合流までの数日間
関所から突き飛ばされるようにして隣国へ押しやられたノンナは、最初こそ途方に暮れたけれど。
いつまでもそうしていられないと気づいてしまった。
メルバ国はディシュリーの加護によって兵士たちが強くなっているから魔物や犯罪者、他国からの侵略といった戦いにおいては優秀であるけれど、しかし今ノンナの近くにそういった頼りになる人はいない。
更にノンナは着の身着のまま追放されたのである。
一文無しで。
途方に暮れる気持ちは簡単に割り切れなかったけれど、しかしこのままでは本当に野たれ死ぬかもしれない。
そう思ったノンナは重い足取りであったけれど、それでもどうにか足を動かして人がいる場所を目指したのだ。
途中、有難い事に宿場町まで行く馬車に拾ってもらった。
お金がなくて、と言えばすぐ近くだから構わないよと笑って言われて。
ノンナは久しぶりに人の温かさに触れたのだ。
ノンナを拾ってくれた人は、メルバ国から国境を越えてやってきたが、しかし別の国の商人だった。だからこそ、ノンナが偽物聖女だとかそういう話は聞いていてもノンナがその偽物聖女だとはわかっていなかったし、何かしらノンナが訳ありなのだろうと察して深くは聞いてこなかった。
金がないならしばらくそこの宿で住み込みで働けばいい、と話までつけてくれたのだ。
なんて親切な人だろう。
紹介してもらった宿は、そこそこ繁盛しているけれどしかし人手が足りなくて……といったところだったので、ノンナの事をあっさりと雇ってくれる事となった。
人手が足りないからホント、できる限りいてくれていいんだよ、とか言われてしまって。
ノンナとしては有難いやら申し訳ないやらだった。
人の親切に久しぶりに触れたとはいえ、それ以前がそこはかとない悪意に晒されていたのもあって、ノンナは密かに警戒もしていたのだ。
紹介された宿が若い娘を売りさばくような、そんな犯罪が行われているようなところだったらどうしよう……なんて。正直神殿で出されていたご飯が質素すぎてノンナの身体はすらっとしている。すらっと、というかまぁ普通に貧相である。
もしそういったところに売られていたら、きっと神殿と同じかそれよりも酷い待遇だったのかもしれない。
そう考えるとノンナを馬車に乗せて宿場町まで連れてきてくれた商人のおじさんも、この宿の女将さんも神様みたいだった。
寝床とご飯、それに給金。
今のノンナにとっては全部有難いものだ。
「……なんとかして戻らないと……」
このまま戻ったところで追い返されるのはわかっているが、それでも戻らなければ。
だってあの国にはノンナにとって家族みたいなダニエルのお母さんとお父さん。
それにノンナにとって何よりも大切なダニエルがいる。
「会いたいよ……ダニエル……」
神殿で聖女としての務めだって、ほとんどダニエルのためだった。
両親はもういない。
これ以上ノンナにとって大切な人がいなくなるのは嫌だった。
役立たずだとか偽物と言われようとも、それでも祈りを捧げる事をやめなかったのはもし祈るのをやめたらダニエルがまた前みたいになってしまうかもしれないという恐ろしさからだ。
それでも数日、祈りを止められてしまったけれど。
それでもまだ、その後で祈れば大丈夫だと思っていたのに。
まさかそのまま国から追放される事になるなんて、思ってもいなかった。
ダニエルは大丈夫だろうか……
国が違っても、祈りは届くだろうか……
そんな不安を抱えながらも、それでもノンナは親切にも雇ってくれた女将さんに迷惑をかけないよう、精一杯働いた。そうしていないと不安で胸が押しつぶされそうになっていたというのもある。
朝早く起きるのは得意だった。神殿ですっかり慣れてしまったから。
掃除や洗濯も慣れたものだ。ダニエルの家で手伝っていただけじゃない。神殿でもやるように言われたから。
料理の下ごしらえだって、ここで働くにあたって必要なものは大抵神殿でやらされていた事だったから、働く事は苦ではなかった。
女将さんは働きすぎだから少しくらい休みな、なんて言ってくれたけれど。
神殿にいた時よりは全然働いていない。
最初のころはそうでもなかったはずなのに、しかしノンナに対して悪い噂が流れるようになった頃には本来やらなくても良かったはずの雑用までもがノンナの仕事として押し付けられるようになっていた。
