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グノーシス主義の限界について

作者: デイロー

 本文ではキリスト教で批判するグノーシス主義とは違った形でグノーシス主義が持ついくつかの問題点について語りたいと思います。


 1.グノーシス主義とは何か


 グノーシス主義は、サブカルチャー界隈では割と一般的に認知されているような印象が強いですが、グノーシス主義が誕生した背景やその基礎について軽くおさらいすると。

 古代ギリシア文明には大きく分けて四つの勢力が存在していました。

 一つはエーゲ海にある数多くの島と現在ではトルコの領土であるアナトリア半島の一部を含めての、いわば小アジア側です。

 ここではペロポネソス半島とは違う独自の文化を持っており、学問や神話に対する解釈にも違いがあったとされています。現代ではヨーロッパとトルコの間に長年にわたって紛争が起きていたこともあって、ヨーロッパ帝国主義の時代が終わった20世紀半ばからは発掘や研究がそこまで進んでない状態です。

 ミノア文明の残滓が色濃く残っているされていますが、それより重要な点は小アジアとバルカン半島とペロポネソス半島を繋げる貿易を通じて莫大な富を蓄積していた事実に比べて、政治的にはいつも綱渡り状態であったこと。

 このあたりで生まれた有名な人物にピタゴラスがいますね。彼はサモスと言うエーゲ海東端に位置する島の出身で、数学を中心にした密教とも密接なつながりがあったとされています。

 残り三つのことはまとめて言うと、アテナイ、スパルタ、マケドニアとなります。

 アテナイはスパルタに敗北、スパルタは連合軍に敗北することによってまた混沌とした都市国家同士の戦国時代に突入しようとしていた時、マケドニアがすべての国々を統合して小アジアに進出することになる流れとなりますが。

 アレキサンダー大王時代のことです。

 ただ彼の死後間もないころに崩壊してますけど。余談ですけどアレキサンダーはごっちゃになって混沌とした文化のヘレニズムより秩序あるペルシア文化を好ましく思っていたようです。

 まだローマがギリシャの征服に乗り込んでない状態、ヘレニズム文化が地中海だけではなく大陸を跨いで広まる時代。

 いくつものの思想が現れは消え、現れは消えます。グノーシス主義の源流となる思想もこの時代から片鱗を見せ始めます。元々エーゲ海あたりには密教の性格を持つ思想が広まりやすい状況、時代は混迷を極め、収集が付かないまで錯綜する文化に定まらない政治。

 その中で人々はこのようにストレスにあふれる世界は実は本当の世界ではなく、まがい物の世界であるという、プラトニックのイデア論を骨子に、様々な文化での成果が集まり、密教が広がり始めます。

 最終的にローマに合併されることによって、ギリシャにまだ健在だった多くの勢力が持つ政治的影響力は急激に弱体化していきました。

 支配階級ですらもまともに機能しない状態に陥った時、ユダヤの一派からキリスト教が広まり始めます。

 虐げられる立場を強調している点ではキリスト教とこの特に名前を持たない密教的思想は相性が良かったのでしょう。その二つが繋がって作られたのが、はい。グノーシス主義なわけなんですね。

 そのグノーシス主義での考え方はこのようになります。


  a.現在の世界は欠落した悪しき創造主(デミウルゴス)によって創造されたものである。

  b.完全世界には真の世界が存在するが、その姿を人間が知るには世界の亀裂を通じなければならない。(悪しき世界に出来た亀裂から本物の世界が見えるため)

 c.故に、亀裂を通じて知った本当の世界に対しての知識こそ救済への道となる。


 初めて接する人からするとかなりぶっ飛んだ、世界の在り方を真っ向から否定しているようなことをしているグノーシス主義ですが。そのニヒルで批判的な性質によって弾圧の対象となります。

 キリスト教では救済とはキリストが既にもたらしてくれたことで、我々は彼の犠牲によって決まった救済への道を進むだけでいいという考え方をしているんですね。

 だから救済は行われてないと言うのは、単純にキリスト教へのアンチテーゼになりかねないでしょう。

 ただですね、グノーシス主義はアンチテーゼになるだけにとどまらず、神の神聖不可侵さを正当化する手段にも成りえます。実際に神学はプラトン哲学の影響を色濃く受け継いで、唯一絶対者は彼岸にあるというのは、考え方的にグノーシス主義と通じるところがあります。

