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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変
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第97話 日野の頑愚殿

 


「京極も明智についたか……」


 日野中野城の居室で賢秀は各種の書状に目を通しながらため息を吐いていた。

 鎧下地を常に身に着けていつでも臨戦態勢に移れる状態ではあったが、中野城内では籠城の準備のため方々で殺気だった声が響いている中で賢秀の居室の中だけは暖かな日差しが差し込み、穏やかな時が流れている。まさに戦の最中にあって『忙中閑あり』という状況だった。



 天正十年六月四日

 本能寺で倒れた信長の妻子を日野中野城に避難させた賢秀は、すぐさま籠城戦の用意に入ると共に各地の織田旧臣に向かって使者を走らせた。

 明智光秀の非を鳴らし、信長の妻子を保護していることを天下に表明するためだ。当然ながら、主君を裏切った明智に蒲生は決して与しないと明言してあった。


 だが、近江各地からもたらされる返書はいずれも先行きを暗くするものばかりだった。

 元北近江守護家の京極高次は明智に与して長浜城を攻め、六角定頼の曾孫にあたる若狭武田家の武田元明は若狭衆を糾合して佐和山城を攻めているという。また、同じく六角旧臣である多賀や布施らも今は明智配下として働いている。

 そんな中で蒲生に合力しようという者は現れなかった。



「徳川殿も明智を討つべく兵を挙げると申されているが、軍勢を率いて来るのは早くても一月後になるだろうか」


 徳川家康からの書状を閉じた後、賢秀はひとり()ちた。

 本能寺の変の当時堺に居た徳川家康は、この時甲賀から伊賀・伊勢を抜けて三河へと逃げる逃避行の真っ最中だった。甲賀にて賢秀の行動を知った家康からはその労をねぎらう書状が届いていたが、今必要なのは明智と対抗できる軍勢であり、有り体に言えば援軍だ。

 いくら言葉で(ねぎら)われたところで、援軍が来る前に中野城が落城してしまえば蒲生は信長と運命を共にすることになる。賢秀の心中にもさざ波のように焦りの感情が去来していた。


 次の書状を手に取る。差出人は明智光秀だ。


「……フン。近江半国とは、大きく出たものだな」


 内心の焦りとは裏腹に、賢秀は口の端に皮肉そうな笑みを浮かべる。

 賢秀らが退去した翌々日、安土城に入城した明智光秀は、日野に退去したまま安土に出仕しない蒲生賢秀に対して『南近江半国を遣わす』という破格の条件で味方に付くよう書状を寄越していた。

 だがそんな明智の言い分は、蒲生の矜持という物を何一つ理解していないという裏付けでもあった。


 そもそも近江半国が欲しいのならば、観音寺騒動時に六角家を支援したりはしなかっただろう。

 あの当時に六角家の非を鳴らして南近江国人衆を糾合すれば、蒲生は充分に南近江を実効支配出来るだけの力があった。それをしなかったのは、蒲生定秀が大恩ある六角家を己の欲の為に裏切ることを良しとしなかったためだ。

 最終的に織田に降ったのも、六角親子の助命嘆願を行うためには蒲生家が生き残っている必要があると定秀が判断したことが何よりも大きい。


 そして、賢秀は今でも父のその判断を武士の鑑と思っている。今更近江半国を差し出されたとして、唯々諾々と蒲生が従うと思っているのならば勘違いも甚だしいと言わざるを得ない。


「父上」

「忠三郎か」


 居室の襖が開いて廊下から具足姿の賦秀が顔を出す。

 賦秀は既に臨戦態勢と言うべき用意を整えていた。


「物見から明智勢が野々川郷を越えて軍勢を出して来たと報せがありました」

「分かった。城下の者の避難は済んでいるな?」

「ハッ! 多くは甲賀まで逃がしましたが、避難が間に合わぬ者は城内にて惣籠りとするよう手配りを済ませております」

「よし」


 賦秀の言葉に一つ頷くと、賢秀は光秀からの書状を破り捨てて文箱の中に捨てた。

 もはやどのような条件を出されようとも明智に与する気持ちは一切失せていた。明智は蒲生を知らなすぎる。例え次に天下を手にするのが明智だとしても、蒲生の風を知ろうともしない者に仕えることは出来ない。


 士は己を知る者の為にこそ死ねるのだ。

 信長は蒲生を広大な領地で釣るのではなく、蒲生の忠義心をこそ買ってくれた。だからこそ賢秀も織田に尽くした。近江半国という『欲』で蒲生が釣れると思っている明智になど、仕えることは到底できない。


