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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱
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第67話 芦浦安国寺争論




 


「気をつけてな」

「はい。伝次郎さんには大変お世話になりました」


 伴庄衛門に変わって保内衆を取りまとめている伴伝次郎資忠は、一人の若者を見送っていた。

 若者は名を西川仁右衛門と言い、近江国蒲生郡の津田村出身の足子商人だった。伝次郎の元に幼い頃から出入りし、十九歳にして独立を認められた前途洋々たる若者だった。


「六角様の権威はもはや近江では通用せぬようになりつつある。我ら保内衆も六角家から離れ、独自に商いを行っていく道を探らねばならん。

 十九歳で独立は異例ではあるが、仁右衛門ならば新しい商売を作り上げることができるだろう」


 無邪気に頷く仁右衛門の顔を見ると、伝次郎には複雑な思いがこみ上げてくる。

 今までであればもう少し足子として修業した後に座人に昇格させ、保内衆の一員として今堀日吉社に神人として取り立ててもらうのが独立の作法だった。

 だが、今回は全く独自の行商人として仁右衛門を独立させる道を選んだ。その方がいざというときに仁右衛門を巻き込まずに済むし、仁右衛門が一廉の商人となれば保内衆にとっても新たな取引先が生まれることになる。


「困ったことがあれば何でも相談してくるといい」

「はい。その時はよろしくお願いします」


 背を向けて歩いていく仁右衛門の後姿を見送りながら、伝次郎はため息を一つ吐いて再び帳場に座りなおした。六角家から依頼された兵糧や軍馬を明日までに用意せねばならない。いつまでも感傷に浸っている暇は無かった。



 永禄九年(1566年) 八月

 伴伝次郎が帳場でため息を吐いている頃、六角家に再び激震が走っていた。


 前年の永禄八年五月に起こった永禄の変を受けて、義輝の弟である一乗院覚慶――後の足利義昭は大和を脱出して近江の甲賀和田城に逃れ、この地で三好三人衆から京を奪還するべく越後の上杉輝虎や尾張の織田信長に出兵を促していた。後に覚慶は矢島の地に移り、還俗して義秋を名乗った。


 当初六角家は足利義昭を擁立し、義輝に謀反を起こした三好三人衆を攻めるように丹波や河内の国人衆に使いを出すなど、義昭派の中心勢力として活動していた。だが、三好三人衆に加えて篠原長房や三好康長らが足利義維の息子の足利義栄を新たな将軍に据えるべく擁立すると、逆賊の汚名を着せられることを恐れた六角義治は三好三人衆と和睦し、足利義昭を近江から追放するべく活動を開始する。


 義昭が頼りとする上杉輝虎は関東情勢に足を取られ、織田信長は未だ美濃の斎藤龍興と一進一退を繰り返している。近国を見回しても若狭の武田は到底当てにならず、朝倉は加賀の一向一揆と相変わらず争いを続けている。

 このままいけば六角単独で義昭の上洛を支援しなければいけなくなるが、北近江に浅井を抱える六角にしても今は京へ進軍している余裕などは無い。

 そうこうしている間に義栄が将軍に叙任されてしまえば、足利義栄による六角征伐が現実の物となる恐れすらあった。六角家としても三好三人衆との関係を改善することは喫緊の課題だった。


 だが、後藤氏を始めとした六角家臣は六角定頼が最後まで庇護し続けた足利義晴系の義昭を奉じるべきと主張し、再び六角家中での対立が生まれる。

 その折も折り、義昭の滞在する矢島御所に近い芦浦安国寺を巡る争論が起きる。


 事の発端は足利義昭への支援を行うために軍事費の調達に悩まされた後藤高治が、進藤賢盛から芦浦安国寺を質にして二十貫を借り入れたことにある。

 五月に借り入れた金銭は十月までに返済されなければ質流れとする契約だったが、本来五月に一括借り入れをする約束だったのが、貸出は八月までに三回に分けて実施された。

 実のところ、この貸出は進藤氏の名を借りた京の土倉が企んだことで、目的はあくまでも芦浦安国寺を質流れにすることにあった。


 安国寺を含む芦浦観音寺は足利義昭の御座する矢島御所からほど近く、この地で騒ぎを起こせば三好家が介入する口実を作ることが出来る。三好三人衆はその騒ぎのどさくさの中で足利義昭を討ち取ってしまうことも出来ると考えていた。つまり、後藤氏の借銭を斡旋した土倉の背後には三好三人衆と六角義治の陰謀があった。




 ※   ※   ※




「ご隠居様。安国寺の一件は真にあれでよろしいのでしょうか?」

「やむを得まい。覚慶殿には悪いが、今の六角家はすぐさま京に上ることは出来ん。であれば、覚慶殿にはこれ以上近江に居てもらっては困るのだ」


 隠居所である箕作城では、六角承禎と蒲生賢秀が人払いの上で対面している。この話を余人に聞かれるわけにはいかなかった。


「しかし、何も後藤殿の借銭を利用せずとも良いのでは? 支援が出来ないのならば覚慶様にその旨伝え、他所を頼るように申し出られれば良いように思います」

「そのようなことをすれば、覚慶殿を奉じる者達が必ずや家中で反乱を起こす。今回のことはあくまでも銭の貸し借りの問題だ。それにより三好が付け入る恐れがあるので覚慶殿には越前へ逃れてもらうという形にせねばならん」


 承禎は、観音寺騒動以後に家督を継いだ次男の義定が先頭に立って義昭を奉じるべきと主張していることに苛立ちを覚えていた。義昭を六角家の力で京に戻すというが、そのためにどれだけの軍勢と軍事費を用意しなければならないかを義定は分かっていない。

