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かさねたしるし

 はじめは静かにゆっくりと、やがてはざぶざぶと水音を立てるように引き寄せられて、アゼルはその場所にたどり着いた。かれは目をみはって立ちすくんだ。


 積み上げていたはずの瓦礫が、崩れていた。


 このあたりは、アゼルたちがねぐらにしている下水道よりも古い下水道で、周囲には崩れた瓦礫や流れ出た土砂が積み重なり、乾いたごみや干からびた死骸などがへばりついていた。


 こうした古い下水道は、至るところでウルたちの下水道につながっていた。それは、下水道全体が古いものに新しいものを継ぎはぎして作られたものであることを示していた。今となっては、この地下の迷路の全貌を知っている者など誰もいないだろう。


 アゼルは久しく訪れることのなかったこの場所を、用心深く見回した。地上の街のどこかに飾られていたと思しきレリーフ、街路を舗装していた石畳、なにを象ったものだろう倒れた彫像などが瓦礫や土砂に埋もれていた。


 アゼルはゆっくりと水面から出ると、壁沿いに音をひそめて歩き、目的の瓦礫の崩れたあとに近づいた。崩れた瓦礫と瓦礫の隙間から覗き込むと、湿った石床に、屍のように横たわる男の姿が見えた。


 同じだった。かれの手足は最後に見たときと同じように枷につながれていた。壁から出ている鎖につながれたかれの前には、もういつのものか分からない干からびた食べ物が置かれていた。


 アゼルの気配に気づいたのか、床にのびた男のうつろに開かれた目が、闇のなかを探るようにぎょろりと動いた。そして、まるで蛇のように這いずり始めたその腕が、ゆっくりとあたりをまさぐり、ついにアゼルの指先に触れた。


 アゼルは口を結んで震えていた。


(かれを拒んだのはおれたちだ。ここを塞いだのは、瓦礫を積んで、かれはおれたちとは違う、ここはおれたちの来るべき場所じゃないと決めつけて背を向けたのは、おれたちじゃないか)


 アゼルは、さらに絡まろうとすがってくる男の指先を解き離して、ゆっくりと後じさりした。


(おれたちは、ウラブなどに救われはしない。なにものもおれたちに救いなんかもたらさない)


 あのおぞましい記憶が、またよみがえる。


 かれの頬を、あとからあとから湧き始めた涙が濡らし、けんめいに歯を食いしばった口からは堪えきれないうめき声がもれた。かれは息を荒くし、血の気の失せた顔で、無力な自分の両手を見下ろした。



 さまよって暗闇をひとり歩いているのが、かれの最初の記憶だった。かれは生まれたときから下水道に住みつき、そこにうごめく虫や、泥水にのって流れてくる腐った肉やごみを漁って生きてきた。


 かれはずっと一人だった。


 かれがひとたび下水道の外へ出ると、道を行くどの人間も、かれそのものが憎しみのみなもとであるかのように、罵りと暴力をかれにぶつけた。


 かれには、その理由が分からなかった。


 かれは、汚れた襤褸に身を隠し、地上の者たちが話すことばを理解しようとつとめた。草の根やごみを拾って食べながら、暗闇のなかにじっと身を潜めながら、自分に向けられる憎しみの意味を探り続けた。


 しずかに雪が降り積もる、空気の澄み渡った冬の夜だった。


 ねぐらへの道すら見失うほどに疲れ果てたかれは、街のはずれで力尽きて雪のなかに倒れ込み、凍えたからだを丸めて、身動きもできずに震えていた。


 かれは、もうこのまま死んでいくのだと悟った。


 かれの目がかすみ始めたところに、どこからか、こちらへ向かってくる足音がした。そして、ほのかな花のような香りがかれの鼻をくすぐった。


 うっすらと目を開けると、そこには自分と同じ年ほどの小柄な少年が両膝をついて、かれの顔を覗き込んでいた。


 少年はそっとかれの手を取り、やさしくほほ笑みかけた。


 少年の額にも、かれと同じしるしがあった。


 ──もう泣かなくていいんだよ。おれたちはこうしてつながっているのだから。


 鈴の音のような心地よい声だった。


 かれは、少年のやわらかな手を握り返すと、そのまま気を失った。


 次に気がついたのは、やはり暗い下水道のなかだった。しかし、アゼルはもう一人ではなかった。


 ──目が覚めたんだね。しばらく横になっているといいよ。


 少年の名は、ジャミルといった。かれは、白い肌にうす色の髪をまっすぐにおろし、かわいらしいくちびるで碧色に澄んだ目をほそめて、ころころと珠のように笑う少年だった。


 やがて、アゼルは、これまで自分がいた地下の下水道が、本当はずいぶんと広く地中に根を張り、かれやジャミルの他にもしるしをもつおさない者たちが多く住んでいることを知った。


