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第一章:上京ガールの体温と東京の温度差

小春の視点:東京への期待と現実とのギャップ

足元から、いや、地面そのものから揺さぶられるような感覚。まるで意思を持った濁流だ。絶え間なく押し寄せ、砕ける波のように、人々が私を掠めていく。人の流れに逆らえば、たちまち飲み込まれてしまいそうになる。改札を抜けた先、そこは新宿駅という名の巨大な迷宮だった。故郷の、二両編成のディーゼルカーが日に数本、ごとごとと音を立てて停まるだけの、あの空が広いのどかな駅とは、何もかもが違う。ここは、情報と欲望と無関心が飽和して渦巻く、コンクリートとアスファルトの海だ。天井から吊るされた無数の案内表示はどれも似て見え、壁一面に流れるデジタルサイネージの広告は次々と切り替わり、視線を落ち着ける暇もない。何本もの路線を示す複雑な色分けと出口の多さに、地図アプリを開いても現在地を見失いそうになる。どこへ向かえばいいのか、一瞬、呼吸の仕方も忘れてしまうほど、私は人の流れから少し外れた柱の陰で、ただ立ち尽くしていた。

行き交う人々は皆、驚くほど速足で、その表情は能面のようだった。硬質なアスファルトを叩くハイヒールの音、高級そうな革靴の規則正しいリズム、誰かのイヤホンから漏れるシャカシャカという音。誰もが明確な目的を持っているようで、私のような、戸惑い立ち止まっている人間は、流れを妨げる邪魔な石ころでしかないかのよう。時折乱暴にぶつかる肩、小さな舌打ち混じりの「すみません」。謝罪の言葉にすら、温度は感じられない。皆、自分の進むべきレールの上だけを見て、あるいはスマートフォンの画面に視線を落としたまま、前へ前へと急いでいる。まるで、巨大な精密機械の一部になったみたいだ。冷たくて、正確で、滑らかに動くけれど、どこか人間味の欠けた、ひどく孤独な部品。時折、道端で香る焼き鳥やラーメンの匂いに、ふと空腹を思い出すけれど、その匂いすら排気ガスの匂いにかき消されていく。

上京する前、私が胸に抱いていた東京は、もっとずっと人間味のある、温かい光に満ちた場所だったはずだ。何度も繰り返し読んだファッション雑誌には、「東京で見つける、新しい私」なんていう、甘い言葉の特集が組まれていた。キラキラした笑顔のモデルたちが、見たこともないようなお洒落な服を着て歩く表参道、緑豊かなテラス席で優雅にブランチを楽しむ代官山。週末には、少し足を延ばせば箱根の温泉や湘南の海にも行ける、アクティブなライフスタイル。ドラマの中では、平凡なヒロインが、偶然の出会いからエリートな彼と素敵な恋に落ちたり、持ち前の明るさと頑張りで仕事で大きな成功を掴んだりしていた。「きっとそこに行けば、何もなかった私の日常が、色鮮やかに変わるはずだ」「私も、何か特別な物語の主人公になれるかもしれない」。そんな、淡い、けれど抗いがたい期待と、ほんの少しの野心を、古びたスーツケースいっぱいに詰め込んで、私はこの街にやってきたのだ。実家の、代わり映えしない風景から抜け出したかった。もっと広い世界が見たかった。

けれど、現実はドラマのようには、雑誌のようには、キラキラしていなかった。まず、最初の、そして最大の洗礼は、毎朝の通勤ラッシュ。ニュース映像では見ていたけれど、実際に体験するそれは想像を絶していた。故郷では満員電車なんて言葉すら存在しなかったのに。ドア付近に押し込められ、背後からも側面からも容赦なく人の圧力がかかる。息が詰まり、肋骨がきしむような感覚。知らない誰かの汗の匂い、柔軟剤の香り、昨夜のアルコールの残り香、甘すぎる香水の香り、湿った呼気が混じり合い、むっとするような空気が澱む。ぎゅうぎゅう詰めの車内で、私は必死に吊革を握りしめ、足を踏まれないように、必死で守っている通勤カバンを潰されないように、ただただ耐える。爪先立ちになり、少しでも空間を確保しようと無駄な努力をする。時折、急ブレーキでよろけて誰かにもたれかかってしまい、睨まれることもあった。息苦しさに眩暈を覚えながら、「ここで倒れたらどうなるんだろう」「誰か助けてくれるのかな」なんて、不吉なことを考えてしまう。車窓から見えるのは、どこまで行っても続く、灰色にくすんだビル群ばかり。ドラマで見た、朝日を浴びて颯爽とオフィス街を歩く、あの輝かしい自分の姿は、想像の中にすら、もう見つけられなくなっていた。電車を降りた時には、化粧は崩れかけ、髪も乱れ、もうすでに一仕事終えたような疲労感が、鉛のように肩にのしかかる。

やっとの思いで見つけたアパートは、「都心へのアクセス良好」「デザイナーズ風」という謳い文句とは裏腹に、駅から商店街を抜けてさらに十分ほど歩いた、日当たりの悪い路地に立つ古い建物の一室だった。不動産屋で提示された家賃と、礼金、敷金、仲介手数料といった初期費用の合計額には、本当に目眩がした。母がこっそり持たせてくれた貯金をほとんど使い果たしてしまった。ワンルーム、六畳一間。クローゼットは小さく、備え付けのキッチンはコンロが一口しかない。窓を開けても、すぐ目の前は隣のアパートの壁で、手を伸ばせば届きそうな距離だ。太陽の光が直接部屋に差し込む時間は、一日のうちでほんのわずか。それでも、「ここが、私の東京での城なんだ。私の新しい生活の始まりなんだ」と自分に言い聞かせると、少しだけ胸が温かくなるような気がした。引っ越しの段ボールがようやく全て片付き、最低限の家具――通販で買った安いマットレスと、折り畳みの小さなテーブル、ホームセンターで揃えたカラーボックスを配置すると、殺風景ながらも、ようやく人心地がついた。けれど、夜になると、この街の本当の音が聞こえてくる。壁の薄さを実感させる隣の部屋のテレビの音や話し声。遠くで、そして時にはすぐ近くで鳴り響く救急車やパトカーのサイレン。週末の夜には、アパートの前で酔っ払いが騒ぐ声。故郷の、カエルの合唱と虫の声だけが響く、あの穏やかで深い静寂が、無性に恋しくなる瞬間だった。予算を切り詰めるため、大好きだったカフェ巡りや外食も諦めた。ランチは手作りのお弁当か、安いコンビニのおにぎり。夕食は、小さなキッチンで簡単な自炊をするか、スーパーの見切り品。雑誌で切り抜いてファイルしていた「東京の美味しいお店リスト」「憧れブランドの新作リスト」は、今の私にとっては、ただの虚しい紙切れに過ぎなかった。ショーウィンドウに飾られた綺麗な洋服やバッグを、ただため息混じりに眺めるだけ。

