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憑き物落し  作者: 独楽
1/2

伽藍の檻

 

      「九十九落し」


                   一


他愛もない話し声が何よりも心地好く聴こえるものだ


永遠に聞き続けることが叶わないと理解しているからこそなのかもしれない


濡れ縁に座して娘の淹れてくれたお茶を静かに口にはこぶ


皺だらけになった唇が微かに湿った


もう幾許もない自身の命をどう過ごそうか


最近はそればかりを考えている


生に執着しているわけでもないのだが


最近はやけに娘が孫を連れて遊びにやってくる


とても嬉しく幸せな一時を過ごしている


これ以上になにを望むべくもなく


そして、


これ以上になにがしたいわけでもない


私の一生は今燃え尽きようとしているのだから


色々な経験をした


様々な人と触れ合った


幸福だった


孫娘が庭で拾った石を私に持ってきた


『くれるのかい』


『うん』


それはとても不思議な色をした石だった


陽の光を浴びたその石は薄い緑色に輝いている


よくこんなに綺麗な石を見つけたものだと、孫娘の頭を優しく撫でた


そう云えば、


もう何十年も昔の事だ


こんな色に輝く石を私にくれた女性がいた


名はたしか、





                   二


『長谷川・・・千鶴子さんでよろしいですかな』


彼女は自分の名を呼ばれると、軽く頭を下げた


今までそれなりに沢山の依頼人に会ってきたが


ここまで端整な顔立ちの女性に逢った事はなかった


白粉を全身に塗りたくっているのではないかと錯覚してしまいそうなほどに白い肌


しかし、唇だけはやけに紅い


彼女が派手に化粧を施しているようには見えない


元々が良いのだ、下手に化粧をしては逆効果なのだろう


『片瀬からあなたが今日お見えになる事は如何っていますが、どのようなご依頼で』


私がそう訊くと、彼女はもう一度頭を下げて口を開いた


『実は、主人の事でご相談が』


私の友人でたまに仕事の斡旋を頼んでいる片瀬真一が、どこで知り合いになったのか


長谷川千鶴子の事を私に依頼してきたのは先週末に私の家で酒を酌み交わしている時であった


実を云えば、この千鶴子と云う女性の悩み事は片瀬からすでに聞かされていたが


私は敢えて彼女に訊いた


『ご主人が、どうかされましたか』


『はい、 主人の長谷川 要は物書きをしておりまして』


『ほう、ご主人は小説家ですか』


これもすでに知っている事である、だが私は知らぬ振りをした


『ええ、ですので仕事柄様々な町に出向いては家を留守にする事が殆どでした』


千鶴子は控えめに私の顔を見上げ、さらに話を続けた


『主人に異変が起きたのは昨年の暮れの事でした』


千鶴子の夫で長谷川 要は作家である


仕事で諸所を旅歩く事が多い


昨年の暮れ、今から三ヶ月程前になるが


長谷川がとある廃寺を取材して家に帰ってきた


だが、帰宅した長谷川の様子がどうもいつもと違う


食事を一切摂らなくなったのである


かと思いきや、真夜中に突然起き出して飼っている鶏を毛も毟らずに生で喰ったり


朝は一切声を出さず、夜になると突然喚き声を上げる


そんな奇怪な行動をここ数ヶ月毎晩のように繰り返しているというのだ


そんな長谷川の邸宅には三人の使用人がいたが


皆、不気味がって暇を取っている


どうにもこうにも参ってしまった千鶴子はたまたま知り合った片瀬に、私の事を聞き


今に至る、と云うわけである


『どこか精神を患ってしまったのか、とても私どもでは分かりきれませんもので』


『医者には、お診せになられましたか』


『ええ。 ですが、どなたに診せても精神に異常をきたしているとしか』


医者が匙を投げるのも無理はない


『ご主人は、日頃から諸所の神社やお寺に行かれておりましたか』


千鶴子はしばらく考えてから


『いいえ、仕事で極稀に尋ねる事はあったと思いますが』


『そうですか』





                  三


『で、どうだったんだ』


『何がだ・・・』


片瀬真一は口元まで運びかけた杯を盆の上に戻すと


隣で飄々と美酒に舌鼓している友人、三舟驟雨を凝っと見据えた


『千鶴子さんの依頼の件だよ』


『ああ、その事か』


『その事とはなんだ、人がせっかく仕事を持って来てやったというに』