 現代の宗教も形而上学的なところで救いを求めるのなら、それはグノーシス主義から影響を受けている可能性は極めて高いと言えます。

 このように誕生から今に至るまで様々な形で続いているグノーシス主義ですが。

 そんなグノーシス主義にもキリスト教の救いの概念とは関係ない、いくつが論理的な弱点が存在しているんですね。


 2.無限と永遠


 グノーシス主義では前述したように世界の深淵にこそ知識がもたらす救いがあるという、どこぞのクトゥルフ神話を彷彿させる考え方を進めきました。

 現実に一つの終着点がある。

 偽りの世界の外側に本当の世界がある、本当の世界=不安の終わりとなるわけなんですね。

 緊張とストレス、不安と恐怖はいつ終わるのか。いつかは終わる。それは具体的にいつなのか。誰もわからない、なんて、逆に納得できませんよね。誰かが、何かが終わらせなければならない。

 この終わる時点に何かを置いて、それと人間が関わりを持つことで不安を解消するという発想。

 基本的にすべての宗教が持っている考え方なんですね。

 宗教は、このように緊張の終わりに何かしらの目印を示して、それと関わる独自の方法論を提示します。瞑想やら祈禱やら。暴力的行為や性的行為になる場合もありますね。

 問題と言うか、ここにはあえて無視して言ってないことがあります。それは何かと言うと、外の世界の外の世界がまた存在する可能性、それがまた無限に続く可能性です。


a.世界が無限に続く可能性


 つまるところ、本当の世界が本当の世界であるとどうやってわかるのか問題ですね。

 この認識論におけるテーマ、実は現代にも無視できない仮説の一つにあります。

 ズバリ、シミュレーション仮説です。

 本当の世界の外側にシミュレーションを実行している何かが存在しているとして、その存在がまたシミュレーションに入ってないとどうやってわかるのかと言う。

 神々を作った神々があって、それを作った神々がまた存在する可能性はないのかと。

 グノーシス主義だけでは、その無限ループから脱することは不可能なんです。

 どうしても完全な現実にはたどり着けない。たどり着いたと思ったら外側にまた別の現実が存在していたなんて可能性は開かれているわけですからね。

 そもそも世界の外側にまた世界が存在するという考え方に至った時点で、このような考えにたどり着くのはそんなに珍しいことでもなく、実際にヒンドゥー教でも似たようなことを言及しており、世界を同心円のような形で描いていて、中心部に我々がいるという考え方とかは、古今東西どこでも見つかります。

 何せ、自然界の法則にフラクタルが存在しているわけですから、別にヘレニズム文明やらエジプト神話やら、ユダヤ教の思想やらを参考にしなくても、実際に世界が無限なのか有限なのかどうやってわかるんだ問題はあるわけなんです。

 そしてここで終わりじゃありません。


b.世界が永遠に続く可能性


 グノーシス主義では緊張の解消が絶対的な知識に触れることによって解消されると言うことを言っていました。しかし果たしてそうでしょうか。知識は知識を持った瞬間では物事を納得させるようには出来てますが、その後も現実は続きます。この続いている現実からまた亀裂を見つけ、知識を手にすることの繰り返しに救いがあるだなんて、それはただの洞察と大して変わりありません。

 洞察を繰り返して知識がもたらす悦楽に浸ると。

 しかしその状態すらも長期的な観点で見たら一瞬に過ぎません。

 永遠に続くものではない感覚から救いがあると言うのは、逆にどこが救いなのかと問いたくなるでしょう。

 そもそも何を根拠に救いと救いじゃない状態を想定するのかに対して、グノーシス主義では偽りの世界を生きているためと答えます。

 ですがその偽りの世界が永遠に続くと言うのなら、偽りの世界が持つ独自の法則性の中にこそ答えがあるかもしれません。

 英知への道があるとして、その道を進むのが答えなのかどうか、時間が永遠に続く可能性の中でわかるものなんでしょうか。知識の外側に知識があるかもしれないように、知識の内側にも知識があるかもしれない。その可能性を最初から閉ざし、亀裂から見える本質にこそ救いがあるという考え方はあまりにも抽象的で、流れる時間と流転する物質界を生きる観点からしてみれば、無駄に凝った現実逃避の手段の一つでしかないと言えるのではないでしょうか。

