平民聖女
メルバ国には三人の聖女がいる。
聖女というのは神の祝福を授けられた者たちで、なりたいと思ってなれるものではない。
神に選ばれし存在。
そのほとんどは女性であった。
稀に男性もいてその場合は聖人と呼ばれるが、メルバ国で聖人が現れた事は過去なかった。
世界には様々な神がいて、神によって授けられる祝福も異なる。
聖女がたった一人、という事はないのである。
そんな世界にそれなりに存在する聖女の中の一人、ノンナは平民聖女と蔑まれていた。
メルバ国で今まで聖女と認められた者たちは多くが貴族の娘であった。
それ故、だろうか。
平民のノンナの立場は思えば最初から低かった。
最初はそこまででもなかったけれど。
しかしこの国では聖女と王家、もしくはそれに近しい血筋の家とが結ばれる事が多くあったので。
平民であろうと聖女というだけで、ノンナにとっては雲の上の存在にも等しい高貴なる方々の嫁になる可能性が出てしまったわけだ。たとえノンナがそれを望んでいなくとも。
そしてその事態を良しとしない者たちが、それとなく噂を流した。
聖女といえど、ノンナの聖女の力など大した事がないのだと。
名ばかり聖女。
役に立たない。
そもそも本当に祝福が授けられたのかも危うい。
彼女の加護が何の役に立つというのか。
そんな風にひそひそと囁かれ、気づけばノンナの立場は――そもそも最初からあまり高くはなかったけれど――随分と低いものになっていたのだ。
メルバ国の三人の聖女。その中の一人が平民であるという事はつまり、残る二人は貴族の娘だ。
我こそが王子の嫁に、と思っていた二人の聖女たちは聖女としての務めを果たしながらも、その合間に友人たちを集め茶会を開き、そうしてノンナに対する取るに足らない噂を少しずつ流していった。
結果として多くの貴族たちはノンナの事を聖女であるからといっても、特に敬う事もなかった。
貴族だけではない。
神殿の者たちも、ノンナと同じく平民である市井の者たちも、流された噂にまんまと踊らされすっかりノンナの事は何を言ってもいい存在だと思うようになっていったのである。
聖女に選ばれた者はまず己が聖女なのだと自覚する事になる。
昨日まではそうじゃなくてもある日突然そうなったのだ、と漠然と理解するようになるのだ。
それだけなら、周囲が聖女であるなどとわかるはずもないけれど。
しかし同時に神殿に神託が下る事で誰が聖女となったのかがわかるようになっていた。
メルバ国では聖女とは神殿でその役目を果たすものとされている。
ノンナ以外の聖女は貴族の娘である事から、聖女としての祈りを捧げた後は自由に行動しているけれど、しかし平民であるノンナはそういうわけにもいかない。
ノンナが暮らしていたのは王都から離れた小さな町だ。
王都の神殿で過ごす事になったからとて、他の聖女のように馬車であちこち移動するような自由があるわけでもないし、そうなれば家と王都を気軽に往復などできるはずもなく。
聖女に選ばれた時だって、神殿から使いがやって来てそうしてノンナは少ない荷物と共に馬車に揺られて王都へやってきたのだ。何日もかけて。
最初のころはそれでもまだ、周囲はノンナに対して優しかった。
けれども徐々に、少しずつゆっくりとノンナに対する悪い噂が広まっていって。