『おいおい、真一よ』


『なんだ・・・』


『お前が俺の食い扶持を心配しているのか、それとも真意は別の』


そこまで云うと、驟雨は少し間を擱いてから


『そうだな、下の心にあるのか』


驟雨の酒に濡れた唇が微かに吊り上る


真一はようやく酒を口に含んだところだったが、含んだ分をすべて庭先にぶちまけた


『ば、ばか・・・。 驟雨、俺はなあ』


『ははは、冗談だだよ。 もちろん依頼を受けたさ』


驟雨がそう云うと、真一はぱっと表情を一変させて喜んだ


『だが、長谷川要に憑依している憑き物が、果たして俺の手に負える喪のかどうか』


『お、おいおい・・・・。 冗談だろ驟雨、お前の手に負えない喪なんて』


驟雨は肴にしているイカの塩辛を一口食べ、それからゆっくりと口を開いた


『いいか、真一。 俺にだって出来ない事は沢山あるんだ。 人は出来る事と出来ぬ事を考えた時に、対等になる』


片瀬真一は顎の無精髭を右手で掻きながら渋い顔をした


『む、ん、つまりどう云う事だ?』


『つまりはそう云う事だよ』


真一は益々渋面を強めて、杯に残っている酒を飲み干した


『なあ驟雨、俺は頭が良い方ではないんだ、出来るならもっと理解し易い説明を願うよ』


驟雨は ははっと軽く微笑むと、また一口イカの塩辛を口に運んだ


『つまりだ、人がこの世で出来ぬと思っていることと出来るかもしれぬと思っていることの数は、同じだと云う事だ』


真一はここで初めて納得したような顔をした


『なるほどな。 では、今回の依頼は出来るのではないか。 そう判断した結果なのか?』


『そうなるな』


『しかし、そんな曖昧な自信で本当に大丈夫なのかぁ』


『まぁ、実際に長谷川要と会って診ない事には正確なことは云えんさ』


『それもそうだな。 仮にお前が手に負えなかったらきっとこの世の何人の手にも負えぬという事だからな』


『それは違うと云うに・・・・。 お前はつくづく面白い男だな』


今夜は望月だった


濡れ縁に座し、明かりは点けずともそれなり風情ある明るさになる


初冬と云っても昼にはそれなりの残暑が残る


だが、その暑さも夜には消え去り冬の風を庭一面に呼び込む


熱燗が段々と美味くなる時季であるから


驟雨の家で真一が呑みに来る階数も普段より増えるというもの


だが、二人にとってはこのヒトトキが何よりも心安らぎ 愉しいと思える時間


そんな時間が増えるのはお互いにとって益のあることは間違いなかった




        四


霊峰である飯盛山の麓、竹林の間に長い小道が続いている


その先にある木造の平屋が、長谷川邸


今では妻の長谷川千鶴子と夫の要以外は誰も居らず、物静かな佇まいを醸し出している


二人で住むには余りにも広い家である


長谷川邸へと続く小道を歩きながら、片瀬は驟雨に小声で話しかけた


『なあ、驟雨・・・。 小説家とはあんなに儲かる職業なのかな』


先頭を歩く千鶴子には聴こえないぎりぎりの声音で話しかけた片瀬


三人の真ん中を歩く驟雨は少し首を後ろに向けて『人それぞれだろ』、と微笑を含んで応えた


驟雨は白地の色無地を少しだらりと着こなしている


それに比べて片瀬はしっかりとネクタイを締め、昨日新調したばかりの上着を着込む洒落を凝らしていた


『それにしてもその格好で寒くないのか』


昼間のこの時間でも、さすがに風は真冬の到来を肌で感じる程に寒くなっていた


木々の紅葉はとっくに終わりを迎え あちらこちらに山茶花や椿の花が目立つようになっている


驟雨の姿は春先か初夏の時季に着用する着物である


大柄な片瀬は、見た目に反して低血圧な為 冬場は特に厚着をしている


『そりゃあ少しは寒さも感じるが、それはそれとして対処はしているさ』


曖昧な驟雨の言葉に納得できずにいる片瀬だったが、先頭を歩く千鶴子が二人に向き直り


『こちらでございます』 と声を掛けたものだから、片瀬真一は一瞬にして顔を強張らせた


もはや驟雨の着物の趣味をとやかく言う余裕はなくなっていた


目の前には立派な門構えの長谷川邸があり、石畳の上をしばらく歩くと、玄関が見えてきた


三人が玄関の前まで案内されてくると、右手の方になにやら古い土蔵があるのが窺えた


 驟雨はしばし立ち止まって、土蔵を見据えた


 『どうかなさいましたか、驟雨様』


 千鶴子が怪訝そうな顔で驟雨を見る


 『いえ、ただ古い蔵がありますが、中にはなにが』


