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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変
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第95話 本能寺の変

主要登場人物別名


城之介… 織田信忠 信長の嫡男

 

「では、留守を頼むぞ」

「ハッ! ご武運をお祈り申します」


 織田信益を筆頭に安土城の留守居役が頭を下げる。

 上座に立つ信長は小袖の上に弓籠手を着け、行縢(むかばき)を履いた鷹狩の装束で広間を後にした。

 二の丸の留守居役を命じられた賢秀は、足音が遠ざかるとほっと一息吐いて顔を上げた。

 留守居役もそれぞれに腰を上げ、持ち場に戻るべく用意をしている。賢秀も二の丸の控室に戻るために立ち上がった。


 瞬間、くらりと立ち眩みを覚えて軽くよろける。


「左兵殿、どうなされた?」

「あ、いや。何でもございませぬ。少し目がくらんだだけにござる」


 隣に座っていた木村高重がゆらりと揺れた賢秀を気遣って背を支えたが、賢秀は丁重に礼を言ってそのまま立ち上がった。


 ―――年かな


 気持ちだけは若いつもりでいたが、賢秀も既に四十九歳となっている。

 この当時としてはいつ隠居してもおかしくない年齢だ。少し体にガタが来ているのではないかと心配になった。


「ご苦労は重々承知しております。()()上様の側近くお仕えされておるのだから……」


 そう言って木村高重が首を振るが、賢秀は苦笑するだけで何も言わなかった。


 賢秀にとって信長は決して仕えづらい主君ではない。信長が欲しているのは心から信頼できる家臣であり、決して裏切らぬ友だ。佐久間信盛を追放し、明智光秀を叱責するなど厳しい一面も確かにあるが、懐に飛び込んでしまえばこれほど人情味に厚く家臣を思ってくれる主君もそう居ないのではないかと思っていた。



 天正十年五月


 信長は武田勝頼を自害させて甲斐武田家を滅亡させた。

 武田の旧領は滝川一益・河尻秀隆・森可長に与えられたが、特に滝川一益には上野国と信濃の内佐久・小県の二郡が与えられた。

 他の両名に比べて滝川一益の支配領域は格段に広く、その上引き続き関東申次を務めるようにという下知も与えられている。今後の関東攻略を一益に任せるという意志表明だった。


 一方で安土に戻った信長の元へ、西国毛利攻めの最中にある羽柴秀吉から『上様の御出馬』の要請が届けられた。

 これを受けて信長は備前へ向けて出陣したが、信長自身の率いる軍勢は決して多くは無い。旧来の美濃・尾張の兵は既に嫡男の信忠に任せているため、信長自身の率いる兵は近江衆しかいない。だが、その近江衆に対しても戦支度を整えて京へ集合するようにという下知を残し、信長は小姓だけを連れてさっさと京へ上ってしまった。


 今や信長は実戦を配下に任せ、自身は本営で指揮を執ることがほとんどだ。直接戦をせぬのならば多くの兵は必要としないため、兵は前線へ回すという信長らしい合理主義だった。


 気に入りの商人である伴伝次郎も信長と共に京へ上っていたが、伝次郎の兄は甲賀衆の伴資家だ。伴兄弟を介して甲賀衆に各地の動向を確認させようとしていると賢秀は見ていた。



 ―――さて、


 倅の賦秀も今頃日野中野城で戦支度に追われていることだろう。


 賦秀は此度こそ軍功を上げると息巻いているが、賢秀にとってはもはやどうでもいい。

 広大な領域を有する織田家中にあって、未だ蒲生は近江日野六万石に据え置かれている。若い賦秀にすれば石高だけを見て軽んじられていると感じているのだろうが、賢秀にとっては信長の信頼の証と見ていた。


 日野は安土城へ半日で攻め上れる位置にあり、しかも蒲生は古くから日野に土着していて在地勢力とも充分に関係を作っている。そんな蒲生家に六万石の勢力を持たせたまま日野に据え置く事自体が、信長の蒲生への信頼を如実に物語っている。

