第二章:氷壁に触れる体温、芽生える「毒」
共に過ごす時間と予測不能な変化
あの嵐のようなシステムトラブルが収束してから、数週間が経過した。鳩屋フーズとの共同プロジェクトは、失われた時間を取り戻すべく、再びエンジンをかけ直し、慌ただしい日常の軌道へと戻っていた。ネクストリーム社のガラス張りの会議室には、以前と同じように両社の担当者が顔を突き合わせ、モニターに映し出される進捗グラフを睨み、議論を交わし、山積する課題を一つずつ、地道に潰していく日々。一見すると、全てが元通りになったかのようだった。平穏が戻り、あの極限状態の記憶は、徐々に薄れ始めているようにさえ見えた。しかし、少なくとも、結城 創の中では、何かが確実に、そしてわずかに、しかし無視できないレベルで、変化し始めていた。それは、彼自身が最も認めがたく、そして論理的な思考では到底、理解に苦しむ変化だった。原因は、特定できている。佐伯 小春。あの、あらゆる意味で規格外の、東京に染まらない、彼の世界における異物のような存在。
プロジェクトの定例ミーティング。結城は、自社の役員やプロジェクトマネージャーからのよどみない報告を聞きながらも、意識の少なくない部分が、テーブルの向かい側に座る小春の様子を、まるで監視カメラのように、あるいは未知の生物を観察するかのように、追っている自分に気づくことが明らかに増えた。以前は、彼女の存在など、視界に入っても認識しない、取るに足らない背景ノイズとして完璧に処理できていたはずだ。だが、あのトラブル対応——あの硝煙と疲労とアドレナリンに満ちた数週間——を共に乗り越えて以来、彼女は、結城が長年かけて精緻に構築してきた「人間評価・予測アルゴリズム」にとって、予測不能な挙動を繰り返す変数、あるいは、システム全体に予期せぬエラーを引き起こしかねないバグのような、厄介で、しかし無視できない存在へと変貌していた。
(結城 視点) 今日の彼女は、以前のような、常に何かに怯えているかのような小動物めいた硬さは、確かに少し薄れているように見えた。もちろん、依然として他のメンバーに比べて発言は極端に少なく、どこか遠慮がちで、自信なさげな態度は変わらない。だが、背筋は以前よりも、ほんのわずかだが伸びているように見えるし、視線も以前ほどは落ち着きなく彷徨ってはいない。手元のノートパソコンに向かい、必死に議事録を取っているのか、時折、小さな眉間に皺を寄せながら、隣に座る鳩屋の上司に、囁くような小さな声で何かを確認している。あの極限状況下で、彼女なりに必死で役割を果たしたという経験が、彼女の中で、ほんの僅かながらも「自信」という名のプログラムを生成したのだろうか。それとも、単に、この場の雰囲気に「慣れた」だけなのか。 「(……いや、気のせいだ。意味のない観察だ。相変わらず、動きには無駄が多いし、思考も浅い。たまたま、あの時は状況が彼女に味方しただけだ)」 結城は、自分の観察と、そこから導き出されそうになるセンチメンタルな解釈を、即座に、そして意識的に打ち消した。感傷は判断を鈍らせる。彼女は、たまたまあの状況下で、特定の役割において機能したに過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。彼の世界は、プロセスではなく、結果が全てだ。個人の成長物語や、ましてや感情の機微など、冷徹なビジネスの戦場においては、何の価値もないノイズでしかない。そう、何度も、自分の頭脳に命令を下す。だが、それでも、彼の視線は、まるで自律的な意思を持ったドローンか何かのように、なぜか無意識のうちに、彼女の、キーボードを叩く小さな指先や、資料を目で追う真剣な(あるいは、結城から見ればただ困惑しているようにも見える)横顔に引き寄せられてしまう。まるで、未知のOSの挙動を、その内部ロジックを解明するために、詳細にログを収集し、解析しようとするかのように。そして、その解析が、こと彼女に関しては、常に失敗に終わることに、彼は微かな苛立ちを感じ始めていた。
そんな日々の中、またしても、予期せぬ形で、二人が共に時間を過ごさざるを得ない状況が、まるで運命のいたずらのように、再び訪れた。プロジェクトの中核をなす、ネクストリーム社製の特殊なサーバー機器の最終稼働前チェックと、設置場所である物理的なセキュリティ確認のため、二人が揃って郊外の山間にある、機密性の高いデータセンターへ赴く必要が生じたのだ。本来なら、ネクストリーム側のインフラ担当役員と、鳩屋側のシステム部長クラスが行くべき案件だった。しかし、鳩屋側のシステム部長が、折悪しく海外出張中であり、他の役職者は誰も都合がつかず、一方で、現場での微調整や確認作業には、鳩屋側の業務仕様を(たとえ表面的にでも)理解しており、かつ最低限の現場判断が可能な人間が必要だった。その結果、消去法で、急遽、小春に白羽の矢が立ったのだ。そして、結城自身も、そのデータセンターの運営会社との間で、別の機密保持契約に関する重要なサインを行うため、偶然にも同じ日、同じ場所へ向かう予定が入っていた。 「あら、結城社長も佐伯さんと同じデータセンターへ? でしたら、佐伯さん、途中まで社長のお車に乗せていただいたらよろしいのではなくて? その方がずっと早いですし、効率的ですわ」 結城の有能な女性秘書が、良かれと思って気を利かせたつもりでそう提案し、それを横で聞いていた鳩屋側の上司も「おお、それは大変助かります! 結城社長、申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします!」と、何の疑いもなく、むしろ僥倖とばかりに安易に受け入れてしまったため、結城としても、ここで無下に断る理由を見つけることができなかった。
結城がハンドルを握る、静かに滑るような加速を見せる黒の高級ドイツ製セダン。その助手席は、おそらく、佐伯小春という女性が、これまでの人生で経験したことのない種類の空間だっただろう。外界の騒音を完璧に遮断する、驚くほどの静粛性の高い車内。新車特有の匂いと、上質なレザーシートの控えめな香りが混じり合う。結城は、クラシック音楽でもなく、最新のヒットチャートでもなく、ただ静寂を選び、無言で、しかし精密機械のように滑らかに車を走らせる。高速道路の単調な景色が、現実感を失わせるかのように、音もなく後ろへと流れていく。そして、その静寂が、かえって助手席の彼女の緊張感を増幅させているかのように、重く、気まずい沈黙が、車内に満ちていた。
(小春 視点) どうしよう……! どうしたらいいんだろう……! 何か、何か話さなければ、この沈黙は失礼にあたるんじゃないだろうか? でも、何を話せば? 天気の話? 「今日はいいお天気ですね」なんて、あまりにも平凡すぎる。昨日見たテレビドラマの話? そんなの、結城社長が興味を持つはずがない。そもそも、私なんかが、この、雲の上の人のような結城社長に、馴れ馴れしく話しかけてもいいのだろうか。きっと、迷惑に決まってる。でも、このまま黙っていたら、「この子は愛想もない」って思われてしまうかもしれない……。ああ、もう、どうしたら! ぐるぐると、同じ思考が、まるで出口のない迷路のように頭の中を駆け巡る。心臓のバクバクという音が、やけに大きく、自分の耳にだけ聞こえる気がした。せめてもの抵抗に、窓の外の景色を見ているふりをしながら、運転に集中している彼の横顔を、気づかれないように、そっと盗み見る。いつも厳しい、人を寄せ付けないような表情をしているけれど、こうして見ると、長いまつ毛とか、通った鼻筋とか、意外と綺麗な顔立ちをしているんだな、なんて、この状況で考えるべきことではない、場違いな感想を抱いてしまった。そのことに気づいて、一人で勝手に顔が熱くなる。