 『ああ、もうずいぶんと古くからあるお蔵でして、主人がよく書物の保管に適しているからと』


 『では、あの中には書物だけ・・・・保管されていると』


 『えぇ、おそらくは。 鍵も主人しか持っておりませんので詳しくは存じませんが』


 『そうですか』


 それ以上驟雨は何も訊かず、千鶴子は二人を家の中に招き入れた


 驟雨と片瀬は二十畳近くある応接間に通された


 しばらくすると盆に茶の入った湯のみを二つ載せた千鶴子が戻ってきた


 冷えた体が、お茶の湯気で温められる


 片瀬は早速一口お茶を啜ろうとしたが、なぜか驟雨の左手がそれを制した


 おそらく高価な輸入物であろうソファーに並んで腰を下ろしている二人


 『な、なんだ驟雨』


 片瀬の問いには応えず、驟雨は千鶴子に紙と筆がないかと訊ねた


 少々お待ちを、と云って千鶴子が部屋を出た


 数分の後に紙と筆ペンを持って千鶴子が入ってきた


 『ごめんなさい、習字用の筆がどこにあるのか分からなくて、筆ペンでも宜しかったでしょうか』


 『ええ、構いませんよ。 ありがとうございます』


 そう云った驟雨は紙に何やら記号のような文字のようなものを書き記し、それを片瀬に渡した


 『これを持っていろ』


 しばらくはここ最近の長谷川要についての事を訊いてみたが、得られるものは乏しかった


 このまま話をしていては時間の無駄だと判断し、驟雨は要の寝ている寝室へ向かう事にした


 応接間とは魔逆に位置する寝室までは廊下を幾分か歩いた


 千鶴子が寝室の襖を開けると、だだっ広い畳の部屋にぽつりと長谷川要が眠っている


 驟雨と真一は要の枕元に座した


 『ここ二日間、昼間はずっと眠ってばかりいるんです』


 千鶴子が不安そうな顔で驟雨に云った


 驟雨は右手を要の鳩尾あたりに翳し、なにやら呪文のようなものを唱えた


 それが四半刻も続いた―


 漸く驟雨の口が閉じ、そして驟雨は千鶴子に向き直った


 『ご主人には間違いなく憑き物が憑いております』


 『ど、どんな憑き物なんだ?』


 片瀬が一歩膝を進めて驟雨に訊いた


 千鶴子も固唾を呑んでいる


 『・・・・伽藍神。 いや、こうなっては伽藍神とは呼べぬかもしれませんが、ともかく神の祟りにあっておりますのは確かですね』


 『か、神・・・さま?』


 千鶴子と片瀬は一様にして目を点にしている


 『お、おい驟雨・・・その、がらん・・・神というのは何なのだ?』


 『ん。 そうだな・・・・。 解り易く云うならば、寺院を守護する神だ』


 他にも、護伽藍神や守護伽藍などと呼ばれる時もある。と付け足した


 『・・・・・そ、それで。 主人は助かるのでしょうか?』


 千鶴子の言葉に、驟雨はしばしの含みをもって答えた


 『それは、まだなんとも。 只の怨霊や悪鬼の類でしたら無理に引き剥がす事も出来ましょうが、ご主人に憑いているものは神です。 本来ならば人間を守護するものがなぜご主人に憑いて怪異を起こしているのか、その原因が解らなければ伽藍神を落す事は難しいでしょう』


 『では、主人はずっとこのまま・・・』


 千鶴子はがっくりと項垂れた


 『おい驟雨、なんとかならないものなのか』


 片瀬は真っ直ぐに三舟驟雨を見て云った


 『一つだけ、希はある』


 『本当か?』


 『どうすれば、宜しいのでしょうか?』


 千鶴子もつい声を高める


 『それには先ず、あの離れにある土蔵の中を拝見せねばなりません』


 



 先に蔵の前で待っていた驟雨と片瀬に後ろから千鶴子が声をかけた


 『鍵がありました』


 どうぞ、と千鶴子が驟雨に鍵を渡す


 鍵を開け、最初に驟雨が蔵へ入り その次に片瀬、千鶴子と続いて入った


 昼間だと云うのに土蔵の中は暗い


 最初に声を出したのは片瀬だった


 『お・・・おい、驟雨これは』


 その言葉に呼応するように驟雨もまた千鶴子へ言葉を掛けた


 『ご主人は、この数多ある仏像をどこで?』


 しかし、千鶴子は言葉をなくし呆然とその場に立ち尽くすままだ


 蔵の中には無数の仏像や、神具などが保管されていたのだ


 蔵の奥へと進んで行く


 奥へと進むのも一苦労なほどに物が溢れかえっている


 『・・・・ここまで仏像やらがあると、薄気味悪さを通り越しているな』


 片瀬は震える声を抑えつつ驟雨に話しかけた


 『真一、あれを見てみろ』


 驟雨の指差す方向を片瀬が視る

 

