本気じゃないでしょうね? 創さんほどの人が、そんな、何のメリットももたらさないような、それどころか、今のあなたの状況では、ただの足枷にしかならないような相手に、心を奪われているなんて。冗談でしょう?」 綾香の言葉は、確信犯的に、そして容赦なく、結城の最も触れられたくない部分を抉ってきた。彼の現在の危機的状況と、そして、彼女がどこからか巧妙に嗅ぎつけたのであろう、小春の存在に対する、あからさまな侮蔑と嘲笑の色。それは、まるで、泥の中に咲いた一輪の花を、ハイヒールで無慈悲に踏みにじるかのような、残酷さを持っていた。 「……余計な世話だ。二度と、俺の前に現れるな」 結城は、抑えきれない怒りと、そして、それ以上に、彼女と同じ世界の価値観に、かつては自分も染まっていたのかもしれないという自己嫌悪で、声が震えるのを必死で堪えながら、低い声で言い放った。そして、彼女の返事も待たずに席を立ち、伝票を掴むと、足早にその場を後にした。ラウンジを出る間際、背後から、綾香の、勝ち誇ったような、冷たい笑い声が聞こえたような気がした。 車に戻り、一人になると、彼は、ステアリングを強く握りしめ、深い溜息をついた。これだ。これが、彼が成功と引き換えに手に入れた、そして同時に、心のどこかで常に虚しさを感じていた世界の、人間関係の本質なのだ。全てが、損得勘定、ステータス、利用価値。そこには、真の信頼も、温もりも、そしておそらくは人間性すらも、存在しない。彼は、そんな、ドライで、冷酷で、しかし刺激的な世界で生き残り、そして成功を収めてきた。だが、今、佐伯小春という、全く異なる価値観を持つ存在を知ってしまった後では、綾香のような人間の、その、あまりにも空虚で、人間味のない在り方が、ひどく醜悪で、そして耐え難いものに感じられてならなかった。しかし同時に、そんな綾香の言葉——「あなたのステータスに相応しくない」「足枷にしかならない」——が、まるで毒のように、彼の心の片隅に、小さな、しかし無視できない、嫌な棘のように、深く突き刺さったのも、また事実だった。それは、彼が心の奥底で、世間の目や、社会的な評価を気にして、もしかしたら無意識のうちに抱いていたのかもしれない、小春に対する、ある種の「負い目」や「釣り合わなさ」のようなものを、容赦なく、そして的確に突いてきていたからだ。
(小春 視点) ネクストリーム社を襲った突然のスキャンダル。そして、それに伴う、鳩屋フーズとの共同プロジェクトの、突然の、そして一方的な「中断」通告。そのニュースは、小春にとっても、まるで頭を鈍器で殴られたかのような、大きな衝撃であり、そして深い悲しみをもたらした。テレビをつければ、インターネットを開けば、連日、結城さんの会社や、彼自身のことが、まるで社会の敵であるかのように、激しく、そしてしばしば悪意を持って報道されている。その報道を見るたびに、彼女の胸は、まるで自分のことのように、締め付けられるように痛んだ。 「そんなはず、ないのに……結城社長は、そんな人じゃない…はずなのに……」 彼女が、この数ヶ月の間、間近で見てきた結城さんは、確かに、人一倍厳しくて、言葉も冷たくて、近寄りがたいオーラを放っているけれど、報道されているような、ただただ強欲で、人を人とも思わないような、アンモラルな人間では決してなかったはずだ。仕事に対する、妥協を許さない情熱。どんな困難な状況に陥っても、決して諦めずに道を切り拓こうとする、圧倒的なリーダーシップ。そして、あのトラブル対応の時や、深夜のオフィスで、ほんの一瞬だけ垣間見えた、彼の、厳しい仮面の下にある、人間的な苦悩や、不器用な優しさ。それらは、決して嘘ではなかったはずだ。彼女は、心の底から、彼を信じたい、と思った。でも、世間の風当たりは、あまりにも強く、一方的で、そして冷たかった。彼女一人が信じたところで、何が変わるというのだろう。 プロジェクトが公式に中断されたことで、彼女がネクストリーム社を訪れることも、そして、最も気がかりな、結城さんと直接顔を合わせる機会も、完全に失われてしまった。彼が今、報道されているような窮地の中で、どんな状況に置かれ、どんな思いで、たった一人で戦っているのか、知る術もない。何か、自分にできることはないだろうか。せめて、体調を気遣う、短い励ましのメールだけでも送ってみようか。でも、そんなことをして、ただでさえ大変な彼の、迷惑になるだけではないだろうか。彼は、きっと今、誰からの同情も、安っぽい励ましも、求めていないはずだ。私のような、ビジネスの世界のことも、彼の抱える問題の深刻さも、本当の意味では何も分かっていない人間が、軽々しく、感傷的な言葉をかけるべきではないのかもしれない。そんな、彼を想う気持ちと、自分の無力さとの間で、彼女は、出口のない、もどかしい思いに、日々苛まれていた。
そんなある日、彼女は、会社の上司からの指示で、プロジェクト中断に伴う、いくつかの機密保持に関する確認書類を結城さんの秘書に直接届ける、という用件で、久しぶりに、そして、もしかしたらこれが本当に最後になるのかもしれない、という一抹の寂しさと不安を胸に抱きながら、重い足取りで、ネクストリーム社の、以前とは明らかに違う、重苦しく、そしてどこか殺伐とした空気が漂うオフィスビルを訪れた。一階の、以前は活気に満ちていたはずの広大なロビーで、アポイントメントを取っていた秘書の方を待っていると、偶然、数メートル先のガラス張りの打ち合わせスペースで、結城さんが、数人の、いかにも高級そうな、しかし厳しい表情をしたスーツ姿の年配の男性たち(おそらく、彼が最も警戒しているであろう、投資家か、銀行関係者なのだろう)と、何か非常に緊迫した雰囲気で話しているのが、ガラス越しに見えた。結城さんの表情は、いつものように、冷静で、自信に満ちているように見えたが、その目の奥には、以前には決して見ることのなかったような、深い、深い疲労と、まるで張り詰めた弦のような、極度の緊張の色が、隠しきれないように、痛々しく浮かんでいた。見ているだけで、彼の背負っているものの重さが伝わってくるようだった。 小春は、思わず「結城社長…!」と声をかけそうになり、駆け寄って、何か温かい飲み物でも差し入れたいような衝動に駆られたが、その場の、まるで戦場のような、重く、近寄りがたい空気に完全に気圧されて、言葉を飲み込んだ。彼らは、小春の存在には全く気づいていない様子で、テーブルに広げられた書類を睨みつけながら、低く、しかし鋭い声で、何かビジネス上の、極めて深刻な話をしている。小春は、彼らの邪魔になってはいけない、と反射的に思い、そっと柱の陰に身を寄せ、自分の存在を消すように、俯いた。 その時だった。打ち合わせスペースから出てきた、年配の男性の一人が、ロビーで待つ小春の姿を、まるで値踏みするかのように、頭のてっぺんから爪先まで、じろりと一瞥し、そして、隣にいたもう一人の男性に、わざと小春にも聞こえるような、しかし明らかな侮蔑の色を隠そうともせずに、吐き捨てるように、こう囁いたのだ。 「……ふん、あれが、結城君が最近ご執心だと噂の、『地方出身の新人OL』か? なるほどな。こりゃまた、ずいぶんと、場末の安っぽいメロドラマだ。今の、会社存亡の危機にある彼には、ある意味、お似合いの相手なのかもしれんがね。はっはっは」 その言葉と、下卑た笑い声は、まるで鋭利な、そして汚れたナイフのように、小春の胸の中心を、深く、そして残酷に突き刺した。「地方出身の新人OL」「場末の安っぽいメロドラマ」「今の彼にお似合い」。その言葉の一つ一つが、彼女の出自と、存在そのものを、そして、彼女が結城さんに対して抱き始めていた、まだ名前のない、しかし大切にしたいと思っていた特別な感情をも、完膚なきまでに否定し、嘲笑しているように感じられた。 