婚約解消
私が十五の半ばを過ぎた頃に、この国の王都に次ぐ大きな都市で医局長をしていた父の弟、つまり叔父のチャードが、宮廷医局長として王都に戻って来たのだ。
叔父は長い間独身を貫いていたが、こちらに戻る少し前に結婚した。そしてその人には私と同じ年の連れ子がいると言う話だった。
しばらくして叔父が伯爵家の王都の屋敷に夫人と娘を連れて挨拶に来た。
夫人のエメリンは思ったよりも若く、黒に近い栗色の髪をアップにしてそれは妖艶で美しかった。
そして彼女の娘のレリアは、ゆるくカールされたラベンダー色の髪と緑の瞳が印象的なとても可愛い少女で、女性の私から見ても守ってあげたくなるような魅力を持っていた。
レリアは、何故か頻繁に我が家に出入りするようになった。私も時折お茶会をする女友達はいたがこのように自然に私の生活圏に入ってくる女の子はいなかったので興味をそそられた。
そして、彼女は一か月ほど早い生まれだと言う私を「お姉様」と呼び、フィリアスに対しても「お兄様」と呼び始めた。
フィリアスは当初は「君の兄ではないが」と渋っていたが、「いずれお姉様と結婚するのだから、お兄様と呼んでもかまわないでしょう」と首を僅かに傾けて人好きのする笑顔でそう言われて、彼も嫌とは言えなかったようだ。
その動作は男性に対しての媚や甘えだったと今になればそう思えるのだが、その頃の私にはわからなかった。
彼女は、マナーもどこで覚えたのかは知らないが悪くはなかったし、頭もいい。控えめなところもある。本もよく読んでいるようで話題も豊富だった。両親の受けも良く、使用人からの評判も良かった。心のどこかでフィリアスも彼女に惹かれるのではないだろうかと、彼女を見るたびに落ち着かない気持ちになった。
フィリアスも当初はそれほど彼女に興味を持っている様子が無かったが、彼女との出会いから四か月を過ぎた頃から、彼は彼女に会うたびに、いろいろなことを尋ねるようになった、
例えば、
「何処で勉強をしたの?」とか「お母様が結婚する前は何処に住んでいたの?」とか「どんなことに興味があるの?」とか「いろいろな国の言葉も得意そうだよね。良かったら話してみてよ」などと。
今思えば、恋する人に聞くような内容ではなかったかもしれないが、まだ十五の私には、彼がレリアのことを気にしているという事実で十分だった。
フィリアスが来ている時に私が応接室に行くと、レリアはすでにそこにいて、フィリアスの指にそっと触れながら彼と熱心に話し込んでいたこともあった。
フィリアスが慌てて「最近、レリア嬢の読んでいる本について聞いていたんだ」
そう言っていたが、私の心は少しずつ深い泉の中に沈んでいくようだった。
父からは常々「フィリアスの婿としての資質を知りたいから、何か疑問に思うようなことがあったらいつでも遠慮なく私に言いなさい」と言われていたので、応接室での事も父に話した。
「もし、フィリアスがレリアを好きなまま私と結婚するとしたら、とても耐えられそうにないのです」
そのくらい我慢しなさいと言われるかと思ったが
「彼はジョジーナを大切にしているとは思うが、レリアか......。心に留めておこう」
父のその言葉にとても安心したのを覚えている。
レリアは王宮の義父である叔父のところにもよく顔を出していて、王宮で王太子殿下と偶然に知り合ったとも言っていた。
王太子殿下には、大きなお茶会などで沢山の人と一緒に挨拶したことはあったが、まともに口を利いたことさえないので私はとても驚いた。
「すごいわね、綺麗な容姿の方としか知らないわ。どんな方なの?」
「とても優しくて凛々しい方よ」
「騎士団長の息子さん、えーと、なんて言ったかしら。そうそうゲイリー様。彼がいつも王太子の傍についていらっしゃるので、彼ともお友達になったわ」