 やはり仏像が雑に、は置かれていなかった

 

 その仏像は他のものと比べると一番劣化が進んでいるようで木も腐敗が進んでいる


 『この仏像だけが他のものと明らかに違う』


 驟雨のその言葉に片瀬も『ん、うむ』と訝しむような眼つきで観察する

 

 『俺には襤褸の仏像にしか見えんが・・・・』


 驟雨は人と然程大きさの変わらぬ像の前に右膝をついてしゃがみ込んだ


 左の掌で仏像の胸の辺りに触れ、右の人差し指と中指を自分の唇に軽く当てると


 なにやらを短く唱えた


 暫くすると、朽ちかけていた仏像ががたがたと震えだし、その場に浮遊した


 『しゅ、驟雨・・・・どうなってるんだ?』


 片瀬は尻餅をついて浮き上がった仏像を見上げた


 『心配するな、真一』


 驟雨はその場にしゃがみ込んだままだ


 『この仏像に取り憑いているモノを起こしたに過ぎん』


 浮遊している仏像の口が小刻みに動き出したのと、片瀬が腰を抜かしたのとは殆ど同時だった


 【ナンゾ用カ、ソコモト】


 はっきりと仏像の口が動き、喋りだした


 片瀬はあまりの恐怖に意識を失って、その場に倒れている


 『・・・・アナタの名はなんと申す?』


 驟雨はやはりしゃがみ込む姿勢を崩さずに、仏像に話しかけた


 『名は、なんと申すのか尋ねている』


 【ソコナ貴様ハ、霊媒師ノ類カ】


 『・・・・そのような者です』


 【我ガ名ハ伽藍】


 仏像はそれだけ告げると、がたんと床へ落ちた


 落ちた仏像が動きを止めたと同時に、片瀬真一が意識を取り戻す


 長谷川千鶴子は蔵の隅に座り込んだまま何やらがたがたと震えながら賢明に経を唱え続けている


 『お二人とも、もう大丈夫ですよ?』


 『しゅ、しゅうう・・・・いま、今のは一体、なんなんだ・・・・』


 一先ず蔵を出た三人は母屋に戻り、事の次第を千鶴子に告げた


 『驟雨様、それでこの後わたくしどもは何をすれば宜しいのでしょうか』


 千鶴子はすっかり怯えきった顔をしている


 一方片瀬真一は、そんな千鶴子の手を握り必死に声をかけている


 『真一、お主も先程まで恐怖で気絶していたと云うに、懸命な事だな』


 驟雨はくっくと北叟笑む


 『あ、あれはただ・・・・ちょっとだけ俺も驚いてだな』


 『結論から云いましょう』


 驟雨は表情を硬くさせ、千鶴子に向き直る


 『手が、つけられませぬ』


 片瀬と千鶴子は目を丸くさせた


 そして、片瀬は驟雨に詰め寄り、どう云う事だと訊いた


 『どうも甲も無い。 あれには手をつけられんのだ。 長谷川殿は神の領域に土足で踏み込み、そして悪行を働いた。 それも幾度となくだ』


 千鶴子が声にならない声で、訊く


 『・・・悪行と、云うのは』


 暫くの間、驟雨は千鶴子を見据えてから口を開いた


 『つまり、あの蔵にあった仏像や神具の全てはご主人、長谷川要殿が行く先々の寺や神社から無断に持ち出した物』


 『そ、そんな・・・』


 『・・・盗んだ、と云うことか』


 『どうやらそのようです』


 『で、では。 主人は・・・もう助からずあのままだと?』


 驟雨は否、と首を振った


 『憑き物を落とすことは出来ませぬが、差し出すことで魂を昇華することはできます』


 『魂を、昇華させる・・・?』


 簡単に云えば、死を与え魂の穢れを落とす。 と云うこと


 『しゅ、主人を殺せと仰るのですか』


 『その通りです』


 神罰、と云う言葉を聞いた事はないでしょうか?


