故国へ
富が富を呼び、小さな商会を手中に収めてハインズ商会は大きく育って行った。長男のチェイスが十歳になるころには、オルトン皇国でも大手の商会と呼ばれるようになった。
急激な成長は、他人の妬みを買うということはある程度は分かっていたつもりだった。日が当たれば闇も深くなる。でも人には闇を抜け出す力があると信じていた。私たちは常に誠実に商売をしていたつもりだったので、危害を加えられるとは思ってもいなかった。
ある日の夕方、交渉帰りのマーレイが暴漢に襲われた。それほど治安の悪い地域ではなかった。秘書も一人ついていたのにもかかわらず、その暴漢は刃物を持ってマーレイめがけて突進してきた。マーレイも持っていた傘で応戦したが、その暴漢は『お前のお蔭で俺たちの生活はめちゃくちゃだ』と言っていたという。
秘書が大声を出すと彼は慌てて逃げて行った。
暴漢はすぐに捕まった。秘書が以前に彼を見たことがあったからだ。
良く調べてみると、彼は小さな商会を経営していたが、ある投資に失敗して財産を失った。私たちと直接関係があるわけではなかった。日頃、奥さんにハインズ商会の会長であるマーレイと比べては良く嫌味を言われていたらしい。その奥さんも子供と出て行き、失意の中、こうなったのもマーレイのせいだという考えに囚われてしまったという。
マーレイはその時は一命をとりとめた。だが、ほっとしたのもつかの間、その傷は深く、中々治らずに一進一退を繰り返していた。結局、それが元で事件から三か月後に彼は帰らぬ人になってしまった。
マーレイは亡くなる間際に高熱に苦しみながら私に言った。
「すべてを置いて逝く僕を許してくれ。君と子供の幸せだけが僕の願いだ。君が望むなら再婚したっていいんだよ。僕に遠慮することはないからね」
マーレイが亡くなった後は、私は何のために生きているのかわからなくなった。マーレイと一緒だったから仕事が楽しかったのに。彼との未来があると思っていたから頑張ったのに。
葬儀が済んだ後、私はもう何もする気が起きず、ベッドの中で丸まって後悔と悲しさの波が交互に押し寄せる中を漂っていた。
そんな私を布団の上からやさしく撫でながら母は言った。
「しっかりしなさい。こんな姿のあなたをマーレイが喜ぶと思っているの? 子供たちもいるし商会もあるのよ。あなたはすでに責任ある立場なのよ」
そして、ようやく我に返った。
悲しんでいる暇はない。私がすべてを守らなくてどうすると自分を奮い立たせた。
とにかく世の中には自分は何もせずにすべて人のせいにする人がいる。私たちが狙われやすい立場ならそれを防がなくてはならない。それに、もう少し情報に精通していたらマーレイのことも防げたかもしれない。
私は伝手を頼って、国の情報機関の退任者や騎士を中心に、私設の警護機関を作ることにした。
もちろん、私や子供たちを守ることも仕事。市井や国内外の情報を得ることも仕事。また、望む人には契約をして警護をすることで活動費を捻出することにした。
それから三年ほど経過して、この私設警護機関が軌道に乗って来た頃にいろいろと情報が入ってくるようになった。
エルサス王国についてはずっと気にしていたが、自分たちのことで精いっぱいでエルサス王国の内部で何が起きているかまではあまり良く知らなかった。
まず、私たちが避難した一年後にあの国の三分の二ほどがリジット王国に支配された。それに伴い国王と王妃、宰相などの重鎮が処刑された。
王太子とレリアはその前に亡くなったらしい。一説によると、王太子の愛が暴走してレリアを殺して自分も死んだと言う。
それを聞いたときに、なぜか父が領地の地図が見当たらないと話していたことを思い出した。
あれはもしかするとレリアの仕業ではなかったのか。飛躍のしすぎかもしれないが、彼女は敵国の情報機関の人間だった可能性もある。そしてフィリアスのレリアに尋ねていた言葉も思い出した。
フィリアスはもしかするとレリアを疑っていた?
