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短編

ゆりかご

作者: 高原 律月

 鈍く跳ねるような水底でまどろみ弾ける音を聴いた。


 飢えに喘ぐイワナはなめらかな岩肌をのたうち回り、その瞳をこちらに向けると私をねめつける。

 ぬらりとした無機質な瞳に底冷えした私は彼を見据え、また彼もただ私を見た。大きく膨らんだ白銀の体躯はもう帰るべき場所も戻るべき穴ぐらもないのだろう。

 脂の滲む腹底は傷でただれ煌びやかで美しいその肌は痩せこけあばらが透けていた。震える私の体はいつしかかつてない感慨を憶え、同時に虚空が川を這った。

 相対する幾歳の摂理の大きさは質量のある空となり、色は私と彼を映す証左になった。

「生きねばなるまい」

 彼は言った。

「生きねばなるまい」

 私もまたそう言った。

 霜のかかる水際で事の始終を嘲る声が聞こえる。

「もうおよし、観念なさい」

 囃し立てるその声は一息で消える私への同情か、はたまた強く美しい彼への嘲笑だったか。

 彼はぐるり、艶めかしい躰をまざまざと私に見せつけて大きく口を開けた。

 そうはいくまいと水面へ走る私を彼は追いかけた。よだれを垂らして昂ぶり、私を欲さんとするその姿は気高く、また食らわれまいともがく私の姿も美しいと思った。

 いよいよ逃げ場を無くした私は月夜が照らす外へと飛び出す。青天に上る満ちた月を欠けさせるように切らした息が白い靄ごと大きな口が私を飲み込んだ。最後に見た月が陰るように闇に消えると水の跳ねる音がどこか遠くから聞こえた気がした――。


 目を覚ますと、ひな鳥の母を呼ぶ声が耳を打った。新緑の若葉が風で擦れて暖かな匂いを運ぶと、感覚の鈍った私の嗅覚を刺激する。

 夢うつつの私は顔を上げて目を擦る。山に囲まれた盆地はここから一望でき、すぐそこでは子供たちがカラフルに彩られた遊具で遊んでいた。傍らに立つ親たちが心配そうに嬉しそうに見守っている。

 目線を足元に落とすとアリが等間隔でずうっと向こうまで乱すことなく絶えず列を作っていた。流れの反対側を往く二、三匹のアリたちは縮こまったクモをせっせと運んでいる。

 ありふれた日常を眺めて一息入れると5つになる娘が妻と一緒に歩いてくる。

「見て、指輪。ママと作ったの、ママとおそろいだよ」

 娘はそう言って、たんぽぽで作った指輪をくれた。

「ありがとう」

 受け取った指輪を千切らないように気を付けながら指にはめて娘の頭を撫でる。妻と目が合うと、彼女はそっと微笑んだ。

 また風が吹いた。

 春先の風はまだ冷たく私は肩を震わせる。

「うたた寝をしたら体が冷えたみたいだ。なにか温かい飲み物を買いに行こう」

 娘を抱き上げて妻とお揃いの指輪を重ねて公園を後にした。


 夜半、帰路につく私をカエルがせっつく。

 娘は思春期になり、妻と今後の進路について話をする予定だった。部下が間違えた発注の後始末に追われて、気が付けば日付も変わる頃だ。彼を責めるわけではないが、じめじめとした空気で私の心持ちは気鬱だった。

 明かりのない家の玄関を開けて小さく呟いた。

「ただいま」

 家族を起こさないように細心の注意を払いながらリビングにあるソファにカバンを投げ、テレビの横に置かれた写真立てを手に取った。

 付き合いたての頃に撮った写真の彼女は笑っていた。目いっぱいのお洒落をしたあの子は、いま幸せなのだろうか。

 真っ白な襟付きシャツをひび割れて痛む指先をさすりながら干す彼女の姿を不意に思い出した。遅くなった日も早く帰宅できた時も変わらずに食卓に置かれた夕飯をいつからか当たり前だと思っていた。