 神罰。神が下す罰を人は受けねばならない


 それは常に人がそこに存在し、息づく限りは逃れられません


 人の罪とは大きく別けて二つ


 神の許しを請える罪と、請えぬ罪


 『ご主人は後者の罪でございますれば、それを覆す所業を我々はできません』


 『なんて惨い・・・・』


 千鶴子は両手で顔を覆い隠し、声を殺して泣いた


 その時である。 長谷川要が寝かされている寝室の方から、なにやらごとりと倒れる音が聞こえたのは


 『驟雨、今の音は・・・』


 真一は早速顔を青ざめ、ソファーの影に身を潜めている


 『なぁに、要殿が起きられたのだろう。 少しばかり我を忘れてな』


 驟雨は顔に微笑を浮かべたまま、そう云った


 三舟驟雨と云う男は常にこうなのである。 どのように緊迫した場面であろうとその言動に表すことはない。 どこか飄々として堂々と佇む


 軽く着物の袖を内側へ折りこむと、驟雨は千鶴子にもソファーの影へ行くように述べ


 己は客間の扉に二枚の護符をそれぞれ左右に貼り付けた後、数歩下がって呪を唱え始めた


 数十秒後、廊下を奇妙な足音が這いずり回る


 『お、おい・・・驟雨?』


 呪を唱え続けながら、少しだけ驟雨は後ろで身を隠している真一に首だけ傾けてみせた


 『奇妙な音が聞こえるが、まさか要殿が徘徊しておられるのか・・・?』


 だろうな。


 それだけ云うと、驟雨はまた正面、扉の方へと向き直る


 ぐちゃ、びしゃ・・・


 ばたん、ぐしゃ・・・・


 ひた、ひた・・・・・・・・・ ひた。


 足音は驟雨達の居る客間の目の前で止まった


 『くるぞ』


 驟雨がそう云ったのも束の間、勢い良く扉が開け放たれると一迅の風と供に黒い影のようなものが飛び込んできた


 片瀬や千鶴子の目には影すらみえていなかったかもしれない


 あまりの突風に誰もが一瞬目を閉じてしまったのだ


 『い、今のはなんなんだ驟雨! なにか居るのか?』


 胡坐をかき、右の人差し指と中指を唇に当てたまま、瞳を閉じ呪を唱えている


 片瀬は千鶴子を庇いながら、部屋中を見回している


 部屋の中では永遠と旋風が吹き荒れ、花瓶や硝子で出来た置物などを粉砕してはそのかすを巻き上げている


 それらの破片が片瀬の頬や手の甲を掠めているものだから


 千鶴子を庇う片瀬真一は血まみれになっていた


 『驟雨・・・・もう、これ以上は持たん。 なんとか、してくれ』


 風の轟音にかき消されそうになる片瀬の声は驟雨に届いたのか


 『よく絶えたな。 もう終わる・・・・』


 驟雨がそう呟いた時、天井のシャンデリアが大きく揺らぎ、驟雨の頭上めがけて落下した


 目を開けぬまま、それを紙一重で交わした驟雨は、シャンデリアの上に跨る黒い影に向けて自分の息を吹きかけた


 すると、風は見る見る内に収まり、黒い影でしかなかった物体は徐々にその姿を人のものへと変えてゆく


 長谷川要である。


 その容貌はとても人とは思えぬほどに禍々しいものになってはいたが


 『あなた・・・・』


 千鶴子は変わり果てた姿の夫を前にして声を失っている


 長谷川要は体型は幼児と見紛うほどに小さくなり、口の両端からは先の尖った犬歯が長く伸びている


 時折、驟雨達を威嚇するかのように人のものとは思えぬ長い舌を出しては引っ込めを繰り返し、涎を絶え間なく流し続けている


 『禍々しい鬼と、化しております』


 驟雨は要の額に二本の指を押し当てている


 千鶴子は驟雨の足元にしがみ付き、泣きじゃくりながら夫の快復を求めた


 『どうにか夫は、要は助かりませんか』


 驟雨は足元には目をやらず、じっと長谷川要を見つめたまま答えた


 『先程も云った通り、もう元の人間に戻す術はありません。 あとはこの者を殺してしまうほかには』


 『驟雨、ホントに手立てはないのか? お前のことだ、なにか良い案が一つはあるんじゃないのか?』


 片瀬はぼろぼろに傷ついた四肢を引きずって、驟雨たちのいる場所まできた


