アゼル
目もくらむようなたいまつの炎と共に、数人の男たちが馬屋のなかに足を踏み入れて来た。
アゼルは、あまりのおそろしさに、壁に背中を押しつけたまま身動きすることができなかった。かれの顔を、男たちのかかげるたいまつの炎がまざまざと照らし上げた。
「小僧、おまえ、いったいどこから入った」
男たちの一人が、たいまつを掲げて厳しい声をあげた。すると、男の肩をまた別の男がつかんで、かれの注意を引いた。
「お、おい、待て! 見ろ、その額のしるしを! こいつはウルじゃねえか!」
男たちは、いっせいにアゼルの顔を照らし、声をあげた。
「ウルだ、まちがいねえ! おい、こいつをラバに近づけるんじゃない、けがれちまうぞ!」
「この呪われたうす汚ねえウルめ!」
男たちは、たいまつをかざしながら、指でしるしを作ってアゼルのほうへ向かって突きつけた。アゼルはちいさくなって、ラバの脚の下をくぐり抜け、男たちの火と指のしるしとを避けるように、尻込みしながら逃げまどった。
(殺される、殺される……)
アゼルの脳裏に、これまでに見てきた、いくつものウルの無惨な死体が浮かぶ。
男たちのひとりが、足を踏み出した。男は、目を血走らせながら、たいまつと農具の鎌を手にして、アゼルのほうをじっとりと見おろした。
「何もかもこいつらのせいだ。いつからか、こいつらがここに棲みつきやがったせいで、こいつらがいるせいで、おれたちは、いくら祈ったところで、ウラブの恵みにあずかれやしない」
男たちがアゼルを見下ろす目には、どす黒い恨みと憎しみの感情が宿っていた。かれらは無言で目を見交わすと、その目を揃ってアゼルのほうへ向けた。アゼルは、壁から無理矢理引き出されて、ラバの肥溜めのなかに放り込まれた。かれは、窒息の苦しみに息を喘がせて、糞まみれになってもがきながら肥溜めのなかから這い出してきた。
そのとたん、男たちのひとりの足蹴りが顔面に飛んできた。小柄なアゼルのからだは、蹴り上げられたごみのように吹っ飛び、地面にころがった。土のうえを這って逃げようとしたアゼルは、男に髪をつかまれ、ふたたび地面から引きずり起こされた。
どれだけ殴られても、アゼルは手のなかに握りしめたものは離さなかった。からだを丸めて手をかばいながら、かれは必死になって、なんとかこの馬屋から逃げ出そうとあがいた。自分をつかむ男のすきを見逃さず、その腕を振り払ったアゼルは、つぎの男の足に咬みつき、男たちがひるんだ脇をすり抜けて、身をひるがえして馬屋のなかを逃げ回った。
「このウルめ! よくもやりやがったな!」
男たちが、口々に罵りの声をあげる。
小柄なアゼルの必死な逃走には、男たちのにぶい足並みでは追いつけなかった。罵声とともに、獲物に届かない手や武器が空をきった。おそろしく燃え立つたいまつの火影が、馬屋のなかに、男たちの不気味な影法師を踊らせる。
目の前に、板壁の裂け目が見えた。
アゼルは、その裂け目に身を踊らせて、馬屋を飛び出した。そのまま、なにも考えず、ただ息の尽きるまで、かれは暗闇のなかを走りに走った。やがて、かれが力尽きようとする頃には、追っ手たちのすがたも声もなくなっていた。アゼルは、ぜいぜいと荒い息をつきながら、身をひそめたどぶの壁に背中をもたれさせた。
かれの手には、握りしめたまま離さなかったごみ粒のような種や穀物が、たったひと握り残っているだけだった。かれは、みじめさに背を丸めた。
「ちくしょう、なんでだよ……、なんでなんだよ……」
また、いつものように額に刻まれたしるしがうずきはじめた。
いったんこの額のうずきがはじまると、いつも自然におさまるのを待つしかなかった。アゼルは、自分の口から漏れる唸り声を噛み潰しながら、どぶの流れに溜まったごみのなかにうずくまり、しるしのうずきが過ぎ去るのをじっと待った。
どこかから、ふらりと酔っ払いがやって来て、アゼルのいる場所のうえに立ち止まると、小便を垂れ流しはじめた。それは、アゼルの頭から顔になまぬるく垂れ流れた。ひどい臭いがしたが、かれはじっと動かなかった。
(こんな臭いがなんだっていうんだ。おれには、小便なんかよりもずっとひどい臭いのするこのしるしが、いつまでもこびりついているじゃないか……)
アゼルの目から、染み込んだ小便が涙のように垂れ落ちた。
(いや、そうじゃない。このしるしは、こびりついているんじゃない。おれに教えてくれるんだ。このしるしがあるからこそ、おれはおれでいられるんだ……)
アゼルは、さらにからだを丸くちぢこませた。