(結城 視点) 隣で、佐伯が落ち着かない様子で、頻繁に身じろぎしているのが、気配で、そして時折視界の端に入る動きで伝わってくる。何をそんなに、この世の終わりのように緊張しているのか。ただ、車という密室空間に、上司(それも、彼女にとっては最も恐れているであろう相手)と二人きりでいるだけだろう。全くもって、非効率で、無駄な感情の浪費だ。だが、彼女のその、隠そうとしても隠しきれない、分かりやすすぎるほどの緊張感が、なぜか結城の、普段は平静を保っているはずの神経を、ささくれのように逆撫でする。まるで、自分が何か、意識的に彼女を威圧するような態度でも取っていると、無言のうちに非難されているような、そんな不快感。あるいは、自分のテリトリーに侵入してきた、扱いの分からない小動物に対するような、わずらわしさ。 「……何か聞きたいことでも? それとも、気分でも悪いのか?」 沈黙に耐えかねたというよりは、彼女のその落ち着きのなさを早く終わらせ、この不快な状況をリセットしたくて、結城は、やや苛立ちを含んだ、ぶっきらぼうな声で尋ねた。 「えっ!? あ、いえっ! だ、大丈夫です! あの、その……お車の運転、お疲れ様です!」 彼女は、またしても、驚きと動揺で目を白黒させながら、予想通りの、そして完全に的外れな答えを、上ずった声で返してきた。 「別に疲れてなどいない。この程度の運転で疲れるようでは、話にならない」 結城は、即座に、そして冷ややかに否定した。彼のプライドが、そう言わせたのかもしれない。彼の返答に、彼女はまた「も、申し訳ありません!」と、なぜか謝罪し、再び貝のように口を閉ざしてしまった。そして、車内には、先ほどよりもさらに重く、救いようのない沈黙が訪れた。 「(……やはり、この女は、俺のあらゆる計算とペースを狂わせるバグだ)」 彼の確立されたコミュニケーションパターン、相手の反応を予測しコントロールする対人関係の法則。その全てが、彼女の前では、まるで役に立たない。最新鋭のAIが、人間の持つ非合理的な感情や、論理を超えた予測不能な行動の前で、完全にフリーズしてしまうかのように、結城の、常にクリアであるはずの思考も、彼女に対してはしばしば、原因不明の予期せぬエラーを起こし、正常な処理を妨げるのだ。それは、彼にとって、未知であり、不快であり、コントロール不能であり、そして、ほんの少しだけ、彼の、成功しているが故に単調になっていた日常に投げ込まれた、異質で、厄介な刺激でもあった。
データセンターでの機器確認作業そのものは、結城にとっては、特に問題なく進んだ。専門的な内容は、同行したネクストリームの技術担当役員に任せればよく、彼は最終的な確認と、運営会社との契約書へのサインを済ませるだけだ。小春は、やはりほとんど、所在なさげに彼らの後ろをついて回り、時折、鳩屋側の運用に関する確認を求められると、緊張しながらも、用意してきた資料をもとに、懸命に答えているだけだった。ただ、一度だけ、データセンターの厳重な入退室管理システムの前で、彼女が、都会育ちのネクストリームの役員が手間取っている認証プロセスを、なぜか手際よくクリアし、「あ、ここはこうするんですよ」と、こともなげに説明している場面を目にした。田舎の役場のシステムか何かで、似たようなものを扱った経験でもあったのだろうか。その、予想外の場面での、ほんの些細な「有能さ」の片鱗が、結城の脳裏に、一瞬だけ、小さな引っかかりとして残った。
そして、帰り道。都心へ向かう高速道路で、予期せぬ大規模な事故渋滞に巻き込まれ、彼らの乗る車は、ノロノロ運転どころか、完全に停止してしまったのだ。カーナビが表示する通過予測時間は、絶望的な数字を示している。結城のスケジュールは、この後も詰まっている。苛立ちが、じわじわと彼の内側から湧き上がってくるのを感じた。 「……も、申し訳ありません、結城社長。私の確認作業に時間がかかったせいで、こんな渋滞に……。結城社長の、貴重なお時間を……」 隣で、小春が、今にも泣き出しそうな、消え入りそうな声で呟いた。完全に彼女の責任ではないにも関わらず、全ての責任を自分一人で背負い込もうとしている。その、過剰なまでの自己犠牲的な思考回路が、結城には全く理解できなかった。 「君のせいではないだろう。言ったはずだ。渋滞は、予測不能な外部要因だ。それに、君の確認作業が遅かったわけではない」 結城は、苛立ちを抑えながら、事実だけを、できるだけ冷静な声で述べた。だが、その時、小春が、ふと、フロントガラスの向こう、連なるテールランプの赤い光の先で、地平線へと沈みゆく、燃えるような夕焼けに目を向けながら、ぽつりと言ったのだ。その声には、不思議と、焦りや不安の色はなかった。 「でも、なんだか……時間が、止まったみたいで、少し、不思議な感じですね。いつもは、東京にいると、時間に追いかけられて、あっという間に一日が過ぎていくのに。こんな風に、ゆっくり空の色が変わっていくのを見るなんて、久しぶりな気がします……」 そう言って、彼女は、少しだけ、柔らかい、夢見るような表情で、刻一刻と色を変えていく空を見上げていた。まるで、この非効率な状況そのものを、味わっているかのように。 その言葉と、その表情。それは、結城が彼女から、あるいは、この状況に置かれた人間から、通常予測するであろう反応——焦り、苛立ち、諦め、退屈——とは、全く異質の、完全に想定外のものだった。 「(……時間が、止まった? ゆっくり空の色が変わる? ……何を、非合理的なことを言っているんだ、この女は)」 結城は、その非論理的で、効率とは無縁で、しかしどこか心をざわつかせる詩的な響きを持つ言葉に、一瞬、思考の回路を奪われた。彼の世界では、時間は常にコストであり、有限であり、最大限に効率的に消費されるべきリソースだ。止まることなど、ありえない。渋滞は、機会損失であり、経済的損失であり、ただのストレス要因でしかない。だが、彼女の言葉は、まるで、彼が信奉する物理法則や経済原則とは全く違う、別の次元の法則を示唆しているかのようだった。そして、その言葉が、なぜか、彼の心の、普段は決して開けることのない、固く閉ざされた扉を、ほんの少しだけ、ノックしたような気がした。 彼は、結局、何も答えられなかった。ただ、黙って、彼女がするように、フロントガラスの向こう、渋滞の車の列の先で、茜色から深い紫色へと刻々と色を変えていく、美しい、しかし非生産的な夕焼け空を、眺めるともなく眺めていた。隣に座る、この、全くもって予測不能で、理解不能で、そして、おそらくは、極めて非効率的な思考回路を持つ女が、自分の築き上げてきた、完璧で、合理的で、しかしどこか無機質で、色のない世界に、ほんのわずかな、しかし無視できない「彩度」と「ノイズ」をもたらし始めていることを、彼は、戸惑いと、微かな苛立ちと、そして、認めたくはないが、ほんの少しの好奇心と共に、認めざるを得なかった。それは、彼の優秀な頭脳(AI)が決して予測できず、シミュレーションできない、人間だけが持つ、不可解で、非合理的な変化の始まりなのかもしれない。そして、その変化が、彼にとって、吉と出るか、凶と出るか、彼自身にも、まだ全く分からなかった。
結城の心の揺れと小春への「特別な視線」
プロジェクトは、大きな危機を乗り越えたことで生まれた一種の団結力(あるいは、ただの気の緩みか)と、依然として残る厳しい納期との間で、奇妙な緊張感をはらみながら進行していた。定例ミーティングは週に二度に増え、それ以外にも、結城と小春を含むコアメンバー間での、より流動的で、時には深夜に及ぶ小規模な打ち合わせや、チャットツールでの短い確認作業が、日常茶飯事となっていた。必然的に、結城が佐伯小春という存在を、物理的にも、そして彼の思考領域においても、認識せざるを得ない時間は、指数関数的に増大していた。そして、彼は、自分の中に生じている、さらに不可解で、非合理的で、そして何よりも厄介な変化に、もう気づかないふりをし続けることが、ほとんど不可能になってきているのを、苦々しく感じていた。原因は、特定できている。他の誰でもない、佐伯小春。あの、東京という名の巨大な濾過装置を、なぜかすり抜けてきたかのような、彼の理解を超えた、異物のような存在。
