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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変
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第96話 臆病者と正直者

 

 日野の賦秀に急使を出した賢秀は、次にお鍋の方に目通りを願った。

 お濃の方と呼ばれた信長の正室は既に亡くなっており、今はお鍋が事実上奥向きを取り仕切っている。信長の妻子を逃がすのならば、まずはお鍋に話を通して協力を要請しなければならない。


 時刻は既に亥の刻(午後九時)に近くなっていたが、すぐにお鍋の居室に通された。

 眼前のお鍋は今の今まで泣いていたような顔をしている。夫を亡くしたばかりで気の毒には思うが、ともあれ一刻も早く安土城から退避させなければならない。非情を承知で、賢秀は能面のような顔のまま話し始めた。


「御心中御察し致します。お聞き及びとは存じますが、上様が京で明智日向守の謀叛によって討たれたとの一報がございました」

「……」

「事の真偽は不明ですが、仮にこの報せが真実であった場合、明智勢一万三千が明日にでもこの安土城に攻め寄せて参りましょう。一刻も早く安土城を落ちて頂きたく存ずる」


 青白い顔をしたお鍋が賢秀の顔を睨みつける。もともとお鍋は肌の白い女性だったが、今回の訃報に接してその顔はますます蒼白となり、また泣き腫らして充血した目も相まってぞっとするほどの凄艶さを放っていた。


「いきなりそのようなことを申されましても困ります。第一、日野へ落ちるのが真に安全と申せましょうか」

「確実とは言えませぬが、少なくとも半月ほどは持ちこたえて見せまする。その間には柴田殿や羽柴殿、滝川殿らも畿内に戻って来られましょう。明智もいつまでも日野だけに構っている余裕は無いはずです」

「そういう事ではありません。日野が……蒲生殿が上様を裏切り、明智に同心して妾達を売り渡さぬという保証がありまするのか?」


 思わず奥歯をぎゅっと噛みしめる。

 お鍋の方が日野で過ごしたのは二年ほどだが、それは人質としての日々だった。楽しい思い出ではないというのは承知の上だ。

 だが、このまま安土城に踏みとどまっては各地に散った軍勢が集結するまで明智の猛攻を防ぎ止められる自信は無い。


「某をご信用頂くしかありません。お方様が蒲生を面白く思っておられぬことは承知の上で申し上げております。言葉は所詮言葉でしかありませんが、某は決して上様を裏切るような真似はせぬとお約束致します」


 頭を下げていた賢秀は、顔を上げて真剣なまなざしをお鍋に向ける。未だ涙の跡が残る顔は、不謹慎とは思いながらも匂うような色気を感じずにはいられなかった。

 ゴクリと生唾を飲み込むと、賢秀は再び元の朴念仁に戻って『信長の妻子を避難させる』という一念だけに思念を集中する。


「妾が何と申し上げようとも、上様は貴方様を心から信用しておいででした」

「……」


 やがてお鍋が独り言のようにポツリと言葉を漏らした。だが、その内容は相も変わらず『自分は蒲生を信用できない』という一事に凝り固まっている。そっぽを向いた目にはどことなく拗ねた子供のような色があり、それが益々色気に満ちた顔立ちとの落差を生み出していた。


 だが、そんなお鍋も観念したように賢秀に視線を合わせる。


「妾は未だ蒲生殿を心から信じることは出来ません。ですが、上様が蒲生殿を信じる、その御心を信じまする」

「……では」

「仰せに従いましょう。どうかよろしくお願いいたします」


 頭を下げるお鍋に対し、心から安堵の吐息を吐き出した賢秀は輿が到着したらすぐに呼びに来ると言い残して再び表へ向かおうとした。

 だが、次のお鍋の一言で思わず動きを止めた。


「では、妾は江雲御殿の宝物を取りまとめます」

「いや、お方様。それはなりませぬ」

「何故です? 上様が心血を注いで集められた名物の数々です。明智などにただで呉れてやりたくはありません」

「江雲御殿の宝物は上様が江雲寺殿に献じると申されて集められた名物でござる。それらを持ち去ったりすれば欲得に耽っているとの謗りを受けましょう」

「しかし、それならば蒲生殿は黙って明智に呉れてやれと申されるのですか?」

「仮に明智が宝物に手を付ければ、今後明智は近江を統治する事は出来なくなります」


 今は安土城の主応接居館になっているとはいえ、江雲御殿は本来亡き六角定頼の菩提を弔う寺だ。

 六角定頼が死してから三十年を経た今でもなお、その遺徳を偲ぶ者は少なくない。今年の正月には信長も甲賀や六角義賢に協力した近江の地侍らに対し、特別に江雲御殿の拝観を許している。定頼の遺徳を偲ぶことで六角家と縁の深い者達を織田家に取り込もうという狙いだ。

 その江雲御殿の宝物を持ち去ったとなれば、甲賀衆らの反発を招きかねない。


 賢秀は日野がいよいよ危なくなれば、日野の背後に控える甲賀に信長の妻子を逃がすつもりでいた。その甲賀衆の反発を招くような真似は厳に慎むべきであった。


「よろしいですな。決して江雲御殿の宝物を持ち出そうとしてはなりませぬ」

「……わかりました」


 再び拗ねたような顔で頷くお鍋に対し、賢秀は再びため息を吐いた。

 今度は安堵ではなく困惑のため息だったが……。



 今度こそお鍋の居室を後にした賢秀は、次に安土城に出仕する者達動向を見て回った。出来るならば共に日野中野城に籠り、明智と戦う戦力となって欲しかった。

 だが、自らの屋敷を焼き払って自国へと引き上げていく者、安土城に留まって敵わぬながら明智と一戦すると息巻く者など、安土城内には様々な言葉が行き交っている。


 今や『信長死す』の報は安土城内を駆け巡り、小者の端に至るまで知らぬ者は無い。だが、一方で信長は京を脱出して安土に向かっているという噂もあり、誰も彼もが混乱の極みにあった。


