現在、夏
本郷氷菓は都内の中堅商社に勤める入社2年目のOLである。
4つ上の先輩の松山賢治と付き合い始めて半年、彼からのプロポーズを受けて先週から彼の部屋で同棲している。
今、彼の腕の中で目覚めたところである。
ジットリと汗ばんでいるのは夏の蒸し暑さや彼の温もりのせいだけではない。
最近頻繁に見るようになった悪夢が原因だ。
ひたすら暗い中で身動きもとれず息苦しいだけ…遠くで子どもが何か抑揚をつけて歌っているような独りで話しているような声が微かに耳に届く、といった夢だが目覚めるとハッキリ思い出せるヴィジョンがある。
それは毎回違うものだ。
最初は大きな楠、次が何の変哲もない熊笹の茂み、そして今回は森の中を流れる小川…
夢の本編には一切登場しない光景だが目覚めた途端にハッキリ思い出すのだ。
どこだろうか…とてもリアルなものだが現実にある光景かどうかも定かではない。
ただただ不安を掻き立てるだけだ。
賢治に話てみても「不思議だね。そんなこともあるんだね。」と流されるだけで例えようもない不安感までは共有してくれない。
---
「ひょうちゃん、そろそろご両親に挨拶に行こうよ。秋の休みはどうかな?」
「そうね、それとなくは伝えてるけど一緒に住んでしまってるし正式に報告に行くべきよね。ケンジさん、スケジュールが決まったら教えて。実家に連絡するから。」
両親の住む実家は都内からずいぶん離れた山間の田舎町である。
車で4時間あまり、日帰りは難しい。
どうせ報告してそれで終わりとはいかないだろうし。
9月か10月の連休を利用して行くしかないだろう。
二人揃って有給休暇など、まだ会社には秘密の交際であるため考えるまでもない。
順調にいけば来年の秋か冬あたりに結婚して寿退社出来ればいいな、くらいの気持ちであるから具体化するまでオープンにするつもりはない。
社内恋愛とは現実にはそういう扱いのものである。
氷菓は長期の休みがあっても実家にはあまり帰らない。
両親との関係が悪いわけではない。
むしろ良いほうだ。
幼い頃過ごしたその土地に忌避感があるのだ。
そして両親もそれを十分理解している。