 


 3.なぜグノーシス主義の限界を知る必要があるのか


 これはですね、すべての物事において同じことでもありますが、人間は現実に対する認識には限界線をある程度決めて置くことによって行動に移せるようになるという、知性が持つ本質的な問題とも繋がっているんですね。

 AIを研究している人ならわかると思います。フレーム設定問題です。

 どこから始まればいいのかわからないなら、自分が動く限界を自分から決めた方がいいと。その線を越えてしまうと、行動は無駄に雑になるでしょう、無駄に広がるようになるでしょう。

 問題は、この無駄なところがなぜ無駄なのか説明する論理そのものが限界を決める行為によって正当化されると言う点です。

 グノーシス主義と同じく現実に限界を決めて、そこからは出られないと決めつける。

 確かに実用主義的な観点からして、考えを広げ過ぎたら己の形ですら定まらない状態となりましょう。

 しかしですね、それはそうする必要があるからそうしているだけで、それが正しいとか間違ってるとか、それこそが正解とか正解じゃないとか、それに関しては、今ある現実が、無限と永遠に基づいていることであることを、丸っと無視していることになります。

 私たちは宇宙に終わりがあるのかもわからず、そもそもその宇宙が一つか複数あるのか、複数あるならその外にどれだけの宇宙があるかもわからない。

 時間も同じです。宇宙はビッグバンで始まったという話ですが、それも所詮は理論の一つに過ぎません。永遠の限界なんてどこにあるのかもわからない。

 なのに一つの意味に縛れるのはなぜか。それが今何かしらの行動を起こすたびに必要な条件ならいいでしょう。ですがそれは条件ではあっても、それこそが真実だからとその行動を完全に肯定すべきなどと言うのは、その行動が持つ慣性でしかありません。慣性を制御することも出来ず、引っ張られるだけ。

 自分の存在を永遠と無限の中で描くなんて難しいんじゃないか、そんな馬鹿なことが出来るかと言う話ですが、永遠と無限を常に意識して生きているべきと言うことではありません。

 それはもう、よく広大な宇宙に比べたら我々なんてちっぽけな存在なんて言うような、そう言った考え方を言っているのでしょう。しかしそれは相対的なものです。本当に永遠と無限がこの世界の本質にあるのなら、どこかしら境界線を決めておかないといけないのは仕方がないことですから。

 だけどそれは、決して完璧なものにはなりえません。永遠と無限の中で完全性なんて、その永遠さと無限さそのものにしかないでしょう。

 人間がその尺度で触れたところで、ただただ意味を無くして無に近づくだけであると。



 結論


 自分と考えが違うからと容認できない、自分が間違ってる場合でも自分の考えを曲げない。そのようなことが起きるのは、特定の線の中で生きているからなんですね。線を越えることは出来ない、その線こそ己の形であるからにして。

 だけど、それは完全だからそうやって描かれているものでも、その線こそが自分のあるべき形であるわけでもありません。

 ただ今は特定の条件が重なってそうなっているだけ。

 それこそが、グノーシス主義が見ようとしていなかった世界の歪なあり方なのかもしれません。

 それとも線が混在して発生した混沌は、永遠と無限がもたらす虚無を求め、それに触れることで痛みを和らることこそが目的だったかもしれませんね。

 宗教はいつの時代にも、薬を使わない鎮痛剤の役割を果たしてきましたからね。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 興味深い論考でした。 かつての私にとって、プラトンに傾倒していたこともあって、グノーシス主義はエレガントで親和的な哲学でした。 この世界が本質的に自分には関係のない汚れた世界である、とする…
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