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崩れた石積みといざないの塔

 アゼルはうずくまっていた顔をあげて叫んだ。


「聞きたいのはおれの方だ! なぜ、あんたは始めからおれたちを呪われたウルとして扱ってくれなかったんだ。求めてはいけないものなら、はじめからそんなもの見せてくれなきゃよかったんだ!」


 アゼルは、ジャミルがかれの隣で頬を赤らめながら、胸に両手を当ててうれしげに語った『ウラブ』を思い起こした。エジに教わったことをひとつひとつ数えあげ、目を輝かせながら指折りたしかめるように語っていた〝あこがれ〟と〝救い〟。


 ──今はもう、かれが口にすることのないことば。


 アゼルはエジを振り返り、暗い目を向けた。


「あんたがくれたウラブへのあこがれは、今もおれたちに辱しめを与えつづけているさ。おれたちは、そのウラブを思い出すたびにみじめな自分たちの姿をあらためて見せつけられるばかりだからな!」


 ウラブへのあこがれの気持ちと自分たちの実際の姿の隔たりが大きくなればなるほど、かれの胸には、そのことへの戸惑いとかなしみを打ち消すための怒りが掻き立てられた。


「あんたはおれたちに、ウラブと救いを教えてくれた。ウラブは地にあまねく行き渡られるとあんたは言った。そのウラブはいつおれたちを見つけるっていうんだ? いつかウラブに救われるとかいう、その日はいつやって来るっていうんだ?」


 エジは無言のまま瓦礫の隙間に身を戻すと、枯れて骨のようになった手でかたかたと瓦礫を落として崩し始めた。もうアゼルが通れそうなほどに、その亀裂は大きく口を開けていた。


「アゼル、ならば、わたしのことばを辿って、おまえ自身がみずからの心のなかを探って歩くがよい。そうすれば、おまえのその足が、ウルとしてではなく、ひとりの人間として歩くことのできる足だということが分かるはずだ」


 エジは、その手でゆっくりとアゼルを手招きし始めた。アゼルは、かがり火に飛び寄る羽虫さながらエジのことばと手招きにいざなわれ、いつしか、壁の亀裂のなかへと足を踏み入れていた。


 その空洞の奥には、岩を荒く削った階段が上に伸びていた。階段の両側にはロウソクの火がいくつか灯っていたが、明るさはほとんどなく、空気はしめり、ひんやりと冷たく薄暗かった。


 背後にいるエジの声が、空洞にこだまするゆえか、頭のなかにうねるように響いた。


「さあ、のぼってみせよ。この階段がいったいどこまで続いているのかは、おまえにも、わたしにも分からない。のぼってみぬ限りは、その先は分からぬものだ」


 エジが言うとおりだった。階段はのぼってものぼっても終わりがないように思えた。次第に足も上がらなくなり、アゼルは、ついに息をあえがせ、もう一歩もすすめなくなった。


 目の前にひとつの扉があった。どうやら階段をのぼりつめたようだった。


「アゼル。そのとびらを開いてみるがよい。すると、おまえは遥かな高みから地を見渡すやぐらに立つことになるだろう」


 いつの間にか、アゼルのすぐ足元の踏み面にエジが腰をおろしていた。


「日の光のもとでは、眼下に広がっているはずのみはるかす大地は、しかし、まだ夜明け前の暗闇におおわれている」


 扉を押し開けたアゼルは、風の吹く夜の空のなかにいた。きらめく星が一面に散り敷く澄み渡ったそのひろい夜空のなかで、いま頬をなでるこの風が、遠く大地をわたってきたものだということがなぜか分かった。


(ああ、世界はこんなにも広く、そして──)


「アゼル、なにが見える?」


 アゼルの目の先、はるかかなたに、ほっそりと釘のようにのびる黒いかげと、その向こうにさらにちいさくかすむ小高い丘のかげが見えた。


「それはおまえの心だ、アゼル」


 エジは、アゼルの肩越しに耳元に口を寄せてことばを続けた。アゼルは、まるで背後に大きな影がおおいかぶさるように感じた。なぜか、振り向いたときの相手の顔が、よく知るエジの顔ではないような気がして、振り返ることができなかった。


「わたしは、いつも自分のなかに古きウラブの声を聞いている。そして、その声はおまえの心にも届いているはずなのだ」


 アゼルは、はっとした。


(声、ああ、もしかすると、あの声は……)


「それは、深い心の水底からわたしたちすべての心に浮かび上がる声なのだ。いつしか古くくもってしまうあらゆる人の心がふたたび清まり、新たなる光を受け入れるようになるためのウラブからの呼びかけなのだ」


 アゼルは、意を決してエジの顔を振り返った。そこには、よく知ったエジの顔があった。アゼルは、この男が語るウラブへのあこがれと救いを、かつては渇いた土に染み入る水のように信じていた。