「我が蒲生は上様に殉じる。例え最後の一兵となろうとも、必ずや明智の天下に抵抗する。よいな」

「ハッ!」


 顔中に気合を漲らせた賦秀が具足を鳴らしながら持ち場へと走ってゆく。

 賢秀も立ち上がって広間へと向かった。広間では賢秀の具足を持って小姓たちが待っているはずだ。


 これから攻め寄せた明智勢と一戦交える。その気合がようやく賢秀にも漲って来た。

 先ほどまでさざ波のように心の片隅を揺らせていた焦りは綺麗に消えていた。来るなら来てみろ。その気持ち一つで賢秀の覚悟も定まった。


 未だ騒がしい声が響く中野城の廊下を進みながら、賢秀は奇妙に心が落ち着いていくのを感じた。




 ※   ※   ※




「くそ! 日野の頑固者めが!」


 安土城の一室で光秀は苛立ったまま賢秀からの書状をグシャグシャに丸めた。

 近江半国を条件に蒲生家を味方に誘ったが、賢秀からの返書には『軍勢を持って相手になる』とだけ記してあった。

 ハッキリと明智に味方はしないと明言してきた形だ。


 本能寺の変から五日が経ち、近江は明智勢によっておおよそ平定された。近江国内で未だ抵抗を続けるのは日野の蒲生と甲賀の地侍達くらいのものだ。


「こんなはずでは無かった……こんなはずでは……」


 光秀は青黒い顔をしてうろうろと落ち着きなく室内を歩き回る。

 京で信長・信忠親子を討ち取り、京都市中を制圧したまでは計画通りだった。だが、その後近江を制圧に掛かった所で雲行きが怪しくなった。

 まず勢多城主の山岡景隆が明智の謀叛を良しとせず、勢多城と瀬田川橋を焼いてしまった。これによって明智軍は安土への進軍に一方ならぬ手間を取られることになった。


 朝廷から京都の治安維持の勅命を受けることには成功したが、勅使を務めた吉田兼和からは『謀叛人』という目で見られた。口にこそ出さねど、明らかに此度の蜂起を朝廷は謀叛と見做しているということが嫌というほど伝わって来た。

 さらには、織田家仕官以前からの盟友であった細川藤孝や光秀の寄騎であった筒井順慶、高山右近らも光秀と行動を共には出来ないと申し送って来た。



 その上で蒲生賢秀のこの口上だ。

 本能寺の変以来抱えていた光秀の鬱憤が、賢秀のこの書状で爆発した。


 冬眠前の熊のように落ち着きなく歩き回っていた光秀は、やがてピタリと足を止めて傍らの明智秀満へと向き直った。


「左馬助ぇ!」

「ハッ!」

「直ちに兵を率いて日野を攻め落とせ! 儂に逆らう者がどうなるか、天下の見せしめにしてくれるわ!」


 秀満は光秀の下知に不審の色を露わにした。

 現に今、多賀貞能や布施公保らが二千の兵を率いて日野を包囲しに向かっている。どの道蒲生の軍勢は一千ほどだから、包囲軍を破って安土まで進軍してくるとは考えられない。また、そのつもりならば最初から安土城を退去したりはしなかっただろう。

 つまり、二千の兵で日野に封じ込めておけば蒲生はそれ以上の行動を起こすことは出来ない。


 あとは天下の趨勢が定まってからゆっくりと兵糧攻めにでもなんでもすればよい。今焦って日野に大軍を送る必要は無いと言えた。


「ですが、上様が生きて本能寺を逃れたという噂もあります。それに中国の羽柴が姫路まで引き返しているとの噂もございます。今は蒲生に構うよりは、来るべき決戦に備えてお味方を募るのが先決では……」

「やかましい! 蒲生をこのまま生かしておいては、次々に儂に敵対する者が出て来るのがわからんのか! 儂に逆らえばどうなるか、とくと天下に見せつけよ! 蒲生は一族郎党悉く根絶やしにせよ!」

「……」


 常ならぬ主君の変貌ぶりに秀満も戸惑いを隠せないでいた。本来の光秀は、もっと聡明で穏やかな男だったはずだ。だが、今の光秀からは追い詰められた焦りしか感じられない。

 あるいは、光秀は主君信長を謀叛で討ち取ったことを心の中では悔いているのかもしれない。


「承知いたしました。蒲生は一千の兵を持って日野に籠っているとのこと。近江衆三千の兵をお借り致したく存じます」

「時間をかけるなよ。早働きにて蒲生に悲惨な最期を迎えさせよ。儂に逆らったことをあの世で後悔するほどにな」

「……ハッ」


 秀満はこれ以上の諌言を控えざるを得なかった。

 今の光秀は常軌を逸しているとしか思えない。下手をするとこの場で秀満を手討ちにする可能性すらある。秀満としても織田家に対して謀叛を起こすのは気が進まないどころか危機感すら覚えていたが、結局は光秀の意向に沿う形で決起したのだ。

 今更光秀の手で討たれるなどという死に方は御免だった。


 ―――この戦、勝てぬかもしれん


 秀満は秀満なりに、この決起にも勝算はあると読んでいた。

 柴田・羽柴・丹羽・滝川。いずれの軍団長も各地で敵と対面している状況であり、見方を変えれば明智の謀叛によって前後を敵に挟まれた形勢になっている。

 彼ら織田軍団長が一致団結して戦いを挑んでこなければ、各個撃破は不可能ではない。


 無論、勝率は決して高くはないが、合戦である以上絶対はない。

 現に今まで信長は何度も包囲網を敷かれながら、その度に敵を各個撃破して危機を切り抜けて来た。今度は明智が同じことをするだけだ。


 だが、肝心かなめの光秀がこの様子では勝利は覚束ないかもしれない。今は何よりも冷静に情勢を判断して的確な手を打たねばならぬというのに、今の光秀はその冷静さを欠いている。


 秀満はせめて日野を素早く制圧することで主君が僅かでも冷静さを取り戻してくることを期待した。

 その為には、光秀の言う通りグズグズはしていられない。

 先に日野を包囲している多賀や布施と協力し、一気呵成に攻め潰さねばならないと決意を固めた。



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