 食卓を見ると、二人分のご飯がそこにある。

 娘が難しい年ごろなのは分かる。誰もが変わらずにいられないことは時に残酷なことなのかもしれない。

「ごめん」

 いつも大変な時期に助けることの出来ない自分の不甲斐なさに打ちのめされて無意識のうちに謝罪の言葉が口に出ていた。

「謝るくらいなら約束くらいは守ってほしいとは思うけどね」

 不意に聞こえた不満に驚き、振り返ると妻が立っていた。

「アナタは何に対して謝っているのかしら」

 彼女は食事を温め直しながら問いかける。

「娘のことや家のことを任せきりにしてしまっているから」

 私は俯きながら答えた。

 すると妻は、ため息を零しながら言った。

「そういう時はね、ごめんじゃなくてありがとうと言うものなのよ。いつもお仕事お疲れさま、私はアナタのお陰で今も幸せよ」

 久しぶりに妻が笑った。

「ありがとう」

 二人で見合って、そう言った。

「残ったそっちの分、明日のお弁当にしたいから詰めといて」

 私がそう言うと妻は首を横に振る。

「その必要はないみたい」

 促されて視線を送ると娘がいる。

 妻の作る料理は今日も美味しかった。


 肌寒い空を登り始めた太陽が暖める。宙を飛ぶとんぼが翻った。

 妻に急かされて車のキーを回した。今日の妻はいつぞやの写真のように着飾っている。

 開けた窓から、つんと冷たい風が入ってくる。盆地を眺望する道を車が走り日に光る建物の窓や屋根は水面のように輝いていた。

 目的地に着いて車を停めると若い男が会釈した。その隣には妻と同じくらい着飾った娘が立っている。妻は存外、気が早い質のようですでに瞳がうるんでいた。私もつられて万感の思いがこみ上げる。

 そんなことを気取られぬよう、足早にその場を後にした。

 どこか落ち着かないまま長い時間を持て余す。しばし、緊張していると呼ばれて席を立つ。

 促されてくぐったドアの向こうは煌びやかに飾られたテーブルが幾つも並んでおり、鳴り響く拍手の音で私の頭は真っ白になった。

 主役である娘の手を引いて磨かれた大理石の上を歩く。照り返す床を見ながら娘から貰った指輪を不意に思い出した。

 しわしわになった自分の手と大きくなった娘の手を見ながら新郎に彼女の手を重ねる。

 私はこれまでの自身を誇らしく思うと同時に肩の荷が軽くなることにある種の寂しさを感じた。華やかながらも厳かな趣のある式は新郎の締めの言葉に差し掛かり、次第と会場のベクトルもこの場から離れつつある。私もどこか生まれ変わった気分に満ちていた。

 漠然とした不安と底から湧き上がる高揚感をない交ぜにした夕空をとんぼがまたひゅーと飛んでいく。まだ緑の葉が残る山々を赤く染める夕暮れと散り散りに帰っていく人波を誰も居ないテラスから妻と二人、向こう側に消えるまでじっと見つめた。


 いつかの夢を見た。

 まどろむ川辺は向こう側からやってくる朝日で少しずつ群青に染まっていく。川底を歩く大小のカニ達は光を触ると岩陰に身を潜らせた。霞む三日月が紫色の雲間に融けていく。

 私の体はとても力強くしなやかさに溢れていた。あの日いたイワナは辺りを見回しても姿は見当たらない。

 一度、水面に体を打たせる。

 はるか先に見えた景色はこの体で進むには少し狭すぎるかもしれない。それでも、轟々と唸る水飛沫と激流が岩肌を削りながら私を呼んでいた。いや、私が焦がれているのかもしれない。

 渇望にも似た衝動が私の体を動かす。川の流れに逆らうと穏やかだったはずのそれは私に噛みついた。



 そして私は川を上った、どこまでも――。

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