 信長が蒲生に期待しているのは、軍功ではなく決して裏切らないという信頼なのだ。利や打算ではなく、心からの信頼。六角家に対して示した忠義を織田家にも寄せて欲しい。それが信長の本心なのだろう。



 賢秀が安土城の本丸から二の丸に向かう途中、ふと西の空を見上げると黒い雲が急速に広がりつつあった。


 ―――ひと雨来るか


 この時の賢秀はそう思っただけだった。




 ※   ※   ※




 ほろ酔いの体を横たえて眠る信長の耳に、かすかな喧噪の音が聞こえた。

 そのまま無視して眠ろうかとも思ったが、妙に喧噪の音が気になり、床から起き上がると小姓を呼んだ。


「蘭丸! 蘭丸はおるか!」

「ハッ! ここに!」


 小姓の森成利がすかさず寝所の戸を開けると、室内に入って膝を着く。


「どこかで喧噪の音がする。何事か人を遣って――」


 言いかけた信長の声を遮るように、喧噪はひと際大きな声となって本能寺に響いた。

 信長も森成利も思わず視線を上げて空中を睨みつける。


「これは……鬨の声か?」

「……至急確認致します」


 成利はそう告げると慌ただしく寝所を後にした。すっかり目が覚めてしまった信長は、外に出て夜着のまま軽く顔を洗う。火照った頬に水の冷気が心地よかった。

 そうこうしている間に成利が再び慌ただしい足取りで信長の元へ駆け込んでくる。


「上様!謀叛にございます!」

「何!一体誰が」

「明智にございます! 明智日向守が逆心を起こして攻めかかって参りました」


 一瞬信長の思考が停止した。そして次の瞬間には自分の迂闊さを悔いた。

 今まで人に裏切られることは少なくなかったが、その度に逆境を跳ね返して勢力を拡大させて来た。だが、今度ばかりは……。


「是非に及ばず。ともあれ応戦するぞ」

「ハッ!」


 再び表に向かって駆けていく成利の背中を見つめながら、信長は諦めにも似た心境になっていた。


 ―――誰も彼も


 己を裏切っていく。実の母や実の弟に始まり、浅井長政、松永久秀、足利義昭、荒木村重……。

 そして今度は明智光秀が自分を裏切ったという。思えば己の人生は人に裏切られ続けた人生だった。

 そんな時、ふと脳裏に浮かんだのは蒲生賢秀の顔だ。


 蒲生は外様でありながら忠実に信長の命令に従い、ただの一度も裏切るそぶりを見せていない。多くの者は利を求めて信長に従っているが、蒲生が自ら求めた利はただ一つ、旧主六角親子の助命だけだ。

 領地や栄誉を求めて群がって来た者達と比べれば、その節度の違いは一層引き立った。


 ―――あるいは


 明智に代わって蒲生を丹波攻めの総大将に任命していれば、このような事態にはならなかったかもしれない。明智は恐らく旧主足利義昭の為に謀叛を起こしたのだろう。これから信長が攻める毛利には京を追われた足利義昭がその身を置いている。


 蒲生賢秀は旧主の六角の誘いを一切断って信長に忠節を尽くしている。

 明智のように旧主の為に信長を裏切るなどということはあるまい。


 一しきりそれらの想念が頭を駆け巡った後、信長は馬鹿馬鹿しくなって考えるのを止めた。

 今確かなのは自身が絶体絶命の窮地に居るということだ。明智光秀のことだから信長を逃がすような間の抜けたことはするまいが、今の自分に出来るのは万に一つ援軍が駆け付けることを期待して最後まで戦い抜くことだ。