彼女は、顔から急速に血の気が引いていき、立っていることさえ辛くなるような、激しい屈辱感と、悲しみに襲われながら、ただ、その場に凍りついたように立ち尽くすことしかできなかった。これが、結城さんの生きている、本当の世界。これが、彼が普段、その頭脳と精神をすり減らしながら、必死で渡り合っている人々との関係性なのだ。そこは、私のような、何の背景も、何の力も持たない人間が、決して足を踏み入れてはいけない、冷たくて、非情で、そして、私には到底理解することも、受け入れることもできない、歪んだ価値観で動いている世界。そして、自分は、そんな、あまりにも厳しい世界で戦っている結城さんの、足手まといにしかならないのではないか。彼が今、こんなにも絶望的な状況にある時に、私のような、社会的に見れば何の価値もない存在が、彼の傍にいるということは、彼にとって、更なる困難や、世間からの嘲笑の種を増やすだけなのではないか。そんな、恐ろしく、そしてどうしようもなく悲しい考えが、まるで冷たい霧のように、彼女の心を、急速に覆い始めていた。さっきまで、心の片隅で、か細く燃え続けていた、彼を信じたい、彼の力になりたい、彼を支えたいという、けなげな希望の灯火が、まるで強風に吹き消されるかのように、急速にその勢いを失い、萎んでいくのを感じた。自分は、彼から、離れるべきなのかもしれない。彼のために、そして、これ以上自分が傷つかないために。
(結城 視点) 綾香のような、過去の亡霊からの、計算高く、そして侮蔑的な接触だけではなかった。結城が、好むと好まざるとに関わらず、かつて属していた、そして今も、ビジネス上の利害関係などによって、完全には繋がりを断ち切れていない、いわゆる「上流社会」と呼ばれる階層の人間たち——古くからのビジネス上の付き合いがある、世襲のオーナー経営者たち、同じ、入会金だけで数千万円はするという、排他的な会員制クラブに所属する、新旧の富裕層たち、あるいは、彼の、地方の名家であり、代々続く旧家であるという家柄を知る、遠縁の親戚筋など——からも、今回のスキャンダルと経営危機に関して、表向きは心配を装った、しかし実際には、彼の状況と弱みを探り、あるいは、内心では彼の劇的な没落を期待しているかのような、偽善的で、そして不快な連絡が、いくつか、彼の元に入ってきていた。 その中でも、特に結城を苛立たせ、そして彼の心を重くさせたのは、彼の亡き父親の代からの、長い付き合いがあるという、政財界にも強い影響力を持つ、ある大物保守系政治家の、電話越しに伝わってくる、ねっとりとした、そして明らかに上から目線の「忠告」めいた言葉だった。彼は、結城がまだ子供の頃から知っており、今回の危機に際しても、表向きは「何か私が、裏で動いて、力になれることがあれば、いつでも言いなさい」と、恩着せがましい言葉で連絡を寄越してきた。しかし、その、いかにも親身になっているかのような態度の裏で、電話での一通りの儀礼的な会話が終わる、その最後に、彼は、まるで、決して忘れるなよ、と釘を刺すかのように、わざとらしく、そして明確な意図を持って、こう付け加えたのだ。 「…ところで、創君。最近、君に関して、あまりよろしくない、妙な噂を、私の耳にもしたのだがね。君が、あまり、その…君の属している『クラス』とは、釣り合わないような、出自も、教養も、はっきりしないような、若い女性と、公私にわたって、親しくしているというのは、果たして、本当のことかね? …まあ、君のプライベートなことに、私がとやかく口を出すつもりは毛頭ないがね。しかしだ、創君。君も、今のこの、会社にとっても、君自身にとっても、まさに正念場である、非常にデリケートな時期にだ、つまらない色恋沙汰で、あるいは、脇の甘い個人的な関係で、命取りになるような、足元を掬われるような真似だけは、くれぐれも、厳に慎むことだな。今の君には、君の社会的地位に相応しい、家柄も、資産も、そして何よりも、強力な後ろ盾となるような『力』を持ったパートナーこそが必要な時なのだからな。…私の言っている意味が、賢明な君なら、分かるね?」 その言葉は、一言一句が、まるで計算された毒矢のように、結城の逆鱗に、そして彼の最も触れられたくない部分に、深く、そして容赦なく突き刺さった。彼の、佐伯小春との、まだ誰にも説明できない、形にもなっていない、しかし、彼にとっては、もはや、この世のどんな富や名声よりも、かけがえのないものになりつつある、特別な繋がりを、まるで汚らわしいものでもあるかのように、値踏みするかのように扱い、そして、家柄や資産といった、彼が心の底から最も嫌悪し、反発してきた、古臭い物差しだけで、一方的に、そして傲慢に判断しようとする、その態度。そして、「君のクラス」「社会的地位に相応しいパートナー」「力を持った後ろ盾」という、前時代的で、差別的で、そして人間の価値を歪めるような響きを持つ言葉。それら全てが、結城の中に、まるで火山が噴火するかのような、激しい、そして殺意にも似た怒りを呼び起こした。 「……ご忠告、痛み入ります。結構です。ですが、私のプライベートな人間関係に関して、あなたに、とやかく言われる筋合いは、一切ありません。今後、二度と、このようなご連絡はなさらないでいただきたい。失礼します」 彼は、全身の怒りで声が震えるのを、必死で押し殺した、しかし、これ以上ないほどの、明確な拒絶の意思を込めた、氷のように冷たい声でそう言い放ち、相手の、おそらくは驚きと不快に満ちたであろう返事も待たずに、力任せに、そして一方的に電話を切った。スマートフォンの画面が、彼の強い力で割れるのではないかと思ったほどだ。 だが、その、一瞬の激しい怒りが過ぎ去った後、彼の心の中には、まるで鉛のように重く、そしてどこまでも冷たいものが、再び沈殿していくのを感じていた。これが、現実なのだ。これが、彼が生まれ落ち、そして、好むと好まざるとに関わらず、生き抜いていかなければならない世界の、変えようのない、そしておそらくは永遠に変わらないであろう、冷酷なルールなのだ。家柄、学歴、経歴、財産、社会的地位、そして利用価値。そういった、目に見える、そして数値化できるスペックによって、人間は、否応なく値踏みされ、ランク付けされ、そして選別される。そして、その、社会が暗黙のうちに定めた基準から外れた者は、たとえ、どれほど純粋で、誠実で、温かい心を持っていたとしても、この世界では、しばしば、軽蔑され、見下され、そして最終的には排除される運命にある。佐伯小春という存在は、まさに、その世界の、冷酷な価値観から見れば、「規格外」であり、「不釣り合い」であり、そして、今の、崖っぷちに立たされている彼にとっては、下手をすれば、彼の社会的生命をも奪いかねない、「不必要なリスク要因」でしかないのだ。 頭では、そんな価値観は、腐っている、間違っている、と激しく反発しながらも、心のどこかで、その、あまりにも巨大で、動かしがたい「現実」の重圧を、感じずにはいられない自分も、確かに存在していた。本当に、彼女を、この、嘘と、裏切りと、悪意に満ちた、醜く、そして危険極まりない、自分の世界に、これ以上深く巻き込んでしまっても、いいのだろうか。彼女の、あの、まるで磨かれる前の原石のような、穢れを知らない純粋さを、今の、自分自身の存続すら危うい状況にある自分が、果たして、守り抜くことなど、できるのだろうか。それとも、結局は、彼女をも、この「毒」に満ちた世界に引きずり込み、深く傷つけ、そして絶望させてしまうだけなのではないか。彼女のあの笑顔を、自分が奪ってしまうことになるのではないか。 綾香や、あの老獪な政治家のような、彼の「過去」や「社会的立場」に属する人間関係からもたらされる、冷たく、打算的で、そして人の心を蝕む「東京の毒」。それが、今、彼の、そしておそらくは、何も知らない小春の、ようやく芽生え始めたばかりの、脆く、しかし純粋な(と、彼は必死で信じたい)繋がりを、容赦なく脅かし、そして内側から蝕もうとしていた。彼は、外から来るこの「毒」に、そして、自分自身の内側にも存在する、同じ種類の「毒」に、これから、どう立ち向かっていけばいいのか。そして、その戦いの果てに、彼は、何を失い、何を守ることができるのか。その答えは、まだ、暗闇の中に閉ざされたまま、全く見えていなかった。ただ、戦いは、もう始まっている。そのことだけは、確かだった。