入社したのは、中堅の広告代理店。新しい環境、新しい仕事。期待と不安がぐるぐると胸の中で渦巻く中、私の社会人生活は始まった。電話応対、コピー取り、会議室の準備、資料作成の補助。任されるのは、まだ誰にでもできるような簡単な業務ばかりだけれど、それでも毎日が緊張の連続だ。電話の相手の声が早口で聞き取れなくて何度も聞き返してしまったり、敬語の使い方を間違えて先輩にこっそり注意されたり、頼まれた資料の意図を汲み取れず見当違いなものを作ってしまったり。そのたびに、心臓がどきりと音を立てて縮み上がり、顔から血の気が引くのを感じる。先輩たちは皆、私よりずっと若くても、テキパキと仕事をこなし、業界用語を使いこなし、スマートに見えた。忙しそうで、どこか私との間に見えない壁があるように感じられた。「何か分からないことがあったら、いつでも聞いてね」と笑顔で言ってくれる、面倒見の良さそうな女性の先輩もいるけれど、その目が「こんなことも分からないの?」「自分で少しは考えなさいよ」と語っているように思えて、なかなか気軽に質問する勇気が出ない。ミーティングでは、飛び交う専門用語やアルファベットの略語が理解できず、話についていけず、ただ愛想笑いを浮かべて頷いているだけになってしまうこともあった。早く一人前になりたい、会社の役に立ちたい、認めてもらいたい。焦る気持ちばかりが空回りして、自分の不甲斐なさに落ち込む夜も少なくない。時折聞こえてくる同僚たちの噂話や、派閥のようなものにも、まだ馴染めずにいる。

それでも、私はここで負けるわけにはいかなかった。逃げ出すわけにはいかなかった。「東京で、自分の力を試したいんだ。もっと成長したい」。そう言って、駅のホームで「体に気をつけるのよ」と涙ぐむ母と、「まあ、お前が決めたことなら」と少し寂しそうに、でも黙って背中を押してくれた父、そして「寂しくなるけど、いつでも応援してるからな! 夏休みには遊びに行くぞ!」と力いっぱい手を振ってくれた地元の親友たちに、誓ってきたのだ。あの時の、みんなの顔を思い出すと、胸が熱くなる。落ち込むことがあっても、冷蔵庫にマグネットで貼った、実家で飼っている柴犬のふうちゃんの、気の抜けたような愛らしい写真を見て、「ふうちゃん、見ててよね! 私、ここでちゃんと踏ん張るから! かっこいい大人になるんだから!」と、誰もいない部屋で、心の中で(時々、声に出して)話しかける。持ち前の、少し能天気なくらいの明るさと、「なんとかなる! きっとなる!」という根拠のない楽観主義だけが、今の私の唯一にして最大の武器だ。我ながら、単純で、打たれ弱い豆腐メンタルだと思う。でも、そうでもしなければ、この巨大で、華やかで、でも時々ひどく冷たく感じる街のプレッシャーと温度に、私はとっくに押し潰されて、凍えてしまっていたかもしれない。たまに見つける、路地裏の小さな花壇の花や、公園で昼寝している猫の姿に、ほんの少しだけ心が和む。そういう小さな「温かいもの」を見つけるのが、少しだけ得意になってきたかもしれない。

週に一度、母から決まって電話がかかってくる。「もしもし、小春? 元気?」「ちゃんとご飯食べてるの? 野菜も食べなさいよ」「変な人に声かけられたりしてないでしょうね? 戸締りはちゃんとしてる?」「無理しちゃダメよ、疲れたらいつでも帰っておいでね」。その、少し心配性で、でも変わらない、太陽みたいに温かい声を聞くと、不意に、堪えていたものが込み上げてきて、堰を切ったように涙がこぼれそうになる。「……うん、元気だよ! 大丈夫! ご飯もちゃんと食べてるし、会社の先輩もみんな親切だし、毎日すごく充実してるから!」。心配かけたくなくて、喉の奥につっかえた塊を飲み込み、いつもより少しだけ高い、わざとらしいくらいに明るい声を作る。本当は、慣れない仕事で今日も小さなミスをして落ち込んでいること、時々、自分がこの街で完全に一人ぼっちなんじゃないかと怖くなること、そんな弱音は、絶対に、絶対に言えない。「そっか、元気なら良かったわ。でも、本当に無理はしないでね。いつでも、あなたの帰る場所はあるんだからね」その優しい言葉が、嬉しいと同時に、甘えてしまいそうになる自分を戒めるように、胸に重く響く。電話を切った後、狭い部屋に一人になると、さっきまで無理に纏っていた元気な自分の仮面が、音を立てて剥がれ落ちて、深い静寂と、どうしようもない孤独感が、冷たい水のように、じわりと足元から私を包み込むのだった。駅からの帰り道で見かける、楽しそうに腕を組んで歩くカップル。カフェの窓から見える、気の置けない仲間たちと笑い合う同世代のグループ。SNSのタイムラインを流れていく、地元の友達の結婚報告や、子供の写真。そのどれもが、今の私には遠い、眩しい世界の出来事のように感じられた。私は、何を手に入れたくて、ここに来たんだっけ?

これが、私の「憧れの東京」での、リアルな始まり。期待と不安、憧れと現実。きらめく摩天楼の光と、その下にどこまでも広がる無数の影。理想と現実の大きなギャップの中で、私は少しずつ、この巨大な都市の本当の「温度」というものを、この肌で、心で、感じ始めていた。それは、まだ、私の内側にある小さな体温よりもずっと低くて、冷たくて、戸惑うことばかりだけれど。それでも、私はここで生きていくのだ。いつか、この街の温度を、少しでも温かいと感じられる日が来るように。そう、強く、何度も、自分に言い聞かせながら。


結城と小春の出会い


その日、結城ゆうき はじめは、西新宿の摩天楼の一角、自ら率いる株式会社ネクストリームの役員会議室の窓際に立っていた。床から天井まで、一枚ガラスで切り取られた窓の外には、まるで精巧なジオラマのように、東京のビル群が果てしなく広がっている。眼下に広がる風景は、彼がこの数年で手に入れてきた成功と、支配している世界の象徴のようでもあった。会議室は、彼の美学を反映して、ミニマルで、しかし贅沢な素材が使われ、静謐な空気に満ちている。イタリア製のレザーチェア、磨き上げられたマホガニーの巨大なテーブル、そして最新鋭のカンファレンスシステム。全てが完璧に整えられ、コントロールされている空間。テーブルの中央に置かれたスマートディスプレイには、今日のクライアントである老舗食品メーカー「鳩屋フーズ」のロゴが、控えめながらもクリアに表示されていた。結城は、寸分の狂いもなく結ばれたネクタイのノットに軽く触れ、テーブルに並べられた輸入品のミネラルウォーターのボトルに、一瞬だけ満足気な視線を送った。全てが彼の計算通りに進むはずだった。そんな絶対的な自信と、もはや日常となった成功に対する、ほんのわずかな倦怠感が、彼の周りには漂っていた。

やがて、重厚な会議室のドアが静かに開き、鳩屋フーズの担当者たちが、やや緊張した面持ちで入室してきた。先頭を歩くのは、いかにも古き良き日本の大企業といった風格の、恰幅の良い初老の取締役。その後ろに、経験とプライドを滲ませた部長クラスが数名続く。その一団の最後に、まるで群れからはぐれた雛鳥のように、周囲の状況に完全に気圧された様子で、所在なさげについてくる小柄な女性がいた。それが、佐伯さえき 小春こはるだった。