「弓を持て!」


 小姓から弓を受け取ると、信長は夜着のまま表に向かった。既に本能寺の外からは夥しい鉄砲の発射音が聞こえ始めている。

 そこはまさに戦場だった。


 信長は少しだけ口元を歪ませて笑った。


 ―――これは負ける


 その想いが表に出て益々濃くなった。

 弓に矢をつがえて引き絞ると、塀を越えて来る雑兵の一人に狙いをつけて矢を放つ。

 ヒョウと空気を切り裂く音を残して矢は真っすぐに飛び、やがて狙った通り雑兵の首に命中した。


 信長は次の矢を受け取ると、また弓を引き絞る。

 明智の兵は益々数を増やしながら次々と本能寺の境内に侵入して来ていた。



 天正十年六月二日


 天下を制した信長は明智光秀の裏切りによって本能寺に散った。

 二条城に籠る信忠も奮戦したが、衆寡敵せずに明智軍に包囲されて自害した。これにより、一時は定まったかに見えた天下の趨勢は再び混沌を極める。

 天は未だ戦乱の継続を望んでいるかのようだった。




 ※   ※   ※




「上様と城乃介様が討ち死にされた」


 その一言は火のついた爆発物のように安土城の広間にゴロリと投げ出された。

 留守居の者達は一様に言葉を失い、次に自分がどう行動すべきか分からないで居た。賢秀にも言葉が無い。誰よりも人からの信頼に飢え、裏切られることに怯えていた信長が、家臣の裏切りによって横死したという残酷な事実に打ちのめされていた。


「わ、我らはどうすべきか……」


 木村高重がキョロキョロと落ち着かない様子で周囲を見回しながら発言する。木村高重の発した問いは誰も答えないまま、ただ浮足立った空気だけが広間満たしていくように感じられた。

 だが、賢秀は次の情勢を様々に頭に思い浮かべていた。


 ―――まずは


 京を制した明智光秀は、次に近江の掌握に乗り出すだろう。

 総大将たる信長を討ったとはいえ、越前の柴田、和泉の丹羽、備前の羽柴、上野の滝川、他にも信長の次男信雄や三男信孝も存命だ。

 光秀が天下を取るにはこれらを撃破していかねばならない。

 その為には近江を抑えて兵と兵糧を確保しなければ戦えるものではない。


 そして、近江を抑えるのならば安土城に攻め寄せることは確実だ。


 ―――だが


 安土城の留守居の兵は僅か一千にも満たない。そしてその数で守るには、安土城は広すぎた。


「かくなる上は、安土の城を放棄すべきと存ずる」

「左兵殿、何を申される。安土城は上様が心血を注いで普請された――」

「安土城の防衛にこだわれば、もっと大事な物を失うと申しております。今我らがやらねばならぬのは上様の御家族を逃がし、各地に散った軍勢を連絡を取って明智と対抗すること。

 安土城に籠って無駄死にすることではありますまい」

「し、しかし……」


 座長格を務める織田信益にも今後の確たるビジョンがあるわけではない。場合によっては光秀に降伏しても良いとさえ思っているのだろうと賢秀は見て取った。

 これ以上の議論は時間の無駄と断じた賢秀は、おもむろに立ち上がると広間を後にしようとした。


「ど、どこへ行きなさる?」

「これ以上の話し合いはいたずらに時を浪費するだけにござる。某は今為すべきと信じることを為します」


 それだけ言い捨てると、賢秀は広間を後にした。

 幸い、日野中野城では信長の下知で一千の兵を整え、まさに今京に向けて出立しようとしているところのはずだ。

 それに、中野城ならば安土城と違って大軍で一度に攻めるのは難しい。例え明智に三万の軍勢があると言っても、中野城に一千の兵で籠れば半月は持ちこたえられるという自信があった。


 今は何よりも明智に屈することなく、各地の織田旧臣の軍勢と連携しつつ明智軍を牽制しなければならない。今後どのような情勢になるかは分からないが、少なくとも今後日野中野城は明智の近江支配に抵抗する小骨として機能するはずだ。


 二の丸に与えられた居室に戻ると、賢秀は中野城に居る賦秀に『至急輿を持って安土城に参れ』と使者を出した。何はともあれ、安土城に居る信長の家族を保護しなければならない。



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