結城と小春、それぞれの葛藤
ネクストリーム社を揺るがす巨大な嵐は、衰えるどころか、日を追うごとに、その勢いを増し、容赦なく結城 創の築き上げてきた帝国を蝕んでいった。連日連夜、メディアによる、憶測と悪意に満ちた執拗な報道が繰り返され、世論は完全に「ネクストリーム=悪」という方向に誘導されていた。株主や主要取引先からの、信頼を失ったことによる突き上げは日に日に厳しさを増し、水面下では、複数の集団代表訴訟の準備が着々と進められているという情報も、弁護士団からもたらされていた。さらに、ここぞとばかりに、ライバル企業による、優秀な人材の引き抜き工作も、露骨なまでに激化していた。結城 創は、まさに四面楚歌、内憂外患、絶体絶命とも言える状況の中で、眠る時間、食事をする時間さえも惜しみ、会社の存続と、そして失墜した自らの社会的生命を守るための、孤独で、壮絶な戦いを、歯を食いしばりながら強いられていた。しかし、彼を、そしておそらくは彼自身を最も深く苦しめていたのは、それらの目に見える、対処可能な(と彼は信じようとしていた)ビジネス上の危機だけではなかった。それと並行して、あるいは、それ以上に深刻な形で、彼の内面の世界では、佐伯 小春という、たった一人の女性の存在を巡る、もう一つの、そして出口の見えない、激しい葛藤が、彼の精神を、じわじわと、しかし確実に蝕み続けていたのだ。
(結城 視点) 「(…切り捨てるべきだ。今すぐ、この瞬間に。合理的に、冷徹に考えれば、それ以外の選択肢は、本来、存在しないはずだ)」 深夜、窓の外の、眠らない東京の灯りとは対照的に、重く、息が詰まるような静寂に支配された社長室で、山積みになった訴訟関連の忌まわしい資料と、悪化の一途を辿る、見るのも悍ましい財務レポートの数字を睨みつけながら、結城の頭の中では、冷徹で、計算高く、そして成功のためには全てを犠牲にしてきたはずの「古い自分」の声が、悪魔の囁きのように、繰り返し、繰り返し、響いていた。佐伯小春。彼女の存在そのものが、今の、この、崖っぷちに立たされた自分にとって、百害あって一利もない、致命的なアキレス腱だ。何の力も、何の資産も、何の社会的背景も持たない、世間知らずの、地方出身の、ただの小娘。彼女との、まだ名前さえつけられない、形にもなっていない、曖昧で、そしておそらくは極めて脆い関係。それは、この、会社の存亡が、文字通り風前の灯火である、一分一秒が勝敗を分ける戦いの中では、あまりにも不必要で、非生産的で、そして危険極まりないノイズでしかないのだ、と。 綾香が言ったこと、あの老獪な政治家が示唆したこと。それは、彼のプライドを深く傷つけ、激しい怒りを覚えさせたが、同時に、冷厳な事実として、ある側面では真実を突いていた。今の自分に必要なのは、この窮地を覆すための、強力な武器となるコネクションや、莫大な資金力を持つ、計算高く、そして「利用価値」のあるパートナーだ。決して、守ってやらねばならないような、か弱い、そして何の具体的なメリットももたらさない、世間から見れば取るに足らない存在などではない。彼女の存在は、ただでさえ地に落ちた世間の評判に、さらに「色恋沙汰にうつつを抜かす、脇の甘い経営者」という、格好の、そして致命的なゴシップネタを提供するリスクにしかならない。そして、何よりも、彼女のことを考え、彼女の存在に心を揺さぶられている、この時間そのものが、今の自分には、許されざる、致命的な「無駄」なのだ。彼女の顔を思い浮かべるたびに、自分の判断が、コンマ数秒、確実に鈍る。思考の切れ味が、明らかに乱れる。あの、不可解な安堵感や、温かい感情。あれは、極度のストレスと睡眠不足が見せた、脳のバグだ。ただの錯覚だ。危険な感傷だ。弱さの現れだ。そして、弱さは、この世界では、敗北と同義だ。 「(そうだ、思い出せ、結城 創。お前は、勝つために生まれてきたんだろうが! 負け犬になるために、ここまで来たわけじゃないだろう! 生き残るためには、非情になれ。昔のお前は、そうやって勝ってきたはずだ。感情など殺せ。心など捨てろ。利用できるものは、人間であろうと、なんだろうと、全て利用しろ。そして、切り捨てるべきものは、たとえそれが何であろうと、一瞬の躊躇もなく切り捨てろ。それが、成功者の条件だろうが! それが、お前、結城 創という人間の、本質だろうが!)」 彼は、過去に、成功という名の祭壇に、どれほどのものを捧げてきたことか。信じていたはずの友情も、受けたはずの恩義も、そして時には、自分自身の良心や、人間性のかけらさえも、ビジネス上の「合理的な判断」という名の下に、躊躇なく切り捨ててきた。そうやって、この、誰もが羨むはずの地位と富を、その手で掴み取ってきたのだ。なぜ、今になって、たった一人の、社会的な物差しで測れば、何の価値もないはずの女のために、その、血と汗で築き上げてきた、成功のための鉄の原則を、いとも簡単に曲げる必要があるというのだ? 馬鹿げている。狂気の沙汰だ。彼は、自分自身を、まるで壊れかけた機械を叱咤するかのように、奮い立たせようとした。今すぐ、彼女に、何らかの形で連絡を取り(プロジェクトが中断しているため、直接的な連絡手段は限られているが)、もう二度と自分に関わらないように、と冷たく、そして決定的に言い放つべきだ。あるいは、今後、彼女から何らかのアプローチがあったとしても、完全に、鉄の意志で無視を決め込むべきだ。それが、最も合理的で、最もリスクが低く、そして最も「正しい」選択のはずだ。そうすれば、この、まるで麻薬のように、自分を蝕み、判断力を鈍らせる、不可解な感情の揺らぎからも、きっと解放されるだろう、と。
だが、何度そう決意しても、何度そう自分に命令しても、結局、彼は、それを行うことができなかった。 頭では、それが正しいと、生き残るためにはそれしかないと、分かっているのに。彼が長年かけて鍛え上げてきたはずの、冷徹な理性が、そう明確に命じているのに。彼の指は、スマートフォンの画面に表示された、彼女の(もはや暗記してしまっている)連絡先を、どうしても削除することができない。拒絶の、あるいは別れのメッセージを、何度タイプしては消し、タイプしては消し、結局、送信ボタンを押すことができないのだ。 そして、意識的に、彼女のことを考えるのを止めようとすればするほど、逆に、彼女の姿が、声が、笑顔が、そして、あの、全てを包み込むように、ただ静かに、彼の言葉を受け止めてくれた、温かい共感の眼差しが、まるで脳裏に焼き付いたフィルムのように、鮮明に、そして時には激しい痛みを伴って、彼の記憶の中に、繰り返し、繰り返し蘇ってくるのだ。 彼女が、慣れない手つきで、しかし一生懸命に淹れてくれた、あの、ぬるいインスタントコーヒーの、何とも言えない味。彼女が、週末に焼いたという、少し不格好な、しかし手作りの温もりが感じられるクッキーの、素朴で、優しい甘さ。深夜の、誰もいないオフィスで、彼が思わず漏らしてしまった、誰にも見せたことのない弱音を、ただ静かに、受け止めてくれた、あの時の、彼女の、驚くほど落ち着いた、そして深い共感に満ちた表情。