三話
お嬢様のお部屋は使い込まれたソファーやほつれがあるぬいぐるみ、傷が残るティーテーブルといった、年頃の貴族令嬢のお部屋とは程遠い。
ティーテーブルの向こうで、ちょこんとお座りになっているお嬢様は、婚約破棄されて悲しみにくれ、肩を震わして泣いている……はずがなかった。
「ベラ、遅いわ。お昼のおやつの時間はとっくに過ぎているのよ」
プリン専用、お嬢様の口のサイズに合わせて作った木のスプーンを握りしめ、指先でトントンとテーブルを叩く。
「すみません……兄の対応をしておりまして」
すぐさま私はティーテーブルにプリンを並べ、カラメルソースが入った容器もそばに置く。そして置かれたそばから、お嬢様はプリンの器に手を伸ばしてカラメルソースをかけ、木のスプーンですくいあげた。その間わずか五秒。もう口の中に入っている。
「ん~! おやつはプリンにかぎるわ~。今日もとろとろなめらかで最高ね!」
なんか似たようなセリフをさっきも聞いたなと思いつつ、私はプリンがおいしく感じられる絶妙な濃さのお茶を淹れる。お茶の種類、量、蒸し時間はお嬢様と研究に研究を重ねたものなのよね。
そしてお嬢様は一つ目のプリンを食べ終えると、ふぅと幸せそうに息をついた。全く婚約破棄に傷ついているように見えない。それもそのはずで……。
「ねぇ、ベラ」
お嬢様は不満そうなお顔に変わると、私を責めるような口調で話し出す。
「どうしてロンドが私を慰めに来てくれないの。計画だったら、今頃傷ついている私をロンドが慰めてくれているはずなのよ! 今回はロンドの前で婚約破棄をしてもらったのに、なんで割り込んでもくれなかったのよ! 私の執事なら真っ先に私のところに来なさいよ!」
これが、兄が天使と呼んで慕うお嬢様の本性で……品行方正、お淑やかとはほど遠い、気が強くてわがまま。そして面倒なことに兄が大好きときた。
「あー……少々怒りが強くて、落ち着く時間が必要でして」
ストレス発散のプリン時間を取っていたなんて言えない。兄からは絶対にお嬢様にプリンが好きだと言うなと強く言われているし、私も言いたくない。
「あら、怒ってくれたの?」
面倒だわと思いながら答えていると、お嬢様は嬉しそうに口元を緩めて、二つ目のプリンに手を伸ばした。
「はい、元婚約者様に対して、大変お怒りでした」
「その勢いで俺が幸せにしてやるってならなかったの?」
期待する目で見上げてくるお嬢様には悪いけれど、私は首を横に振る。執事じゃなければぶんなぐるとか言ってたけど、幸せにしてやりたいとは言ってなかったし。
「……まぁ、怒ってくれたなら、いいけど。でもそれじゃ、今までと何も変わらないわ。もっとこう、衝動的になる何かがないと。ひとまず、婚約者作戦はだめってことが分かったわ」
「お嬢様……そのためだけにお見合いしたり婚約したりするのは、やめましょうね」
お見合いや婚約の打診は家同士のつきあいや、年頃の子どもがいる家同士ではわりと頻繁に行われる。お嬢様のお父様である当主様は、ある程度相手を調べた後はティフィア様に任せていらした。そんなもんだから、お嬢様は兄に嫉妬させるためだけに、三回も婚約をし、お見合いも何度もしているのよね……。
「そうねぇ……男たちにロンドの素晴らしさを話しても、まったく理解してくれないのだもの。つまらないわ」
私は給仕係としてお嬢様の側にいるけど、兄は相手に配慮して席を外したり、部屋の外で待っていたりすることが多い。そんなときのお嬢様の話は全て兄についてで、「この紅茶、すばらしい香りですね」と相手が褒めれば、「そうでしょ? 優秀な執事のロンドが選んで買ってきてくれたのよ」とお嬢様は自慢げに返す。「すてきなお庭ですね」と言われれば、「毎朝かっこいい執事のロンドと散歩をしていますのよ」と頬に手を当てて楽し気に言うのだから、そりゃフラれる。
口を開けばロンドロンドと言うのは私の前でだけ。他のメイドや令嬢の前では令嬢と執事の模範のような振る舞いを見せるのに、その被っている猫を放り投げた姿が今だ。
「ロンドは見た目もかっこいいし、性格もよくて執事として私の意を組んで動いてくれるのに、なんで肝心なところで思うように動いてくれないのかしら」