そうしてノンナが気付いた時には手遅れであった。
メルバ国に限った話ではないが、どの国にも神殿があり、またそれぞれの町や村には教会が存在する。
神殿で祈りを捧げる事で、神の御業かそれぞれの教会を経由して聖女の加護が広まるため、国民にも充分に聖女の力の恩恵は与えられる。
多く存在する神が、必ずしも毎回聖女を選ぶわけではない。
今まであった加護が、聖女が召された時には消え、そうして新しい聖女は前の聖女と別の加護を持つ、なんてこともよくある話だ。
それでも、まだ国が発展する以前はどんな加護であっても人にとっては助けになるもので。
それ故聖女は尊ばれてきた。
けれどもそんな時代は遥か昔。
国が発展しつつある今はそうではなくなってしまった。
だからこそノンナが平民聖女として侮られ、嘲りを受ける事になっているのだが。
それでもノンナは毎日聖女としての祈りを欠かさなかった。
役立たずと言われようとも。無駄飯食らいと罵られても。
ノンナは日々、中傷をものともせずに淡々と聖女としての役目をこなしていたのである。
――しかし。
そんな姿を良しとしなかったのは、ノンナ以外の聖女だった。
戦の神の祝福を授けられた侯爵家の娘ディシュリー。
彼女の加護は兵士たちを強化し、戦においては有用となるもので。
その加護を受けた兵士たちは一騎当千の活躍をするようになり、王国周辺の魔物たちの討伐においてなくてはならないものとなっていた。
癒しの神の祝福を授けられた伯爵家の娘ガルシア。
彼女の祈りは神殿から教会へと広まって、大怪我をしたとして、医者が間に合わなくとも教会に駆け込み祈れば生きてさえいればその怪我はあっという間に治るため、王国内の死者はだいぶ減った。
残念ながら欠損などは治せなかったが、それでも生存率が大幅に上がったのは確かである。
そんな、目に見えてわかりやすい加護を与える事ができる二人の聖女は、王子の結婚相手に自らが選ばれる事を願っていた。
それ故に、ノンナの存在は邪魔であったのだ。
たかが平民。本来ならば恐れる事など何もない。
けれど、聖女という立場である以上、彼女が何かの拍子に王子の結婚相手に選ばれるかもしれない。
ただの平民であるならばそんな可能性はあり得ないと切り捨てられただろう。けれども聖女である以上、その可能性はゼロではなくなってしまったのだ。
ディシュリーもガルシアも美しい娘ではあるけれど。
ノンナもまた、貴族の娘とは異なる魅力を持った娘であった。
見栄えもパッとしない凡庸な娘であったなら、ディシュリーもガルシアもそこまで疎みはしなかったと思われる。けれども、もし彼女が王子の目に留まったならば。
見慣れた貴族令嬢より物珍しく周囲にいないタイプの魅力の持ち主だ、と惹かれるような事になってしまったら。
結果としてノンナが王子の嫁に選ばれてしまったら……
絶対にない、と言い切る事ができればよかったけれど、言い切れなかったがために二人はお互い特に手を組んだわけでもないのにそれぞれがノンナの事を貶めるような噂を流して彼女の立場を低くしていったのである。
ノンナに祝福を授けたのは命の神。
しかし彼女の加護は健康。
健康って言われても……別にその加護が働いているとは思えませんわ……
命の神ならば本当はもっと素晴らしい祝福が授けられていたっておかしくはないのではなくて?