それらが、まるで、彼が失ってしまった、あるいは最初から持っていなかったのかもしれない、人間としての「良心」や「温もり」を象徴するかのように、彼の、成功という名の鎧の下で、荒みきって、乾ききっていたはずの心の奥底に、いつの間にか、深く、そして決して消し去ることのできない、温かい染みのように、刻み込まれてしまっている。 そして、彼は、その度に、愕然として気づいてしまうのだ。自分が、心の底から本当に恐れているのは、もはや、ビジネスで再起不能なまでに失敗することや、築き上げてきた富や名声を全て失うことだけではないのかもしれない、と。それ以上に、いや、もしかしたら、それ以上に、佐伯小春という、たった一つの、しかし彼にとっては、もはや、どんな成功や富よりも、かけがえのないものになりつつある、特別な繋がりを、自らの手で断ち切り、そして永遠に失ってしまうこと。それこそが、今の彼にとって、想像を絶するほどの、耐え難い苦痛と、そして、生きる意味すらをも失わせかねない、深い、深い絶望をもたらすのではないか、と。 馬鹿な。ありえない。彼は、その考えが浮かぶたびに、まるで汚物でも振り払うかのように、激しく頭を振った。自分が、これほどまでに、脆く、弱く、そして、一人の人間に——それも、世間的な基準で言えば、何の取り柄もないような、ただの小娘に——感情的に依存し始めているという、信じがたい事実。それは、彼にとって、会社の存続の危機以上に、恐ろしく、そして受け入れがたい、自己矛盾であり、自己存在の崩壊の始まりを意味していた。成功だけが、自分の価値の証明だと信じて生きてきた。孤独こそが、他者に依存しない、絶対的な強さの源だと信じてきた。その、彼が生涯をかけて築き上げてきたはずの、唯一無二の価値観が、今、佐伯小春という、たった一人の、偶然出会っただけの存在によって、根底から、そしてあまりにも無防備に、激しく揺さぶられているのだ。 彼は、この二つの、完全に相反する、しかしどちらも抗いがたいほど強力な力——全てを犠牲にしてでも、このビジネスという名の戦場で生き残り、再び頂点に立とうとする、彼の本質である、冷徹な生存本能と、彼女との繋がりだけは、何があっても失いたくない、守り抜きたいと願う、生まれて初めて感じるような、切実で、しかし非合理的な、人間的な感情——の、巨大な引力の狭間で、文字通り、激しく引き裂かれそうになりながら、出口のない、暗い葛藤の迷宮を、眠れない夜ごと、たった一人で、彷徨い続けていた。どちらを選んでも、何かを決定的に失うことになる。その、あまりにも重い現実に、彼は、押し潰されそうになっていた。
(小春 視点) プロジェクトが公式に中断され、結城さんと直接会うことも、業務上の連絡を取ることさえも、会社の指示によって禁じられてしまってから、小春の日々は、まるで色褪せた写真のように、単調で、そして出口の見えない、重苦しいものへと変わっていた。会社に行けば、以前は活気のあったフロアも、どこか沈滞した空気が漂い、同僚たちは、腫れ物に触るかのように、ネクストリーム社の話題や、ましてや結城さんの名前を口にすることを避け、彼女に対しても、どこか同情と好奇の入り混じった、しかし明確な距離を置いているように感じられた。それが、彼女をさらに孤独にした。 そして、仕事が終わって、一人、狭いアパートの部屋に帰れば、テレビやインターネットには、依然として、結城さんや彼の会社に対する、非難や憶測、時には人格攻撃に近いような、ネガティブで、扇情的な報道が、飽きることなく溢れている。その、悪意に満ちた情報を見るたびに、彼女の心は、まるで鈍い、しかし鋭い痛みを発するかのように、ずきり、ずきりと疼いた。そして、あの、ネクストリーム社の、冷たくて、豪華なロビーで耳にした、あの、忘れようとしても忘れられない、侮蔑的な言葉が、まるで悪夢のように、彼女の頭の中で、繰り返し、繰り返し、反響するのだった。「地方出身の新人OL」「場末の安っぽいメロドラマ」「今の彼にお似合い」。その言葉が、彼女の、なけなしの自尊心を、容赦なく打ち砕き、彼女を、言いようのない無力感と、深い自己嫌悪の淵へと突き落とした。 そうなのかもしれない。やっぱり、自分は、結城社長とは、住む世界が違いすぎる人間なんだ。彼が生きている、あの、華やかで、知的で、厳しくて、そして時には、信じられないほど残酷な世界には、到底、自分のような人間が、馴染むことなどできない、場違いな存在なんだ。彼が、今、あんなにも想像を絶するような困難の中で、たった一人で、必死で戦っている時に、自分は、何もできずに、ただ遠くから、心配しているふりをしていることしかできない。それどころか、もしかしたら、自分の、この、中途半端で、何の力にもならない存在そのものが、彼の輝かしいキャリアや、社会的評価にとって、拭い去ることのできない汚点となり、彼の足を引っ張る「重荷」になっているのかもしれない。彼と親しいというだけで、世間から、あんな風に嘲笑される原因になっているのかもしれない。そう考えると、胸が張り裂けそうに苦しくて、息ができなくなるほどだった。 それでも、彼を信じたい、という気持ちは、まだ、か細く、しかし消えずに、心の奥底に残っていた。あの、誰もいない深夜のオフィスで見せた、彼の、普段の完璧な仮面の下からは想像もできないような、深い疲労と、孤独の影。そして、彼が思わず漏らした、あの、痛切なまでの「本音」を、自分がただ静かに受け止めた時の、彼の、驚きと、戸惑いと、そしてほんの一瞬だけ、確かに見えた、まるで迷子の子供が母親を見つけたかのような、救われたような、安堵の表情。あれは、決して幻ではなかったはずだ。彼の中には、人々が報道で見るような、冷徹で、非情な経営者の顔だけではない、もっと、傷つきやすくて、不器用で、そして、もしかしたら、誰よりも温かい心を求めている、人間らしい部分が、きっと、きっとあるはずだ。そう信じたかった。 でも、その、か細い「信じたい」という気持ちと、日々、彼女に突きつけられる、あまりにも厳しい「現実」との間で、彼女の心は、まるで振り子のように、激しく揺れ動いていた。報道されている数々の疑惑が、もし、その一部でも、本当に彼が過去に行ったことなのだとしたら? 彼女が信じている「人間らしい部分」も、実は、彼の巧妙な演技の一部だとしたら? それでも、自分は、彼を信じ続けることができるのだろうか? そして、もし、仮に信じ続けたとして、その先に、一体、何があるというのだろう? 彼が属している、あの、冷たくて、排他的で、そして人をステータスや利用価値で値踏みするような世界で、自分は、自分自身の、この、不器用で、世間知らずかもしれないけれど、大切にしてきたはずの価値観や、純粋さを、失わずに、生きていくことができるのだろうか? それとも、いつか、気づかないうちに、自分も、あの、冷たい目をした人たちのように、打算的で、冷笑的で、そして人の痛みに鈍感な人間になってしまうのだろうか? それは、彼女にとって、結城さんを失うことと同じくらい、あるいは、それ以上に、恐ろしいことのように感じられた。 彼女の持ち味であるはずの、どんな状況でも前を向こうとする明るさや、人を疑うことを知らない素直な心、そして、他人の痛みに寄り添おうとする共感性。それらが、今、まさに、巨大都市・東京が持つ、抗いがたい「毒」と、結城 創という、抗いがたい、しかし同時に危険な魅力を持つ存在によって、根底から揺さぶられ、激しく試されていた。彼を支えたい、彼の力になりたい、という切実な気持ち。でも、自分には何もできない、それどころか、彼にとって、ただの邪魔で、お荷物でしかないのではないか、という、深い、深い無力感。