(結城 視点) 会議中、部下である有能な役員や、百戦錬磨のプロジェクトマネージャーからの、理路整然とした報告を聞いているはずなのに、結城の視線は、いつの間にか、テーブルの向かい側、あるいはモニターの片隅に映る小春の姿を、無意識のうちに捉えていることが、驚くほど増えた。それは、以前のような、彼女の欠点や非効率さ、あるいは場違いさを探すための、冷徹で分析的な、まるで監視カメラのような視線とは、明らかにその性質を変えつつあった。彼女が、真剣な表情でモニターに映る専門用語だらけの資料を見つめ、理解しようと小さな口をきゅっと結んでいる様子。誰かの説明を聞きながら、一生懸命に、こくこくと小さく頷く、ひたむきな仕草。時折、長いまつ毛が伏せられ、何かを懸命に自分の中で反芻し、消化しようと考え込んでいる横顔。あるいは、難しい議論が一段落した瞬間に見せる、緊張がふっと解けたような、ほんのわずかに気の抜けた、無防備な表情。さらには、陽光が差し込む窓際で、彼女の(彼から見れば何の変哲もない)髪が、ふわりと明るい茶色に透ける瞬間。 その一つ一つが、まるで彼の脳内で勝手にズームアップされ、スローモーションで再生されるかのように、彼の意識のスクリーンに、鮮明にインプットされてくるのだ。他の、どんなに美しく、有能で、洗練された女性社員や、あるいは魅力的な女性クライアントに対してさえも、彼が向けるのは常に、ビジネス上の関係性を前提とした、感情を排したプロフェッショナルな視線、あるいは、必要に応じて相手を魅了し、コントロールするための、計算され尽くした視線だけだった。それ以外の個人的な興味など、彼にとっては時間の無駄でしかなかった。だが、佐伯小春に対してだけは、違う。そこには、分析や評価、コントロールといった意図とは全く別の、もっと個人的で、衝動的で、彼自身にも理由が説明できず、そしてコントロールが効かない種類の「何か」——それは好奇心か、苛立ちか、あるいは、もっと別の、彼が名前を知らない感情か——が含まれているような気がした。まるで、最新鋭の画像認識AIが、学習データにない、特定のノイズパターンだけを、他の何よりも高い解像度で、異常なまでに執拗にトラッキングし続けてしまうような、不可解なバグ。彼は、その逸脱した視線に、彼女が(あるいは他の誰かが)気づかれるたびに(あるいは、気づかれるより早く、彼自身の理性が危険信号を発して)、まるで火傷をしたかのように慌てて視線を外し、内心で自分自身を激しく罵倒した。 「(何を、見ているんだ、俺は……! 時間とリソースの無駄だ。集中しろ、結城創!)」 だが、彼の強固な意思とは裏腹に、その「特別な視線」は、彼が最も警戒し、排除すべき感情の兆候であるにも関わらず、まるで彼の制御を離れた自動プログラムのように、繰り返され、そして、おそらくは、その強度と頻度を増していった。
さらに、彼を深く苛立たせ、そして混乱させる、新たな種類の感情が、彼の心の奥底から、まるで地下水脈のように、じわりと湧き出し始めていた。それは、彼が最も軽蔑し、非合理的で、生産性の欠片もないと断じてきた感情——おそらくは、一般的に「嫉妬」や「独占欲」と呼ばれる、醜悪で、粘着質な何か——に酷似していた。
ある日の昼休み。結城が自社の、限られた役員だけが使用できるエグゼクティブエリアにある静かなカフェスペースで、一人でエスプレッソを飲んでいると、ガラス壁の向こうの一般エリアのソファ席で、小春が誰かと携帯電話で話しているのが見えた。ガラス越しなので声は聞こえない。しかし、その表情だけで、相手が誰なのか、そしてどんな会話をしているのか、おおよその想像はついた。普段、会社で見せる、どこか強張り、緊張した表情とは全く違う、まるで春の日差しのように明るく、柔らかく、弾けるような笑顔。全身で喜びを表現するように、楽しそうに相槌を打ち、時には口元に手を当てて、屈託なく笑っている。電話の相手は、おそらく、気心の知れた家族か、あるいは、彼女が「故郷」と呼ぶ、結城にとっては存在すら意識したことのない場所の、古い友人なのだろう。もしかしたら、男友達、あるいは…。その、自分には決して、おそらく今後も永遠に見せることはないであろう、完璧に無防備で、一点の曇りもなく、心からの喜びと親愛に満ちた笑顔。それを見た瞬間、結城の胸の奥深く、硬く閉ざされていたはずの領域に、まるで氷の杭を打ち込まれたかのような、鋭い、そして不快極まりない痛みが走った。 「(……誰と話している? なぜ、あんな……あんな顔で、笑うんだ? 俺の前では、あんな風に笑ったことなど、一度もないくせに……)」 なぜ、そんなことがこれほどまでに気になるのか、自分でも全く理解できない。論理的に考えれば、彼女が誰と、どんな風に話そうが、どんな表情をしようが、自分には微塵も関係のないことのはずだ。彼女はあくまで取引先の社員であり、仕事上のパートナーに過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。そう、彼の明晰な頭脳は結論付けているのに、胃の腑からせり上がってくるような、黒く、重く、どろりとした、醜い感情の塊を、どうしても抑えることができない。まるで、自分が丹精込めて育てた(そんなはずは、絶対にないのだが)花を、見知らぬ誰かに、いとも簡単に摘み取られてしまったかのような、理不尽で、暴力的なまでの喪失感と、焦燥感。彼は、持っていたデミタスカップをソーサーに叩きつけるように置き、その硬質な音に、近くにいた他の役員が一瞬いぶかしげな視線を向けたことに気づき、さらに自己嫌悪に陥りながら、足早にその場を立ち去った。あの笑顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
また別の日には、さらに明確な形で、彼の内に潜む「毒」が顔を覗かせた。鳩屋フーズ側から、小春と同年代と思われる、人の良さそうな、しかし結城の目にはどこか軽薄で、調子が良いだけに見える若い男性社員が、資料届けと称して、打ち合わせのためにネクストリーム社を訪れた。ミーティングが始まる前のわずかな時間、彼は、やけに馴れ馴れしい態度で小春に話しかけ、二人は、何か共通の社内のゴシップなのか、あるいは学生時代のサークルのノリのような、結城には到底理解できない種類の話題で、声を立てて笑い合っていた。小春も、結城の前では決して見せないような、リラックスした、親密な雰囲気を醸し出していた。その、二人だけの閉じられた空間のような光景を目にした瞬間、結城は、自分でも信じられないほどの、激しい、そして明確な敵意と、衝動的なまでの怒りを感じた。今すぐ、あの、チャラチャラした男の胸ぐらを掴んで、この神聖な(と彼は思っている)ビジネスの場から、叩き出してやりたい、と本気で思ったのだ。 「(……なんだ、あの態度は。公私混同も甚だしい。仕事中に、馴れ合い、無駄話。プロ意識というものが、決定的に欠けているのではないか? 佐伯、君もだぞ)」 彼は、沸騰しそうな自分の感情を、ビジネス倫理やプロフェッショナリズムといった、もっともらしい、正当な理由のオブラートに、必死で包み込もうとした。だが、本当は、心の奥底では分かっていた。自分の感じているこの、黒いマグマのような苛立ちは、そんな高尚な理由から来るものではないことを。あの、ヘラヘラした男に向けられている、小春の、警戒心のかけらもない、親しみに満ちた、柔らかな笑顔。それが、ただひたすらに、許せないのだ。気に食わないのだ。まるで、自分が、彼女に対して、何か特別な所有権でも持っているかのような、全く馬鹿げた、そして危険な錯覚。彼は、その後のミーティングで、普段よりもことさらに冷たく、威圧的な口調で議論を支配し、特に、その若い男性社員に対しては、まるで尋問するかのように、必要以上に厳しく、意地の悪い質問を浴びせかけ、完膚なきまでに論破してしまった。後になって、会議室を出ていく彼の、怯えと当惑に満ちた顔と、そんな結城を、非難するでもなく、ただ困惑したような、悲しそうな目で見つめていた小春の顔を思い出し、激しい自己嫌悪と、得体の知れない感情の嵐に襲われることになるのだが。
なぜだ? なぜ、佐伯小春という、ただの、どこにでもいるような、平凡で、未熟な、取引先の新人OLが、これほどまでに自分の心をかき乱し、平穏を奪うのか? 結城には、どれだけ思考を巡らせても、その答えが見つからなかった。彼女は、決して絶世の美女というわけではない。彼の周りに常に侍っている、有名ファッション誌の表紙を飾るような、洗練されたモデルのような美女たちに比べれば、むしろ、驚くほど地味で、垢抜けず、都会的な洗練さとは無縁だ。そして、決して頭脳明晰というわけでもない。むしろ、時折見せる、世間知らずで、空気を読まない言動や、ビジネスの常識から逸脱した甘い考え方には、今でも苛立ちを覚えることの方が多い。だというのに、なぜ、彼女のことが、こんなにも、四六時中、気になってしまうのか? なぜ、彼女の些細な言動一つ一つに、自分の心が、まるで荒波にもまれる小舟のように、大きく揺さぶられてしまうのだろうか? それは、彼が最も嫌悪し、排除しようとしてきた、非合理性の極みではなかったか?
