罪の手と嘘の手
ひどく喉が渇いていた。
アゼルは、壁にもたれて息をついた。ウルの下水道をはずれた、古い石組みの下水道の中だった。もうずいぶん奥まで歩いてきたはずだったが、いつまで経っても、あの壁の亀裂は見当たらなかった。
慣れぬ道とは言え、下水道の中で、かれが道を見失うことなど、これまで一度もないことだった。
(なんとか、あの場所を見つけるんだ)
もういちど、ジャミルの安らかな寝顔と、かれのあこがれを取り戻してやりたかった。
ここしばらくの間に、同じ意味の話を、エジとジャミルのふたりから耳にしたことは、ただの偶然ではない。アゼルにはそんな気がしていた。
(ジャミル、おまえと添い寝したあの夜、おれたちはお互いにひとつ何かをまたいで、近づけた気がするんだ)
そのよすがは、ほそい、ほそい糸かもしれない。しかし、その糸を辿り、その糸に露のようにまつわる希望のしずくを集めた手のなかに、きっと自分たちがもういちど始めることができる何かがある。そんな思いがアゼルの胸を高鳴らせるのだった。
(だから、ジャミル、待っててくれ、おれが、きっとおまえとおれの未来を切り開いてみせるから)
ぽたぽたと、きつく巻きしめたはずの布の下にある、ジャミルから罰を受けた手の傷から、血がにじみ出しては、泥水のなかに垂れ落ちていた。
喉のかわきは、もう耐え難くなっていた。アゼルは、ふらつく足取りで、地上からの雨水が染みでているとおぼしき場所を探して、わずかなりとも澄んだ水に口をつけた。
(これは──)
アゼルは、顔をあげた。その目に警戒の色が浮かぶ。かすかにだが、砂や泥の臭いに混じって、まだ新しい、自分のものとは違う、血の臭いがした。
(人間の血だ)
いまいる場所から向こうは、ひっそりと冷たい暗がりになった、ほとんど流れのない浅場だった。不吉な予感が、ぽちゃん、ぽちゃん、と天井から落ちる水音にかさなる。
目を凝らすと、ごみのたまった水辺に、襤褸のような死体が横たわっていた。
朽ち果てた法衣には見覚えがあった。アゼルは死体に手をかけ、ちからをこめて、ざぶりとその場に裏返した。
死体は、エジだった。
「結局は、こんな結末か」
思わずもらした自分の声が、つめたく暗い空洞にがらんとひびいた。
エジは、黄色い目を大きく見開いていた。アゼルの肩をつかみ、食い入るようなまなざしでかれにあこがれを語った目は、もうすっかりにごっていた。
エジのからだを見下ろすアゼルの胸にわいたのは、失望でも怒りでもなかった。
(結局は、あんたも変わらない。あんたは信じた。そして裏切られ、ここで虫けらのように死んでいる。
光を求める者に、かならず背を向け、自分の影をもって答える。だれも報われない、なのに、だれも逃れられない。それがあんたたちの信じるウラブなのさ)
ジャミルのきよらかな思いを踏みにじり、うらぎったウラブは、アゼルにとってみれば、よりおぞましい影でしかなかった。
「くさった、ウラブめ」
つぎの瞬間、アゼルは手をがっしりとつかまれ、大きな悲鳴をあげた。エジがぎょろりとにごった目で、アゼルを見上げて、呪詛のような低い声で語りかけてきた。
「アゼル、ならば、おまえが求めているのは、おまえ自身がウラブの光に照らされた影なのだ。おまえはそれを知っているが、影を見て光を見ていない。
おまえが罪に囚われているかぎり、贖罪は果たされぬ。その手のごとく、五体を蝕まれて朽ち果てるだけだ。そうして、おまえは自分のからだと共に、ジャミルを、そしてウルをも失うことになる。
それを止められるのは、おまえたちを守ることができるのは、いつまでもウラブだけなのだ。やがて、おまえには光が見える。その光のみちびく先へ、ウラブのみちびく先へ足を進めるのだ」