(結城 視点) 「……なんだ、あれは」 結城は、眉をひそめるというより、一瞬、理解不能なものを見たかのように目を細めた。場違い感が、尋常ではない。他のメンバーが、今日の重要なプレゼンテーションに対する適度な緊張感と、結城という若き成功者に対する警戒心や期待感をないまぜにした、計算された表情を浮かべている中で、彼女だけが完全に異質だった。まるで、着慣れていない制服を着せられた中学生のような、頼りなげな立ち姿。スーツは、おそらく就職活動で使っていたものをそのまま着続けているのだろう、体に合っていないのか、どこか野暮ったいシルエットだ。メイクもほとんどしておらず、長い髪はただ一つに無造使にくくられているだけ。そして何より、その大きな瞳。隠そうともしない緊張と、それ以上に強い好奇心に満ちて、会議室の豪奢な内装や、窓の外に広がる非日常的な景色を、無遠慮にきょろきょろと見回している。 「(……鳩屋も人がいないのか? それとも、新人研修の一環か? だとしても、うちのプレゼンを教材にするとは、随分と太っ腹だな)」 あるいは、この場の緊張感を和らげるための、一種の「ゆるキャラ」的な役割でも期待されているのだろうか。どちらにせよ、今日のプレゼンテーションにおいて、彼女は明らかにノイズであり、彼の完璧にデザインされた空間における、意図しない染みのような存在だった。結城は、一瞬で彼女に対する興味を失い(あるいは、意識的にシャットアウトし)、思考を предстоящий(これから始まる)プレゼンテーションの内容へと完全に切り替えた。彼の時間は、一分一秒が、金銭的価値に換算されるほど貴重なのだ。取るに足らない存在に、思考のリソースを割く余裕はない。

プレゼンテーションは、まさに結城の独壇場だった。よどみなく、理路整然と、そして圧倒的な自信に満ち溢れた声が、静まり返った会議室に響き渡る。複雑怪奇な市場の動向分析、最新のデジタルトレンドと消費者のインサイト、そしてそれらを高度に統合し、鳩屋フーズという伝統的な企業のためにカスタマイズされた、具体的かつ革新的なマーケティング戦略。彼は、ただ情報を提示するのではない。相手の心を掴み、未来への期待を抱かせ、そして最終的には自分の提案を受け入れさせるための、あらゆるレトリックと演出を知り尽くしていた。時折見せる、挑戦的なまでに鋭い視線は相手の心の奥底を見透かすようであり、口の端に浮かべる、計算され尽くした薄い笑みは、彼の若き成功者としての揺るぎない自負と、ある種の冷酷ささえ物語っていた。AI、ビッグデータ、サブスクリプション、D2C… 最新のテクノロジーに関する専門用語が、よどみなく彼の口から紡ぎ出される。その言葉一つ一つが、まるで鋭利な刃物のように、旧態依然とした企業の弱点を的確に突き、同時に未来への道を照らし出す光のようにも感じられた。

(小春 視点) すごい……! すごすぎる……! 小春は、開いた口が塞がらないとはこのことか、と思いながら、ただただ圧倒されていた。目の前で、スポットライトを浴びているかのように輝きながら話している結城 創という男性が、自分とは全く違う、遠い世界の住人であることだけは、痛いほど分かった。テレビの経済ニュースや、ビジネス雑誌の表紙でしか見たことのないような、洗練された雰囲気。イタリア製だと一目でわかる高級スーツの、寸分の隙もない着こなし。そして、何よりも、彼が全身から放っている、揺るぎない自信と、底知れない知性、そして人を寄せ付けないような鋭利なオーラ。彼が話す言葉は、難しいカタカナやアルファベットの専門用語が多くて、正直、半分どころか三割も理解できなかったけれど、それでも、聞いている者を魔法にかけたように惹きつけて離さない、不思議な引力があった。まるで、超一流の指揮者がオーケストラを操るように、場の空気を完全に支配している。 眩しい、と思った。真夏の太陽みたいに。でも、太陽と違って、どこか温度を感じさせない。ガラス越しのような、あるいは、完璧に磨き上げられた氷のような、冷たさも同居している気がした。彼の射るような鋭い視線が、時折、こちらに向けられる(ように感じる)たびに、心臓が氷水に入れられたかのように、きゅっと縮こまる。少し怖い、とも感じた。あの目は、きっと、私の不安や劣等感なんて、すべてお見通しなんだろう。隣に座る、普段は厳格な上司たちが、まるで教えを請う生徒のように、感嘆のため息を漏らしながら必死にメモを取っている。自分だけが、この場のレベルから完全に取り残されているようで、焦りと劣等感で、耳まで熱くなるのを感じた。早くこの場から逃げ出したいような、でも、この非日常的な空間にもう少しだけ身を置いていたいような、相反する気持ちが渦巻いていた。

プレゼンが終わり、いくつかの鋭い質問が飛び交う質疑応答の時間も、結城は動じることなく、的確かつ冷静に、時には相手の知識不足を暗に指摘するかのような余裕さえ見せながら、完璧に切り抜けた。打ち合わせは、ネクストリーム社の完全勝利と言っていい雰囲気で終了した。そして、名刺交換の時間。鳩屋フーズの取締役が、満面の笑みで結城に歩み寄り、丁重な挨拶と賞賛の言葉を述べる。部長たちもそれに続き、和やかな(しかし、どこか力関係の見える)談笑が始まる。小春は、その輪に加わることもできず、どうすればいいのか分からず、会議室の隅で所在なさげにおろおろしていた。再び、隣にいた上司に肘で小さく、しかし強く突かれ、はっと我に返る。慌てて、震える手で名刺入れを取り出し、一枚抜き取ると、意を決して、談笑が一段落した結城の前に進み出た。 「あ、あのっ! 株式会社鳩屋フーズ、営業企画部の、佐伯 小春と、申します! 本日は、本当に、素晴らしいプレゼンテーションを、ありがとうございましたっ!」 心臓は破裂しそうなほど高鳴り、声は裏返り、語尾は情けなく上ずる。深々とお辞儀をしすぎて、前のめりになってテーブルに頭をぶつけそうになる。早くこの場を立ち去りたい一心だった。

(結城 視点) 差し出された、一枚の名刺。震える指先。佐伯 小春。やはり聞いたことのない名前だ。そして、この古風な名前が、彼女の持つ野暮ったさ、あるいは純朴さと妙に合っている気がした。結城は、表情を変えずに名刺を受け取ると、一瞬だけ、値踏みするような、あるいは昆虫でも観察するかのような冷めた視線を、彼女に向けた。間近で見ると、その「東京に染まっていない」感じは、もはや希少価値があると言ってもいいかもしれない。大きな、まるで嘘や計算という概念を知らないかのような、真っ直ぐすぎる瞳。緊張と気後れで、耳まで真っ赤になっている。彼の周りにいる女性たちは、もっとしたたかで、もっと洗練されていて、自分の魅力を最大限に利用する方法を知っている。彼女のようなタイプは、彼のビジネスフィールドはもちろん、プライベートの人間関係においても、まず存在しないカテゴリーだ。まるで、突然変異種か、外来種か。 「結城です。どうも」 彼は、完璧に計算された、しかし感情の温度を感じさせないビジネススマイルを貼り付け、型通りの挨拶を返した。彼女の差し出した手は、驚くほど小さく、そして力なく感じられた。握手というより、触れただけ、という方が近い。彼はすぐに手を離し、受け取った名刺を一瞥すると、まるで興味がないと示すかのように、すぐに内ポケットにしまった。彼女の瞳の奥にある、純粋なのか、あるいはただ世間を知らないだけなのか判別しかねる光に、ほんの一瞬だけ、彼の「人間評価アルゴリズム」が微細なバグを起こしたような、奇妙な感覚を覚えた。 「(……面白い、かもしれないな。この反応。この擦れてなさは、ある意味で武器になるのか? いや、それはないか)」 あるいは、やはりただひたすらに、面倒なだけか。彼の築き上げてきた、効率と結果と合理性を至上とする、このドライで完璧な世界とは、あまりにも異質な、ウェットで非効率な存在。 「こちらこそ、本日は貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございました。前向きにご検討いただけますことを、心よりお待ちしております」 結城は、もはや彼女個人に向けてではなく、鳩屋フーズという企業全体に向けて、流れるような、しかしどこか突き放すような丁寧さでそう言った。そして、視線を隣に立つ鳩屋フーズの年配の部長へと、滑らかに移した。彼の意識の中では、佐伯小春という存在は、すでに処理済みのタスクのように、背景へと追いやられていた。 小春は、取り残されたような、小さな、しかし針で刺されたように鋭い、確かな疎外感を、その場の華やかで、しかし自分には冷たく感じられる空気の中に、ただ呆然と感じていた。自分だけが、違う言語を話しているような、そんな心細さだった。