王太子は彼女が敵国の情報機関の人間だと分かって、殺した?
でも彼はレリアをとても愛していたから、自分も後を追った?
あくまでも想像でしかないので、これ以上考えるのはやめた。
さて、当時十二歳の第二王子だけはかろうじてリジット王国の支配の及ばない南側に逃げることができ、王子を陰で支えていたファメル公爵と共に反撃の機会を伺っていた。後にクリント第二王子はエルザ嬢と結婚している。
侵略と戦争で疲弊したリジット王国は内部分裂を始め、リジット王国に支配されてから八年後、反撃ののろしを掲げたファメル公爵たちは元の国土を奪い返した。その戦いにはフィリアスもかなり活躍したらしい。
情報を得た時点ではクリント第二王子が国王となりエルザ王妃やファメル公爵と共に国の復興に力を注いでいて、フィリアスも将軍と侯爵の地位を得たという。
もちろんオルトン皇国もこの反撃に影で援助していたことは、私も知っていた。ハインズ商会もいくらかを拠出したからだ。
でも、まだ故郷に戻る時期ではないと言うことも分かった。ハインズ商会の扱っているものは、いわゆる贅沢品が多かったから、治安の安定していない所に出店するのはリスクが大きかった。そして何よりもマーレイがいないことが、私の心に重くのしかかっていた。
ただ、まだ地価が安いうちに中央通りの一角を購入することには躊躇しなかった。
しばらくして契約のために故国に向かった。ちょうど航路も再開されたこともあり、五日ほどで故国の南の港に着いた。南から北の王都へ向かうのは以前は二週間はかかったのに復興のために道路が整備されていて十日ほどで王都に入ることができた。
もちろん護衛と従業員を連れての旅だ。南の方は農作物も順調に育っている様子だったが、北に行くにしたがって、荒んで行き、王都の有様には呆然とした。戦争の被害のほか、リジット王国の人々がこの国を引き上げるときめぼしいものを持って行ったという。しかし王都の人々の士気は高く、いずれ以前の姿を取り戻すだろうと思われた。
この時は故郷の領地に赴く時間も覚悟もなかったので、契約を済ませるとすぐに王都を後にしてオルトン皇国に帰った。
その後は、エルサス王国に人を派遣して、四階建ての建物を作り現地の従業員を募集した。大きな建物にしたのは、少し冒険をしてみたかったからだ。
その建物に、評判の良い店を誘致して、市場のようではなく余裕のある空間に店を置き、貴族や市民の裕福な人たちがゆっくり品物を選べるようにしたかった。商人を家に呼ぶのではなく、こちらから店に行き。好みの物を見つける。復興の時は新しい形が受け入れやすいと思った。
同時に優雅なカフェも開設することにした。
日常生活では、子供たちが学園を卒業したり、リセルが恋をしたりと、小さな出来事は深い悲しみを少しずつ癒していった。
母も子供たちが大きくなると、得意だった刺繍を再開して、小さな店を持ちそこをサロンにして友人たちと語らったりと人生を楽しみ始めていた。
リセルの恋が実って結婚した時には嬉しくて涙が止まらなかった。リセルはどんな豪華なウェディングドレスでも誂えることができたのに、マーレイが私に作ってくれたウェディングドレスを上手に手直しして結婚式に着た。
チェイスも大好きな人との結婚が決まったので、そろそろ故国の商売に本腰を入れようと思った。
何とか日程を調整して、一か月ほどをかけてエルサス王国に出張することした。そして、今回こそは故郷に向かおうと決めていた。
王都での仕事を終えた私は二十二年ぶりに故郷に降り立った。懐かしい山や川はそのままに優しく私を迎えてくれた。農地も少しずつ回復していた。いろいろな思いが閉めたはずの引出しから溢れ出て来る。
護衛も秘書もいるので、泣くわけにもいかず何とか涙を耐えた。