その、彼岸のように遠い答えの、ほんの小さな断片が、まるで濃い霧の中に一瞬だけ差し込む月光のように、予期せぬ瞬間に、彼の心の奥底に、微かな光を投げかけてきたことがあった。 それは、またしても、重要なプレゼン資料の最終チェックのため、二人だけで深夜までオフィスに残っていた夜のことだった。他のメンバーはすでに帰宅し、静まり返った、だだっ広いオフィスには、結城と小春、そして彼らの打つキーボードの音だけが、規則的に響いていた。結城は、モニターに映し出された複雑なグラフや数値を睨みつけながら、ここ数日間の過度の集中と睡眠不足で、思考が明晰さを失い、うまくまとまらないのを感じていた。おそらく、その時の彼の顔には、彼自身が気づかないうちに、普段は完璧なポーカーフェイスの下に隠している、深い疲労と、焦燥と、そして、もしかしたら、誰にも頼れないという、長年にわたる孤独がもたらす、わずかな弱さのようなものが、影のように滲み出ていたのかもしれない。 ふと、隣のデスクで、同じように資料と格闘していた小春が、全ての作業を止めて、じっとこちらの顔を見ている気配がした。そして、おずおずと、しかし、以前のような怯えとは違う、どこか芯の通った、静かな声で、彼に話しかけてきた。 「あの……結城社長。…少しだけ、休憩されてはいかがですか? さっきから、ずっと眉間に皺が寄っていらっしゃいますし……顔色が、あまり良くないように見えます。あの、差し出がましいとは思うのですが……あまり、ご無理を、なさらないでください」 その声には、彼の社会的地位や、卓越した能力に対する、畏敬や遠慮よりも、ただひたすらに、目の前で無理をしているように見える一人の人間に対する、素朴で、飾り気のない、真っ直ぐな、人間的な共感と気遣いが、深くこもっているように感じられた。それは、彼がこれまでの人生で、ほとんど受け取ったことのない種類の、純粋で、温かい何かだった。 結城は、文字通り、意表を突かれて顔を上げた。いつもなら、「余計な世話だ」「自分の体調管理は自分でしている」と、氷のように冷たい声で、即座に、そして容赦なく突き放していただろう。あるいは、完全な無視を決め込んだかもしれない。それが、彼が他者との間に築いてきた、安全な距離の保ち方だったからだ。だが、その時の彼は、なぜか、何も言い返すことができなかった。彼女の、その、何の計算も、下心も、同情さえも感じられない、ただただ純粋で、静かで、そして、まるで澄んだ水のように、彼の心の奥底までをも見通しているかのような、共感の眼差し。それが、まるで鋭利な、しかし温められたナイフのように、彼が長年かけて、血と汗と涙で築き上げてきた、分厚い、冷たい氷の鎧を、いとも簡単に貫通し、その奥にある、彼自身も長い間存在を忘れ、あるいは必死で見ないようにしてきた、柔らかく、傷つきやすく、そして孤独な、生身の心に、直接、じわりと触れてきたような、衝撃的な感覚があった。 それは、彼が心の最も深い場所に、誰にも知られずに抱え続けてきた、決して満たされることのない承認欲求や、どれだけ成功しても消えることのない虚無感や、あるいは、遠い過去に負った、いまだに疼く、古い傷。そういった、彼の最も脆弱で、無防備な部分に、彼女の、その、意図しない、しかし致命的なまでの純粋さが、そっと、しかし確実に、触れた瞬間だったのかもしれない。 彼は、生まれて初めて感じるような、激しい動揺と混乱を悟られまいと、反射的に視線をモニターに戻し、「……放っておいてくれ。自分の仕事に集中しろ」と、低い、掠れたような、自分でも驚くほど弱々しい声で言うのが、精一杯だった。しかし、彼の心臓は、暴走した機械のように、経験したことのないような激しいリズムで高鳴り、顔が、首筋までが、カッと熱を持っているのを感じていた。それは、単純な怒りでもなく、羞恥でもなく、もっと別の、もっと根源的で、名前のつけようのない感情の奔流だった。まるで、永遠に凍てついた極北の大地に、ほんの一瞬だけ、真夏の太陽が顔を出し、その強烈な光と熱で、分厚い氷が、音を立てて溶け始めたかのような、抗いがたい、そして恐ろしいほどの、戸惑いと、温かさと、そして、それを全力で拒絶したいという、強い抵抗感が入り混じった、複雑な感覚。 彼女の存在は、単なる「予測不能な変数」や「興味深いバグ」などではない。もしかしたら、彼の、完璧にコントロールされ、秩序だてられ、しかし凍てついて生気を失っていた世界そのものを、根底から溶かし、破壊し、そして全く別の何かに変えてしまう可能性を秘めた、極めて危険な「熱源」なのかもしれない。そして、その熱に、彼は抗うことができるのだろうか? あるいは、抗うべきなのだろうか?
その夜を境に、結城の、小春に対する態度は、彼自身も意識しないレベルで、しかし周囲から見れば僅かに感じ取れるかもしれないほど、さらに微妙な、そして矛盾した変化を見せ始めた。もちろん、依然として、仕事においては厳しく、要求水準は高く、冷徹な判断を下す側面が消えたわけではない。彼の本質は、そう簡単には変わらない。だが、時折、ほんの些細な、取るに足らないような瞬間に、その分厚い氷の壁に、小さな、しかし確実な亀裂が、いくつも見えるようになったのだ。 例えば、彼女が何か、またしても初歩的な質問をしてきても、以前のように、即座に「自分で考えろ」「前に説明したはずだ」と切り捨てるのではなく、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ考え、まるで根負けしたかのように、「……それは、つまりこういうことだ」と、以前よりも少しだけ、丁寧に、噛み砕いて説明を加えてやることがあった。あるいは、彼女が作成した資料に、以前なら絶対に許さなかったであろう小さな表現の揺れや、体裁のずれを見つけても、「まあ、本質的な問題ではないか」と、敢えて指摘せずに、自分でこっそりと修正してしまうこともあった。それは、効率性を神と崇める彼にとっては、ありえないほどの「無駄」であり、「甘さ」であるはずの行動だったが、なぜか、そうしてしまうのだ。彼女の、ミスを指摘された時の、あの、子犬のようにしょげる、傷ついたような、そして心底申し訳なさそうな顔を、もう、あまり見たくないのかもしれない、と彼は、心のどこかで、無意識のうちに感じていたのかもしれない。 さらに、他のメンバーが、彼女の少し的外れな意見や提案を、軽くあしらったり、失笑したりした時に、結城が、それまで黙っていたのに、ふと「……いや、待て。その視点は、あるいは一考の価値があるかもしれん」と、まるで彼女を擁護するかのような、意外な発言をして、その場の空気を変えてしまうことさえあった。もちろん、その後に、彼一流のロジックで、その意見をビジネス的に成立させるための厳しい条件を付け加えるのではあるが。 それは、彼が長年かけて自分自身に厳しく課してきた、鉄のような自己規律と、他者への無関心からの、ほんのわずかな、しかし繰り返される逸脱だった。そして、その逸脱が、他の誰に対してでもなく、佐伯小春という、特定の、そして彼にとっては最も理解不能な個人に対してのみ、選択的に起こっているという事実に、結城は、言いようのない混乱と、そして、これまで感じたことのない種類の、微かな、しかし確かな「温かさ」や「甘さ」のようなものを、戸惑いながらも感じ始めていた。それは、彼の持つ冷徹さや合理性、そして成功の裏にある「毒」とは対極にある、極めて危険で、そして抗いがたい魅力を持つ感情の萌芽だったのかもしれない。彼の内側で、何かが確実に変わり始めていた。氷が、少しずつ、しかし確実に、溶け始めていた。そして、その変化の先に何が待ち受けているのか、その雪解け水が、彼をどこへ押し流していくのか、彼自身にも、まだ全く、全く予測がつかなかった。ただ、その流れに、抗うことが、日に日に難しくなっているような気がしていた。
芽生える「欲」と内面の葛藤
佐伯小春という存在は、結城 創にとって、もはや単なる「予測不能な変数」や「心を乱す異物」という、彼の論理的な思考フレームで分類できるカテゴリーには到底収まりきらない、さらに厄介で、理解不能で、そして何よりも危険なものへと、急速に変質しつつあった。彼の、長年にわたり鉄壁の自己規律と合理性によって完璧に制御されているはずだった内面の世界、その静謐な水面下に、これまで経験したことのない種類の、そして彼自身が最も忌み嫌い、潜在的な脅威として警戒してきたはずの感情が、まるで致死性の高い、未知の潜伏ウィルスのように、静かに、しかし確実に、増殖し、彼の思考と行動を侵食し始めていたのだ。それは、巷で語られるような、甘美で、心温まる「好意」や「恋愛感情」と呼ばれるものとは、明らかに異質な響きを持っていた。もっと生々しく、もっと衝動的で、そして、彼の本質——成功の裏に隠された孤独、渇望、そして支配欲——に深く根差した、ある種の抗いがたい「欲」と呼ぶべき、原始的な力だった。