そんな風にノンナの事を役立たずであるかのように茶会に招いた友人たちへ嘯いて、招かれた令嬢たちはディシュリーやガルシアの言葉を聞いて、あのお方が言うのなら、もしかしたら本当に大した役には立っていないのかもしれないわ……と他の友人たちとの間で話題にし、噂は少しずつ歪められて広まっていく。
結果としてそれが事実であるかのように。
ディシュリーとガルシアの企みはそういった意味では大層効果的であった。
ノンナがそれらを否定しようにも、彼女は普段神殿で生活し、滅多に外で活動するような事もなかった。
悪い噂が流れてからは、人々の視線に耐えたとしてもいつなんの拍子で傷つけられるかわからない、となれば気軽に出歩ける事もなくなり、一層神殿に引きこもって聖女としての祈りを捧げるばかり。
祈るだけで何かを成したわけでもない、と思うようになった神殿でもノンナの立場は低いものではあったけれど。それでも明確な暴力はなかったからこそ、ノンナは神殿の中にこもりきりだった。
ディシュリーとガルシアの印象操作。
ノンナは神から祝福を授けられ聖女となりはしたけれど、誰から見ても優秀だと言えるような優れた能力を持っているわけではなかった。聖女になる前はどこにでもいる普通の少女だったのだ。
そんな平凡な少女が、悪意を持った貴族の娘の謀を華麗にどうにかできるなんて事は……残念ながらなかったのである。
王子だって最初からディシュリーとガルシアの言う事をまるきり全部信じたわけではない。
けれども自分が良く知る二人が揃って言うものだから。
知らずのうちにほんのりと良い印象を持てなかった。それこそ、王子本人ですら気付かないうちに心の奥底に根付いてしまっていた。
神殿でノンナを見て少しだけ話をしたりもした。
けれどその結果――
ノンナはディシュリーとガルシアとは異なる愛らしい少女かもしれないが、中身はどこまでも凡庸。取るに足らない娘だと――そう、王子は判断してしまった。
ディシュリーとガルシアが言う程悪い娘ではないかもしれないが、しかし二人が言う事をきっぱりと否定しなければならない程優れた娘でもない。
そして彼女の聖女としての力もまた、具体的な効果があるとは思えなくて。
王の側近がかつて零していた言葉を思い出す。
悪い奴ではないのだが、無能というだけで悪く思えてくる。
そう言っていた者は確かにいた。
そして当時の王子はそこまで思わなくてもいいだろうに……と思ったけれど、しかしノンナと少し話をしたことで、あの言葉の意味をなんとなくだが理解できてしまったのだ。
確かに彼女は善か悪かで言えば善なのかもしれない。
聖女に選ばれるくらいなのだから、そうなのだろう。
けれど、それだけだった。
聖女に選ばれたけれど、聖女に選ばれた割に……というのが王子の嘘偽りのない思いだった。
ディシュリーとガルシアは貴族令嬢として相応しい教育を受け育ってきた。
そしてそこに聖女として選ばれたと言う自負もあっただろう。
聖女の名に恥じないよう、聖女としての力を使い国を支える。
それに誇りを持っていたはずだ。
だからこそ、そんな自分たちと同列の立場にあるノンナの凡庸さがきっと許せなかった。
王子はそう結論づけた。
ノンナは毎日のように神殿で聖女として祈りを捧げていると聞いていたが、しかしその効果はわからなかった。
試しに数日祈りを止めさせてみたが、誰も、何も違いに気づけなかったのだ。
成程、これは意味があるのかと周囲も口々に言うわけだ……と王子は納得してしまったし、そうなってしまえばますますノンナの立場は低いものへとなってしまった。
何せ王子からも意味があるのか、と存在意義を問われるようになってしまったのだ。
王族がそう見なしたのであれば……と周囲は一層ノンナに対して冷たくあたるようになっていった。
神託を受けノンナが聖女であると言った司祭たちも。
あれは何かの間違いだったのではないか……? と神の声を疑問視するようになりつつあった。
そんな中で何か、ノンナが目に見えてわかりやすい奇跡でも起こしていたのなら、その疑念は払拭された事だろう。けれどもノンナにはそんな奇跡を起こせるような力はなかった。
そうしてノンナは。
聖女として十二歳の頃にやってきた神殿を、偽りの聖女であるとされ十五歳で追い出された。
ノンナが自分から聖女であると宣言した事はなかったのに、聖女を偽ったとして彼女は罪人として国を追放される処分が下されたのだ。
神殿に来る際に持ってきた荷物は極わずかで、それもとっくに形など残されていなかった。
実質着の身着のまま追い出されたそれは、メルバ国以外のどこぞで野垂れ死ねとばかりのもので。
「家に帰る事も許されないのね……」
そんなノンナの呟きは、国境にある関所から突き飛ばした兵士の耳にも届いていなかった。
神と人との価値観は異なるので、聖女だからといっても清廉潔白ではない。