ルドウィン伯爵家の領地は、今はフィリアス・ウェイド侯爵の領地になっていた。戦功としてこの土地を与えられたという。フィリアスが欲しがったのかは知らないが、彼は先祖の墓の中の一角に父の墓を建ててくれていた。父には、たくさん話すことがあったはずなのに、ただ『生きていて欲しかった』としか言えなかった。
そして領主の館も以前とそっくりなものが建てられていて驚いた。だが、領主館に入る気は無かった。護衛を周りに置き、ただ門扉のところからその建物を眺めていた。
「お嬢様?」という声が聞こえたので振り返ってみると、一頭立ての馬車に乗ったモイセスが護衛の後ろから私に声をかけていた。
ギグから降りてこちらへ来ようとしたモイセスを護衛が止めようとしたので、「大丈夫よ」と言ってモイセスを通してもらった。
「お嬢様、こんなところではなんですから、ぜひ館の中へお入りください」
「この館はフィリアスの物でしょ? 彼に許可を得ていないから入らないわ。それに船に遅れたくないから今日はもう帰るの。フィリアスがあなたを雇ってくれたの?」
「はい、偶然にお会いしまして、ここで仕えてお嬢様が帰るのを待っていてくれとおっしゃいまして」
「もう私の家ではないし、今の私はジーナ・ハインズと言って帰るところはオルトン皇国にあるの。でもこうして父のお墓や以前と同じような家を建ててくれたことは彼に感謝しているわ。彼によろしく伝えてね」
「お嬢様、ぜひウェイド閣下にお会いしてください」
「こちらで商売をする予定だから、そのうち会うわよ」
モイセスはとても残念そうだったが、私にもいろいろと予定がある。手紙を書く約束をして故郷を立ち去った。
そうして、こちらに戻ったのが昨日だった。
今日の午前中は少しのんびりして疲れを取り、午後に商会長室に出向いた。留守中に溜っていた書類を精査していた時に、秘書から「エルサス王国の将軍、フィリアス・ウェイド様がお見えになってます。予約はされていませんけれどもいかがいたしますか」と聞かれて、とても驚いた。
なぜなら私の名前も以前とは違うし私がハインズ商会の商会長と言うことも彼は知らないと思っていたからだ。なるほどモイセスから私の名前を聞いたにちがいない。それにしても展開が早すぎる。第一、彼が私に会わなければならない理由が全く思いつかなかった。
しかし、わざわざこのオルトン皇国まで出向いたと言うことはよほどのことなのだろう。
少しの間、迷っている私を見て秘書が「お断りしますか? それとも護衛を入室させましょうか?」と言った。私は笑って答えた。
「会うわ。大丈夫よ。彼はエルサス王国の英雄だから、護衛がいてもきっと役に立たないと思うわ」
フィリアスは部屋に入ってくるなり、挨拶もそこそこに私の前で跪いた。さらに私の両手に彼の手を重ねて変わらぬ薄紫の瞳で私を見上げた。この一連の動作があまりにも素早くて私は口をはさむ余裕がなかった。
「やっと会えた! 良かった! どんなに捜したことか。君に会って結婚の申し込みをするまでは死ねないと思っていた」
若い頃とは違ってすっかり逞しくなった体、綺麗だった顔には額と頬に傷が浮かんでいた。
たしかにフィリアスではあるのだが、この人の言うことがさっぱり分からない。
「ウェイド将軍閣下。失礼ですが誰かとお間違えではないでしょうか? 今現在、私たちは何の関係もありませんよね? それに、私はすでに結婚して成人した子供も二人おります」
「慌てて調べたから、それは知っている。未亡人と言うことも知っている。それでも君は私の婚約者だ。今までのことを順を追って話すから聞いてほしい。時間は大丈夫かな?」
「今日は書類精査以外の予定は入れておりませんので大丈夫ですが、まずはそちらのソファにお座りください。いまお茶を用意させますので」
彼は私から目を離すことなく頷いて手を離し、来客用のソファに座った。
そして秘書に頼んだお茶がテーブルに置かれてすぐに、彼は七歳の頃の出来事から話し始めた。