 『お前と云う漢は、つくづく良い奴だな』


 無いことも無い。 が、少々危険すぎる


 『ほれみろ・・・やっぱりあるんじゃないか』


 片瀬はどさっとその場に座り込んだ


 『危険すぎるのだ・・・とても成功するとは思えん』


 驟雨は首を横に大きく振り、足元に居る千鶴子に視線をむけた


 『ど、どんな方法なのでしょうか・・・?』


 千鶴子は凝っと驟雨を見上げる


 『・・・・・』


 その時である


 『な、なんだこの鳥は・・・』


 片瀬が突如現れた紺碧に輝く小鳥に目を丸くした


 その小鳥は驟雨の肩に羽を休めると、極々小さな泣き声をあげて、今度は窓から飛び去った


 『なんだったのだ、あの鳥は・・・』


 『私の式だよ』


 驟雨は少し穏やかな笑みを浮かべて片瀬をみた


 『式とはなんなのだ?』


 『私が使役している鬼の事さ』


 片瀬はなんとも不思議そうな顔をしているが、それ以上はなにも訊かなかった


 『方法はあります。 が、これは貴女がやらねばならぬこと、それ故、不可能かと』


 驟雨は千鶴子に冷徹に言い放った


 『な、何故わたくしには出来ないと』


 『今夜一晩、朝日が昇る頃まで貴女にはこの部屋でこの変わり果てた禍々しい鬼と供に過ごしてもらわねばならない。 もちろん鬼には呪を施し決して動けぬようには致しますが・・・なにぶん鬼でございます。それも只の鬼ではない・・・・[伽藍の鬼]。 万が一にも呪が解けてしまう事も充分に有り得る』


 『ば、ばか・・・驟雨。 そんな危険なこと、千鶴子さんにさせられるかよ』


 『真一、これ以外に方法はない。 それに、長谷川要がこのような悪鬼に憑かれた原因の一つは少なからず彼女にあるのだから・・・』


 『原因は要殿が盗みを働いたからではないのか?』


 『もちろん直接の原因はそうだな。 しかし・・・・』


 そこまで云って、驟雨は少し間をあけた


 色情とは時に罪なもの。


 驟雨が最期にそう呟いた


 『ん? なんだ・・・・?』


 片瀬には驟雨が云った言葉の意味がよく理解し切れていない。だが、この言葉の意味を理解してしまった人物は、突然がたがたと震えだした


 『千鶴子・・・・さん』


 片瀬の言葉は千鶴子の耳には届かない。ただ震える身体を懸命に両腕で押さえ込んでいる


 『色情、色欲、欲情。 これらは人を統べる心情の一つではあるが、あまりに強くそれを望めば、時に他人を傷つけ、貶める結果を齎す』


 


 『貴女には選ぶ権利がある』


 唯一の夫である長谷川要を助け、己の罪を悔い改めるか


 このまま下賎の道を歩み続けるのかを・・・・。










 終章


 こくこくと、喉を潤す酒を美味そうに呑む


 『お前は本当に、美味そうに酒を呑むな』


 驟雨は片瀬真一の顔を肴に酒を呑む


 『お前はいつも飄々としているからな、酒を美味いとか不味いとか感じているのか?』


 片瀬の精一杯の皮肉も、驟雨にはまったく通じてはいない


 『月があんなに明るいと、不思議と酒も美味いさ』


 三舟驟雨の邸宅。その縁側で二人は酒を呑んでいる


 この家には二人以外誰もいない


 こくこくと、片瀬は酒を呑む


 月が出ていた。光が庭を照らし、花崗岩(かこうがん)で出来た御影石みかげいしがぴかぴかと光を反射している


 庭には無駄な草木などはなく、綺麗に磨かれた庭石が並び、こじんまりとした池があるのみ。

 

 時折その池から鯉が餌を求めて顔を出す程度で、とても静かな時間がここには流れていた


 それにしても、と驟雨が云った


 『お前の顔を見ていると、酒も進む。 それに、この塩辛も実に旨い』


 片瀬は照れくさそうに笑いながら、自分が土産に持ってきた塩辛の説明をした


 『旨いだろ? これは酒盗と云ってな、鰹の内臓で作られた塩からだぞ。土佐の親戚から送られてきた物なんだが、俺が食べてみて旨かったから今日土産に持ってきてやったんだ』