これが、結城と小春の最初の出会い。東京という、成功と挫折、光と影が隣り合わせに存在する巨大な都市の一室で交わされた、ほんの数分の出来事。互いの第一印象は、決して特別なロマンスの始まりを予感させるものではなかった。眩しさと圧倒的な格差への恐怖。物珍しさに対する一瞬の興味と、すぐに湧き上がった異物に対するわずかな警戒心と無視。二人の間には、まだ、途方もなく厚くて、冷たくて、そしておそらく簡単には壊れないであろう、透明な壁が存在している。それは、東京という街そのものが持つ、人を惹きつけてやまない魅力と、同時に人を突き放す冷たさの、象徴のようでもあった。


初期の関係性:すれ違いと距離感


鳩屋フーズとネクストリームの共同プロジェクトは、正式にキックオフミーティングを終え、具体的な作業フェーズへと移行した。そして、小春にとっては悪夢のような、しかし逃れられない現実として、彼女が鳩屋側の窓口担当の一人、それも主にネクストリーム社との連絡調整や資料授受を担当するという役割が本格的に始まったのだ。「佐伯君、結城社長は若いがキレ者だ。失礼のないよう、しっかり頼むぞ。君の成長にも繋がるはずだ」。上司からの、期待という名の重圧がかかった激励の言葉が、ずしりと肩にのしかかる。嬉しいというより、正直、胃が痛くなるようなプレッシャーだった。あの、氷のように冷たくて、全てを見透かすような目をした結城さんと、これから頻繁に、直接やり取りをすることになるなんて。考えただけで、手のひらにじっとりと汗が滲んだ。

週に一度、あるいはプロジェクトの進行状況によってはそれ以上の頻度で、定例ミーティングが開催された。場所は、最新設備が整ったネクストリーム社の会議室か、歴史を感じさせる重厚な鳩屋フーズの本社会議室、時にはそれぞれの自席から参加するオンライン形式で。もちろん、社長である結城が毎回顔を出すわけではなかった。彼の時間は、このプロジェクトだけに割かれるわけではない。しかし、重要なマイルストーンの確認や、戦略的な意思決定が必要な局面、あるいはプロジェクトの進捗に遅延や問題が生じた際には、彼は必ずと言っていいほど、まるで最終兵器のように姿を現した。その度に、小春の心臓は、持ち主の意思とは無関係に早鐘を打ち、背筋には冷たいものが流れ落ちるのを感じずにはいられなかった。彼の存在感は、モニター越しであっても、少しも薄まることはなかった。

(小春 視点) 結城さんと直接言葉を交わすのは、何度経験しても、まるで初めての時と同じように、いや、回数を重ねるごとに、むしろ緊張感が増していくような気さえした。彼はいつも完璧で、一切の隙を見せない。私が何か質問をしようものなら、その内容がどんなに些細なものであっても、彼は一瞬、値踏みするかのように私を見つめ、それから、あまりにも端的で、論理的で、そして一切の感情の起伏を感じさせない、まるでプログラムされたAIスピーカーが模範解答を読み上げているかのような声で答えるのだ。言葉の端々には、こちらの理解力の低さや、質問の意図の曖昧さを、暗に、しかし的確に指摘されているような、そんな見えないプレッシャーが常に伴っていた。世間話なんて、とてもじゃないけれど切り出せるような雰囲気ではない。空気が、凍りついているみたいだから。

一度、どうしても確認しなければならない事項があり、ミーティング後に勇気を振り絞って彼に直接声をかけたことがある。事前に何度も頭の中でシミュレーションし、失礼のないように、かつ簡潔に要件を伝えられるように準備したつもりだった。 「あの、結城社長、先ほどの件で一点だけ、確認させていただきたいのですが……」 彼は、ネクストリーム社の担当役員と何か難しい顔で話し込んでいたが、私の声に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。その無表情な顔と、感情の色を一切映さない瞳に射抜かれて、用意していた言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。 「……何かな? 手短に頼む」 促され、慌てて本題を切り出す。鳩屋側の社内システムに関する、非常に細かい、しかし重要な制約事項についてだった。彼は私の話を黙って聞いていたが、最後まで聞き終えると、ふう、と小さく、しかし明らかに面倒くさそうなため息を一つ漏らし、隣にいた役員に顎で示した。 「その件は、担当の彼に聞いてくれ。私に聞くレベルの話ではないだろう」 それだけ言うと、彼は私に背を向け、再び役員との話に戻ってしまった。残されたのは、呆然と立ち尽くす私と、「後でメールで詳細をいただけますか?」と事務的に私に声をかける役員だけ。彼の言うことは、正論なのかもしれない。社長に直接聞くべき内容ではなかったのかもしれない。でも、あの、まるで邪魔者を見るかのような冷たい視線と、切り捨てるような口調は、確実に私の心を抉った。彼の周りには、いつもモデルみたいに綺麗な女性秘書さんや、いかにも「デキる」雰囲気の、彼と対等に渡り合えるようなビジネスパーソンたちが、完璧な笑顔で控えている。私みたいな、田舎から出てきたばかりで、要領も悪く、気の利いたことも言えない人間なんて、きっと彼の視界のノイズでしかなく、彼が貴重な時間と意識を割くに値しない存在なんだろうな。そう思うと、胸の奥が鉛を飲み込んだように重くなり、自分が場違いで、無力で、惨めな存在であることを、改めて思い知らされる気がした。彼にとって、私は名前と顔が一致しているかどうかすら怪しい、「取引先の連絡係」で、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。その事実が、ひどく、冷たく突き刺さった。