(結城 視点) その衝動が、最初に明確な形をとって彼の意識を襲ったのは、些細な、そして日常的な出来事がきっかけだった。ある日の蒸し暑い午後、急なクライアントからの、それも無茶なスケジュールの修正依頼に対応するため、小春が外回りから慌ててオフィスに戻ってきた。外はアスファルトを焼くような初夏の強い日差しが容赦なく照りつけており、彼女は額にうっすらと玉のような汗を浮かべ、普段は白い頬を、まるで熟れた果実のように上気させていた。いつもは事務的に、きっちりと一つに結ばれている長い髪も、数本が汗で顔に張り付き、少しだけ息を切らせて、小さな肩で浅い呼吸を繰り返している。その、普段の、どこか垢抜けず、しかし常に整然として隙を見せないように努めている彼女の姿とは違う、ほんのわずかに乱れた、そしてそれ故に驚くほど無防備に見える様子。そして、上気した頬の、生命力に満ちた健康的な血色。それらが複合的に彼の視覚情報を処理する回路に入力された瞬間、結城は、まるで不意に高圧電流に触れたかのように、全身の血が逆流するかのような衝撃と共に、息を呑んだ。そして、次の刹那、彼の脳裏——彼の理性が支配する領域を完全にバイパスして——を、強烈な、そして全く予期しない、純粋な物理的衝動が、稲妻のように駆け巡ったのだ。 「(……触れたい)」 その、上気した、おそらくは熱を持っているであろう、滑らかな頬の肌に。汗で額に張り付いた、繊細な後れ毛の一筋に。わずかに開かれ、酸素を求めるように浅い呼吸を繰り返す、その、驚くほど柔らかそうで、そして挑発的なまでに無防備な唇に。 その衝動は、あまりにも原始的で、直接的で、そして彼の意志や理性とは全く無関係な、もっと深い、本能的な場所から、まるで地下水が突然噴出するように、唐突に湧き上がってきたかのようだった。彼は、生まれて初めて経験するような激しい混乱と、そんな獣のような衝動を抱いた自分自身に対する激しい自己嫌悪に襲われ、反射的に、まるで汚物でも見るかのように視線を逸らし、デスク上の無機質な数字が並ぶ資料に目を落とした。だが、彼の指先が微かに、しかし確実に震え、制御不能な心臓が、肋骨の内側で早鐘を打ち続けているのを、彼自身がはっきりと感じ取っていた。なんだ、これは? この、まるで何日も飲まず食わずで砂漠を彷徨った旅人が、目の前に現れたオアシスに対して抱くような、この、抗いがたい、暴力的なまでの渇望感は。佐伯小春に対して? この、何の変哲もない、むしろ彼の基準からすればマイナス評価しか下せないような女に対して? ありえない。断じて。
しかし、「ありえない」はずの衝動は、一度芽生えてしまうと、まるでしぶとい雑草のように、彼の意識の隙間を見つけては、再び顔を出した。 また別の日。珍しく、彼女が普段の、機能性だけを重視したような地味なビジネススーツではなく、柔らかい生成り色の、体のラインを拾いすぎない、しかし明らかに女性らしいシルエットを持つワンピースを着て出社してきたことがあった。おそらく、退勤後に何かプライベートな予定でもあるのだろう。もちろん、結城には全く関係のないことだ。彼の興味の対象外のはずだった。だが、いつもとは違う、その、どこか「女」を意識させる服装は、否応なく彼の視線を引きつけ、そして彼の内なる獣を再び刺激した。特に、彼女が床に落ちたペンを拾おうと、無意識に身を屈めた時、普段はスーツのジャケットやブラウスに隠されている、繊細なうなじから、肩甲骨にかけての、驚くほど華奢で、白い、滑らかなラインが、彼の網膜に、まるでスローモーションのように焼き付いた。そこには、彼が普段接している、ジムで鍛え上げられたモデルや、あるいは計算され尽くした高級ブランドのドレスを纏った、ある意味で見慣れた「商品としての女性美」とは全く違う種類の、もっと素朴で、無垢で、そしてそれ故に、妙に生々しく、心を掻き乱すような「女」そのものを感じさせた。そして、またしても、あの、抗いがたい衝動が、今度はもっと明確な輪郭を持って、彼の内側で鎌首をもたげた。 「(……独占したい。この、存在そのものを)」 この、まだ誰の色にも染まっていないような、まるで生まれたての雛鳥のような、危うげなまでの純粋さを、他の誰にも触れさせたくない。他の、どんな男の視線にも、決して晒したくない。自分の手の中にだけ、この世界から隔離して、安全な場所に閉じ込めておきたい。あるいは、もっと歪んだ言い方をすれば、まるで、世界で一匹しか発見されていない新種の、美しい、しかし極めて脆い蝶を捕獲し、ピンで留め、自分だけが永遠に鑑賞できる標本箱に、完璧な状態で収めてしまいたいと願うような、黒く、粘着質で、そして病的なまでの、歪んだ所有欲。それは、彼女という人間に対する敬意とはかけ離れた、対象をモノとして扱おうとする、危険な欲望だった。
これらの、突如として、そして繰り返し湧き上がる、肉体的で、そして独占的な「欲」は、結城にとって、自己矛盾であり、理解不能であると同時に、彼の築き上げてきた人生哲学そのものを脅かす、極めて危険なシグナルだった。彼は、これまでの人生において、感情、特に「恋愛」や「執着」と呼ばれる種類の、非合理的で、予測不能で、そしてしばしば自己や他者を破滅へと導く、制御不能なエネルギーを、最大の敵とみなし、意識的に排除し、常にコントロール下に置くことで、現在の成功と地位を、孤独と引き換えに掴み取ってきたのだ。女性との関係も、彼にとっては、常に、目的達成のための手段、あるいは、一時的なストレス解消や、刺激と快楽を求めるだけの、割り切った、極めてドライなゲームに過ぎなかった。そこには、面倒な感情のやり取りも、束縛も、嫉妬も、そしておそらくは、互いの魂に触れ合うような、真の意味での愛情も存在しなかった。感情は、弱さであり、判断を誤らせるノイズであり、成功への最大の障害物でしかない。それが、彼が数々の、決して綺麗事だけでは済まなかったであろう経験と、おそらくは過去に深く傷ついた痛みを伴う体験から導き出し、自らに課してきた、揺るぎないはずの信条だった。感情に溺れた者は、必ず敗北する、と。
だのに、なぜだ? なぜ、よりによって、佐伯小春という、彼の持つ成功者のスペック——財力、容姿、知性、社会的地位——に、全く釣り合わないどころか、彼の基準からすれば、何の魅力も、何の取り柄もないように見える女に対してだけ、これほどの、まるでダムが決壊するかのような、理性を吹き飛ばすような、生々しい「欲」を感じてしまうのか? なぜ、彼の、どんな状況下でも冷静さを失わないはずの、完璧な自己コントロールと、冷徹なまでの合理性が、彼女という、たった一人の存在の前では、いとも簡単に、そして繰り返し崩壊してしまうのか? 過去に付き合った、どんなに美しく、知的で、魅力的な女性たちに対しても、決して感じたことのなかった、この、自分でも持て余すほどの、激しい感情の奔流は、いったい何なのだ?
その、彼を苛む疑問への答えの一部は、もしかしたら、皮肉なことに、彼女の持つ、あの、彼が最も軽蔑し、そして同時に、心の奥底では密かに渇望していたのかもしれない、「純粋さ」と、そして、彼が決して自分自身に許すことのなかった「温かさ」にあるのかもしれない、と彼は思い始めていた。彼の生きる、この東京という名の戦場は、常に、疑心暗鬼と、パワーゲームと、巧妙な嘘と、裏切りが渦巻く、冷たく、乾ききった場所だった。成功のためには、他人を駒として利用することも、蹴落とすことも厭わない。感情を押し殺し、心を厚い、冷たい鋼鉄の鎧で覆い、誰にも心を開かず、常に孤独でいなければ、この競争社会では生き残れない。そう信じて、彼は己を律し、そして実際に生き抜いてきた。 だが、佐伯小春は、全く違う。彼女の生きている世界は、もっとシンプルで、不器用で、しかし、驚くほど温かく、そして、おそらくは、彼がとうの昔に捨ててしまった、あるいは奪われてしまった、人間が本来持っているはずの、無垢な「光」に満ちているように、彼の目には映ったのだ。その、あまりにも自分とは対照的な、異質な、そして強烈な輝きが、彼の、成功と引き換えに闇に慣れきってしまった目を眩ませ、同時に、心の奥底の、最も暗く、冷たい場所に、固く封印していたはずの、彼自身も忘れていたはずの、根源的な渇望——ただ、誰かの温もりに触れたい、偽りのない光に焦がれたい、損得勘定なしに、ただ、誰かと繋がりたい——を、激しく、そして残酷なまでに刺激しているのかもしれない。それは、凍てつく冬の世界に閉じ込められた男が、窓の外に初めて見る、春の陽光に対するような、抗いがたい憧憬と、同時に、その光によって自分の闇が暴かれることへの恐怖が入り混じった感情だった。