 『ふむ、酒盗か。 たしかに、これを肴にしておると酒がいくらあっても足りんな』


 二人は声を出して笑いあった


 驟雨が酒を呑み、片瀬も酒を呑む。 二人の関係はまさに酒の席で築かれたものなのかもしれない


 その事を二人は自覚してかしらずか、お互いを理解し合っている


 『鰹の内臓で出来ているんだが、こっちではなかなか手に入らんからな・・・ん? もう酒が切れてしまったな』


 片瀬がどうしたものかと驟雨を見ると、驟雨も少し残念そうな顔をした


 『俺が買ってこようか・・・?』


 片瀬は酒の買出しを、驟雨にやらせるのは忍びないと思ったのか、そう云った


 だが、驟雨はうっすらと笑みを零すと、片瀬に『いや』と云った


 『使いの者に行かせよう・・・なに、すぐに酒が届く』


 驟雨は片瀬にそう云うと、筆と紙、それからすずりを奥の間から取ってきてなにやらさらさらと文字を書き出したかと思うと、その紙を庭に放り捨てた


 片瀬は驟雨の行動をなにも云わずに見ていたが、いまいち何をやっているのかわからない


 『おい、驟雨・・・紙に何を書いたのだ? それより俺が買いだしに行こう。 大体、この家にはお前と俺以外誰もおらんではないか』


 片瀬が庭に放たれた紙から視線を驟雨へと向けたのはほんの一時の間だった


 しかし、驟雨は片瀬の方へは向き直らず庭の一点を見つめたまま凝っとしている


 そして。


 『いつもの酒より、少し辛口なのを頼むぞ』


 『かしこまりました・・・・』


 若い女の声だった


 片瀬が振り返ると庭には誰も居らず、ほんのりと柚子の香りだけが漂っていた


 『な、なんだ今の声は・・・ 若い女子の声がしたような気がしたんだが』


 驟雨はきょろきょろと目を泳がす片瀬を見てくすくすと笑った


 『私の式だよ。 柚子と云う名のな』


 そう云った後、驟雨は杯に残った最後の酒を口に運ぶ


 『式・・・そうだ式だ。 あの時もお前は式を使っていたんだったな』


 『・・・あの時とは?』


 『惚けるなよ。 長谷川邸の時のことだ、あの時も式を飛ばして情報を集めていたんだろ?』


 『なんだ、知ってるんなら訊かなくても良いのではないか?』


 驟雨はからかうように目を細めてい云った


 『バカ! 俺はあやうく手籠めにされそうだったんだろ』


 驟雨は細めた目をそのままに、はははと静かにそれでいてとても愉しそうに笑った


 『手籠めか。 それは良いが、男が女に手籠めとは普通云うまい? まぁ、だが危ういところだったかもしれんぞ、骨抜きにされ、傀儡同様になっていたかもしれん』


 『分っているさ。 お前にも感謝はしている』


 『それにしても、人は欲深き生き物だな』


 『色欲か・・・』


 いや、と驟雨が微笑う


 『俺たちの場合は、色恋沙汰よりもこの酒に重きを置いているがな』


 杯を軽く揺すりながら云う


 『情けないことを云うなよ、そりゃあ女と縁がないのは認めるが、人間諦めたらそこで終わりだぞ? 俺たちはまだ若い、成せば成るさ』


 片瀬はそう云い切ると、杯に残っていた酒を一息に呑み干した


 『ん? ちょっと待てよ。 そう云えば、俺はまだ驟雨お前の歳を訊いた事がなかったな』


 『なんだ、今更そんな事を訊いてどうにかなるものでもないだろう』


 『それはそうだが、良いではないか教えてくれ。 俺よりは少し上なのは分ってる、そうだな三十五くらいか?』


 『 ・・・・そうだな、そこから十と一を引いた数』


 『ん、三十五から十と一を引く・・・・』


 え・・・。


 片瀬は半ば呆れ顔になりつつも、いつも自分をからかっては面白げにしている驟雨の事である。本来の年齢よりもずっと若いと嘯いて、またおちょくっているのだと思った


 『おい驟雨、さすがの俺でも今回は騙されんぞ。 幾らなんでも二十代ではあるまい? たしかにお前は老けては見えんし、厳しい顔でもない。 いつも飄々としてふざけているのか本気なのかわからんが、お前の言動や着ている物の趣向は若者とは無縁の長物だぞ』


 『 そんなに私は変か?』


 驟雨はいつも以上ににこやかにそう云った


 『嗚呼、変だ。 この際だから云うがなお前はどこか変なんだ。 どこがと訊かれれば答えにくいのだが、お前を包む全体的な雰囲気がとても若者・・・あ、いや三十代にすら思えん貫禄が出ている』


 それでも・・・―


 それでも俺は俺だよ、真一。


 あの日、長谷川低での出来事の終末はこうだ


 

 


