夜の街にひそむ
月が雲のうしろにすがたを隠した。入り組んだ街路を照らしていた家々の明かりも、その大方が消え、街は暗闇のなかに沈もうとしていた。しきりに響いていた酔いどれた男たちのだみ声もようやくなりをひそめ、ごみをあさる犬や猫、ものかげにひそむ鼠や虫たちがうごきはじめようとする頃、建物の一角からおどり出た黒いかげが、石畳をすばやく横切った。
かげは、小柄な少年のすがたをしていた。
かげは、暗闇のなかを飛び交った。夜の闇のなかで、かげのちいさなからだをくるむ襤褸が音もなく尾をひいた。身をひるがえして建物のかげからかげへと飛びうつり、暗い路地の一角に身をすべり込ませたかげは、大人たちが通ることのできない狭いすきまを選んで裏道へ抜け出ると、やせた猫があるく石組みの塀の下を足早に通り過ぎた。
──いいか、アゼル。まずは、街の北のはずれ、教会の塔の屋根が見える辻に立つんだ。
街のなかを縫うようにめぐる小さな運河に沿って、身をひそめて進んでいたアゼルは、街の北のはずれの、教会の屋根が見上げられる辻裏までやって来ると、建物の壁にぴたりと背をつけて息を吐いた。
胸をなでおろし、ジャミルの声を思い出し、かれは教会まえの広場までつづく狭い路地に目をとめた。襤褸のふところからジャミルから渡された紙切れを取り出して、そこが目当ての場所であることをたしかめる。
──その路地にはいって、教会まえの広場に出るすぐ手前にある角を左にはいる。
路地の先はくらく、先は見通せなかったが、ジャミルのことばを信じる自分には、闇も闇などではない。
──曲がった先は狭いどぶ道だ。そこを奥まで行くと、一軒の馬屋にあたる。その馬屋のとっつき角の板壁をたしかめると、打ち釘が何本かゆるんでいるはずだ。そこからなかへ忍び込める。
目を閉じて、ジャミルのことばを反芻する。
──気をつけて、アゼル。
アゼルは、こころの中にいとしい声を思い起こし、こぶしを握りしめた。きっとやりとげる。かれはそう思い固めて目を開けた。
夜はひっそりと静まり返っていた。だれもこんな襤褸をまとったちっぽけなかれの存在などは気にもとめない、そんな無関心な夜に見えた。
しかし、アゼルの目は周囲に予断なく配られていた。
(だまされるな。この闇のなかには、いつだって憎しみがひそんでいるんだ)
かれが生まれてはじめて聞いた声は、自分へ向けられる、憎しみと罵りの声だった。
アゼルは、早くから、かれらのことばは、すべてうわべだけの意味のない、いつわりの音のつらなりなのだと知っていた。なぜなら、かれらのことばに多くみられる、しあわせ、愛、祝福、そしてそのほかのいろいろな、かれらが意味をもたせたふりをして語るそれらのものは、まったく自分には向けられることがなかったのだから。
まだなにも知らず、おさなかったかれは、その音のつらなりのなかに、ひとにぎりだけでも、かれらと同じように自分にも見ることができるものがあるかもしれないと思いたかった。もし、それがあるのならばと、かれは、すがるような思いで、かれらのことばを盗みおぼえた。
しかし、そこにあったのは、自分に向けられた、憎しみと恨み、そして怒りだけだった。
アゼルは、ふるえる指先で、そっと自分の額にあるしるしにふれた。かれらの憎しみは、そのはけ口を求めて、闇にまぎれてひっそりと生きる自分たちを、いつも探している。このしるしを探している。かれらは、みずからの中にわだかまる憎しみをぶつけるためのものと機会を、いつも狙っているのだ。
油断してはならない。アゼルは、気をゆるめると倒れそうになる空腹のなかで、いつ襲い掛かってくるかもしれないその憎悪の気配に怯えながら、闇のなかを、そっと足音をしのばせて歩いていった。
そのとき、雲に隠れていた月が、ふたたびすがたをあらわした。
かれは、月の光に目をあげた。そして、その月を背にしてそびえる教会の塔を見上げた。ふしぎと、周囲には生きるものの気配がまったく感じられなかった。なぜか、月の光がかれを守ってくれているように思えた。しばし時が止まったようにしんとした空気のなか、しろくきよらかな月の光のもとにねむる広場にすすみ出たアゼルは、教会の建物を見上げながら、ゆっくりとそちらへ歩み寄ると、われ知らず、その壁にそっと手を当てた。
──どうか、ジャミルとおれたちに救いを。
ここは、かれらとは違う、しるしなき普通の人々であるやつらが望みと祈りを捧げる場所だ。そこに、かれが望んで叶うものなどあるはずなどないのに、アゼルは、いつのまにか、そう祈っている自分に気がついた。
かれは、壁についた手の平を握りしめて頭を横に振った。
(望んではいけない。望めばきっと裏切られる。あこがれればきっと突き放される。おれたちの額に、この呪われたしるしがあるかぎりは……)