(結城 視点) 佐伯 小春。プロジェクトが始まって数週間、彼女の名前と顔は、さすがに結城の記憶にもインプットされていた。良くも悪くも、だ。当初抱いた「面倒事が増えなければいいが」という予感は、残念ながら、日々、確信へと変わりつつあった。彼にとって、彼女は、あらゆる意味で「非効率」の塊に見えた。 まず、思考が直線的すぎる。思ったことが、すぐに顔に出る。それは、ある種の正直さとも言えるのかもしれないが、ビジネスの、特に彼のようなハイレベルな交渉や戦略が求められる場においては、致命的な欠点となり得る。建前や、腹の探り合い、ポーカーフェイスといった、社会で生き抜くための基本的なスキルが、彼女には著しく欠如しているように見えた。 そして、質問が多い。それも、他の経験豊富なメンバーなら暗黙の了解で処理するか、少し考えれば自己解決できるような、初歩的な、あるいは本質からずれた内容であることが少なくない。「あの、すみません、基本的なことで恐縮なのですが、このKPIというのは……?」「先ほどの〇〇という機能についてですが、これは△△という認識で合っていますでしょうか?」彼女が純粋な疑問としてそれを口にしていることは理解できる。だが、そのたびに議論の流れは中断され、結城や他のメンバーは、彼女のレベルに合わせた説明を強いられることになる。それが、結城にとっては、耐え難いほどの時間の無駄であり、プロジェクト全体の進行を遅らせる要因であり、正直、苛立ちの原因となっていた。

ある日の技術的な仕様に関するミーティングでのこと。ネクストリーム社のエンジニアが、最新のクラウド技術を前提とした、効率的でスケーラブルなアーキテクチャを説明していた。他のメンバーが感心したように頷く中、彼女が、またしても恐る恐る、しかし真っ直ぐな目で手を挙げた。 「あの、すみません。すごく画期的な仕組みだと思うのですが、鳩屋の、特に地方の営業拠点では、まだインターネット環境が不安定なところもあって……。オフラインでも最低限の業務ができるような考慮は、されているのでしょうか?」 それは、鳩屋フーズという老舗企業の、特に現場の実情を踏まえた、ある意味で的を射た質問ではあった。しかし、結城が進めようとしている、最新技術を前提とした、スマートで効率的なシステム構想とは、根本的に相容れない、過去に引き戻すような指摘だった。会議室の空気が、一瞬、白けたように感じられた。 結城は、内心の苛立ちを、完璧なポーカーフェイスの下に隠しながら、冷ややかに答えた。 「佐伯さん。我々が今、構築しようとしているのは、未来を見据えたシステムです。レガシーな環境に引きずられていては、本末転倒だ。インフラの問題は、別途、鳩屋フーズ様側で解決していただくべき課題でしょう」 彼の声には、反論を許さない、絶対的な響きがあった。彼女は一瞬、怯んだような表情を見せ、何か言いかけたが、隣に座っていた鳩屋の上司に目で制され、結局、押し黙ってしまった。俯いた彼女の耳が、わずかに赤くなっているのが見えた。 「(やはり、面倒だ。視野が狭すぎる。木を見て森を見ず、とはこのことか)」 結城は内心で毒づいた。足元の石ころばかり気にしていては、目的地には辿り着けない。だが同時に、ほんのわずかながら、彼の計算を狂わせる彼女の「異物」としての存在に、面白さを感じ始めている自分にも、薄々気づいていた。彼の周りにいる人間は、皆、彼の意図を先読みし、彼の望むであろう答えを反響させるだけのイエスマンか、あるいは、最初から彼に異を唱えることなど諦めている者ばかりだ。だが、彼女は違う。まるで、地雷原を、その危険性を知らずに、無邪気に歩いていく子供のように、彼の計画や思考の、想定外のウィークポイントを、時として突いてくるのだ。その「計算外」の要素が、彼の完璧に構築された、しかしどこか停滞していた世界に、予期せぬ、微細な波紋を投げかけているのかもしれない。それは、苛立ちと、ほんの少しの、認めたくはないが、退屈しのぎになるかもしれないという歪んだ期待が入り混じった感情だった。

また別の日。珍しく二人きりで、ネクストリーム社の高層階にある、ガラス張りのエレベーターに乗り合わせたことがあった。夕暮れ時で、窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がり始めていた。普通なら、ロマンチックな雰囲気にでもなりそうなものだが、箱の中には、重く、気まずい沈黙だけが支配していた。小春は、夜景に目を向けるでもなく、床の一点を、まるでそこに何か大切なものでも落ちているかのように、じっと見つめていた。 「……何か、面白いことでもありましたか。床に」 沈黙に耐えかねたというよりは、彼女のその挙動不審な様子に、つい、意地の悪い言葉が出てしまった。 小春は、文字通り、びくりと肩を大きく揺らし、慌てて顔を上げた。 「えっ!? あっ、いえ! め、滅相もございません! あの、その、夜景が綺麗だなあって、ちょっと思って……」 明らかに動揺し、しどろもどろになりながら、彼女は取り繕うように言った。そして、ふにゃりと、力の抜けたような、困ったような笑顔を見せた。その笑顔は、彼が知っているどんな女性が見せる笑顔とも違っていた。計算も、媚びも、誘惑も、何もない。ただ、困惑と、わずかな怯えと、そして根本的な人の好さのようなものが、不器用に混ざり合った、奇妙な表情。 「そうですか。毎日見ていると、飽きますよ。ただの、電気の無駄遣いだ」 結城は、吐き捨てるように言った。彼女の、あまりにも素直すぎる反応、そしておそらく本心から綺麗だと思っているであろうその感性に、彼のシニカルな部分が刺激されたのだ。美しいもの、感動的なもの、そういう非合理的な感情は、ビジネスにおいてはノイズでしかない、と彼は信じていた。 「……え」 小春は、信じられないというように、小さく息をのんだ。そして、まるで何かとても大切なものを否定されたかのように、少し寂しそうな、傷ついたような表情で、再び俯いてしまった。 「(しまった、少し言い過ぎたか? いや、事実だ)」 結城は、一瞬だけ後悔に近い感情を覚えたが、すぐにそれを打ち消した。甘やかしてどうする。ここは、そういう感傷が通用する世界ではないのだ。 エレベーターが目的の階に到着し、重いドアが開く。小春は、「お、お先に失礼しますっ!」と、蚊の鳴くような声で言い、まるで何かから逃げるように、足早にエレベーターを降りていった。その後ろ姿は、ひどく小さく、頼りなく見えた。その姿を見送りながら、結城は、自分が普段棲んでいる世界とは全く違う生態系に属する生き物を観察しているような、奇妙な違和感と、ほんの少しの、しかし無視できない罪悪感のようなもの、そして、やはり、彼女に対する理解不能という名の苛立ちが、ないまぜになった複雑な感情を、エレベーターの無機質な壁に映る自分の顔の中に見出していた。

二人の間には、見えない、しかし確実に存在する、深くて広い溝があった。生まれ育った環境、経験してきた人生、拠り所とする価値観、コミュニケーションのスタイル、生きている世界の階層。そのあまりにも大きな隔たりが、会話のテンポを微妙にずらし、互いの真意を屈折させ、意図しないすれ違いを生んでいく。結城の、計算され尽くした合理性と、感情を排した冷たさに戸惑い、翻弄され、時に深く傷つく小春。小春の、非効率なまでの純粋さと、ビジネスの常識から外れた真っ直ぐさに苛立ち、ペースを乱され、時として無意識に攻撃的になってしまう結城。この時点では、まだ互いに特別な感情、ましてや恋愛感情など、一片たりとも抱いていない。ただ、理解できない、相容れない相手に対する、戸惑いと、反発と、埋めようのない距離を感じるだけ。それだけのはずだった。東京の、華やかで、しかしどこまでもドライな空の下で、二つの異なる軌道は、まだ交わる気配すら見せず、どこまでも平行線を辿っているように、誰の目にも見えた。おそらく、本人たちでさえも。