そして、これ以上、彼の、そして彼の属する世界の、闇や「毒」に深く関わることで、自分が、取り返しのつかないほど傷つき、自分自身という存在そのものを見失ってしまうのではないか、という、切実な恐怖。 彼女は、まるで、光と闇の狭間で、身動きが取れなくなったかのように、どうすればいいのか、自分の心が本当は何を求めているのか、全く分からず、ただ、一人、東京の片隅にある、狭いアパートの部屋で、膝を抱え、先の見えない、深い霧に包まれたような、途方に暮れる日々を送るしかなかった。時折、ニュースで流れる、さらにやつれたように見える結城さんの姿を見るたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。彼が、時折見せていた、彼女を意識的に突き放すような、冷たい態度(それは、今思えば、彼なりの、彼女をこの泥沼に巻き込むまいとする、あまりにも不器用で、そして残酷な優しさの表れだったのかもしれないと、彼女は、心のどこかで、そう理解し始めていたが)も、今の、自信を失いかけている彼女にとっては、自分が彼にとって、やはり不要で、取るに足らない存在であるという、冷たい証拠のように思えて、深く、深く心を傷つけた。それでも、彼のことを、完全に嫌いになることも、彼の幸せを願わずにはいられない自分を、否定することもできない。むしろ、会えない時間が長引けば長引くほど、彼への想いは、まるで堰を切ったように、募っていくような気さえした。それは、あまりにも苦しくて、切なくて、そして、どうしようもなく、矛盾に満ちた、初めて経験する感情だった。彼女は、自分がこれから、どうしたいのか、どうすべきなのか、そして、どうなってしまうのか、その答えを、全く見つけられないまま、深い、深い葛藤の霧の中を、まるで目隠しをされたまま、一人、手探りで歩いているような、そんな心細い心地だった。
綺麗事ではない「欲」と覚悟の選択
結城 創を取り巻く状況は、もはや絶望的という言葉すら生ぬるいほど、破滅的な様相を呈していた。決定的な、そしておそらくは最後の一撃となったのは、彼が最も信頼し、ネクストリームの未来を託していたはずの、海外の大手ベンチャーキャピタルからの、まるで背後から撃ち抜くかのような、突然の、そして一切の情け容赦のない「全ての支援打ち切り」と「契約に基づく、投資資金の即時全額回収要求」の、冷酷なまでの通告だった。それは、事前に何の協議もなく、一方的に送りつけられた電子メール一通で、まさに寝耳に水であり、そして、すでに瀕死の状態にあったネクストリーム社の資金繰りに対して、即座に、そして完全に、とどめを刺すに等しい致命的な打撃を与えるものだった。他の金融機関も、その動きを待っていたかのように、まるで示し合わせたかのように、次々と融資枠の停止や、非現実的な追加担保の要求を突き付けてきた。もはや、会社が、法的な意味での死を迎えるまでに、残された時間は、いくらもなかった。破産、倒産、清算… そういった、彼がこれまでの人生で最も忌み嫌い、最も遠い場所にあると信じ、そして見下してきたはずの言葉たちが、すぐそこまで、冷たい足音を立てて迫ってきている、否定しようのない現実。
深夜、結城は、もはや電力すら節約されているのか、不必要に暗く、そして人の気配が完全に消えた広大な社長室で、一人、デスクに突っ伏していた。まるで全身の力が抜けてしまったかのように、指一本動かす気力さえ湧いてこない。目の前には、CFOが、もはや何の感情も浮かべずに置いていった、最終的なキャッシュフローの予測レポート。そこに並んだ数字は、無慈悲なまでに、会社の「死」を、そしておそらくは「結城 創」という経営者の社会的「死」をも、明確に宣告していた。彼が、文字通り、青春の全てを、そして人生の全てを賭けて、時には法や倫理の境界線を踏み越えてまで、必死で築き上げてきたはずの、輝かしいIT帝国は、今、まさに、巨大な音を立てて、彼の目の前で崩れ落ち、瓦礫と化そうとしている。築き上げてきた社会的信用も、天文学的な数字にまで膨れ上がったはずの資産も、そして何よりも彼を彼たらしめていた「時代の寵児」「若き成功者」としての、眩いばかりの地位も、全てが、まるで一夜の夢のように、幻のように、はかなく消え去ろうとしていた。机の上の、成功の証として贈られた数々のトロフィーや盾が、今はただ、虚しく、そして嘲笑うかのように光を反射している。彼は、衝動的に、そのうちの一つを掴み、壁に向かって叩きつけたいような、破壊的な衝動に駆られたが、もはや、そんなことをするエネルギーさえ残っていなかった。
「(……終わりか…? これで、本当に、全てが……無に帰すのか…?)」
深く、暗く、そしてどこまでも冷たい、底なしの絶望感が、まるで粘性の高いタールのように、彼の全身を、思考を、そして魂そのものを、ゆっくりと、しかし確実に満たしていく。これまでの、狂気的なまでの努力も、生まれ持ったはずの才能も、世界を変えようとした野心も、そして彼が、何よりも正しいと信じて疑わなかった合理性も、その全てが、結局は、無意味だったというのか。結局、自分は、この東京という名の、巨大で、無慈悲で、そして冷酷なシステムの前には、あまりにも無力な、ちっぽけな、使い捨ての駒でしかなかったのか。かつて彼を熱狂的に称賛した者たちは、今や手のひらを返し、彼を激しく非難し、あるいは、彼の無様な転落劇を、安全な場所から、高みの見物と決め込んでいるだけだ。誰も、本当に助けてはくれない。誰も、本気で手を差し伸べてはくれない。成功という光を失った自分には、誰も見向きもしない。それが、この世界の真実なのだ。絶対的な、そして骨身にしみるほどの孤独。そして、全てを失うことへの、抗いがたい、原始的な恐怖。それは、彼が長年、成功という名の鎧の下に、必死で押し込めてきた、「成功しなければ自分には何の価値もない」という、根源的な自己否定の感情、そして「誰からも本当に必要とされていないのではないか」という深い孤独感と、最悪の形で結びつき、彼の精神を、内側から、じわじわと蝕み、崩壊させようとしていた。
もう、どうでもいいじゃないか。会社がどうなろうと、世間からどう罵られようと。金も、名誉も、全て失ってしまえばいい。いっそ、全てを投げ出して、このまま、誰にも知られずに、どこか遠い、世界の果てへでも消えてしまいたい。そんな、破滅的で、自暴自棄な思いが、まるで甘い誘惑のように、彼の心を支配しかけた、まさに、その時だった。
ふと、まるで暗闇の中に差し込んだ、一筋の、予期せぬ光のように、彼の脳裏に、鮮明に、そして、もはや彼の意志では抗いがたいほどの強さで、一人の女性の顔が、その表情が、声が、温もりが、浮かんだ。 佐伯 小春。 あの、どこまでも不器用で、世間知らずで、そして彼の基準からすれば、全く洗練されていなくて、しかし、驚くほど真っ直ぐで、嘘がなく、そして、まるで陽だまりのような、温かい瞳を持った女。 彼が弱音を吐いた時、ただ黙って、隣で頷いてくれた、あの困ったような、それでいて、どこまでも優しい笑顔。 彼のために、慣れない手つきで淹れてくれた、あの、決して美味しくはないけれど、なぜか心が安らいだ、ぬるいインスタントコーヒーの味。 彼の、誰にも、そして自分自身にさえも見せたくなかったはずの、醜く、脆い弱さを受け止めてくれた、あの深夜の、静かで、深く、そして揺るぎない共感に満ちた眼差し。
なぜ、今、よりによって、彼女なんだ? この、全てが終わりを告げようとしている、人生のどん底とも言える、絶望の淵の、土壇場で、なぜ、他の、彼を賞賛し、彼を利用し、あるいは彼に依存してきた、数多の人間ではなく、彼女のことだけが、こんなにも鮮明に、こんなにも切実に、そしてこんなにも心を締め付けるほどの強さで、思い出されるんだ?