朝から晩までロクに休む暇もなく、次から次に色んな雑用を押し付けられたものだ。
それに比べれば、ここでの仕事は女将さんは働きすぎなんていうけれど、ノンナからすれば全然そうじゃないと言えるもので。
そのせいでノンナは朝から晩まで、自分的に程々に働いていたのである。
そんなノンナの元へダニエルが駆けつけてきたのは、ノンナがここで働いてから六日目の事だった。
馬に乗って。
荷物を抱えて。
一端の行商人みたいないで立ちでやってきたダニエルはノンナを見つけて開口一番こう叫んだのだ。
「ノンナ! 結婚しよう!!」
二人きりではない。
その場には女将さんを含め他の宿泊客も、従業員もいた。
そんな中での公開告白。
何がなんだかわからない、とばかりにぽかんとしていた周囲をよそに、ノンナは涙をぽろりと零した。
「うん! 結婚するっ!!」
両親からの餞別として路銀と馬を与えられたダニエルは、一刻も早くノンナを見つけなければという思いに燃えていた。いっそ使命感といってもいい。
だって冷静に考えてみたら、そうしておくべきだったのだ。
そりゃああの当時、ノンナが聖女として選ばれたのだという神託があった時、ノンナとダニエルは結婚するには早い年齢だったけれど。
それでも結婚していたのなら。
そうでなくとも結婚の約束をしていたというのであったなら。
まだ結婚には早い年齢のノンナとて、そこまで無理に王家の結婚相手候補として見定めるとかいう名目で王都まで行かなくたって良かったかもしれなかったのだから。
ノンナは平民だ。
過去の聖女の中にも平民で聖女になったものはいたし、その中でも王家に嫁いだ者はいたという話だけれど。
しかし既に聖女として選ばれた二人の貴族令嬢がいたのだから、王子の結婚相手としてはそのどちらかを選ぶべきだった。
仮に王子がノンナを選んだとして、その場合ダニエルには打つ手がない。諦めてノンナの幸せを祈るしかできないけれど。
だが、もしノンナを嫁に、と王子が選んだところでノンナが結婚できる年齢までは待つ必要があった。
既に聖女として国中に名が広まったディシュリーとガルシアはノンナより年上だけど、一つ二つしか離れていなかったはずだ。
であれば、早くてノンナが王都へ行った一年後、遅くたって二年目には二人の令嬢は結婚できる年齢になっていたはずで。
三年も引き延ばした理由をダニエルは知らない。
もしかしたらノンナも結婚できる年齢になるまで待った上で、そうしてその三人の中から選ぶとか、そういうまどろっこしい方法をとったのかもしれない。
ダニエルの世界はちっぽけで、親しい人は家族とノンナだけ。
自由に身体が動くようになってからも、顔見知りはいても友人と呼べるような相手はほとんどいなかった。
平民ですら繋がりが薄いのだから、貴族なんて関わりようがない。
だからこそ、貴族のあれやこれやに関してダニエルは全くわからないので、もしかしたら何か……面倒なしきたりとかのせいだったのかもしれないな、と思う事にしたのだ。
直接確かめようにもたかが平民が気軽にお貴族様に聞けるわけもないのだから。
二人の聖女は貴族だから、同じ聖女という立場に平民がいるのが気に食わない、なんて事もあるかもしれない。
もしかしたら、そんなお貴族様と同列の立場にいる、というのを妬んだ誰かがノンナの悪い噂を流したのかもしれない。
だってノンナが役立たずの偽物聖女であるわけがないのだ。
それはダニエルが身をもって知っている。
けれど他の人は、ダニエル程脆弱ではなかった。
だから、加護があってもわからなかったのかもしれない。
ダニエルを見れば一目瞭然だとは思う。
けれども、家の中にずっと引きこもっていたダニエルの事を同じ町の人ですらあまりわかっていないのなら、ダニエルが何を言ったところでそれを信じてくれるのは、幼い頃からいつ死んでもおかしくないダニエルを育ててくれた両親くらいだ。
ダニエルはそんな両親の献身と、ノンナによって生かされた。
ノンナが聖女なのは間違いない。
ダニエルが暮らしていた町に流れてきた噂は断片的だけど、悪意があったのはわかる。
他の連中はノンナの事何にも知らないから好き勝手言ってるけど、ダニエルからすればその噂のほとんどが嘘だとわかっていた。
だから考えたのだ。
平民が聖女を偽った、というのなら本当なら殺されていてもおかしくはない。