血を吐くような、命を絞り出すような声だった。
アゼルは、絡みつくエジの腕を懸命に振りほどいた。息をととのえながら、アゼルは足元に横たわるエジを見下ろしたが、そのエジは、はじめに見たときと同じく、もうしばらく前に死んでいる死体だった。
アゼルは、壁に背をついた。幻覚とはいえ、ついいましがた耳にしたエジの声とことばとが、胸の奥底にわだかまり、渦巻いていた。
──罪の意識。
それは、ジャミルからなされた告発への負い目だろうか。かれに告発の責めを負わせた卑劣な自分への嫌悪だろうか。かれのこころを暗い水底へ沈めることとなった、自分のことばと行いすべてに対する後悔だろうか。
おれが求める未来という名の浄化、いや贖罪の先にいるのは、ほんとうにおれで、ほんとうにジャミルなのか。それとも、はじめから自分のなかにあるしあわせの形にはめただけの、似姿でしかないふたりの影であり、塑像でしかないのだろうか。
もしそうなら、形にはめられたおれたちは、なにを見て、なにを感じ、なにを思い、なにを語るのだろう。影となり、塑像となったおれたちは、そこでなにを夢見るというのだろう。
それが、望むべきほんとうの未来だと言えるのだろうか。
アゼルの目から涙がこぼれた。かれは、壁に向かって振り返り、そこに手をついてうなだれ、がくりと膝をついた。
「ちくしょう、わからない、おれにはわからない」
かれは、そのまま、いつまでも、エジの死体のそばから離れることができなかった。
アゼルは、うわべでは拒みながらも、エジのことばによりどころを抱いていた自分に気づいた。そして、隠そうとすればするほど、かけらなりともウラブへあこがれる自分に向き合わねばならなかった。
意識がもうろうとしていた。たえずおそいかかる睡魔はめまいとなって頭の奥にいすわり、からだは悪寒にふるえた。ぼうっと気が遠くなりかけたそのとき、アゼルの視界のはしで何かが光った。
ごみの山のなかに、ごく古い木箱らしいものの破片が散っていた。そして、そのかたわらには、布でくるまれた何かのかたまりがあった。光は、その布目から垣間見えたようだった。
アゼルは、かすかに臭うそのかたまりを水のない岸辺に引き上げ、震える手で布をほどいていった。布がほどけるたびに、なぜか、かれの額のしるしが脈うつようにうずき始めた。だんだん強まるひどい臭いは、最後の布をめくった途端、強烈な一撃となってアゼルに襲いかかった。
人の肉が腐った臭いだった。
蛆のうごめく死体は、その大きさから見て、自分たちと同じ年頃の子供のようだった。アゼルは、その顔とおぼしきところを覗き込み、あっと声をあげて尻餅をついた。
どろどろに溶けた顔に埋もれた目だけが、ぎょろりと自分の顔を見たように思えたのだった。
(まさか。こいつ、生きているのか?)
アゼルがもう一度、目の部分を覗き込むと、確かにその目には生きている光があった。さきほど布目から見えていたのは、この目の光だとわかった。
アゼルは、息をのんだ。
(なんてきれいな目なんだ。まるで、まるで)
目の前のひとみの色は、かれがすでにあこがれとして封印していた、あの頃と同じ、碧色に澄みとおったジャミルのひとみの色だった。
──アゼル、新たなる世界が生まれるのだ。
(エジは、死んでいく世界のなかから、何かが生まれる、新しい何かが生まれると言った)
アゼルは、どうしても、そのひとみにふれたかった。かれは、おのれの罪の手をにぎりしめて隠し、もう片方の手を、ゆっくりと伸ばしていった。
(ジャミル。おれは、おれの罪も、おまえの罰もない、きよらかな手で、もういちどおまえにふれたい。だけど、もしおれが伸ばそうとしているこの手が、罪の手をかくしたことで嘘の手になるとしたら──)
──アゼル、アゼル!