溜息をつくお嬢様に、「それはお嬢様が完璧な主人を演じるからです」とは言わずに、「どうしてでしょうね」と返しておいた。お嬢様が完璧であればあるほど、兄も完璧な執事になろうとするのだけど、意地っ張りなお嬢様は崩そうとしない。
お嬢様はプリンを満足げな顔で食べ進め、何かを思い出したかのように微笑んだ。
「ねえベラ、今日のロンドもかっこよかったわ。部屋まで案内してくれるところも、音が鳴りやすいドアを無音で開けるところも素敵。それに同じ部屋の、しかも私の後ろにいてくれると思っただけで、もう顔がにやけるのを我慢してたわ」
「……そうですか」
もう、そう返すしかない。兄も兄でお嬢様への愛が重いが、お嬢様もお嬢様で兄への愛が重い。
「あれで今まで恋人がいないんだから、やっぱり期待してくれているのかしら。ね、ベラ」
「そう思われるのなら、どんどん押してください」
兄を完璧執事の仮面が取れるまで追い込んでほしいと思う。だけどお嬢様の顔色が曇り、溜息をついた。
「だから押しているのに、まったく手ごたえがないのよ……虚しいわ」
お嬢様はプリンを食べきり、紅茶をきれいな所作で飲みながら、私に恨みがましい目を向ける。
「ベラでさえ結婚ができるのに、なんで私はできないのよ」
「……まだ結婚はしていませんけどね」
私は先月かねてよりお付き合いをしていた方から求婚され、婚約した。相手はプリン職人の一人で、当然兄もお嬢様も良く知っている。結婚式は来月で、使用人同士の結婚だからお屋敷で小さなパーティをするくらいだ。それでもお嬢様は羨ましいみたいで、ことあるごとに私の結婚を引っ張り出して来た。
空いたティーカップに紅茶を注ぎ、むすっとしているお嬢様に何度目か分からない言葉をかける。
「ですから、私が兄に話をしましょうかと言っていますのに」
それこそ、兄が好きだと打ち明けられた五年前からお嬢様が玉砕する度に言ってきた。だけど答えはいつも一緒で。
「嫌よ!」
私に顔を向け、強い口調で否定する。
「好きな人には、ピンチを助けてもらって結ばれるって決めているんだから!」
この意味の分からない、お嬢様曰く乙女の夢のために全く先に進まない。私だって打ち明けられた当初は、驚きつつも大好きなお嬢様のためと協力しようとした。兄に脈があるか探りを入れたり、ご当主様の意見を伺ったり。だけど、当のお嬢様が余計なことをしないでと怒ったものだから、それから私は様子見を続けていた。思わずため息が出る。
「でも、この5年全く進歩がないじゃないですか。ご当主様たちは相手はお嬢様に任せるとおっしゃっていますし、後はお嬢様が兄を落とせばいいだけの話でしょう」
「違うわベラ。落としたいんじゃなくて、落とされたいの!」
「お言葉ですが、お嬢様はすでに落とされていると思いますが」
「もう! もっとこう、追われたいのよ! 恋されたいの!」
「……はあ」
もう面倒だから頷いておいた。今でも十分犬のように兄はお嬢様の後をついて行っているし、兄は昔から一生をお嬢様に捧げると公言するぐらい落ちていると思うのだけど、恋愛のそれとはまた違うらしい。
「……ベラ。今面倒くさいって思ったでしょう」
じとっと圧のある目を向けられたので、にっこりと微笑みを返す。
「いえ、面倒くさいと言おうとしておりました」
「もっと悪いわよ! ほんとに、ベラは主人に対して遠慮がないんだから」
「これでも、せいいっぱい礼を尽くしておりますが、なにぶん主が頑固なもので」
幼いころから一緒に育ったようなものなので、当然遠慮もなくなる。一般的な主従関係というよりは、家族に近い主従関係だと思っている。兄のお嬢様大好きは、また別として……。
「もういいわよ。ベラなんかさっさと結婚して幸せになりなさい!」
「私はすでに幸せです。でも、年の近い主より先に式をあげるのは憚れますので、お嬢様はさっさと兄をものにしてください」
「うるさいわね! どんな手を使っても、ものにするわよ!」
そんな中身のない言い合いをしていれば時間は過ぎ、しびれを切らした兄が様子を見に来たことで、茶番は終わる。ドアの向こうから聞こえた兄の声に、お嬢様は瞬時に婚約破棄に傷ついている女の子の顔を作り、しょんぼりし始めた。私は笑いが込み上げるのを腹筋に力を入れて何とか耐え、これから始まる茶番を真顔で見られる自信がないので、兄と入れ代わるように出ていったのだった。