しかし、問題は、そして彼を最も苦しめるのは、その芽生え始めた「欲」の、決して純粋とは言えない、その「質」にあった。それは、決して、物語に出てくるような、清らかで、美しく、相手の幸せを願うような、純粋な恋愛感情と呼べるものではなかったのだ。そこには、結城が本来的に持っている、シニカル(皮肉屋)で、人間不信で、傲慢で、そしてどこか屈折した、彼自身の「毒」が、まるで致死性の高い劇薬のように、色濃く、そして危険な形で混じり合っていたのだ。 彼女の純粋さに、抗いがたく惹かれながらも、同時に、その、穢れを知らない純粋さを、自分の手で汚してみたい、壊してみたい、という、まるでサディスティックな、倒錯した破壊衝動のようなもの。彼女の持つ、人を疑うことを知らないかのような温かさに触れたいと、心の底から願いながらも、その貴重な温かさを、自分だけのものとして独占し、他の誰にも、指一本触れさせたくないという、まるで子供のような、身勝手で、偏執的な独占欲。彼女の、目標に向かってひたむきに進む真っ直ぐさを、眩しく感じながらも、その脆い真っ直ぐさが、いつかこの、嘘と欲望に満ちた東京という街の汚濁に染まり、傷つき、そして結局は、自分と同じように、打算的で、冷めた、現実的な人間になってしまうのではないかという、奇妙な恐れと、そして、そうなってほしいような、そうなってほしくないような、救いようのないアンビバレントな感情。 それは、まるで、ガラスケースの中に飾られた、一点物の、完璧な宝石を見つけ、その比類なき美しさに心を奪われながらも、同時に、それをケースから取り出し、自分の指にはめてみたい、しかし、自分の指にはめた瞬間にその輝きが失われるのではないかと恐れ、結局は、誰も触れることのできない金庫の奥深くに、永遠にしまい込んでしまいたいと願うような、矛盾に満ちた、身勝手で、そして極めて危うい、エゴイスティックな欲望の形だった。彼の内側で、急速に育ち始めたこの「欲」は、決して彼女を幸せへと導くような、健全な愛情とは程遠い、むしろ、彼女を、彼の深い孤独や、満たされない渇望感を埋めるための、美しい「道具」として求めているような、そんな危険極まりない「毒気」を、確かに、そして色濃く孕んでいた。
結城は、自分の内面で、日夜繰り広げられる、この激しい葛藤に、もはや無視できないほどの、深い苦悩と混乱を感じていた。理性と、本能。自己コントロールと、制御不能な衝動。彼が築き上げてきた、冷徹で合理的な自己イメージと、突如として現れた、熱を帯びた未知の感情。光に似た何かを求める心と、同時にそれを汚し、支配しようとする、彼自身の内に潜む闇。それらが、彼の意識の中で、絶えず激しくぶつかり合い、まるで内戦のように、彼の精神を消耗させ、火花を散らしていた。 彼は、必死で、この、まるで自分の体の一部ではないかのように感じられる、厄介で、危険な感情を、再び理性と意志の力でコントロール下に置こうと、あらゆる試みを繰り返した。仕事の量をさらに増やし、物理的に彼女のことを考える時間を奪おうとした。週末には、他の、彼にとって「安全」で、感情的な繋がりを一切必要としない、割り切った関係の女性たちと、意識的に時間を過ごすことで、この、佐伯小春に対する異常なまでの執着を、相対化し、薄めようともした。あるいは、オフィスで彼女と顔を合わせた際には、敢えて以前のような、突き放すような、冷たい、合理的な態度を貫くことで、自分の内側に引かれたはずの境界線を、自分自身に、そしておそらくは彼女にも、再確認させようともした。 だが、それらの、彼がこれまで有効だと信じてきた自己制御の試みは、こと佐伯小春に対しては、ほとんど、あるいは全くと言っていいほど、効果を発揮しなかった。むしろ、意識的に抑えつけようとすればするほど、その「欲」は、まるで地底深くで圧力を受けたマグマのように、彼の内側で、さらにその熱量と衝動性を増し、いつ噴出してもおかしくないような状態で、出口を求めて激しく蠢くかのようだった。佐伯小春という存在は、もはや、彼の理性や計算、あるいは過去の経験則だけでは到底制御できない、特別な、そしておそらくは、彼の人生そのものを左右しかねない、運命的な意味を持って、彼の領域に深く侵入し始めていたのだ。 彼は、自分が、この、もはや自分自身のものとは思えないほど強大になった、抗いがたい「欲」と、それに伴う、自己破壊的ですらある激しい内面の葛藤に、これから、いったいどう向き合っていけばいいのか、全く見当もつかなかった。ただ、このままこの感情を放置すれば、それは、いずれ、自分自身を、そして、もしかしたら、あの何も知らない、純粋な彼女をも、取り返しのつかない破滅へと導くかもしれないという、漠然とした、しかし肌で感じるような確かな予感だけが、冷たい、濃い影のように、彼の心に重く、そして不気味に纏わりついていた。それは、甘美な、しかし確実に死に至る毒のように、彼の魂を、少しずつ、しかし確実に、蝕み始めているのかもしれない、と彼は感じていた。
結城の「弱い本音」と小春の受け止め方
結城の内面で、佐伯小春に対する、抗いがたい「欲」と、それを否定しようとする理性との激しい戦いが繰り広げられる中、プロジェクトは依然として、容赦なく進行していた。締め切りは迫り、要求されるクオリティは高い。結城は、自らの内面の混乱を押し殺すかのように、あるいは、それから逃れるかのように、以前にも増して、ワーカホリックなまでに仕事に没頭した。睡眠時間を削り、食事もデスクで簡単なもので済ませ、週末返上でオフィスに籠ることも珍しくなかった。彼のその狂気的なまでの働きぶりは、周囲の人間を鼓舞すると同時に、どこか近寄りがたい、常軌を逸した雰囲気を醸し出していた。
そんな日々が続いた、ある金曜日の深夜。重要な中間報告書の最終確認作業が、ようやく終わろうとしていた。他のメンバーはとっくに帰宅し、ネクストリーム社の広大なオフィスフロアには、煌々と照らされた一角を除いて、深い静寂と闇が広がっていた。残っているのは、結城と、そして、彼が指示した最終チェック作業のために、健気にも(あるいは、ただ断れなかっただけか)最後まで付き合っていた小春の二人だけだった。
窓の外には、眠らない都市、東京の夜景が広がっている。無数の光の点が、まるで地上に散りばめられた星屑のように輝いているが、今の結城の目には、それはただの、感情のない、空虚な光の集合体にしか見えなかった。連日の無理が祟り、彼の体は鉛のように重く、思考も鈍麻しているのを感じていた。完璧にコントロールされているはずの彼の精神にも、普段なら決して見せないはずの、疲労と、焦燥と、そして、もしかしたら、この果てしない戦いに対する、深い虚無感のようなものが、濃い影を落としていたのかもしれない。彼の傍らには、空になったエナジードリンクの缶が、何本も転がっていた。
「……これで、ひとまず、今日の作業は完了です」 小春が、安堵の息を漏らしながら、しかしどこか遠慮がちな声で言った。彼女もまた、目の下に濃い隈を作り、顔色は紙のように白かった。それでも、やり遂げたという達成感が、その表情にわずかな光を与えているように見えた。 「そうか……。ご苦労だったな」 結城は、モニターから目を離さずに、低い、掠れた声で答えた。感謝の言葉を口にしたのは、もはや無意識の習慣に近いものだったのかもしれない。 小春は、しばらくの間、黙って結城の横顔を見ていた。彼が、普段の、鎧を纏ったような姿とは少し違う、明らかに疲弊しきった様子であることに気づいたのだろう。彼女は、何か言おうか言うまいか、少し迷うような素振りを見せた後、意を決したように、静かに口を開いた。 「あの……結城社長は、どうして、そんなに……頑張れるんですか? 社長さんなのに、誰よりも働いていらっしゃって……。もちろん、すごいことだと思うんですけど、なんだか、見ていて……少し、心配になります」 それは、仕事の能力や成果に対する賞賛ではなく、彼の、人間としての在り方そのものに対する、素朴で、そして真っ直ぐな問いかけだった。そして、その問いは、結城が、これまでの人生で、おそらく誰からも投げかけられたことのない種類のものだった。人々は、彼の成功や、能力や、富を賞賛し、羨望し、あるいは嫉妬し、利用しようとする。しかし、彼の「頑張り」の裏にあるかもしれない、痛みや、孤独や、無理に、心を向ける者など、ほとんどいなかった。
結城は、彼女のその、あまりにも純粋で、そして核心を突くような問いに、一瞬、言葉を失った。なぜ、頑張るのか? そんなこと、考えたこともなかった。成功するため。負けないため。生き残るため。孤独から逃れるため。あるいは、ただ、そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうような気がするから。様々な理由が、彼の頭の中を駆け巡ったが、どれも、彼女に伝えるべき言葉ではないような気がした。 彼は、自嘲するように、ふっと息を漏らした。そして、まるで独り言のように、あるいは、長年心の奥底に溜め込んでいた、黒い澱のようなものを、ほんの少しだけ吐き出すかのように、呟いた。 「……頑張る、か。そうしないと、価値がないからだろうな。俺みたいな人間は」 それは、彼の本心の一部であり、同時に、彼の深い自己不信と、成功しても決して満たされることのない渇望感の、偽らざる吐露だったのかもしれない。成功という名の鎧を脱いだ自分には、何の価値もない。愛される資格もない。だから、走り続けるしかないのだ、と。彼は、自分が口にした言葉の、その、あまりにも惨めで、救いようのない響きに、自ら驚き、そして後悔した。なぜ、こんなことを、よりによって、この女の前で口走ってしまったのか。弱みを見せることは、敗北を意味するはずなのに。