けれど追放だけで済ませたのは、ノンナの事を陥れた者がそこまでは望んでいなかったからではないか、と。
ほとぼりが冷めたら、偽物聖女である事を撤回して追放した国からまたメルバ国に連れ戻す事もあるのではないか、と。
一度は偽物とされて立場も評判も下がりようがないところを、あれは何者かの謀によるものだった、とかなんとか。
そんな風に救いあげたら、もしかしたらノンナは恩に着るかもしれない。恩を感じたノンナが、今後より一層聖女として働く事を見越して……
穿った見方、とは言い切れなかった。
けれど、家の中で暇を持て余していたダニエルは学術書だけではなく娯楽本まで幅広く目を通していた。
所詮お話の中だけの、冷静に考えたら無理があるだろう展開。
だが、現実を構成するか紙の上で構築するかの違いはあれど、結局は人が考える事なので。
そんなバカげた空想が、絶対にないとは言えないぞ……!? とも思ってしまったのである。
もしそうやって恩に着せるような感じでノンナを救いに来るような誰かがいたとして。
そいつに搔っ攫われたらもう二度と本当にノンナと会えないかもしれない。
ノンナの事を両親は家に置いて面倒を見てくれていたけれど、養子にしたわけじゃなかった。
だから家族みたいなものであっても、正確にノンナはダニエル一家の家族ではない。
もし横やりが入ったとして、そうなった場合ダニエルが手をこまねいて見送るしかない可能性もあり得るのだ。
様々な可能性がダニエルの脳裏を通過していく。
あり得そうなものから、荒唐無稽なものまであらゆる可能性がごちゃ混ぜになって支離滅裂になっていたけれど、ともあれそんな可能性を一つでも潰すべくダニエルは――
ノンナに結婚を申し込んだのである。
王子の嫁候補だった。
だがもうそれは外された。
他の誰かが掻っ攫う前に、ノンナと一緒にいても許される立場がダニエルには必要だったのだ。
貴族の結婚において、女性は貞淑であることを求められている、というのはダニエルでも知っていた。
だったら、下手に横から掻っ攫われる前にノンナと結婚して彼女が人妻になってしまえば。
わざわざ平民から奪うような真似はしないだろう。
いや、その場合ダニエルが亡き者にされる可能性はあるけれど。
しかしただ家族同然に過ごしてきただけの男であるよりは、旦那と堂々と名乗って殺される方がマシかもしれない。
様々な可能性を考えすぎて、ダニエルの思考はぶっ飛んでいた。
ノンナもまたその突然のプロポーズに驚きはしたけれど。
だがしかし、下手をすればもう会えないと思っていた相手と会えた挙句、ノンナにとっては一番嬉しかった言葉をくれたのだ。
いくら周囲に大勢の人がいても、神殿でノンナは孤独だった。
最初の内は聖女だからとそれなりに丁寧な対応だったと思う。
けれど気づけば広まっていた悪い噂のせいで、ノンナが聖女であるにも関わらず段々と雑な対応になって、蔑ろにされて。
聖女の世話係としてついてくれていた人も気付けば自分に雑用を押し付けるまでになって。
最初のころに出ていたご飯は気づけば黒くて固いパンと、野菜の残りかすみたいなのが浮かぶほとんど味のしないスープに変わっていて。
のんびりするような自由時間もなくなって、毎日朝から晩までせっせと働いていた。
聖女に選ばれたとなって、王都の神殿へ行ったばかりの頃、ロクな荷物もなかったけれど、それは向こうで用意すると言われていた。
確かに最初のころは支給されていたけれど、それだって一年程度だ。
二年目からは申請してもそれが通る事はほとんどなかった。
だからノンナは穴のあいてしまった部分を繕って、下着だってよれよれになったものをどうにか騙し騙し使っていたのだ。
そうして追い出された時は、これまた着の身着のままで。
ノンナの荷物なんて何もなかった。
持って行った物もほとんどなかったからいいけれど、もしそうじゃなかったら。
それすら手にする事を許されず追い出されていたのなら。
そう考えたら、ダニエルとの思い出の品だとか、そういう物を持っていかなくて良かったとさえ思ったくらいだ。
とはいえ、あの家に戻れなければ結局のところノンナの手元にはないままなのだけれど。
ノンナは別に聖女に選ばれたからとて、浮かれたりはしなかった。