 『主人がこうなってしまったのは、今にして思えば、いいえずっと以前から自覚はしておりました。  

 主人とは歳も離れておりましたから、つい体が若い男性を求めてしまう。 我が家に使える使用人に、若い男性が入りますと、見境無く寝屋を供にし、夜毎夜毎快楽を貪る日々を、きっと要には解っていたのでしょう。 ですが主人も、要も自分自身の年齢に負い目を感じていた分、私にはなにも云いませんでした。 はけ口の無い感情を、主人は神具を盗むことで解消していたのではないでしょうか・・・』


 『恐らくは・・・・』 驟雨は静かにそう云う


 『驟雨様、私はなにをすれば良いのでしょうか・・・どうすれば罪を償い、要に謝れば良いのでしょう』


 『ご主人と、一晩お過ごしください。 そして、心からのあなたの言葉を、聞かせてあげるのが唯一の方法でしょう』


 千鶴子は静かにはいと答え、涙を流した


 


 『それで、その後俺たちは長谷川邸を後にしたんだが、本当にあれで善かったのか? もし鬼が暴れていたら、千鶴子さんは・・・』


 『心配するな、真一。 千鶴子殿はお元気だよ』


 『ほ、本当かそれは! 便りでも届いたのか?』


 『いや、実際にここで観ていたからな』


 『そうか・・・・式を通して覗き見しておったんだな? それならそうと俺に一声あっても良いではないか。 まったくお前と云うやつは ― 』


 『千鶴子殿はきちんと役目を果たしたよ。 それで善いではないか、俺たちはそれ以上語らう必要はない』


 


 ― ご免下さいませ。― 



 庭先の塀越しに女性の声が聞こえる


 その気配は玄関口へと移動したかと思うと、もう一度


 ご免下さいましね ―


 と云って、静かに家中へと入ってきた


 『あら、もうずいぶんと呑まれてるんですね、少し遅くなりすぎたかしら』


 長谷川千鶴子である


 『いいえ、まだまだ宵の口。 酒はこれからが旨くなる』


 驟雨はにこにこした表情を崩さずに、さらりとそう云った


 『まぁ、それなら良かった』


 驟雨のとなりにそっと腰を下ろすと、千鶴子は持参した酒を驟雨の杯へと酌をする


 『今夜あたりに片瀬さんがいらっしゃるからと驟雨様から誘われたときはとても嬉しかったんですのよ。 私たち夫婦のことを気にかけて下さっているんだなって。 要も今はずいぶんと顔色が良くなり、本当に感謝の仕様もございませんから』


 『その分、しっかりとした報酬と酒を頂戴いたしました。 当然のことでございます』


 片瀬は突然の珍客に、一時あんぐりと口と目を開いたままであったが、次第に千鶴子との会話を愉しみ、酒を呑んだ


 ゆっくりと時が過ぎ、それぞれはそれぞれの感傷を心に秘めているかのように、誰からとも無く口を開かなくなった


 時折、千鶴子が二人の杯に酒を注ぐくらいのもので、片瀬と驟雨はただじっと庭に咲く花や、空に浮かぶ月を見つめて酒を呑むばかり


 風が庭から縁側に吹きぬけ、楓の葉が一片驟雨の杯に落ちた


 『あらあら、これは風流ですこと』


 『朱に染まる杯に、紅に染まる楓か・・・・。 たしかに儚い。 が、それ故に美しく感じるし、尊くも感じる』


 『また難しいことを云うな、お前というやつは』


 そう云いつつも、片瀬は自分の杯に葉が落ちるのを懸命に待っているようでもあった


 そんな様子を千鶴子は面白そうに眺めている。 その時、千鶴子の紅く色づいた唇から嗚呼、と一言漏れた。 手提の中からなにやら取り出したものは、綺麗に光る石であった


 驟雨が千鶴子に それは? と訊くと、千鶴子はにこにこと笑いながら石を驟雨の手の中に渡した


 『それは驟雨様に差し上げます、さっき川原で見つけたんですよ。 あんまり綺麗だったから、つい』


 驟雨はしばらくその石を凝っと見つめていたが、一つ息を吐いて『ありがとう』とにこやかな笑顔をみせて礼を云った


 


 結局、その゛石゛がどんなものであったのか。 驟雨はその後語ることは無かったが、その石を庭先に飾り、しばらくの間祈りを捧げていたとも聞いている。



 

この作品を読んで頂いた皆様、初めまして 独楽と申します。

処女作にして初投稿と云う事で、大変読み辛い箇所も多々あったでしょうが、そこはなにぶんご容赦の程を賜りたくmm;


次回も、三舟と片瀬のお話が続きます。

ご期待下さい♪

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