(小春 視点) 結城さんの口から、予想もしなかった言葉が、まるで零れ落ちるように発せられた。その声は、いつものような自信に満ちた響きではなく、どこか自嘲的で、そして、深い、深い疲労と、諦めのようなものが滲んでいるように聞こえた。「価値がない」。成功者として、誰もが羨むような地位にいるはずの彼が、自分自身をそんな風に言った。その言葉の裏にある、彼の、想像もつかないほどの孤独や、苦悩や、満たされなさが、痛いほど伝わってくるような気がした。どうして、こんな風に思うようになってしまったんだろう。彼がこれまで、どんな道を歩んできたんだろう。 何か、気の利いた言葉を返さなければ、と思った。励ましの言葉? 「そんなことないですよ、結城社長はすごいです」? いや、違う。それは、きっと、彼が一番聞きたくない言葉だ。それは、彼の本心に寄り添うことにはならない。同情? 「お辛いんですね」? それも、違う気がする。彼は、きっと、誰からの同情も求めていない。むしろ、侮辱だと感じるかもしれない。 じゃあ、どうすればいいんだろう。私は、ただ、彼の言葉の重さに、胸が締め付けられるような思いで、黙って彼の横顔を見つめていた。彼が、普段決して見せない、鎧の下の、傷ついた素顔を、ほんの一瞬だけ、私に見せてくれたような気がしたから。それを、無神経な言葉で、傷つけたくなかった。
(結城 視点) しまった、と思った。弱音を吐いてしまった。それも、最も見せてはならない相手に。彼女は、きっと、軽蔑しただろうか。あるいは、憐れんだだろうか。それとも、いつものように、的外れな、能天気な励ましの言葉でもかけてくるのだろうか。結城は、次に彼女が発するであろう言葉を、身構えるように待った。どんな反応であれ、それは彼にとって、不快なものになるだろうと覚悟していた。 しかし、彼女は、何も言わなかった。ただ、静かに、真っ直ぐに、結城の目を見ていた。その瞳には、軽蔑も、憐れみも、そして安っぽい同情も浮かんでいなかった。そこにあるのは、ただ、深い、静かな、そして、まるで全てを受け入れるかのような、穏やかな、人間的な共感の色だけだった。 しばらくの沈黙の後、彼女は、ゆっくりと、そして、とても優しい、落ち着いた声で、こう言った。 「……そう、なんですね。結城さんも、……結城さんにも、いろいろ、あるんですね」 それは、何の解決にもならない言葉だった。何の励ましにもなっていない。何の具体的なアドバイスも含まれていない。ただ、彼の、吐き出したばかりの、醜く、そして痛みに満ちた「本音」を、彼女が、ただ静かに、否定も肯定もせず、そのまま、受け止めた。ただ、それだけを示唆する言葉だった。綺麗事ではなく、無理なポジティブシンキングでもなく、ただ、事実として、彼の内にある闇や痛みを、彼女が認識し、そして、それを、ジャッジすることなく、そこに「在る」ことを、認めた。そういう響きが、そのシンプルな言葉には、込められているように感じられた。 そして、その瞬間、結城の心の中に、全く予期しなかった、そして、おそらくは生まれて初めて経験するような、温かく、そして解放されるような感覚が、静かに、しかし力強く、広がっていくのを感じた。まるで、長年、重い鎖で縛られていた心が、ふっと、その束縛から解き放たれたかのような、あるいは、暗く、冷たい、孤独な海の底から、一気に、温かい、光の差す水面へと引き上げられたかのような、そんな、圧倒的なまでの、安堵感。 彼は、誰かに、自分の弱さや、醜さや、孤独を、これほどまでに、ただ静かに、受け止めてもらったことなど、これまでの人生で一度もなかった。いつも、彼は強くあらねばならなかった。完璧であらねばならなかった。弱さを見せることは、即ち、他者に付け入る隙を与えることであり、敗北を意味した。だから、彼は常に、心を偽り、鎧を纏い、孤独という名の城壁の中に、自分自身を閉じ込めてきたのだ。 だが、今、目の前にいる、この、取るに足らないと思っていたはずの女は、彼の鎧の下にある、最も見られたくないはずの素顔を、ほんの一瞬、垣間見て、そして、それを、ただ静かに、受け止めたのだ。非難もせず、憐れみもせず、ただ、そこに在るものとして。 その、予想外の、そしてあまりにも温かい受容の感覚は、結城にとって、これまでのどんな成功体験よりも、どんな賞賛の言葉よりも、深く、そして強く、彼の魂を揺さぶった。それは、彼が心の奥底で、ずっと、渇望し続けていたものだったのかもしれない。ただ、誰かに、ありのままの自分を、受け入れてほしかったのだ、と。 もちろん、彼は、その感情を、すぐさま理性で否定しようとした。これは、極度の疲労とストレスが見せた、一時的な幻覚に過ぎない、と。感傷に浸っている場合ではない、と。だが、彼の心に残った、あの、予期せぬ安堵感と、心が救われたような温かい感覚は、あまりにもリアルで、否定しがたいものだった。 そして、彼は気づいた。佐伯小春という存在が、彼にとって、もはや単なる「気になる存在」や「厄介な変数」ではなく、もっと深く、もっと根源的なレベルで、彼自身を揺さぶり、そして、もしかしたら、変えてしまう可能性を持つ、唯一無二の存在になりつつあるのかもしれない、ということを。それは、彼が最も恐れていたはずの変化だったが、同時に、その変化の先に、彼がこれまで知らなかった、何か新しい、そして温かい世界が待っているのかもしれないという、微かな、しかし確かな希望のようなものを、感じさせずにはいられなかった。彼の氷の壁は、確実に、そして大きく、溶け始めていた。
結城の行動の変化
あの深夜のオフィスでの、予期せぬ「本音」の吐露と、佐伯小春からの予想外の「受容」。その出来事は、結城創の中に、静かだが、しかし後戻りできない種類の変化をもたらし始めていた。それは、彼の思考や感情のレベルだけでなく、より具体的で、目に見える「行動」のレベルにおいても、彼自身が最も警戒すべき、そして最も理解に苦しむ形で、現れ始めていたのだ。長年かけて築き上げ、そして自らに厳しく課してきたはずの、冷徹なまでの合理性と、他者への無関心、そして徹底した自己コントロール。その原則が、こと佐伯小春という特定の個人に対してだけ、不可解な例外を、繰り返し生み出すようになっていた。
(結城 視点) 例えば、こんなことがあった。ある日の午後、小春が、少し困惑したような表情で、結城のデスクにやってきた。手には、分厚い企画書のドラフトを持っている。 「あの、結城社長、大変申し訳ないのですが、この部分の表現について、少しだけご意見を伺ってもよろしいでしょうか? 明日の朝一番で、役員への説明が必要でして……」 その依頼内容は、本来であれば、彼女の上司か、あるいはプロジェクトの担当マネージャーに相談すべき性質のものだった。結城が直接、それも今すぐ目を通す必要性も、緊急性も、客観的に見れば、ほとんどない。普段の彼であれば、「担当者に聞け」「今は忙しい」と、即座に、そして冷たく一蹴していたはずだ。彼の時間は、そんな些末なことに費やすには、あまりにも貴重すぎる。 だが、その時の彼は、なぜか、いつものように反射的に拒絶の言葉を発することができなかった。目の前で、少し不安そうに、しかし懸命に助けを求めるような眼差しを向けてくる彼女。そして、彼の脳裏には、あの夜の、静かに彼の言葉を受け止めてくれた彼女の姿が、一瞬、フラッシュバックした。 「……仕方ないな。どれだ? 5分だけだぞ」 結城は、自分でも驚くほど素っ気なく、しかし拒絶ではない言葉を口にしていた。内心では、「なぜ俺が?」「時間の無駄だ」「甘やかすべきではない」という合理的な思考が渦巻いていたにも関わらず、彼の口は、彼の理性とは別の意思を持っているかのように、動いてしまったのだ。彼は、わずか数分ではあったが、彼女の資料に目を通し、いくつかの的確な、しかし必要以上に厳しいとは言えないレベルの指摘を与えた。彼女が「ありがとうございます!」と、心底ほっとしたような笑顔で去っていく後ろ姿を見送りながら、結城は、自分の行動に対する深い当惑と、そして、それを非効率だと断じきれない、奇妙な感情の残滓を感じていた。「(まあ、ここで彼女が失敗すれば、プロジェクト全体に影響が出る可能性もある。それを未然に防いだだけだ。合理的な判断だ……)」彼は、必死で、そう自分自身に言い聞かせた。