共に時間を過ごすことになる必然的なきっかけ


プロジェクトは中盤の山場、最も技術的に困難とされたシステム開発の佳境に差し掛かっていた。ネクストリーム社が誇る、AIを活用した最新鋭の顧客分析・需要予測システムと、鳩屋フーズが長年にわたって運用し、幾重にも改修が重ねられてきた、いわば秘伝のタレのような複雑怪奇な基幹業務システムとの連携。それが、このプロジェクトの成否を分ける、まさに心臓部だった。表面的には順調に進んでいるかのように見えた矢先、それは、まるで潜んでいた時限爆弾が爆発するかのように、突如として起こった。

結合テストの段階で、深刻なエラーが、それも複数系統で同時に、次々と発生し始めたのだ。データの互換性が想定通りに担保されない。セキュリティプロトコルが予期せぬ箇所で衝突し、システムがフリーズする。特定の条件下で、処理速度が致命的なレベルまで低下する。問題は一つではなく、複雑に絡み合い、まるで悪意を持った生き物のように、解決しようとすると別の箇所から新たな問題が顔を出す、泥沼のような状況に陥った。プロジェクトルームの空気は一変し、楽観的なムードは消え失せ、重苦しい沈黙と、焦りの色が支配し始めた。

「いったいどうなっている!?」 プロジェクトマネージャーからの緊急報告を受けた結城の声は、普段の冷静さを失い、低く、鋭い怒気を含んでいた。彼のオフィスに呼ばれた担当役員とプロジェクトマネージャーは、直立不動でその叱責を受け止めるしかない。このプロジェクトは、単なる一クライアントとの大型案件というだけではない。ネクストリームの技術力を業界内外に誇示し、今後のさらなる飛躍の足掛かりとするための、極めて重要な戦略的プロジェクトだったのだ。失敗は絶対に許されない。彼の端正な顔から、普段の余裕や、時折見せるシニカルな笑みは完全に消え失せ、瞳の奥には、目標達成のためには手段を選ばない、冷徹なまでの強い意志と、鋭い危機感が燃え盛っていた。

「全員、今すぐ第一会議室に集めろ。状況を正確に把握する。対策本部を設置するぞ」 結城は即座に決断し、自ら陣頭指揮を執ることを宣言した。それは、社長自らが現場の最前線に出るという異例の事態だったが、それだけ状況が逼迫していることの証でもあった。

一方、クライアントである鳩屋フーズ側も、この予期せぬ事態に大きな混乱が広がっていた。このシステム連携が予定通りに完了しなければ、鳴り物入りで準備を進めてきた新規事業のローンチが不可能になるばかりか、最悪の場合、既存の基幹業務にまで深刻な支障が出かねない。会社の根幹を揺るがしかねない一大事だ。そして、クライアント側の窓口担当である小春もまた、この未曾有の危機的状況の渦中に、否応なく巻き込まれていくことになった。彼女は、技術的な詳細こそ理解できない。しかし、鳩屋フーズ側の、特に現場レベルでの複雑な業務フローや、長年の運用の中で蓄積されてきた暗黙知、そして各部署間の微妙な力関係や担当者のキーマンといった、「生きた情報」を、ネクストリーム社の技術者たちが問題解決の糸口を探る上で、正確かつ迅速に伝えるという、極めて重要な役割を担うことになったのだ。それは、もはや単なる連絡係ではなく、両社の文化や言語のギャップを埋める、不可欠な通訳者のような立場だった。

かくして、ネクストリーム社の一番広い会議室は、さながら「作戦司令室ウォー・ルーム」と化した。壁一面に設置されたホワイトボードには、複雑なシステム構成図や、問題点のリスト、対策案などが、様々な色のマーカーでびっしりと書き込まれていく。テーブルには、ノートパソコンや技術資料が山積みになり、空になったエナジードリンクの缶や、冷めたコーヒーのマグカップが散乱している。連日深夜まで、時には明け方まで煌々と明かりが灯り、そこには濃密な緊張感と、極度の疲労、そして問題解決に向けた異様な熱気が充満していた。結城は、その中心に座り、次々と報告される状況を冷静に分析し、矢継ぎ早に指示を飛ばす。その姿は、まるで戦場を指揮する将軍のようだった。

そして、その作戦司令室の一角に、小春の席も設けられた。最初は、ただただその場の空気に圧倒され、縮こまっているだけだった。しかし、結城やネクストリームのエンジニアたちから、鳩屋側の内部情報に関する質問が、容赦なく、そして立て続けに飛んでくるようになると、彼女も必死にならざるを得なかった。 「佐伯さん、至急、〇〇部の△△さんが持っているはずの、3年前の仕様変更に関するドキュメントが必要だ。何分で手に入る?」 「佐伯さん、この業務フローについて、現場では実際にどういう手順で処理されているのか、正確な情報を5分以内にまとめてくれ」 「佐伯さん、□□システムのこの挙動は、鳩屋側の運用で許容される範囲なのか? イエスかノーかで答えろ」 結城の指示は、常に端的で、有無を言わさぬ響きを持っていた。小春は、その度に心臓を跳ね上がらせながら、鳩屋の本社にいる関係部署の担当者に電話をかけ、メールを送り、時には古い紙の資料を探し出すために書庫に駆け込むことさえあった。技術的な議論にはついていけなくても、自分に求められている役割を果たすために、ただ必死だった。

最初のうちは、やはりぎこちなかった。互いに極度のストレス下にあり、業務連絡以外の会話は一切なかった。しかし、共通の、そして巨大な「敵」であるシステムトラブルに、それぞれの立場で不眠不休で立ち向かう中で、彼らの間に、ほんのわずかな、しかし確かな連帯感のようなものが、意図せずして芽生え始めていた。それは、決して心地よいものではない、むしろ極限状況下で生まれた、吊り橋効果に近い、刹那的な感情だったのかもしれない。

(結城 視点) 連日の徹夜作業と、絶え間なく降りかかるプレッシャー。さすがの結城も、肉体的にも精神的にも限界に近づいていた。切れ味の鋭かった思考にも、わずかに鈍りが見え始め、普段なら瞬時に下せる判断にも、迷いが生じる瞬間があった。そんな時、ふと隣の席で、小春が鳩屋の担当者と電話で粘り強く交渉している声が耳に入った。彼女は、決して弁が立つ方ではない。むしろ、不器用で、回りくどい話し方だ。しかし、その声には、相手を説得しようとする必死さと、誠実さが滲み出ていた。そして、数分後、彼女は「や、やりました! なんとか、資料を今すぐ送ってもらえることになりました!」と、疲労困憊のはずなのに、小さな声で、しかし満面の笑みで報告してきたのだ。 「……そうか。よくやった」 結城は、自分でも驚くほど素直に、労いの言葉を口にしていた。彼女が手に入れたその情報が、まさに今、行き詰っていた問題解決の、重要なブレイクスルーになる可能性があったからだ。温かい、安物のインスタントコーヒーが差し入れられた時もそうだったが、この時も、彼は彼女に対する認識を、ほんの少しだけ修正せざるを得なかった。 「(……使えない新人だと思っていたが、意外にしぶといな。こういう泥臭い交渉は、うちのスマートな連中より、むしろ向いているのかもしれん。それに、この状況で、あの笑顔か……)」 彼は、初めて彼女を、単なる「取引先の新人」や「非効率な存在」ではなく、「この困難な局面において、特定の価値を発揮する、代替不可能な駒」として、明確に認識し始めていた。それは、もちろん個人的な好意などとは全く無縁の、極めて功利的な評価。だが、人を駒としてしか見ない彼にとって、誰かを「使える」「必要だ」と認めることは、彼なりの最大級の評価であり、関係性の始まりの一歩となり得るものだった。彼女の存在が、この膠着した状況を打開するための、予想外の変数になるかもしれない、と彼は感じ始めていた。

