ジャミル
いつもと同じように、下水道の奥に流されてたまったごみのなかで、ウルの一行は火を囲んでいた。
アゼルは、年少のウルたちにその日手に入れた食料を分け与えていた。
あの日以来、アゼルはエジのことばを打ち消そうとして、自分から何度も下水道の外へ出てはごみを漁ることを繰り返した。しかし、多くを得るということはやはり難しく、ちいさなウルたちは下水道の中で空腹を抱えてうずくまる日々を送っていた。
もちろん、アゼルはあの地下牢へと続く壁の亀裂の周囲にすら近づくことはなかった。だが、かれはエジのことばをそのまま容易に忘れ去ることもできなかった。
エジのいざないによって、あの壁の亀裂のなかで自分の目の前に見せられた世界の姿と、逃げるように立ち去る自分に向かってエジが追いすがり叫んだ『おまえの目』ということば。それらが、いったいどのようなつながりを持っているのかが、アゼルにはずっと気になっていた。
(ひょっとすると、おれたちウルの呪いに関係したことなのか)
たき火の炎のゆらめきを見つめながら、アゼルはそんなことを考えていた。
「アゼル」
アゼルたちのいる場所から少し離れたところにある、下水道の支流の淵の暗がりに腰をおろしていたジャミルが声をかけてきた。
「ジャミル、もう寝たのかと思ってたよ」
アゼルはジャミルの横に腰を下ろして言った。杖をわきに置いて、水べりにほそい足を下ろしたジャミルは、背を丸めて、ぼおっとした目を泥の流れに向けていた。
かれは、うつろな目のまま、呟くように言った。
「この世界はもうすぐ終わりを迎える」
アゼルがジャミルの様子をうかがうと、かれはかわいた口元にかすかな笑みを浮かべていた。
「おれたちは、もうすぐ新しい世界を見ることができる。おれたちウルは選ばれたんだ。いまの世が終わりを告げて、虐げる側だった者たちが闇に落ちる番がやってきた。このにせものの世界を作り上げたやつらに、こんどは、その報いの罰がくだるんだ」
かれの、うつむいたまま握りしめたこぶしから、歪んだ骨が軋む音がした。
「そうだ。おれのからだをこんな姿にしたやつらの力はにせものだ。あんなものが本当の力であるわけない。おれのからだの歪みはいまも恨みの声をあげ続けている。正しいおまえの姿を取り戻すために奴らを殺せ、殺せ、殺せってな」
ジャミルはうつむいたまま、しずかに肩を震わせた。アゼルは、震えるジャミルの肩にそっと手を添えた。
顔をあげたジャミルは、指先でアゼルの髪をそっとかき分けて額のしるしを見てほほえんだ。
「おれは聞いたのさ。おれたちはしるしを憎むべきじゃなかった。この額のしるしは約束の地を目指して旅に出るための『目』だったんだ」
『目』──。
そこに自然と、エジのことばがかさなった。
まだおさないウルたちが身を寄せ合って、あどけない顔で遠目ながらじっとこちらを見ていた。二人のようすから、かれらなりに何かを感じとっているような不安げな表情だった。
(ひょっとすると、ジャミルは……)
「この世界はいずれ闇に飲み込まれる。だけど、おれたちは生き抜いていける。おれたちは暗い中にも目が見えるのだから。おれたちはこの目で、あたらしい闇の世界の果てにある約束の地にまみえて、ほんとうのおれたちの姿をつかむんだ」
ジャミルの語る〝あこがれ〟と〝救い〟は、かつてかれがうれしげに語っていたそれらとは、まったく別のかたちだった。
しかし、ジャミルの語る光景は、アゼルがエジのことばに幻視した光景の裏返しのようにも感じられた。
(そうだ、やはりジャミルは……。だからこそ、あの石積みはすでに崩れていたということなのか)
アゼルは、ジャミルと同じ泥の流れを見ながら言った。
「ジャミル、じつは、おれもおまえと同じように、エジからその話を聞いたんだ。そして、おれたちの目のことも──」
ジャミルからの返事はなかった。
アゼルはひやりとしたものを感じて口をつぐんだ。
振り向くと、すぐ目の前でジャミルが赤く燃えたぎる目を見開いて、自分を睨み付けていた。
「おまえ、いま、おれの前で、なんて、言った?」
アゼルは、自分の顔から血の気がひく音をきいた。そして、自分のことばが完全な間違いだったことを悟った。
「おまえは、あいつに、あの蛇に会ったのか? ことばを交わしたのか? どうやってだ? いったいどうやったんだ? いや、あいつに会う方法はたったひとつしかない。
おまえは、あの石積みを崩したんだ。
おれは、ふたりであの石を積んだ夜の涙は、おまえとおれの誓いの涙だと思っていた。その涙に濡れたあの石積みを、おまえは、いまおれの肩にあるこの手と同じ手で崩したんだな!」
アゼルの手の甲に、ジャミルの爪が食い込んできた。肉を突き破り、骨まで達したその爪は、まるで獣の牙のようだった。
ジャミルの形相は凄まじかった。
「ジャミル、違うんだ、聞いてくれ、ジャミル!」
アゼルは慌てて立ち上がった。ジャミルは、かれの手をつかんだまま、不自由なからだをよろめかせながら立ち上がり、アゼルを見上げて向き合った。
ジャミルは大きく口をあけて叫び声をあげた。
「だまれ、アゼル! よくも、よくも、この嘘っぱちの手でおれのからだに触れられたな! よくも、よくも、おまえは!」
ジャミルは、きつく爪を食い込ませたアゼルの手を自分の肩から引き剥がすと、アゼルに向かって血まみれの指をつきつけた。
「おまえはおれを守ってくれなかった!」
アゼルの全身が凍りついた。
ジャミルの片方だけ残ったかなしい目から、大粒の涙があとからあとから込み上げるようにあふれた。
その涙を見て、アゼルは、うわべを塗り固めていた何もかもがひびわれ、崩れ去り、ようやくこの世界が本当の姿を現したのだと確信した。
そして、それこそが、かれが何よりも待ち望んでいた断罪の光景だった。
ジャミルは、涙に震える声で訴えた。
「──おれのことを、あいしてるふりをしてみせながら、おれと手をかさね、おれにくちづけしようとしたくせに、おまえはおれを守ってくれなかった!
