ウルの下水道
アゼルは、ほとんど流れのない、ふかい水の底に泥がよどむ、真っ暗な下水道の中を歩き続けた。水の深さや泥のせいばかりではなく、ひどく足が重かった。かれは、男たちに打たれて痛む肩口を手で押さえ、ひどい空腹をこらえながら、ぬかるみの中に足をすすめた。
ここは、かれが幼い頃からずっと慣れ親しんできた場所だった。たいまつの明かりなど持たずに歩くことができたし、多くの枝道もそらで選ぶことができた。ここに巣食う虫や鼠よりも、かれはよくこの迷路を知っていた。
──この場所だけが、おれたちを受け入れてくれる。
アゼルは、街で見上げた教会の建物を思い出し、そのすがたをうつくしいとさえ思った自分を恥じた。教会の主とされるウラブも、身の程をわきまえぬ自分を見おろして嗤っているにちがいない。おまえたちは違うのだ。このうつくしいものは、おまえたちに与えられたものとは違うのだと──。
やがて、下水道の幅がすこし広まり、いくつかの支流が交わった広場のような場所がひらけた。アゼルは顔をあげた。
行く手の奥、腐ったごみや流された屑などが堆積した丘のような一角に、いくつもの小さなかげが身を寄せ合うようにうずくまり、たむろしていた。怯えるような、ひっそりとした赤い目の光が、それぞれのかげのなかで、周囲をうかがうように揺れていた。
今にも消えてしまいそうなか弱いそれらの光は、アゼルと同じく、この下水道の闇に住むウルたちの目の光だった。かれにとってたったひとつだけの、信じることを許された光だった。
外の世界にかがやく白々しい光が、地上の者たちのいつわりの顔を照らし、あさましい欲望や忌まわしい暴力から目をそむけさせるために差していることを、アゼルはこれまでの自分たちへのかれらの仕打ちでよく知っていた。ただまばゆいばかりの光など、かれにとってはにせものの光でしかなかった。
アゼルは、身を寄せ合うようにしてかれのまえに並ぶいくつものあどけない顔を見た。自分と同じ目にあいながらも、おさないなりにけなげに生き伸びようとする小さき者たちのすがたを見ていると、いつも胸の奥が、かなしみにとらわれて痛み、やり場のない憤りにざわついた。
(おれたちは、この泥とごみと死骸の山に混ざったまま日を送り、やがてくたばり、ここでごみと一緒に腐っていくだけの運命だと、地上のやつらは言う。だが、それが本当にこの世のはじめから、おれたちウルに定められたことだっていうのか? どうして、このしるしのためだけに、そんな境遇におれたちが耐えつづけなければいけないんだ)
そのとき、はかなげな光を浮かべてこちらをうかがっていたウルたちの目が、ふいに期待に揺れるように大きく見開かれ、つよく光りはじめた。かれらはいっせいに同じほうを見た。
その方向から、どぶを掻き分ける不自由な足音が近づいてきた。アゼルの胸は高鳴った。きっと自分の目も、ほかのウルたちと同じくらいに、いや、きっともっとやさしく、つよく、恥じらいの赤に染まって光っていることだろう。
──ジャミル、おれのたいせつな、いとしい、ジャミル。
腐った水の中を歩いてきたのは、真っ黒な襤褸をまとったひとりの少年だった。かれは足を引きずり、骨と木を組み合わせて作った杖をついて、歪んだからだを支えていた。
少年の顔は、その半分が傷痕とやけどにおおわれ、ひどく崩れていた。かれの片目はまわりの肉もろとも醜くつぶれ、片方だけ残った目は、血のように赤く、爛々と光っていた。
顔だけではなかった。かれのまとった真っ黒な襤褸からのぞく肌は、どこもかしこも傷とやけどにおおわれていた。からだを支える骨は不自由に曲がり、その手には、満足な形をした指すら残ってはいない。
すべては、かれが受けた暴力によるものだった。
かれは、腐った水の中を引きずってきた大きな頭陀袋を、ウルたちのまえにどさりと置いた。小さなウルたちは、興味をもって近寄り、頭陀袋のにおいをかいで、お互いの目を見交わした。
「アゼル、おかえり。もっとそばへ来てよ。おれは待ちくたびれちまったよ。なあ、なあ、アゼル。はやくおまえの話を聞かせておくれよ」
ジャミルは、はにかみを浮かべて、片方だけの赤い目でアゼルのほうを振り返って言った。かれは、杖でからだを支えながら、うれしげな顔をしていたが、アゼルのようすに気づいて眉をひそめて声を変えた。
「どうしたんだ? アゼル」