 観音寺城の留守居も必要だし、用意する軍勢も一万どころでは済まない。それに、首尾よく義昭を京に戻せたとしても今度は三好と再び京を巡って争うことになる。その間の国人衆の軍事費はどうするのか、六角家の兵糧・軍馬などの物資はどうするのか、そのあたりの思慮を欠いていると言わざるを得ない。

 いくら保内衆が協力してくれるとは言え、それらをタダで供出させ続ければ肝心の保内衆の信を失うことにもなる。単独で上洛して天下に覇を唱えるというのは、浅井の侵攻にすら頭を悩ませている今の六角家にとっては非現実的な空想であり妄想と言えた。


 承禎にとっても今回のことは苦肉の策だったのだろう。確かに観音寺騒動を経て六角家中は火種を抱える火薬庫のような状況になっている。今の均衡は蒲生や三雲が間に立つことで何とか保たれているが、再び家中で争いが起きれば今度こそ六角家が空中分解しかねない。


 だが、賢秀には尚も不安がある。賢秀は国人衆が真に求めているのは徳政なのだと見ていた。義治の隠居によって矛を治めたのは、六角家の代替わりが起きれば徳政が発布されるのが習わしだったからだ。だが、小倉の反乱で保内衆の協力を得る為に徳政どころでは無くなってしまった。

 このまま徳政が出されなければ、国人衆は慢性的な財政赤字を払拭する機会を得られないことになる。その為、足利将軍の代替わりという一事を持って徳政令を発布させようとしていた。


 ―――それにつけても、銭の欲しさよ……か。


 父定秀の長年の開発により日野は豊かな場所になっている。塗椀や刀槍、鉄砲などの産物も豊富で、それらを供与することで蒲生家は六角家内部でも貸し手側に立っている。観音寺騒動の折は主君六角義賢すらも定秀から銭を借りた。無論、返済は行われているが、それにしても六角家中を覆う慢性的な財政赤字は如何ともしがたい。

 原因は定頼の頃から大幅に支配領域が減ったことによる知行地の削減にあった。また、室町期を通じて日本国の貨幣供給を支えて来た宋銭はこの頃には擦り減ったり戦火で焼けたりして流通量が極端に落ち込んでいる。それに変わって明銭を輸入してはいるものの、国内産の銭である私鋳銭との見分けが付きづらかった為に一般的に宋銭の方が選好されていた。


 良銭たる宋銭は常に品薄であり、庶民はただでさえ少ない宋銭を税として奪われていく。その為、この頃には民間取引は米を通貨とした現物交換による取引が主体と成りつつある。

 米が決済手段として広く通用しだすと、当然ながら市中の米相場は暴騰を始め、兵糧米を求めるために益々多額の銭を必要とするという悪循環に陥っていた。


 未だ石高制には移行していない六角家では、この米相場の暴騰の煽りを受けて国人衆の疲弊は益々深刻なものになりつつあった。


「ともあれ、右衛門督と進藤山城守には三好の軍勢を坂本まで招くように申しつけてある。お主は危急のこととして矢島御所から若狭へと覚慶殿を護衛せよ。くれぐれも覚慶殿の御身に危険のないようにな」

「承知いたしました」



 この後、足利義昭は蒲生・進藤の兵によって若狭まで護衛され、さらに警護役として六角家臣の九里・山内の両名が越前まで付き従った。

 結果的にこの安国寺を巡る争論は後藤側の敗訴となり、安国寺は進藤氏を銭主とした商人が質物として受け取った。名義は進藤氏のものだが、その実は三好三人衆への手土産となる知行だった。




 ※   ※   ※




「困ったものだな……」


 賢秀は日野中野城で半隠居状態となっている定秀に事の次第を報告し、今後のことを相談していた。


「安国寺を巡る争論が家中の分断を招き、今や家臣同士で領地を奪い合う状態にまでなっております。かくなる上は式目を一刻も早く発布し、再び御屋形様を中心とした知行体制に戻さねばなりません」

「うむ。観音寺城に家中の者を集めるようにしてくれ。草案は既に出来上がっている」


 六角家中では足利義昭を追い出す過程で後藤家の知行を質流れとしたことが問題視されていた。家臣同士で質流れによる知行のやり取りを認めるのならば、今後南近江では六角家臣同士で領地を奪い合うことも良しとされるのではないかという空気が生まれつつある。

 実際、布施公雄は布施山城に籠って浅井に通じ、周辺の六角家臣の領地を奪い取る姿勢を見せていた。布施の反乱は三雲賢持によって既に鎮圧されているが、布施を援護するために佐和山城まで出陣してきた浅井長政との戦いでその三雲賢持も討ち死にしてしまう。

 六角家中は混迷を極めていた。


 そんな中、永禄十年(1567年)四月に六角氏式目が成立する。内容としては民事訴訟に関する物が多く、特に銭の貸借や質の規定、及び境界紛争に関する規定が重視された。逆に言えば、この頃の六角家中では家臣同士の境界紛争や借金問題がすでに社会問題と化していたということでもある。


 式目によって六角家当主による恣意的な判決はしないということが規定されたが、反面で一度出された判決には家臣からも反論しないものという取り決めがなされ、六角家を主君として再び家中を結束させるための式目として成立した。


 だが、後藤高治はこの式目成立前の安国寺の質流れを未だ根に持ち、縁戚となっている重臣たちを総動員して六角義賢に再審請求を繰り返した。

 義賢としては式目に照らして再審は却下せざるを得ない。そうでなければ成立早々の式目を自ら破ることになる。だが、後藤高治はなおも納得がいかずにとうとう観音寺城に対して明確に敵対する形で佐生城に籠り始める。あわや一触即発かと思われた時、美濃からの使者が観音寺城を訪れた。


 足利義昭を奉じて上洛するという織田信長の使者だった。




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