(小春 視点) 連日のトラブル対応と、終わりが見えない作業。睡眠不足とプレッシャーで、精神的にも体力的にも、もう限界だった。次から次へと発生する技術的な問題の詳細は理解できなくても、プロジェクトが危機的な状況にあること、そして、結城さんをはじめとするネクストリームの皆さんが、どれだけ必死に戦っているかは、痛いほど伝わってくる。自分にできることは限られているけれど、それでも、少しでも彼らの役に立ちたい。足を引っ張ることだけは、絶対に避けたい。そんな一心で、鳩屋側の関係部署との連絡調整や、膨大な過去の資料との格闘に明け暮れていた。 そんな極限状況の中、ふと気づくと、以前はあれほど怖くて近寄りがたいと感じていた結城さんに対して、不思議と以前ほどの恐怖心を感じなくなっている自分を発見した。もちろん、彼の厳しい指示や、時折見せる冷徹な表情は相変わらずだ。しかし、問題解決のために、驚異的な集中力で議論をリードし、的確な指示を飛ばし、時には厳しい言葉でチームを鼓舞する姿を間近で見ているうちに、その「怖さ」が、プロフェッショナルとしての「厳しさ」や「凄み」なのだと、少しずつ理解できるようになってきたのだ。 そして、私が調べて報告した情報が、問題解決の役に立った時、彼が「……助かった。ありがとう」と、短く、しかしはっきりと呟いたことがあった。普段、彼から感謝の言葉など聞いたこともなかっただけに、その一言が、まるで乾いた大地に染み込む水のように、疲れた心にじんわりと響いた。 「い、いえ! 私にできることなら、何でも言ってください!」 思わずそう答えると、彼は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、何か言いたげな、複雑な表情で私を見たような気がした。すぐに、また厳しいビジネスモードの顔に戻ってしまったけれど。 彼に対して感じていた「怖い」「冷たい」という感情は、まだ残っている。けれど、それだけではなくなっていた。この人は、とてつもなく厳しいけれど、信頼できるリーダーだ。この人についていけば、きっとこの絶望的な状況も乗り越えられるはずだ。そう思えるようになっていた。彼を「必要」だと感じた。それは、この困難なプロジェクトを成功に導くために、彼の卓越した能力と、決して諦めない強い意志が、絶対に必要だという意味で。そして、ほんの少しだけ、彼のその重圧を、ほんの少しでも軽くする手伝いがしたい、という、これまでにはなかった感情も、自分の中に芽生え始めているのを感じていた。

トラブルシューティングという、過酷で、しかし避けては通れない共通の目的が、図らずも、結城と小春という、本来なら交わるはずのなかった二つの点を、強引に結びつけた。それは、決して甘美なロマンスの始まりなどではない。むしろ、硝煙と疲労と、カフェインとアドレナリンの匂いが立ち込める、戦場のような場所での、必要に迫られた、ギリギリの共同作業だ。互いを異性として強く意識するような余裕は、二人には全くなかった。日々の膨大なタスクと、いつ終わるとも知れないプレッシャーに忙殺され、そんな感情が入り込む隙間など、どこにもなかったのだ。だが、共に極限的な時間を過ごし、互いの仕事への姿勢や、プレッシャーの下での振る舞いを間近で見る中で、当初抱いていた表面的な印象や偏見は、少しずつ剥がれ落ち、互いを、好むと好まざるとに関わらず、「仕事仲間」として、そして否応なく一人の「人間」として、認識し始めざるを得なくなっていた。それは、誰も意図しない、そして誰も気づかないかもしれない、しかし確実な、関係性の地殻変動の始まりだった。東京の無機質な会議室の中で、二つの平行線が、ほんのわずかに、その角度を変え、未来のある一点で交差する可能性を、微かに予感させ始めた瞬間だったのかもしれない。


第一章の結び


まるで長い、悪夢のようなトンネルをようやく抜け出したかのようだった。数週間にわたってプロジェクトチーム全体を苛み続けた深刻なシステムトラブルは、結城の的確かつ冷徹さすら感じさせる指揮と、ネクストリーム、鳩屋フーズ両社の担当者たちの、文字通り不眠不休、身を削るような努力によって、ついに、完全な解決へと至ったのだ。最終テストが無事に完了し、システムが安定稼働を始めたことを告げる緑色のランプが点灯した瞬間、作戦司令室と化していた会議室には、一瞬の静寂の後、誰からともなく、堰を切ったような安堵の声と、すすり泣きにも似た疲労困憊のため息、そして、抑えきれない歓声が沸き起こった。誰かが買ってきた安物のスパークリングワイン(もちろんノンアルコールだ)のポン!という気の抜けた音が、やけに大きく響いた。

その日の深夜、ほとんどのメンバーが、疲労と安堵感でふらふらになりながら帰路につく中、結城は、まだ一人残って最終報告書に目を通していた。そこに、忘れ物を取りに戻ってきたのか、小春が姿を見せた。彼女もまた、目の下に深いクマを作り、顔色は青白かったが、その表情には、憑き物が落ちたような、晴れやかな安堵の色が浮かんでいた。