アゼルは目をそらしてうつむいたまま、自分の手を開くことができなかった。そこには家畜の糞と男の小便と下水道の泥と自分の血がまざったくずが残っているだけだったから。
ジャミルは、アゼルの握りしめた手を見おろした。そして、かれの顔の生傷を低い姿勢から覗き込むように見上げ、じっとりと見回した。そして、アゼルの頬にふるえる手を近づけ、首もとから足先までを見下ろすと、かれは、憎々しげに歯を剥き出した。
かれの口から、ほんのかすかにだったが、ケマルの葉のにおいがした。アゼルは、くちびるを噛んだ。
ジャミルは、アゼルの傷にふるえる指先を沿わせて言った。
「アゼル、おまえは傷だらけじゃないか。おまえは、やつらにまた辱しめを受けたのか。やつらに、あの恥知らずの、けだものどもに……」
ジャミルはこぶしを握りしめて憤り、肩をわななかせた。その目が、血のような赤に深く染まり、煮えたぎる憎しみを込めて見開かれた。
ジャミルは、震える手で自分の襤褸の懐をまさぐると、血を吸って錆びついたナイフを取り出した。かれは、その柄をアゼルの胸に押し当てた。
その切っ先が、アゼルの胸の肉にずぶりと食い込み、ジャミルのふるえる手元に合わせて血をあふれさせた。
(この血は、ジャミルのうらみの血。おれの、つぐないの血……)
アゼルは、自分のからだをジャミルにあたえたまま、そっとジャミルの肩を抱き寄せた。
「アゼル、アゼル……」
ジャミルは、アゼルの名をつぶやきながら、くぐもった声でかれの胸もとに顔をうずめていたが、やがて、ゆっくりと、うつむきふるえていたその顔をあげた。その目は、さらに深く濃いうらみの血の色をやどしつつ、冷たい落ち着きに沈んでいた。
「アゼル。なあ、アゼル。もう、おれたちはちっぽけなだけのガキじゃない。おれたちはやれるんだ。なのに、なぜやらない? あの憎らしい下衆どもを、あの恨めしい屑どもを、なぜやらずに済ますんだ? なぜおまえは、いつも黙り込む? 相変わらず、やつらに迎合していれば、やつらのこころが見えるとでも思っているのか?」
アゼルは、くちびるを噛んだ。ジャミルは、アゼルをなぐさめるように声を低めてことばを続けた。
「やつらの喉元にこのナイフを突き立てるんだ。このナイフが喉元に食い込んで、やつらは、はじめておれたちに命を握られたと知るだろう。
それはおれたちの、ウルのための行いだ。そうすることで、この世からはおれたちへの憎しみがひとつ減り、おれたちは恨みをひとつ晴らすことができる。そして──」
ジャミルは、ウルたちが頭陀袋にたかり、その中身を音たてて食らうさまを見ながらうす気味悪く笑い、アゼルに目を戻した。
「──肉にもありつける」
ジャミルは暗い表情のまま、つぶれた喉からかすれ声を絞り出すように笑った。
「そら、おまえたち、もっと血を出してやろう。そらっ、そらっ!」
ジャミルは、めくらめっぽうに頭陀袋を踏みつけた。にぶくしめった音が立つたびに、ウルたちの目が、うれしさに赤くかがやいた。
「そらっ、そらっ!」
ジャミルは、憎しみをこめて、その頭陀袋をなんども踏みつけた。ついに、ぐしゃりと頭陀袋の中で肉と骨とが砕けて混ざる音がして、その底から黒々とした血が滲み出し、なまぐさいにおいがただよいはじめた。
「あはは、あははは!」
ジャミルは、曲がった背をこちらに向け、長く垂れ下がる黒い襤褸を泥水に浸したまま笑いこけていたが、しばらくするとぴたりと声を失った。やがてぐるりと首を巡らせて振り返ったかれは、赤く光るその目でアゼルを睨みつけた。
「さあ、食え、アゼル」
アゼルは、顔をそむけた。
「おれは……、人間は、食わない……」
ジャミルは、かつては珠のようにうつくしく誰よりも可憐であった顔を、暴力と陵辱によっていまはもう誰よりもかなしく崩れてしまったその顔を歪め、牙のように並ぶ歯を剥き出し、小さく獰猛な獣が怒りを見せるように声を荒げた。
「人間! 人間だって? アゼル、あの地上の、いったいどこに、おまえの言う人間がいるっていうんだ!」
アゼルは何も言い返せなかった。かれはジャミルの叫びを受け止めてうつむき、ただゆるゆると首を振るばかりだった。
ジャミルのことばと同じ思いは、まぎれもなく、自分のこころの底に暗闇をかたち作る大きな感情だった。地上のやつらに対する憎しみは、ジャミルと同じく、もしかするとかれよりも暗く深く、アゼルの胸を苦しめ続けていた。