 ―――上様が生きておいでであれば、改めて軍勢を率いて出頭すればよい


 賢秀は風聞に惑わされず、日野への退去すると固く心に決めていた。こういう時は常に最悪の事態を想定して動かねばならないということを観音寺騒動や小倉の乱の時に嫌というほど学んだ。

 今は何よりも自分が出来る最大限の安全策を取ることだ。


 ふと城下に目を移せば、夜半にも関わらず安土城下町から続々と退去する町人たちの松明が列をなしている。明智光秀が謀叛を起こしたとなれば、次に戦場になるのはこの安土城だと皆敏感に察しているのだろう。


 ―――民衆の方が戦には目ざといな


 武士が右往左往している中、民衆はいち早く安土からの退去を決めている。その思い切りの良さと素早い行動には、いっそ胸のすく思いがした。




 ※   ※   ※




 上野国厩橋城の広間では滝川一益を中心に重臣たちの評定が開かれていた。

 京で信長が横死したという報せを受けての緊急の評定だ。悪いことに、関東の攻略を命じられていた一益は手始めに上野国の諸将に人質を出させ、上野国の掌握を始めたばかりだった。


「上様の一件を知られれば、上州の者どもは明日にでも矛を逆さまにしてこちらに攻めかかって参りましょう。そうなれば伊勢へ戻るどころではござらん。我らは上州の地に屍を晒すことになりましょう」

「しかし、上州勢は我らに合力して上杉と事を構えようとしておるのです。今になって我らが密かに引き上げれば、上州勢は梯子を外されたも同然。以後二度と彼らの信を得ることは出来なくなりますぞ」

「上州勢は北条に面倒を見てもらえれば良い。北条は元々上杉と敵対しているのです。我らが抜けても北条が居れば、上州勢も上杉に蹂躙されるようなことにはなりますまい」

「そもそもその北条が撤退する我らの背を討たぬという保証はない。北条への備えも行うべきでありましょう」


 突然のことに重臣たちも混乱を極め、様々な議論が百出していた。

 上座の一益はそれらの意見に耳を傾けながら、頭の中では全く別のことを考えていた。


 ―――ツいてない


 それが本能寺の変を知った時の一益の率直な感想だった。

 よりにもよって上州で勢力を作り始めたその瞬間に織田家の屋台骨が吹っ飛んだ。しかも、自分は織田家の中でも畿内から一番遠い所に居る。

 主君の仇を討つために畿内に引き返すにしても、あまりに時間が掛かり過ぎる。ボヤボヤしていれば柴田か、羽柴か、丹羽のいずれかが明智討伐軍の総大将を務めることになるだろう。自分はその外郭武将の一人として、それ以上の栄達が出来なくなる。

 信長の仇を討った者が今後の織田家で主導権を握るのは自明の理だからだ。


 明智の謀叛があと一年早ければ、一益は畿内で遊軍として誰よりも早く明智に立ち向かえる位置にいた。岐阜や伊勢から明智討伐軍を興せば、柴田や丹羽を抑えて自身が討伐軍の総大将を務めるという目もある。

 もっとも、その形勢では明智は事を起こさなかっただろう。一益を始め、織田家の主だった武将が各地に派遣されていて畿内が手薄だったからこそ謀叛などという大それたことを思い立ったのだ。


 だが、起こってしまったことをこれ以上嘆いても仕方ない。ともあれ今は一刻も早く伊勢に戻ることを考えなければならない。


「ともあれ、上州の者にもこのことを伝えぬわけにはいかぬ。明日主だった将を集めてくれ。儂自ら話そう」

「ですが、殿。上州勢が裏切らぬと決まったわけでは」

「上州どうこう以前に北条が真っ先に我らを裏切る。そうなった時、儂が何も言わなければ上州勢は雪崩を打って北条に寝返るだろう。機先を制し、自ら情報を明かすべきだ」


 重臣たちの反対を押し切り、一益は自ら信長横死の報せを上州勢に伝えることに決めた。

 下手に隠し立てをしてもこういうことはいずれバレる。それならば、自ら明かしてしまった方がまだ敵を増やさなくて済むという読みがあった。


「儀太夫。至急諸将を集めよ。この話は儂自ら披露する」

「本当によろしいのですか? 国人らにまで披露するというのはいささか軽率ではありませんか?」

「他所から聞けば、国人らは儂に疑念を持つだろう。儂自ら話すのが肝要だと申したはずだ」

「……承知いたしました」


 最後まで反対の立場を取っていた滝川益氏も折れたことで、評定は一決した。



 天正十年六月十日


 滝川一益は全てを上野国の国人衆に打ち明け、一益の首を獲って上杉や北条へ寝返らんとする者は遠慮するなと告げた。

 織田家随一の戦上手を自負する一益は、上杉や北条が敵対するのならば一戦した後に畿内に引き上げるつもりだった。




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