(いつだって、人の恨みを受けるたびに、人に恨みをいだくたびに、額に刻まれたこのしるしが、おれに苦痛をあたえてくれる。そうして、忘れようとするおれに思い出させてくれるんだ。おまえはウルだ。呪われた人間なんだと……)
しかし、その額のしるしは、アゼルに苦痛を与えると共に、まるで闇の底からの呼び声のように、かれの深い部分にあるなにかをつき動かすようにも感じられた。かれは、自分のなかにわだかまる闇と、その底からわき起こる声を、ずっとおそれながら生きてきた。
(この呼び声には気をつけないといけない。こいつに動かされてはいけない。この呼び声に応えたとき、きっとおれはその声の主である化け物に、闇に引きずり込まれてしまう)
かれは頭を振って、酔っ払いの小便と共に自分のなかにある不安を振り払った。
──おれには、ジャミルがいてくれる。
アゼルは、うずくまった膝にうつぶせになり、額のしるしのうずきと胸にわだかまる不安が過ぎ去ってしまうまでのあいだをやりすごした。
そうして、うずくまって、どのくらいの時間が過ぎた頃だろうか。アゼルはゆっくりと目を開けた。
目を上げると、また教会の建物が見えた。月の光に照らされた教会のすがたは、いつも目にするよりもよりいっそう美しく感じられた。
アゼルは、その光景を目にして、うつくしいという気持ちと共に、これまでで最も、それが遠い存在として感じられるのだった。
(祈りなんて、何も与えてなんかくれやしない……)
アゼルは教会の建物から目をそむけた。
何もかも悪いのは自分たちなのだろうか。希望なんかを持つ自分たちが悪いのだろうか。そう問いかけながら、アゼルはごみためから這い出して、裏路地のかげを歩きだした。
かれはその手に、まるでそれがたったひとつの、大切な、かれ自身の意志であるかのように、家畜の糞と酔っ払いの小便が染み込んだ一握りの種と穀物を、まだ握りしめていた。
しばらく歩いた頃だった。
かれの行く手に、襤褸をまとった痩せた男がうずくまっているのが見えた。よく見ると、肉が腐っているのだろう、襤褸からのぞく男の肌にはたくさんの蛆虫が湧いていた。
(もう、死にかけだな……)
この街では、こうしたことも珍しいことではない。アゼルは、男に背を向けて歩き出そうとしたが、ふと足を止めた。襤褸をまとったその男が、何かを呟き続けていたからだ。
男の口からは、舌を切り取られているのか、まんぞくな呂律は聞き取ることができない。それに、どういう仕打ちを受けたのか、砂にまみれたかれのからだは、ほとんど原形がわからないほどに崩れていた。
まるで、腐って溶けているようだった。
「エ……、ダ……」
その声が耳に届いた瞬間、アゼルの頭に、これまで感じたことのない激痛が走った。
「あ、ああ、うがあっ……!」
アゼルは、歯を食いしばって痛みに堪えようとしたが、頭を絞りあげるようなその頭痛は、しだいに激しさを増し続けた。ついに痛みに堪え切れなくなったかれは、両手で頭をかかえてその場に膝をついた。
激痛がさらに激しさを増し、アゼルが気を失う寸前にまでなったとき、ふいに、頭の痛みが嘘のように消えた。
──!
と同時に、まるで胸のつかえが取れたように息つぎが楽になった。しばらく呼吸をととのえて、アゼルは顔を上げて男のほうを見た。しかし、裏路地には襤褸の男のすがたはなく、ただかわいた風が路面のほこりを吹き払うばかりだった。
アゼルは身を起こした。
(いまの、頭をえぐられるような痛みは、なんだったんだ、ちくしょう。それに、あの男、あんなすがたで、あの一瞬のうちに、どこへ消えてしまったというんだろう?)
しかし、もうそんなことはどうでもよかった。
かれは、こわばったからだの痛みをこらえながら立ち上がり、こめかみに指を当て、かるく頭を振ってから、ふたたび裏路地を歩きはじめた。そうして、あるところまで来ると、消え入る足取りで、下水道のなかへ滑り込んでいった。
(おれをかくまってくれる暗闇とこの泥の流れのなかだけがおれの居場所だ。それを清めてくれる水なんて必要ない。泥のなかへ戻るんだ。泥のなかに帰るんだ。おれの呪いのにおいを溶かして消し去ってくれる場所へ戻るんだ……)
アゼルは、下水道の壁に手をついてからだを支えながら、ざぶざぶと深い泥のなかを歩いた。
(おれは、暗闇を望んでいるんだ)
かれは自己暗示のように繰り返した。そうやってことばを繰り返していることで、いつかはほんとうの暗闇に辿り着けるだろうか。ほんとうの居場所に辿り着けるだろうか。
そうして泥のなかを歩くかれの耳に、なぜか〝エダ〟というあの不思議なことばの響きが、いつまでも残っていた。
振り返ると、まっしろできれいな月が、静かな夜の空に、そっとかれを見おろすように浮かんでいた。