アゼルは、教会の壁から手をはなした。かれは、くちびるを噛みしめてうつむいたまま、教会の建物から身を振り切るように駆け出すと、広場のかげを横切り、ふたたび暗闇のなかに身を沈めた。
定められたどぶ道に足を戻したアゼルは、しばらく歩きつづけて、一軒の小屋の前に辿りついた。くだんの馬屋にちがいなかった。なかには何頭ものラバが飼われていたが、すきまからのぞき込むかぎり、いまはひっそりと眠りについているようだ。アゼルはゆっくりと馬屋の裏手に回りこんだ。
裏手の板壁を手でさぐると、ジャミルからの手筈どおり、アゼルが板をはがして入りやすいように、昨夜のうちにほかのウルたちが釘を抜いてくれている板が何枚かあった。かれは音を立てないように気をつけてそれらの板をはがすと、馬屋のなかにそっと忍び込んだ。
アゼルは馬屋のなかを見渡した。むせ返るような家畜のにおいのなかをなかば這うようにすすみ、ラバの糞や小便に汚れたわらをかき分けて、かれは、さっそく口にできそうなラバたちのえさのこりかすをさらい、手にもった袋にすこしずつ詰め込んでいった。
ひっそりとした馬屋に、ラバの寝息と自分がその脚のあいだに這いつくばってえさを盗む音だけが聞こえた。
アゼルは馬屋のそとに人のけはいがないかどうかを注意ぶかくうかがいながら、手にした袋がいっぱいになるまでえさを詰め込むと、それを肩にかついだ。その重みは、ずいぶん重くかれの肩にのしかかったが、この一袋さえあれば、みんながしばらくの間だけでも食べ物に困らなくて済むだろう。かれはほっと息をついた。
あとは、もと来た道を引き返して小屋を出るだけだった。アゼルは、ラバの脚のあいだを渡り歩いていったが、もう出口に差し掛かろうというときになって、そのなかの一頭が寝相を崩してかれのほうへ、ふいにからだをよろめかせてきた。はっとしたアゼルは身をかわしたが、その足元にちょうど突き出ていた組み木につまずいた。
──!
ふだんなら、そんなヘマをするはずなどなかったが、もう何日もなにも口にしていないところ、えさを詰め込んだ袋の重みが、かれの力にすこし荷がまさったのかもしれない。かれがよろめくと同時に、かついでいた袋が手をはなれて床のうえに音をたてて落ち、なかにはいっていた種や穀物があふれて土のうえに広がった。
アゼルは、地面に這いつくばったまま、さっと息をころした。
そとのようすに耳をすませてみたが、さいわい、音を気付かれたような気配はなかった。
かれは、目の前の地面にこぼれてひろがった、ラバの糞や砂つぶがこびりついたものをじっと見つめた。ごくりと生唾を飲みこんだアゼルは、ふらふらと吸い寄せられるように、そのえさに向かって手を伸ばしていた。かれの腹はぐるぐると狂ったように鳴り、その口からはひとすじのよだれがたれ落ちてかれの顎から糸をひいた。
──みんなのもとに帰り着くまでは、食べ物には手を出しちゃいけない。
アゼルは、ぺしゃんこになった袋を土のうえからたぐり寄せると、そのなかに、もういちどかき集めた自分たちの食べ物を詰めこみはじめた。しかし、かれの手はふるえていた。種や穀物のひとかき、ひとかきを袋に入れるたびにおそってくる誘惑に、かれはなんども目を閉じてあらがった。
(ジャミル……)
アゼルは、さらにきつく目を閉じ、かれのすべてである、いとしい少年のことを思った。
(そうだ、待っているやつらがいるんだ。おれがやろうとしているのは、あさましい行いだ。あいつらを裏切る行いだ。おれが、たったひとつだけ、自分のこころのよりどころだと信じられるあの場所を、自分の行いによってけがしてしまうことになる行いだ)
アゼルは、土にこじつけた頭をなんどもなんども横に振った。
アゼルは、自分の手のひらにいつまでも残っているラバのえさのひとかたまりを見た。まるでそこに目が吸い寄せられるように、自分の視線をはずすことすらできない。自分のあさましさを拒むことばをとなえつづけても、それらはすぐにいくつにも引き裂かれ、ほら穴のようにがらんどうになった頭のなかにこだました。
(おれは……、死んでも……)
強烈な空腹だった。よだれが止まらない。めまいがおそう。アゼルの手はふるえはじめ、その指先から手のひらに握りしめたものがぱらぱらとこぼれ落ちようとした。アゼルは、はっとして、それを取り落とすまいと、ぎゅっと力をこめて握りなおした。
そのとき──。
「音がしたのは、たしかこの馬屋だ。まあ、おおかた猫か、ふとった鼠かのどっちかだろうがな」
戸外で男の声がした。
「念のため、見ておくことにするか。おい、たいまつをおれにも寄越してくれ」
「ったく、今日もつまらねえ一日だったぜ」
戸外では、さらに数人の男たちの声がしていた。アゼルは、えさ袋を手にして膝をついたまま、うごくことができなかった。かれは、あまりのおそろしさに、ただ息をつめて、目を見開いて、その戸口が開くのを待っていることしかできなかった。