ゲイリー様と言えば、フィリアスと同期で今は王太子の護衛の一人だとは、フィリアスから聞いていた。
「レリアは可愛いから、だれもがレリアのことを好きになるのね」
「何言ってるの。お姉様だって、すごく綺麗なのに」
「え、こんなに地味なのに?」
「地味だなんて。お姉様のような綺麗な人はあまりいないわよ。お化粧をしてドレスを着たら男の人が放って置かないわ。だからなのね。お兄様が他の男の人にお姉様をあまり会わせないのは。ふふっ」
レリアは人を褒めるのが上手だった。容姿や着ている洋服、性格にいたるまでその長所を褒め称える。
だからフィリアスとのことが気にはなってもレリアを嫌いにはなれなかった。
それからしばらくして、レリアが気の塞いでいる様子を見せたので、何があったのかと尋ねてみた。するとあまりにも予想外のことを言われた。
「王太子殿下が私と結婚したいから、ファメル公爵令嬢のエルザ様との婚約を破棄すると言っているの。私は一応貴族籍ではあるけれど、お義父様には爵位がないし平民扱いになるわ。結婚出来るわけがないのよね。ゲイリー様やマックス様からも結婚しないかと言われたし、どうしたらいいか分からないの」
「マックス様って、宰相のご子息の?」
「ええ」
「......」
私は何と答えていいのか分からなかった。
「ごめんね。驚かせちゃって。やはりお兄様に相談してみるわ」
そう言って帰って行った。
私が珍しく風邪を引いて熱を出したのは、それから間もなくだった。
フィリアスにもレリアにも風邪をうつしたくないからと言って、見舞いは遠慮してもらった。
熱も下がり、起き上がれるようになった時に、フィリアスが黄色い薔薇の花束を抱えて部屋に飛び込んできた。
カリンに花束を預け私の両手を取り自分の額に当てた。
「良かった! 元気になって本当に良かった。ものすごく心配したよ」
この人の気持ちは何処にあるのだろうと、どこか冷めた気持ちでそれを聞いていた。その時、彼の気持ちをきちんと確かめていたら、これから起こることにあれほど動揺することは無かったのかもしれない。
「大丈夫よ。今日はとても気分が良いの。いつものサロンで待っていてくれる? 着替えたら行くわ。気分転換にもなるし」
「分かった。無理しないでね」
彼が部屋を出て行った後、傍にいるカリンに着替えさせてもらいカリンの手を借りてゆっくりと歩いてサロンに向かった。
ちょうど中庭が見えるところに来た時にカリンの足が止まった。カリンがじっと見ている方向に目を向けると、こちらに背を向けたフィリアスの首にレリアの手が巻きついていて、あたかも恋人同士の二人がキスをしているように見えた。そしてレリアの片手には赤い薔薇が一輪、握られていた。
フィリアスが黄色い薔薇を良く持って来るので、それとなく花言葉を調べたことがある。黄色い薔薇は「愛」。
博愛なのか、愛を育みたいのかは分からないが、そういう意味なのだろうと思っていた。
赤い薔薇一輪は「愛している」「一目ぼれ」とより現実的な意味合いを持っていた。
「カリン、部屋に戻ろう」
「はい」
その後、フィリアスが私がサロンに来ないことを心配して部屋に来たが、気分が悪いとカリンに告げて貰い入室は許さなかった。もちろん見舞いに来たと言うレリアにも入室させなかった。
来るべき時が来たのだと思い、その時は涙も出なかった。私はその夜、すぐに父に今日見たことを告げて、彼とレリアを二度と我が家に入れたくないと言った。
「婚約は解消させてください。彼と結婚する気にはなれません。三年半が三秒で終わるなんて思いませんでしたが、これで良かったと思います」
父もカリンという証人もいることから、私の願いを受け入れてくれた。
「わかった。書類を整えるから、三日後に公爵家に行って婚約解消を申し入れよう。どうする? 一緒に行くか?」