その瞬間、結城の中で、何かが、プツリと、音を立てて、決定的に、そしておそらくは永遠に、壊れた。あるいは、その破壊の中から、全く新しい何かが、生まれたのかもしれない。 彼を、これまで縛り付け、そして守ってきたはずの、最後の理性。計算。プライド。自己防衛の本能。成功への、そして社会的な評価への、強迫観念にも似た執着。それら、彼が「結城 創」という人間であるために必要だと信じてきた全てのものが、まるで激しい衝撃を受けた、極薄のガラス細工のように、粉々に砕け散り、その、空っぽになったはずの奥底から、もっと、剥き出しの、制御不能な、そして痛切なまでの、原始的な感情が、抑えきれないほどの激しさで、まるで火山が噴火するように、噴出したのだ。
それは、決して、綺麗事ではない。美しくも、清らかでもない。詩的な感傷でもない。 ただ、ひたすらに、彼女を「欲している」という、喉が焼け付くような、飢えた獣のような、あまりにも生々しいまでの、渇望。 もう、何もかも、全てを失ってもいい。この会社も、積み上げてきた金も、世間的な名誉も、築き上げてきた人間関係も、何もかも。だが、彼女だけは、佐伯 小春という、たった一人の存在だけは、絶対に、失いたくない。失うわけにはいかないのだ。もし、彼女までいなくなってしまったら、自分は、本当に、完全に、空っぽの抜け殻になってしまうだろう。この、広大で、無機質で、そして絶望的に冷たい、無意味な世界に、永遠に、たった一人で、救いもなく漂流し続けることになるだろう。 その、想像を絶するほどの、魂の凍てつくような恐怖が、彼の、最後の、かろうじて残っていた理性のタガを、完全に、そして決定的に外させた。
彼は、まるで夢遊病者のように、あるいは、見えない何かに強く突き動かされるように、衝動的に席を立った。床に散らばった資料を踏みつけ、高価な革靴でエナジードリンクの空き缶を蹴散らしながら、ジャケットも掴まず、乱暴に緩めたネクタイをさらに引きちぎるように外し、シャツの胸元を開けたまま、社長室を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえも惜しいかのように、非常階段を駆け下り、警備員の訝しげな視線も意に介さず、夜の、冷たい空気が漂う街へと、文字通り飛び出した。どこへ行くという、明確な当てもない。タクシーを拾う思考さえ働かない。ただ、彼女に会わなければならない。彼女の存在を、この手で、この目で、確かめなければならない。今すぐ。この瞬間に。たとえ、それが、どれほど狂っていて、身勝手で、彼のプライドをズタズタにする行為であり、そしておそらくは、何も知らない彼女を、深く傷つけ、混乱させることになるかもしれないとしても。もう、彼には、それ以外の選択肢は、残されていないような気がした。彼の、剥き出しになった、生存本能にも似た、彼女への「欲」だけが、彼を、突き動かしていた。
(小春 視点) その夜、小春は、上司からの指示で、遅くまでかかった残業を終え、心も体も疲れ果て、重い足取りで、自宅アパートへと続く、人通りの少ない、暗い夜道を一人歩いていた。会社での、あの、心ない、しかしおそらくは真実の一端を突いているのであろう、侮蔑的な言葉を耳にして以来、彼女の心は、まるで鉛を飲み込んだかのように、重く、そして暗く沈んだままだった。結城さんのことを考えないようにしよう、忘れよう、と思えば思うほど、逆に、彼の、報道で見る、日に日に憔悴していくような姿や、あの夜に見せた、痛々しいほどの弱さが目に浮かび、胸が締め付けられるように痛んだ。でも、自分には、彼のために、本当に何もできない。彼に、安易に連絡を取る勇気も、そしておそらくは、そんな資格もないような気がしていた。自分は、彼にとって、やはり、ただの「不釣り合いな存在」であり、「厄介なお荷物」なのだろうか。そう思うと、情けなくて、悔しくて、涙が込み上げてくる。俯き、街灯の頼りない光の下で、溢れそうになる涙を必死で堪えながら、ようやく自宅のアパートの、古びた鉄製の階段の前に差し掛かった、まさに、その時だった。
「……佐伯」
不意に、すぐ背後から、低い、そして、今まで聞いたことがないほどに掠れた、まるで魂の奥底から絞り出すような声で、自分の名前を呼ばれ、彼女は、驚きと、そして瞬間的な恐怖で、心臓が止まるかと思いながら、弾かれたように振り返った。 そこに立っていたのは、信じられないことに、結城 創、その人だった。 しかし、それは、彼女が知っている、いつも完璧なスーツを着こなし、冷徹なまでの自信と、人を寄せ付けないオーラを放っていた彼の姿では、全く、全くなかった。高級であることは分かるが、皺の寄ったスーツ。乱暴に引きちぎられたかのように緩められ、だらしなく垂れ下がったネクタイ。胸元までボタンが外され、覗くシャツもどこか汚れているように見える。いつものように完璧にセットされていたはずの髪も、汗か何かで額に張り付き、完全に乱れていた。そして、何よりも、その顔。街灯の薄明かりの下でも分かるほどの、深い、深い疲労と、全てを失ったかのような絶望と、そして、何か、暗い炎のような、追い詰められた獣のような、激しい感情の色が、隠しようもなく、痛々しく浮かんでいた。彼の、いつもは鋭く、全てを見透かすような光を宿していたはずの瞳は、焦点が合っているのかいないのか、どこか虚ろで、しかし、同時に、まるで溺れる者が最後の救いを求めるかのように、必死に、彼女の姿だけを捉えていた。彼からは、高級な香水の香りよりも強く、明らかに、アルコールの匂いがした。彼が、こんな風に、完全に自己を失ったかのように乱れた姿を、人前に、ましてや彼女の前に晒すなんて、想像すらしたことがなかった。 「ゆ、結城…社長…? なぜ、こんなところに…? いったい、どうなさったんですか…?」 小春は、目の前の信じられない光景に対する驚きと、彼のあまりの変貌ぶりに対する心配と、そして、彼から発せられる、尋常ではない、どこか危険な雰囲気に対する、本能的な恐怖で、声が震えるのを抑えることができなかった。 結城は、彼女の問いには、何も答えなかった。ただ、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、あるいは、最後の寄る辺を求める難破船のように、フラフラと、しかし、何か強烈な、抗いがたい力に引き寄せられるかのように、彼女に一歩、また一歩と近づいてきた。そして、彼女の目の前、吐息がかかるほどの距離で立ち止まると、まるで最後の祈りを捧げるかのように、あるいは、これが現実であるという最後の何かを確かめるかのように、彼女の、細い腕を、両手で、強く、しかし、明らかに震えている手で掴んだ。その力は、痛いほどだった。 「……聞くな。…何も、言うな」 彼の声は、ひどく掠れていて、弱々しく、しかし、有無を言わせない響きを持っていた。 「ただ……ただ、俺のそばにいてくれ…それだけでいい。…一人に、しないでくれ…頼む…」 それは、決して、愛の告白などではなかった。計算された口説き文句でも、ロマンチックな言葉でも、優しい慰めの言葉でもない。ただ、剥き出しの、あまりにも脆く、そして痛々しいほどの、彼の、誰にも、おそらくは彼自身にさえも見せたことのないはずの、絶対的な弱さの、完全な告白。そして、彼女という存在に対する、ほとんど幼児的なまでの依存と、なりふり構わない、切実で、そして身勝手なまでの「欲求」の、魂からの表明だった。全てを失いかけ、絶望の淵に立たされた、かつての成功者が、最後の最後に、全てのプライドを捨てて、たった一つの、温かい光に、藁にもすがる思いで、手を伸ばしてきたかのようだった。