(──だとしたら、おれは、この手を伸ばして、ジャミル、またおまえを苦しめるのだろうか)
「アゼル!」
その声に、アゼルは、はっとして視界を取り戻した。意識を失って倒れそうになっていた自分を、ジャミルが支えてくれていた。
「大丈夫か? アゼル、どうしたんだ、こんなところで。しかも、おまえはその手の傷の手当てもろくにできていないじゃないか」
ジャミルは、アゼルが懐ににぎりしめていた罪の手をそっと引きずりだし、たぐりよせてこわばりをほぐし、かなしげに、いとおしげに、罪の手も嘘の手も共につつみこむと、自分の胸にあてて、涙をこぼした。
ジャミルの胸に触れた手に鼓動が伝わってきた。
「ジャミル」
「ああ、おれだよ、アゼル」
ジャミルが、袖口で涙をぬぐって、そっと肩を貸してくれた。かれは懸命に、不自由なからだをつかって、アゼルをそっと壁際へもたれさせた。
ジャミルは、かたわらの腐った死体を目にして、アゼルの頬に手をあてて不安げにたずねた。
「いったい、なんなんだ、この腐った死体は。アゼル、おまえは、いったいなにを見つけたんだ?」
ジャミルは、怪訝そうな顔で周囲を見回した。
(ジャミル、だめだ、おまえはそれを見ちゃ、いけ、ない……)
ジャミルは、水に浮かぶエジの死体を目にした。
とたんに、ジャミルの顔色がかわった。その目が、憎しみの赤に染まり始める。険しい表情がかれのおもてを占領し、みにくく崩れた乱杭歯が剥き出しになった。握りしめたこぶしからは、歪んだ骨がきしみをあげる。
(ジャミル、もうよせ。おれが、おれたちの約束の地を見つけてみせるから、憎しみに駆られて苦しまないでくれ。ジャミル、もう苦しまないでくれ)
しかし、アゼルの声はかわいた口元でかすれて、ジャミルには届かなかった。
「アゼル、こいつは、あの蛇じゃないか。死んだ。くたばったんだ。ついに、始まった、始まったんだよ、アゼル。あはははは!」
ジャミルは、けたたましく笑いながら、手にした杖を使ってエジの死体を水の深みへ追いやると、杖の先で、ぶくぶくと泥の底に沈めた。そして、みずからも水のなかへ行き、何度も何度も、杖を水のなかに突き立てた。
(ジャミル、もうやめてくれ)
「もう二度と、アゼルとおれの前に浮かび上がってくるな、この、嘘つきの、ねちっこい、かどわかしの、いやらしい、くさった、蛇野郎め!」
水のなかで、ぐしゃり、ぐしゃり、ぐしゃりと、生肉のつぶれる音がして、泥水に混じってどす黒い血の煙が広がった。
(ジャミル、もう、遅すぎるっていうのか。おまえはもう元のところへは、戻って来れないほどに、暗い闇の底に沈んでいってしまったっていうのか)
まるで発作におそわれたように、杖を突き立てるジャミルの姿が、アゼルの涙でかすんだ目のなかでいっそう歪んで見えた。歪んだ背中、歪んだ手、歪んだ指、歪んだ顔、そして──。
(おまえの目の光は、そんな、歪んだ、光じゃ、なかった)
アゼルは、かたわらに横たわる肉のかたまりと、そこにあるうつくしい碧色のひとみを見つめた。かれにとって、そのひとみは揺るぎなく、たしかなものだった。もう失うことなどできない、守りとおすべき、たいせつなものだった。
(そうだ、そうだったんだ──)
アゼルは、自分のながす涙も知らぬ、気の狂った、痩せて、ちっぽけな、いつもやっかいごとを持ち込んでくる黒い影をじっと睨み付けた。だまされていた。おれは、この影にずっとだまされていた。
(──おまえは、ジャミルの、にせものだ)
ジャミルの姿を映すアゼルの目が、暗くかげった。そして、ついに気が遠くなりつつあるかれの目のなかで、ジャミルはいつまでもかれに背を向けていた。