そう問われて、一瞬躊躇したが、きちんと決別することが三年半を婚約者として過ごしてきたことへの礼儀だと思った。
「はい、行きます」
執務室を出ようとしたときに父が私を呼び止めた。
「ジョジーナ、この机の上に置いてあった、領地の地図を知らないか?」
「いいえ。それがなにか?」
「領地の地図は他にもあるが、その地図は割と細かく書いてあるものなのだ。この部屋に入って地図を持ち出すことのできるのは私と家令のモイセスだけだ。私たちが在室していない時には鍵を掛けている。実は今日、私がこの部屋に入ろうとした時に鍵がかかっていなかった。モイセスに尋ねたが彼も鍵を必ずかけるのでと言いながら首を傾げていた」
「ということは、誰かが盗んだと言うことですね」
「ああ」
「何のために?」
「少し気になる話しもある。それに関連していないと良いのだが。大丈夫だ。お前はまだ病み上がりなのだからゆっくり休め」
「はい、ではお休みなさい」
その後、部屋で一人きりになった私は、
「大丈夫。予想していたことだわ。遅かれ早かれこういうことになったのなら結婚前で良かった」
そう自分に言い聞かせたが、フィリアスやララと共に過ごした楽しい日々がよみがえり、さすがに流れる涙を抑えることはできなかった。
三日後の公爵家では、寝耳に水の話で公爵夫妻がひどく驚いていたが、たとえ公爵家と言えども結婚する前に不貞を働いた息子を婿にせよとごり押しはしなかった。
父が書類を差し出し、
「当方のサインは全て済ませてあります。後は公爵閣下にサインしていただければ、今日中にでも役所に提出してきます」
「婚約解消は仕方がないと思う。だが陛下への報告も必要なので、一度これを預からせてくれないだろうか?」
「ジョジーナには次の婿を捜さなければなりませんので、出来るだけ早くお願いしたいのですが」
「分かった。提出し終わったら連絡しよう」
「よろしくお願いします」
その時、応接間の扉が開け放たれて、フィリアスが駆け込んできた。
「婚約解消ってどういうことですか?」
「あなたが、レリアとかいう娘と不貞を働いたからに決まっているでしょ」
公爵夫人の冷たい言葉に、彼は目を見開いてその場に固まった。
「え?」
「三日前の伯爵家の庭で、ジョジーナ嬢とメイドが見たそうよ。大胆なことをするのね」
「違う! あれはレリア嬢が目にゴミが入ったからと勝手に僕の首に腕を回して来ただけだ」
私は首を振った。たとえそうでも十五の潔癖な年頃の少女には許すことなんてできなかった。
「ジョジーナ。信じてくれ。僕の愛しているのは君だけだ。君がずっと好きなんだ」
「初めて聞きました」
「え? 言ってなかった?」
その場で頭を抱えて蹲ったフィリアスは「僕は馬鹿だ」と何度も頭をたたいていた。
「フィリアス様、あなたは以前からレリアに随分興味を持たれている様子でしたわ。あなたが私を好きだなんて信じられるとお思いですか?」
「それは......今は言えないけれど......、レリア嬢に興味なんかなかった。僕には君だけだ」
「あの時、レリアの手には一本の赤い薔薇が握られていたわ。その意味もお分かりでしょ?」
「それも僕じゃない!」
「フィリアス、いい加減にしろ! 見苦しい。もう婿の話は終わったんだ」
そう、すべては終わった。もうここには来ることもない。
「お父様、帰りましょう。フィリアス・ウェイド様、レリアと幸せになってください。ライバルが多そうですけれど」
私たちを追いかけようとして従者たちに羽交い絞めにされているフィリアスを残し、私たちは公爵家を後にした。
その夜、フィリアスは我がタウンハウスの門の前で雨に打たれながら私の部屋を見上げていた。
傷ついたのは私のはずなのに、なぜか彼を傷つけたような気になって顔をそむけた。