小春は、息を呑んだ。彼の、腕を掴む手の、痛いほどの強さと、その、抑えきれない震え。彼の、間近で見る、深く刻まれた疲労の跡と、瞳の奥で、まるで嵐のように揺らめく、深い絶望と、そして、自分だけに向けられている、あまりにも生々しい、剥き出しの感情の激しさ。それは、彼女が、これまでの、平穏で、平凡だった人生の中で、一度も経験したことのない、あまりにも強烈で、圧倒的で、そして同時に、底知れぬほど危険な何かだった。 一瞬、彼女の脳裏を、数日前に、あの冷たくて豪華なロビーで耳にした、あの、心を抉るような、冷たい嘲笑の言葉が、稲妻のように駆け巡った。「今の彼にお似合い」。そうか、自分は、やっぱり、こんな風に、全てを失って、弱りきって、誰かに縋りつくしかないような、そんな、惨めな状況の彼にこそ、「お似合い」の、安っぽい女なのだ、と。逃げ出したい、と本能が叫んだ。怖い、と全身が震えた。このままでは、彼の、この、底なしの闇と絶望に、自分も一緒に引きずり込まれてしまうのではないか、と。自分の、けなげな、しかし所詮は脆いだけの純粋さなど、彼の持つ、この、抗いがたい、しかし破壊的な「毒」の前には、ひとたまりもなく、汚され、壊されてしまうのではないか、と。 それが、おそらくは、世間一般で言うところの、「賢明」で、「正しい」反応だったのかもしれない。これ以上傷つく前に、危険なものからは距離を置く。自己防衛本能に従うなら、そうすべきだったのかもしれない。
だが、彼女は、動かなかった。一歩も、引かなかった。 彼女は、ただ、じっと、目の前の、かつてあれほどまでに完璧で、手の届かない存在に見えた男の、今は、まるで嵐に打ちのめされた迷子の子供のように、弱々しく、傷つき、そして必死な表情を、強い風に吹かれても揺らがない灯火のように、ただ、静かに、そして真っ直ぐに見つめ返していた。 そして、彼女は、その瞬間、これまでの人生で、最も重要で、そして最も困難な「選択」をしたのだ。 逃げることではなく、彼の手を振り払うことではなく、彼を可哀想だと憐れむことでもなく、ましてや、彼の過去や、今の状況を断罪することでもなく。 ただ、静かに、目の前にいる、この、傷つき、迷い、そして自分を求めている、結城 創という一人の人間の、全てを——彼の、誰もが羨むような輝かしい成功も、そして今まさに直面している、誰が見ても惨めなほどの失敗も。彼の、人を惹きつけてやまない圧倒的な強さも、そして、今、彼女の前で、痛々しいまでに晒け出されている、脆く、不器用な弱さも。彼が持つ、抗いがたいほどの、人を虜にするような魅力も、そして、その魅力の裏に、確かに潜んでいるであろう、危険な「毒気」も。その、光も、影も、彼が背負うであろう全ての困難も、彼の持つあらゆる矛盾も、その全てを、一切の条件も付けずに、丸ごと、ただ、受け入れることを。 それは、決して、お人好しな、楽観的な、あるいは感傷的なだけの決断ではなかった。彼女は、この選択が、どれほどの重みを持ち、そして、これから自分たちが共に歩むであろう道が、決して平坦ではなく、むしろ、想像を絶するほどの茨に満ちた、厳しいものになるであろうことを、おそらくは、彼女の持つ、鋭い感受性によって、本能的に、そして痛切に理解していた。世間からの冷たい非難の目。経済的な困窮。そして、何よりも、彼の持つ、複雑で、そして時には破壊的ですらあるかもしれない内面との、困難で、そして終わりが見えないかもしれない対峙。それら全てを、引き受け、そして立ち向かっていく「覚悟」を、彼女は、この瞬間に、決めなければならなかったのだ。 だが、それでも、彼女は、彼の手を、離すことはできなかった。彼を、この、深い、暗い絶望の中に、これ以上、一人で置き去りにすることは、どうしても、できなかった。なぜなら、彼女は、彼の、この、究極の弱さに触れた時、そして、彼が、最後の望みを託すかのように差し伸べてきた、その、震える手を握り返すことこそが、自分が、この、巨大で冷たい東京という街で、彼と出会い、そして、理由も分からずに、しかし抗いがたいほどに、彼に惹かれてしまった、その、たった一つの、そして絶対的な「意味」なのだと、そう、全身全霊で、強く、強く感じたからだ。 彼女は、ゆっくりと、しかし、そこには微塵の迷いもない、確かな意志を持って、彼に強く掴まれていた自分の腕を、そっと、まるで壊れ物を扱うかのように、しかし同時に、決して離さないという決意を込めて、彼の手で優しく包み返すように、両手で、しっかりと握り返した。そして、彼の、虚ろで、しかし必死に、ただ一つの救いを求めているかのような瞳を、夜の闇の中でも分かるほど、真っ直ぐに、そして強く見つめ返し、静かに、しかし、その声には、彼女が持つ、全ての誠実さと、強さと、そして揺るぎない「覚悟」を込めて、こう言った。
「……はい。……私は、ここにいます。結城さんの、すぐそばにいます。…どんなことがあっても、一人には、しませんから」
その言葉は、決して、劇的なものではなかった。しかし、その、短く、シンプルで、そして少しだけ震えた声で紡がれた言葉の中には、彼女の、損得も、計算も、そしておそらくは恐怖さえも超えた、彼に対する、深く、そして絶対的な想いが、何よりも雄弁に、そして確かに込められていた。 その瞬間、結城の、絶望に濁りきっていたはずの瞳に、ほんの一瞬だけ、まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのような、深い驚きと、そして、長い、長い、暗く孤独な旅路の果てに、ようやく、探し求めていた、たった一つの、温かい安息の場所を、見つけ出したかのような、深い、深い安堵の色が、確かに浮かんだように、小春には、はっきりと見えた。 問題が、全て解決したわけではない。彼らを打ちのめす嵐は、まだ、すぐそこまで迫っている。むしろ、これからが、本当の意味での、過酷な戦いの始まりなのかもしれない。だが、この瞬間、この、東京の片隅の、古びたアパートの前の、街灯だけが照らす、薄暗い路上で、二人の心は、これ以上ないほど、強く、そして深く、永遠に解けることのない絆で、結びついたのだ。絶望の淵で交わされた、綺麗事では決してない、人間の、剥き出しの「欲」と、それを受け止め、そして共に歩むことを決めた、揺るぎない「覚悟」。それによって、彼らの、脆く、危うかったはずの繋がりは、何があっても、もう決して揺らぐことのない、誰にも壊すことのできない、確固たるものへと、静かに、しかし決定的に、昇華された。それは、彼らにとっての、新しい、そしておそらくは、真の意味での関係性の、痛みを伴う、しかし希望に満ちた、始まりの瞬間だった。