 かれらのねぐらからすこし奥へすすんだ先は古い下水道に続いていて、その奥にはいつもひとりの男がいた。かれは『エジ』と呼ばれ、ジャミルたちはそこで、地上のことばや『ウラブ』というものについて学んでいるのだった。


 アゼルは、次第にこの新しい下水道での生活に親しんでいった。これまでと変わらぬ、同じ暗闇のなかではあったが、かれは、ここで生きていくのだと強く決心する理由があった。


 いつしか、かれは、ジャミルがくすくすと口に手を当てて笑うあどけない笑顔の隣にいるだけで、ジャミルが自分のからかいに白い頬をふくらませてみせる仕草を見ているだけで、胸に切ない痛みをおぼえるようになっていた。



 ある夜、月のきれいな夜に外に出たアゼルとジャミルは、ふざけあって疲れたあとの背中をかさねて、川べりの低い石組みに腰をおろしていた。


 ふたりはもう知っていた。それでも、その気持ちをどう表せばいいのか、その思いを何に託して伝えればいいのか分からないまま、ただ寄り添っていた。


 やがて、ジャミルの白い指先が、そっとためらいがちにアゼルの指をもとめてふれた。


 ふたりはそのまま、お互いの手の平と手の平をかさね、まだ汗ののこった額のしるしをかさねて、いたずらっぽくはにかみ合いながら、そっと息を交わした。


 あどけないジャミルのうるんだ瞳と、あまくひらいたくちびるだけがすべてだった。


 もう、世界はここ以外にいらないと思った。


 ──そこへ、男たちが地獄を連れてやってきた。



 おさないふたりには、どうすることもできなかった。屈強な男たちは、かれらを力ずくで引きずり、川沿いの船着き場にある、今はもう使われていない古い道具小屋へと連れ込んだ。


 アゼルは、こん棒で両足と肋をへし折られ、手近の柱に手足を大釘で打ち付けられて、そのまま、柱に回した猿ぐつわをかまされ、身動きが取れなくなった。


 男たちの目当ては、はじめからジャミルだった。かれらは、床にへたりこんだジャミルを引きずり起こし、かれの着ていたものを剥ぎ取ってからだを地面にころがすと、代わる代わる、一人また一人と、悲鳴をあげるジャミルのからだを押さえつけてその上におおいかぶさり、まるで糞を拭く紙のようにジャミルを扱い、踏みにじった。


 ジャミルの泣き叫ぶ声は、いつしか男たちの低い声としめった肉の立てる音に飲み込まれ、地獄は果てることなく続いた。


 やがて、男たちは、ぐったりと横たわるジャミルの髪をつかんでからだを引きずり起こすと、口々に毒づきながら、手にした船道具や足を使って、かれの顔の肉がつぶれ、からだじゅうの骨が砕けるまで、なぶり打ちのめした。


 そして、暗い顔をした男のひとりが、小屋の片すみにあった油をジャミルに浴びせかけると、壁にかけたたいまつを手に取った。


 ──忌まわしいこのウルめ。これでせいせいするぜ。


 自分のからだに浴びせられた油と男が手にした炎の意味を悟ったジャミルは、ぼろぼろに砕かれた骨とつぶれたはらわたを引きずりながら、男たちの輪から必死になって逃れようとした。


 男たちは股を拭きながら笑い、床を這いずるジャミルの姿をあざけり、はやし立てた。たいまつを手にした男は、ゆっくりとした足取りでジャミルに追いつくと、なんのためらいもなく、かれのからだに火を放った。


 断末魔の悲鳴が、暗闇に燃え上がる炎のなかにあがった。


 アゼルは、おのれの肉と皮を引きちぎり、打ちつけられた釘と縄から逃れると、肉の焼けるにおいと共にくすぶって横たわる、顔の形すら分からなくなったジャミルのもとに這いずって、何度も何度も、川からすくった水をかれのからだにかけ続けた。


 アゼルは、ジャミルの焼けただれたからだを抱きしめながら、かれのために流す自分の涙が、かれのからだに落ちるいとまもなく、しゅっと湯気になるのを見た。


 かれは無力なこぶしをにぎりしめ、何度も何度もかれの名を叫んだ。大声をあげて、失われたものの大きさをかなしみ、嘆きのなかで何もかもを呪って泣き続けた。



 アゼルは、どんな悪夢よりもおぞましく、どんな憎しみでも塗りつぶすことのできないその記憶を前にして、顔を両手でおおってわなわなと震え、膝をついたまま、息をあえがせた。


「おれたちは、ウラブなどに救われはしない。なにものもおれたちに救いなんかもたらさない」


 知らずに声がもれていた。


「ならば、おまえはなぜここへ来たのだ」


 瓦礫と瓦礫のすきまから、蛇のように上半身を乗り出し、腐った息を吐きながら、エジがじっとりとアゼルを見据えていた。

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