あの悪夢の一夜にいまもなお渦巻く怨念と、いとしいジャミルのかなしいすがたとともに──。
ジャミルは、ことばを続けた。
「アゼル。声を聞くんだ。おれたちを導いてくれる声に耳を傾けるんだよ。おまえにも聞こえるはずだ。おれたちを呼ぶ暗闇からのあの声が……」
アゼルは、ジャミルから手渡されたナイフをじっと見つめた。しかし、かれは、そのナイフをそっと石壁の崩れた瓦礫のうえに置くと、うつむいて首を横に振った。
「いいか、いつまでも声からは逃げられないぞ、アゼル。従わなければ、おまえはやがて声の主に食われることになる。おれは、おまえとずっと一緒にいたいんだ、お願いだよ、アゼル」
ジャミルは、かすれた声で言った。
「おれは、おれは……」
ジャミルは、こわばったアゼルの手にそっとふれた。アゼルは、はっとして思わず手を引こうとしたが、ジャミルの手はそれを包み込み、指を一本一本、やさしくほぐしてアゼルの手の平を開いてみせた。アゼルは顔をそむけた。
「おれは、ジャミル、恥ずかしい……。こんなもの、どこかに捨ててくればよかったんだ。いっそ手ぶらで、おまえにすまないと言うほうが、ずっと楽だったかもしれないのに」
ジャミルは、アゼルの手から取った種と穀物をたいせつに手のなかに納めた。
「だいすきだよ、おれのアゼル」
ジャミルはそう言ってほほえんだ。アゼルは、ジャミルの顔色がすぐれないことに気がついた。手指の先にもすこしふるえがあるようだ。
「ジャミル、いたむのか?」
アゼルは、杖を取ろうとしたジャミルを、手を出して支えた。ジャミルは、すこし荒い息をして、肩をこわばらせていたが、アゼルのほうを見上げて、なんどかうなずいた。
「平気さ。すこし、ふらふらしただけだし、なんということはない。大丈夫、大丈夫だ」
ジャミルは、アゼルが置いたナイフを手に取ると、それをふところに入れた。血に染まったジャミルの襤褸からは、かつてのかれのからだからかおっていたあまいにおいではなく、なまぐさい血のにおいばかりがしていた。
ジャミルは、ふいに、不安そうな面もちでアゼルの顔をのぞきこむようにすると、ささやくように言った。
「アゼル、おれたち、ずっと一緒だよね」
ジャミルのいとおしい声とすがたが、胸をしめつけた。おれは、いとしいおまえになにをしてやれるのだろう。おれは、いつも間違ってばかりで、なにひとつおまえにしてやることができない。
アゼルは、うなだれた。そして、ジャミルに背を向けると、重くよどむ泥のなかを、とぼとぼとあるきだした。ジャミルは何も言わなかった。
アゼルは、自分の一歩ごとに絡みつく、後ろめたさと悔しさに居たたまれなくなり、いまにも泥水の中に沈みそうだった。
ふらつく足取りであてどなく歩いていたかれが、知らずにたどり着いたのは、今はもう訪れることもなくなった懐かしい場所だった。疲れ果ててその場に腰をおろしたかれは、壁にもたれかかり、鼠の死骸やぼろ屑が流れたまった水に足を浸して目を閉じた。
ウルとは、なんだろう。
アゼルは、うつむいたまま、しばし考えを巡らせた。自分たちを取り巻く呪いのしるし、そして、自分たちをつなぐきずなのしるし。
(おれたちが終われば、ウルは終わるのか。それともこの世に憎しみがあるかぎり、その捌け口のために、やつらのためにウルはいつまでも生まれて生き続けるのか……)
うずくまるかれの耳に、そのとき、ごくかすかな、どぶの底の泡が水面に浮かんでくる音にすらかき消されそうにかすかな、衣ずれのような音が、下水道の奥から聞こえたような気がした。
アゼルは目を見開いた。かれの胸はにわかに高鳴り、憧れにも似たほてりが頬にたちのぼった。かれは暗闇の向こうを見透かすように目を凝らし、ごくりと生唾を飲み込んだ。
(まさか、かれなのか。かれが生きているというのか)
憧れてはいけない、信じてはいけない、何度もそう思い込もうとしてきた『ウラブ』への思いが、傷口から滲む血のように、かれの心にかすかな痛みをもたらした。
かれは泥の中からゆっくりと立ち上がると、音のする暗闇の奥へ向かって足を踏み出した。
──おれたちにも、きっと……。
──ジャミル、おれたちにも、きっと……。
かれは心に響く自分の声を頼りにして、よろめき、ともすれば崩れそうになる自分の心を支えながら、静かによどむ水面をかき分けるように、その方へと向かって歩いていった。