また、別の機会には、こんなこともあった。ネクストリーム社が開発した新しい分析ツールの使い方について、鳩屋フーズ側へのレクチャーが行われた際のことだ。他の鳩屋のメンバーがある程度スムーズに操作を習得していく中で、小春だけが、どうにも理解が追いつかず、明らかに苦戦している様子だった。彼女は、必死にマニュアルを読み返し、隣の人に尋ねたりしていたが、焦れば焦るほど、簡単な操作さえもおぼつかなくなっているように見えた。 その様子を、結城は、会議室の後方から、腕を組んで眺めていた。彼の脳内では、即座に「非効率」「学習能力の欠如」「担当者として不適格」といった、辛辣な評価が下されていた。放置しておけばいい。いずれ、彼女自身が自分の限界を悟るか、あるいは、鳩屋側が担当者を変えるだろう、と。それが、最も合理的で、彼にとっては痛くも痒くもない解決策のはずだった。 だが、次の瞬間、結城は、自分でも信じられない行動をとっていた。彼は、無言で席を立ち、彼女のデスクへと歩み寄ると、彼女が戸惑いの表情を浮かべるのを無視して、隣から、まるで当然のように彼女のマウスを操作し始めたのだ。 「……ここのパラメータ設定が違う。あと、このシーケンスは、もっと単純化できる。こうだ」 彼は、必要最低限の、しかし的確な言葉だけを発しながら、数分で、彼女が何十分も格闘していた問題を解決してしまった。そして、まるで何事もなかったかのように、再び自分の席へと戻っていった。周囲の人間は、結城のその、あまりにも意外な行動に、驚きと当惑の表情を浮かべていた。小春自身も、呆然として、ただ結城の後ろ姿を見つめているだけだった。 結城は、席に戻ると、再び厳しい表情で腕を組み、内心で激しく自分を罵倒していた。「(何をしているんだ、俺は! なぜ、あんなお節介を? あの程度のこともできない奴は、切り捨てればいいだけだ!)」しかし、同時に、彼女が助けを求める前に、彼女が完全に失敗して恥をかく前に、自分が介入してしまったという事実。そして、その行動の根底に、彼女を「助けたい」という、彼にとっては全く異質で、理解不能な衝動があったのかもしれないという、認めたくない疑念。それらが、彼の心を、重く、そして不快にかき乱した。「(いや、違う。彼女一人の遅れが、全体のスケジュールに影響するのを避けただけだ。プロジェクト全体の最適化のためだ。それ以上ではない)」彼は、必死に、自分の行動を合理的な理由でコーティングしようと努めたが、その言い訳が、ひどく空虚に響くのを感じていた。
さらに、こんなことさえあった。小春が、プロジェクトの参考資料として、ある特定の業界の、少しニッチな市場動向レポートを探している、と何かの雑談の中で(おそらく、彼女は結城に直接言ったつもりはなかったのだろうが)耳にした時。それは、プロジェクトの本筋から見れば、優先度の低い、副次的な情報収集に過ぎなかった。結城が、それに時間やリソースを割く理由は、本来、全くなかった。 だが、彼は、その情報を聞いた数日後、海外の調査会社に個人的なコネクションを持つ友人に、半ば無意識のうちに、そのレポートに関する問い合わせのメールを送ってしまっていたのだ。そして、その友人から、通常は高額な費用がかかるそのレポートのPDFファイルが送られてくると、彼は、特にコメントも付けずに、それを小春に転送した。 「(まあ、持っていて損はないだろう。何かの役に立つかもしれん。クライアント側の情報武装は、プロジェクトのリスクヘッジにも繋がる)」 彼は、自分の行動を、またしても、もっともらしいビジネス上の理由で正当化しようとした。だが、彼自身の持つ、極めて価値の高い人脈と、決して安くはないであろう情報に対して、なぜ、佐伯小春という、一介の取引先の若手社員のために、これほどの労力とコスト(たとえ今回は金銭的なものではなくても)を、いとも簡単に使ってしまったのか。その本当の理由を、彼は、自分自身に問いただすことを、恐れていたのかもしれない。
これらの、結城自身にとっても不可解な行動の変化。それは、彼が佐伯小春に対して抱き始めた、特別な、そして危険な感情が、もはや彼の内面だけに留まらず、彼の意思決定や行動パターンにまで、具体的な影響を及ぼし始めていることの、紛れもない証拠だった。彼は、無意識のうちに、彼女を優先し、彼女を助け、彼女のために、自らの貴重なリソースを割くようになっていたのだ。そして、その事実に対する自覚と、それを合理化しようとする自己欺瞞、そして、それでも止められない衝動との間で、彼の内面の葛藤は、さらに深く、そして複雑な様相を呈し始めていた。彼は、自分が、ゆっくりと、しかし確実に、佐伯小春という存在に「侵食」されているような、そんな、得体の知れない恐怖を感じ始めていた。
第二章の結び
季節は、結城と小春が初めて出会った春から、日差しが肌を刺すような夏へと移り変わっていた。鳩屋フーズとの共同プロジェクトは、山あり谷ありながらも、着実にゴールへと向かって進んでいた。それに伴い、二人が共有する時間も、その密度も、確実に増え続けていた。そして、彼らの関係性は、当初、誰も(おそらく本人たちでさえも)予想しなかった方向へと、静かに、しかし後戻りできない形で、変化を遂げようとしていた。
(結城 視点) 結城は、もはや自分が佐伯小春という存在を、単なる仕事相手として、あるいは興味深い観察対象として見ることができなくなっていることを、認めざるを得なかった。彼女の存在は、彼の、完璧にコントロールされているはずだった世界に、予測不能なエラーと、制御不能な感情の波をもたらし続けている。あの深夜に見せた、彼の鎧の下のわずかな隙間。それを、彼女がただ静かに受け止めた瞬間から、彼の内に築かれていた氷の壁は、確実に、そして急速に、溶解を始めていた。そして、その雪解け水と共に、これまで彼が必死で封じ込めてきた、生々しい「欲」——彼女に触れたい、彼女を独占したい、彼女の純粋さを自分だけのものにしたい——が、彼の理性を蝕み、彼の行動原理をも変え始めていた。それは、彼にとって、未知であり、極めて危険な領域への侵入だった。この感情が、この抗いがたい引力が、自分をどこへ連れて行こうとしているのか。彼は、その行く末に対する、漠然とした、しかし確かな恐怖を感じずにはいられなかった。同時に、この、心をかき乱されるような、しかしどこか生の実感を与えるような、奇妙な高揚感から、目が離せなくなっている自分にも気づいていた。
(小春 視点) 小春もまた、結城に対する感情が、当初の「怖い」「近寄りがたい」「すごい人」という単純なものから、もっとずっと複雑で、そして一言では言い表せないものへと変化しているのを感じていた。トラブル対応や、日々の仕事を通して垣間見える、彼の圧倒的な能力とリーダーシップへの尊敬の念は、ますます強くなっていた。しかし、それだけではない。あの深夜に見せた、彼の、ふとした瞬間の弱さや、隠された孤独の影。そして、時折、自分にだけ向けられるような気がする、ほんのわずかな、不器用な優しさや配慮。それらが、彼女の心の中に、少しずつ、しかし確実に、彼の「人間」としての側面を刻み込んでいた。彼は、ただ冷たくて、厳しいだけの人ではないのかもしれない。あの、人を寄せ付けないような仮面の下には、もしかしたら、とても傷つきやすくて、不器用な素顔が隠されているのかもしれない。そう思うと、以前感じていたような恐怖心は薄らぎ、代わりに、もっと彼を知りたい、彼の力になりたい、という、これまでにはなかった感情が、自分の中に芽生えているのを感じていた。それは、まだ恋と呼ぶにはあまりにもおこがましく、そしてあまりにも漠然としたものだったが、彼のことを考えると、胸が少しだけ温かくなったり、あるいは、きゅっと締め付けられたりする。彼の持つ、危ういほどの魅力と、その裏にある「毒気」のようなものにも、気づき始めていた。そして、その危うさが、なぜか彼女の心を、少しだけ、惹きつけてやまないのだった。
結城と小春。二人の間の空気は、確実に変わり始めていた。以前のような、ただただ気まずい沈黙や、一方的な緊張感だけではない。そこには、互いへの、まだ言葉にならない、複雑な感情が交差し、見えない火花が散っているかのような、独特の、そして濃密なテンションが漂い始めていた。互いの視線が偶然に絡むと、どちらともなく、慌てて逸らしてしまう。些細な言葉のやり取りに、以前にはなかったような、妙な間が生まれたり、あるいは、予期せぬ動揺が走ったりする。
彼らの関係は、今、どこへ向かおうとしているのだろうか。結城の中で育ち始めた、純粋な愛情とは言い難い、しかし強烈な「欲」と「毒気」は、これからどのように表出し、二人の関係に、そして彼ら自身に、どのような影響を与えていくのだろうか。そして、小春は、結城のその複雑な内面と、彼を取り巻く世界の「毒」に触れた時、果たして、彼女自身の純粋さを保ち続けることができるのだろうか。それとも……。
このまま、二人の関係が進んでいったら、どうなってしまうのだろうか。そんな、甘いだけではない、スリリングで、少しだけ危険な香りのする、ドキドキするような期待感と、そして、ほんの少しの、破滅への予感にも似た不安感を、読者の胸に強く刻みつけて、第二章の幕は下りる。二人の運命の歯車は、もう、誰にも止められない速度で、回り始めていた。