 しかし、それもこれも、すべてが終わりを告げたあの一夜まで、かれらが呪われた存在であることによってすべてが砕かれ踏みにじられてしまった、あの一夜までの話だった。


 なにもかもが無力だと知らされたあのときまでの話だった。


 生まれながらに刻まれた禍々しいしるしによって運命が弄ばれたとき、アゼルはこれまで生きてきた世界がかれらに偽ってきた真実の素顔をまざまざと知った。


 あらゆる希望は、かれらをいたぶり、あざ笑い、嵌め落とすための罠だった。


 だからこそ、アゼルとジャミルは、エジの声を封じ込めてしまわなければならず、そのために、かれの住む壁の亀裂におのおのが手にした重石を積み重ねたのだ。


 ──アゼル、これでいいんだよね。


 石を積んだ夜のふたりの姿が、アゼルの目に浮かんだ。ウルたちが寝静まり、ふたりで寄り添っていたとき、ジャミルが、どうしてもあの場所に石を積みたいと言い出したのだった。


 華奢な手に最後の石を持ったジャミルはうつむいていた。そのむごたらしい傷痕の残る顔を隠すために髪を伸ばし、からだじゅうのやけどを隠すために黒い襤褸をまとったジャミルの肩が、小さくいとおしかった。


 なんと言ってあげればよかったのだろう。おぞましい行為によって純潔も尊厳もうばわれ、なにを信じることもできなくなったかれに対して、おれはなんと言ってあげればよかったのだろう。


 あいするかれに、なんと言ってあげればよかったのだろう。


 ただ、抱きしめたいほどにいとおしいかれを、後押ししてあげたいだけだった。


 ──うん、これでいいんだよ、ジャミル。


 ジャミルは、最後の石をきつく音を立てて置くと、歯をくいしばって、両手をつかってそれを力いっぱい押しつけた。


 そして、その夜を境にして、ゆっくりと、水の底に沈んでいくように、ジャミルの心はウルよりもふかい闇に沈み、もう二度と浮かび上がってはこなかった。


 エジは、うつむくアゼルの前に回り込み、身を屈めると、その手を肩にかけて語り出した。いつの間にか、かれの目が黄色く光り始めていた。


「聞け、アゼルよ。いま、一つのことばが本当のこととなるときが訪れようとしている。世界のいつわりは大いなるこぶしと強きかかとによって打ち割られ、すべての人間は、同じくきよめられる。そして、あたらしい時がつながれ、いのちはみずからのいのちを語りはじめるのだ」


 エジは、黄色く光る目を近づけ、アゼルの顔を覗き込んだ。


「もう、おまえたちもあのような行いをしなくてもよくなる」


 アゼルはエジの手を振り払い、その顔を睨みつけた。胸の奥から怒りがこみ上げる。


「あのような行いというのは食べ物を得るための盗みのことか? おれたちを殺そうと追い掛けてくる連中から逃げ回ることか? それとも下水道の中に棲みついていることか? いったい、それが悪いことだとでもいうのか? ただ生き抜いていくことさえも、それがおれたちだからという理由で間違いだとでもいうのか?」


 目の前に広がる景色が、うそうそしい光を広げ、夜明けが訪れようとしていた。それは希望の光などではない。かれらの呪われたしるしを、そのからだを見つけやすいように照らす、やつらのための光だった。


 アゼルはエジから身を引き離すと、眼下に広がる絵空事じみた景色をあざ笑った。


「おれたちはウルだ。呪いから逃れることなんかできやしない。今までだってずっとそうだったんだ。あんたから、どれだけことばを連ねられても、どれだけ偽物の景色を見せられたとしても、おれはもうだまされない」


 アゼルはエジを指差し、叫んだ。


「結局は、すべては嘘さ。あんたの言う素晴らしい景色も、人々のきよめられた心も、救いなんてあるはずもない。そしてそれはこれからだって、ずっと変わらない。これから何がどう訪れるとしても、今までなかったものがどこからか生まれてくるなんてことありっこないんだ!」


 エジが、そっと手を伸ばしてアゼルの頬にふれた。そこではじめて、アゼルは自分が涙を流していることに気がついた。


「アゼル、おまえは何を求めて泣くのだ? それはおまえが言うような絶望の涙なのか? それはおまえが何かを求めようとする涙ではないのか?」


 アゼルはエジのことばを最後まで聞かずに、ふたたびかれの手を振り切って駆け出した。古い下水道の瓦礫と堆積物のなかを駆けぬけ、涙をぬぐいながらウルの下水道へと向かった。


 エジの声が、下水道に響き、かれの背中に追いすがる。


「歩き続けるのだ、アゼルよ。心が折れようとも、足が萎えようとも、剥がれた爪で地を這いずろうとも、その先へすすみ続けるのだ。そうすれば──」


 最後に、エジは振り絞るような声をあげた。


「おまえのその『目』がおまえを導いてくれるはずだ!」


 エジの最後の声は、どれだけ遠く離れてもアゼルの耳にこだまし続けた。


 アゼルは、いつしかとぼとぼと歩いている自分に気がついた。そして、自分がこうして足を動かしているのは、自分の居場所へ戻るためなのか、何かから逃げるためだったのか、もう分からなくなっていた。

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