おまえは、身をけがされ、顔をつぶされ、焼かれて燃え上がるおれを守ってくれなかった!
おれはあの日の朝も、おまえのために髪をといた! おまえのために身なりをととのえ、おまえとふれ合えるからだをていねいに手入れした! おれの気持ちは、おまえのために踊っていた!
なのに、あの狭くむせ返る小屋のなかで、そのすべてを踏みにじられていくおれを、おまえは守ってくれなかった!」
アゼルのそばの壁には、自分では罪をみとめることなく、ついにその罪をあばく責めをジャミルに負わせた卑劣な自分の影が立っていた。
ジャミルの告発は終わらなかった。
「そして、おまえはいまだっておれの恨みを晴らしてはくれない! おれの狩ってきた肉を食わず、おれのためにやつらのだれかひとりの生首だって持って帰ってきてくれない!」
ジャミルは大声をあげて顔を両手でおおった。胸が引き裂かれるような声をあげて、ジャミルは嗚咽した。
「なのにおまえはいまもおれのからだにふれようとした! なにひとつ与えてくれないくせに、おまえはいつだっておれに許しを求め続けている! いつまでおれは我慢しなければいけない? いつまでおまえを待てば、おれはおまえのやさしさに触れることができるんだ!」
アゼルは、その場から、もう一歩だってうごくことができなかった。ぶら下げた腕からぽたぽたと血がしたたった。アゼルは自分の罪の証である床の血だまりをじっと見てうつむいていた。
ジャミルは、床にくずおれてうずくまった。かれは、両腕のあいだにうずめた頭を何度も横に振って、すすり泣きをした。
「いやだ、いやだよ、アゼル、こんなのはいやだ」
ジャミルは、かよわい声をもらして言った。
「おれはおまえのそばにいたい。ずっとおまえと一緒に生きていたい、アゼル。
おれはおまえからいっぱいもらったんだ。お返しできないくらいいっぱいの生きる希望をもらったんだ。おまえがそばにいてくれるから、おれはこんな今でも生きていられるんだ。
なにもいらない。おまえがおれのそばにいてくれるなら、おれにはもうなにもいらないんだ、だから、おねがいだ、アゼル」
アゼルはジャミルのもとへ行き、かれをそっと起こした。ジャミルは杖を投げ捨て、よろめきながらアゼルにしがみつき、胸に顔を埋めて声をあげた。
「許してくれ、アゼル、こんなおれを許してくれ、こんなふうに歪んでしまったおれをどうか許してくれ」
アゼルは、もうなにも言えなかった。自分のことばによってすべてが嘘になりそうで怖かった。
けれど、アゼルはことばをつないだ。
それが勇気だと信じた。
「ジャミル、おれはどこにも行かない、おれは、おまえのそばにずっといる」
今にも折れてしまいそうに華奢でいながら、どれだけ残酷なことにも耐え抜いてきた、強くかなしいジャミルのからだを、アゼルはしっかりと抱きしめた。
いつまでそうしていたのだろう。
ほかのウルたちが寝静まってしまったあと、アゼルは、自分の膝のうえで、泣きつかれて寝息を立てるジャミルの寝顔を眺めていた。かれの、まだきれいなまま残った白い頬をやさしくなで、その指先で痛ましい傷あとをたどる。
いつも、この報いは誰が受けるべきなのかを考えていた。
ただの憎しみなどでは埋められない。決して忘れることもできない。なにがこれをふくらませていき、なにがこれを終わらせるのかも分からないこのかたまりは、しかし、誰でもなく、アゼル自身が向き合わないといけない怪物だった。
ジャミルと一緒にいられるなら、罪も罰も真実さえも必要ないとおもっていた。
だが、真実は、それと向き合ってはじめて目の前に明らかにされる絶対的なものとして確かに存在し、逃れることなどはかなわず、罪はそこに生まれ、罰はそこから必ず訪れるのだ。
そして、たいせつなもの、守るべきものは、真実と向き合わないのなら、そこから逃げ出してしまうのなら、かんたんに壊れてしまい、永遠に自分のもとから去ってしまうのだ。
それを勇気と呼べるものかどうかはわからない。しかし、ジャミルを真実のなかへと導くのは、かれを守りとおすことができるのは、自分のなかの勇気だけなのだと、アゼルはつよく思った。
(おれは、おまえのためなら、どこへだって、暗闇のさらに奥へだってすすんでやる)
ジャミルが寝言をいいながらアゼルの腰に腕をまわし、かれのからだに顔をうずめてきた。膝のうえのジャミルの寝顔は、しあわせだったあの頃のままだった。
アゼルは目をあげ、暗闇の向こうをしっかりと見据えた。