王子の嫁になる可能性を示されても、心揺れる事もなかった。
ノンナにとって一等大切なのはダニエルだったから。
ノンナは幼い頃からおっとりとした子で、悪く言えばどんくさい子でもあった。
そんなだから、年の近い子と遊んでもすぐにその輪からはじき出されていた。
ノンナの周囲の子が皆活発な子ばかりだったのも、そうなってしまった原因の一つだったのかもしれない。
ともあれ、ノンナと遊んでもつまらない、とばかりに周囲はノンナをのけ者にしていたのである。
そんな幼いノンナが隣の家に住む男の子と出会う切っ掛けは両親だった。
お隣同士でそれなりにやりとりをしていたのもあったからだろうか。
身体があまり丈夫ではない息子は家から滅多に出られない、と聞いて、せめて話し相手になってもらえないかと言われて。
ノンナはそうしてダニエルと出会ったのだ。
本を読むのも好きだったけれど、ノンナの周囲の子は本なんてつまんないと言って外で遊ぶ方を好んでいた。
ノンナは読んだ本の感想とか、そういう話をしたかったけれど周囲の子はそんなノンナの話を聞いてくれなかった。
けれどダニエルはそうじゃなかった。
家の中にいるしかないダニエルもまた本をたくさん読んでいて、ノンナの知らない事も知っていた。
逆にダニエルが知らない事もあったけれど、二人はそうやって知っている事・知らない事を話して楽しく過ごしていたのである。
ノンナの両親が死んだ時、ノンナだってこのままここにいられない、とわかってはいた。
ノンナが暮らしていた家を一人で維持するには、とてもじゃないが難しかったのである。
家で暮らすにしてもそのために必要な物を手に入れるにはお金が必要で。
けれど両親が残してくれた財産だけで生きていくにも難しい。せめて働けるようになるまで持ちこたえられればいいが、それも難しい事をノンナは薄々察していた。
いっそ、なけなしの財産と共に孤児院へ行くしかないだろうか……と思っていた時手を差し伸べてくれたのはダニエルだ。
ダニエルの身の回りの世話をしながら、家の手伝いをする。そういう生活をノンナは許された。
別に身の回りの世話はしなくてもいいと言われたけれど、ノンナがやりたかったのだ。
少しでもダニエルと一緒にいたかったから。
両親がいなくなってしまって、ノンナには親しい人と言えるのがダニエルだけだったから。
ダニエルの両親は親切だけれど、親しいか、と言われるとちょっと違う。
優しくて親切だけど、ダニエルのお父さんもお母さんもダニエルの親であって、ノンナの親ではないのだ。
良くしてくれている、という言葉が適切だろうか。
ダニエルの体調は良い日もあれば悪い日もある。
そうして体調が最悪な日、このままではダニエルは死んでしまうかもしれない……そうノンナですら思ってしまった日。
ノンナは必死に祈った。
両親が死んで、ダニエルまでいなくなったら。
ノンナはきっと独りぼっちだ。
とにかく無我夢中で祈った。それくらいしかノンナにできる事がなかったから。
その祈りが。
神に届いたのだと知ったのは、少し後の話だ。
ダニエルが元気になってくれるだけでよかった。
奇跡が起きたのだとも思っていた。
外を出歩けるまでに回復したダニエルは、ノンナと一緒に町を歩いた。
元気になったからとノンナを置いていくような事がなかったのが、ノンナには嬉しかった。
ダニエルと一緒なら、どこに行くのも楽しかった。
けれどそれは、ノンナが聖女に選ばれたと言う神殿の使いが来るまでの、僅かな時間であったが。
ノンナは考える。
もしあの時、自分の年齢がもう少しだけ上で、ダニエルと結婚できる年齢であったのならば。
ダニエルと結婚していたのであれば、わざわざ王都になんて行かなくたって良かったのではないのかしら……? と。
王都になど行かないでずっとダニエルのそばにいたのなら。
きっと、そのまま幸せになれていた。
身に覚えのない噂を流されたり、悪意を向けられる事だってなかったに違いない。
そうしたらきっと。
ノンナは生まれ育った国を嫌う事もなかったはずだった。
国を追放された自分を追いかけてきてくれたダニエル。彼だって国を捨てる事もなかったはずなのだから。
自分を追いかけてきてくれた事は嬉しいけれど、それと同じくらいダニエルにも生まれ育った故郷を捨てるという決心をさせてしまった事だけが、心苦しかった。