第三章の結び
「……一人には、しませんから」
小春の、静かだが、しかし何よりも強く、そして確かな響きを持った言葉は、まるで真冬の凍てついた大地に降り注ぐ、最初の温かい春の雨のように、結城の、絶望と自己嫌悪で完全に乾ききっていたはずの心へと、ゆっくりと、しかし深く、染み込んでいった。彼の掴んでいた腕の中で、彼女が、逆に、彼の冷たく震える手を、彼女の、驚くほど温かく、そして力強い、小さな両手で、しっかりと包み返してくれた、その感触。それは、彼がこれまでの人生で経験した、どんな高価なものよりも、どんな華やかな成功体験よりも、比較にならないほど、リアルで、温かく、そして、彼の存在そのものを肯定してくれるかのような、圧倒的な力を持っていた。
彼は、しばらくの間、ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。彼女の言葉の意味を、その重みを、そして、その言葉を発するために、彼女がどれほどの葛藤を乗り越え、どれほどの「覚悟」を決めたのかを、彼の、まだかろうじて機能している理性が、懸命に理解しようとしていた。目の前にいるのは、ただの世間知らずの、非力な小娘ではない。彼女は、彼の想像を遥かに超えるほどの、しなやかで、そして鋼のような強さを、その、か細く見える身体の奥深くに、秘めていたのだ。そして、その強さは、彼がこれまで信奉してきた、他者を支配し、蹴落とすことで得られる類の、冷たく脆い強さとは、全く異質の、もっと本質的で、そしておそらくは、真の意味で「強い」と呼べるものなのかもしれない。
彼の目から、理由の分からない熱いものが、止めどなく溢れ出しそうになるのを、彼は、奥歯を強く噛み締めることで、必死に堪えた。男が、人前で、ましてや、こんな状況で、涙を見せるなど、あってはならない。それは、彼に残された、最後の、ちっぽけなプライドだったのかもしれない。 「……馬鹿な女だ、君は」 ようやく、彼は、掠れた声で、そう呟くのが精一杯だった。それは、罵倒の言葉のようでありながら、同時に、彼が、これまでの人生で、誰かに向けて発した、最も率直で、そして最も深い、感謝と、そしておそらくは愛情に近い感情の、不器用な表現だったのかもしれない。 小春は、彼の言葉に、少しだけ困ったように、しかし、やはり穏やかに微笑み返した。そして、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、そっと、彼の腕から自分の手を離すと、今度は、彼の、乱れたスーツのジャケットの襟を、優しく直してくれた。それは、あまりにも自然で、そしてあまりにも親密な仕草だった。 「…帰りましょう、結城さん。ここは、寒いです」 彼女は、そう言って、彼の、まだどこか虚ろな目を、じっと見つめた。
その夜、彼らが、その後どうしたのか、結城の記憶は、ひどく曖昧だった。おそらく、彼は、ほとんど無意識のうちに、彼女に導かれるままに、彼女の、あの、狭くて、しかし不思議と居心地の良かったアパートの部屋へと、招き入れられたのだろう。そして、彼女が淹れてくれた、温かい、しかし味のしない白湯を、ただ黙って飲み干したことだけを、断片的に覚えていた。言葉は、ほとんど交わさなかったはずだ。いや、交わす必要がなかったのかもしれない。彼らの間には、もはや、言葉を超えた、もっと深く、そして確かな繋がりが、生まれていたからだ。
もちろん、彼らを襲った嵐が、これで過ぎ去ったわけでは、決してない。ネクストリーム社が直面している経営危機は、依然として深刻であり、法的な問題、資金繰りの問題、そして失墜した社会的信用の回復という、あまりにも巨大で、そして困難な課題が、山のように横たわっている。結城が、再び、以前のような成功を取り戻せる保証など、どこにもない。むしろ、全てを失い、文字通り、ゼロから、あるいはマイナスからの再出発を余儀なくされる可能性の方が、はるかに高いだろう。そして、彼らの前には、世間の冷たい目や、過去の人間関係からもたらされるであろう、さらなる困難や試練が、待ち受けていることも、想像に難くない。
だが、それでも、何かが、決定的に変わったのだ。 結城は、もはや、一人ではなかった。彼が、どれほど深く絶望し、どれほど打ちのめされようとも、彼の隣には、彼の全てを受け入れ、そして「一人にはしない」と、揺るぎない覚悟を持って宣言してくれた、佐伯小春という存在がいる。その事実が、彼の、砕け散ってしまったはずの心の中に、まるで暗闇の中に灯された、小さな、しかし決して消えることのない、希望の灯火のように、温かい光を投げかけていた。彼は、まだ戦える。いや、彼女のために、そして、彼女と共に生きる未来のために、戦わなければならないのだ、と。そう、強く思うようになっていた。 そして、小春もまた、自分の選択の重さを感じながらも、後悔はしていなかった。彼女が選んだ道は、確かに、険しく、困難に満ちているだろう。だが、彼女は、結城 創という人間の、光も影も、強さも弱さも、その全てを知った上で、それでも、彼のそばにいることを選んだのだ。それは、彼女にとっての、初めての、そしておそらくは人生で最も重要な「覚悟」だった。そして、その覚悟が、彼女の中に、これまで知らなかったような、静かで、しかし確かな強さを与えてくれていた。
最大の危機は、まだ去ってはいない。ビジネスの再建、失われた信用の回復、そして、おそらくは法的な戦い。解決しなければならない課題は、依然として山積みだ。だが、その、最も暗く、そして最も困難な時期を、互いの存在を支えとして、そして互いへの揺るぎない想いを胸に、共に乗り越えたことで、結城と小春の絆は、もはや何ものにも壊されることのない、本物の、そしてかけがえのないものへと、確かに変わっていた。
彼らの、新しい関係性は、まさに今、始まったばかりだ。それは、決して甘いだけの、おとぎ話のような恋ではない。現実の厳しさ、人間の弱さ、そして社会の非情さ。それら全てを内包した、痛みと、葛藤と、しかし、それらを乗り越えるだけの、強い意志と、深い愛情に裏打ちされた、大人の関係性。
これから、彼らは、この東京という、美しくも残酷な街で、どのようにして、自らの足で立ち上がり、そして、二人で共に、未来を築いていくのだろうか。結城は、失ったものを取り戻すことができるのか。そして、彼は、小春という光によって、本当に変わることができるのか。小春は、彼の「毒」に染まることなく、彼女自身の輝きを保ち続けることができるのか。そして、二人は、この、あまりにも対照的で、しかし強く惹かれ合う関係性の先に、どのような「答え」を見つけ出すのだろうか。
終章への、期待と、そして、まだ終わらない物語への、確かな予感を、読者の胸に深く刻みつけて、第三章の幕は下りる。彼らの戦いは、そして、彼らの愛の物語は、まだ、始まったばかりなのだ。