「佐伯」 結城は、不意に、しかし静かな声で彼女を呼び止めた。 小春は、びくりと肩を震わせて振り返る。まだ、彼に対して反射的な警戒心が残っているのだろう。 「今回の件、ご苦労だった。特に、君が粘り強く鳩屋の各部署から引き出してくれた情報がなければ、解決はもっと長引いただろう。……助かった」 それは、結城にしては珍しく、率直で、具体的な労いの言葉だった。社交辞令や、単なる上司としての定型的な挨拶ではない。事実として、彼女の泥臭いまでの奮闘が、局面を打開する鍵となったことが何度かあった。それを、彼は、たとえ内心では不本意だったとしても、リーダーとして認め、伝える必要があった。いや、それだけではない。彼自身、彼女の予想外の貢献と、極限状況下で見せた驚くほどの粘り強さに、少なからず感銘を受けていたのかもしれない。 小春は、結城の言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くして、数秒間、完全に固まっていた。それから、じわりと、彼女の大きな瞳に涙が Maku を張った。慌ててそれを手の甲で拭う。 「い、いえ! わ、私なんて、全然、そんな……! 結城さんこそ、本当に、本当にお疲れ様でした! 私、結城さんがいてくださらなかったら、もう、どうしたらいいか……」 しどろもどろになりながら、言葉を詰まらせながら、しかし、その顔には、隠しきれないほどの喜びと、安堵と、そして彼に対する純粋な尊敬の念が、ぱっと花が咲くように広がった。その、あまりにも素直で、無防備で、計算のかけらもない、感情の奔流のような笑顔。それを見た瞬間、結城の胸の奥深く、彼自身も気づいていない堅い氷の層に、微かな、しかし確かな亀裂が入ったような、奇妙な感覚が走った。 最初に感じた「物珍しい観察対象」としてのドライな興味とは、明らかに違う。トラブルの中で認識した「使える駒」としての功利的な評価とも、少し違う。それは、恋愛感情と呼ぶには、あまりにも不確かで、輪郭がぼやけていて、彼自身の理性では到底受け入れがたいものだ。ただ、何か、これまで彼の周りには決して存在しなかった種類の、制御不能な「熱」——それは純粋さか、ひたむきさか、あるいは、もっと根源的な生命力のようなものか——を、彼女という、取るに足らないと思っていたはずの存在から、はっきりと感じ取るようになっていた。そして、その「熱」が、時として彼の心を奇妙に波立たせ、彼の鉄壁の合理性や、計算された思考や行動のペースを、わずかに、しかし確実に乱し始めていることに、彼は気づき始めていた。 「(……これから、どうなる? いや、考えるだけ無駄だ。感傷はビジネスの敵だ)」 彼は、自分の内側に生じた、この説明不能な変化の兆しに戸惑いながらも、それを意識的に無視し、思考の隅へと追いやろうとした。合理的な判断ではない。だが、無意識のうちに、彼は今後の彼女との関わりに、ほんの少しだけ、これまでとは全く違う種類の——それは警戒心か、あるいは、彼自身も認めたくない、未知への期待か——を抱き始めていたのかもしれない。それは、彼の完璧にコントロールされた世界に差し込んだ、予期せぬ光、あるいは影のようだった。

(小春 視点) 結城さんに、直接、あんな風に労いの言葉をかけてもらえるなんて、夢にも思っていなかった。しかも、「君がいなければ」なんて。その一言が、この数週間の、地獄のような苦労や、押し潰されそうな不安を、まるで魔法のように、一瞬で吹き飛ばしてくれた。溢れそうになる涙を、必死で堪える。嬉しくて、ありがたくて、そして、少しだけ誇らしいような気持ちで、胸がいっぱいになった。あれだけ怖くて、冷たくて、自分とは住む世界が違う、近寄りがたいと思っていた人が、ほんの少しだけ、人間らしい温かさを見せてくれたような気がしたのだ。 もちろん、彼が依然として、厳しくて、妥協を許さない、超一流のビジネスパーソンであることに変わりはない。トラブル対応の間、彼の、どんな混乱の中でも失われない冷静沈着な判断力、複雑怪奇な問題を瞬時に整理し本質を見抜く洞察力、そしてどんな逆境にあっても決して諦めず、チームを鼓舞し続ける、カリスマ的なまでのリーダーシップを間近で目の当たりにして、彼に対する尊敬の念は、以前とは比べ物にならないほど強く、そして確かなものになっていた。 でも、それだけじゃない。深夜の誰もいないオフィスで、誰にも見られないようにそっと深くため息をつく姿や、私が差し入れた、コンビニの安物の栄養ドリンクを、黙って、しかし少しだけ眉間の皺を和らげて受け取る時の表情、そして、問題解決の決定的な糸口が見えた瞬間に見せた、ほんの一瞬の、まるで子供のような、純粋な安堵の顔。そういう、完璧な鎧の下に隠された、人間的な側面や、ふとした瞬間に垣間見える弱さのようなものに触れて、「この人も、スーパーマンなんかじゃない。私と同じように、悩んだり、疲れたり、プレッシャーを感じたりするんだ」と、当たり前のことなのに、初めて実感として感じ始めていた。 まだ、少し苦手意識はある。彼の纏う、鋭利で、あまりにも知的な空気は、やっぱり私には眩しすぎるし、時々、彼の言葉の裏に見え隠れする、容赦のない冷徹さや、徹底した合理主義に、心がヒリヒリと痛むこともある。でも、以前感じていたような、ただ怖い、近寄りがたい、という一方的な感情だけではなくなっていた。何か、もっと知りたい。彼の圧倒的な強さも、そして、時折垣間見える、人間的な弱さや、もしかしたら、その奥にあるかもしれない孤独も。それは、仕事の上で、彼からもっと多くのことを学びたい、吸収したいという、向上心に近い気持ちが大部分かもしれない。けれど、それだけではないような気がする。もう少しだけ、彼の近くにいて、彼のことをもっと理解してみたいという、淡い、名前のつけようのない好奇心のようなものが、たしかに、自分の中に芽生え始めているのを、戸惑いながらも感じていた。それは、尊敬なのか、興味なのか、あるいは、もっと別の何かにつながる感情の、ほんの小さな蕾なのかもしれない。 「(これから、プロジェクトが終わるまで、まだ、結城さんと一緒に仕事をしていくんだな……)」 その事実に、以前感じていたような、息が詰まるような重圧や、逃げ出したいような不安だけではなく、ほんの少しの緊張と、そして、ほんの少しの、これまでとは全く違う種類の、ドキドキするような期待が入り混じった、複雑な気持ちを抱いていた。

嵐のようなトラブル対応が過ぎ去り、プロジェクトは再び、日常の軌道に戻り始めた。共に極限的な時間を過ごしたことへの、二人の内心。それは、まだ到底、恋とは呼べない、名前のない感情の、微かな予感と、静かな戸惑い。結城にとっては「興味深い観察対象」から「無視できない、心を乱す、何か違う存在」への、不本意ながらも認めざるを得ない変化の兆し。小春にとっては「少し苦手だが尊敬すべき上司」から「もっと知りたい、もっと近くで見ていたい、気になる存在」への、戸惑いながらも否定できない心の動き。

東京という巨大な都市の、高層ビルの片隅で、偶然出会ってしまった二人。冷たく理性的で、成功の裏に満たされない何かを抱える若き経営者と、地方から出てきたばかりの純粋で真っ直ぐな、しかし意外な芯の強さを見せ始めた新人OL。あまりにも違う世界の住人である二人の歯車が、予期せぬトラブルという名の、激しい摩擦と熱を経て、少しずつ、軋みながらも、しかし確実に、噛み合い始める。

これから、二人の関係は、どこへ向かっていくのだろうか。一度入った亀裂は、元通りになるのか、それとも、さらに広がっていくのか。結城の心の奥底に凍てついた、孤独と不信の氷壁は、小春の持つ、不器用だが真摯で、そして予想外に強い「体温」によって、本当に溶かされることがあるのだろうか。それとも、東京という街が持つ、抗いがたい引力と、成功者を蝕む「毒」が、彼女の純粋さを少しずつ変え、彼と同じ色に染めていってしまうのだろうか。あるいは、その両方が、複雑に絡み合いながら、二人を、そして彼らを取り巻く東京の景色を、変えていくのだろうか。

まだ、誰にも分からない。本人たちにさえも。ただ、確かなことは、あの日、あの瞬間から、二人にとって、そして二人を取り巻く東京の「温度」は、もう決して、以前と同じではあり得ないということだけだ。

読者の胸に、そんな、甘さだけではない、少しだけビターで、そしてスリリングな期待と、これから始まるであろう、一筋縄ではいかない大人の恋の物語への強い予感を残して、第一章の幕は、静かに下りる。



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