第46話 舎利寺の戦い
主要登場人物別名
河内守… 遊佐長教 河内守護代 事実上の河内の覇者
修理大夫… 畠山政国 畠山総州家当主
筑前守… 三好長慶 三好家当主
彦次郎… 三好実休 長慶の次弟
又四郎… 十河一存 長慶の末弟
甚助… 松永長頼 松永久秀の弟 三好長慶の寵臣
六郎… 細川晴元 細川京兆家当主
「む!何やら前方が騒がしいな」
高屋城を目指して南下する三好長慶の前方からは風に乗って鬨の声が聞こえてくる。
焼けるような日差しを中、兜の庇を上げた長慶は馬上からはるか前方を望んだ。
見れば使番が二騎駆けて来る。見る見るうちに輪郭をはっきりさせた二騎の騎馬武者は、華麗な手綱さばきで長慶の馬前に駆け込んで来ると馬を降りて膝を着いた。
「申し上げます!」
「申せ!」
「先陣を進む畠山上総介様、松浦肥前守様両軍の先頭が舎利寺において敵勢と遭遇!矢戦もそこそこに槍合わせに移っております!」
「相分かった!こちらの後詰も急ぐと申し伝えよ!」
「ハッ!」
進軍の途上にある馬廻衆にも使番の声が聞こえたのか、長慶の周囲が一斉に騒がしくなる。
やがて篠原長政が単騎で長慶の側に駆け寄って来た。
「殿、今の使番はもしや……」
「うむ。舎利寺の辺りで先陣が遭遇戦を始めたらしい。何やら太平寺の戦を思い出すな」
「左様ですな。あの時も到着した時にはすでに戦端が開かれておりました」
「だが、此度は違う。あの時は所詮河内守の援軍の一人であったが、今はその河内守と対峙する軍の総大将の位置にある」
「……ここまで、長い時が掛かりました」
陣中に似つかわしくないしんみりした長政の声が耳に入る。
長慶も思わず苦笑するしかなかった。
―――じいも随分年を取ったものだ
近頃の篠原長政はやたらと感傷的になることが多くなったように感じる。
「じい!涙ぐんでいる場合ではないぞ!」
長慶は敢えて幼い頃の呼び方で長政に呼び掛けた。長慶の叱責に長政も再び背筋が伸びる。
「進軍を急がせまする!」
「よし!それでこそじいだ!すぐに自軍に戻れ!」
「ハッ!」
自分の部隊に戻って行く篠原長政の後姿を眺めながら、長慶は馬廻に呼ばわった。
「聞いた通りだ!進軍を急がせよ!戦は既に始まっているぞ!」
「オオーー!」
大勢の声を背中に受けて長慶は馬の脚を速める。
前方からは先ほどよりも大きな鬨の声が響き始めていた。
※ ※ ※
前線付近ではお互いに一進一退の戦いが続いていた。
あちこちで鬨の声と共に押し合い圧し合いする光景が展開され、突き出した槍を天高く掲げて叩く伏せる槍の穂が陽光を反射してキラキラと煌めく。
まるで川の水面に反射するように長慶の目にはあちこちで戦の水面が展開されていた。
「畠山勢がやや旗色が悪いな。右翼の彦次郎に伝令!畠山の右に展開して敵勢を包むように槍衾を立てよ!」
「ハッ!」
長慶の指示で使番が駆けて行く。平地での合戦であり、馬上で伸びあがってもわずかに先頭の穂先の煌めきが見えるだけだったが、それでも長慶は敵味方の陣立ての強弱を見て取った。
長慶本陣の到着を見て取った各陣からは続々と使番が送られてくる。
「伝令!」
「申せ!」
「松浦勢は槍合わせに入り既に一刻(二時間)が経過!一進一退を続けておりますが敵の長柄百ほどを討ち取りました!」
「伝令!」
「申せ!」
「畠山勢は正面の修理大夫の軍勢が勢威強く押されております!本陣よりの援護を願います!」
「彦次郎の軍勢を最右翼に出した!間もなく攻めかかるだろう!」
「ハッ!」
「伝令!」
「申せ!」
「香西勢は中軍から左翼の位置で松浦勢を後援しております!筑前様のお下知を頂きたく!」
「香西は中軍正面に向きを変えて槍戦に入れ!本陣から十河の軍勢を後詰に差し向ける!」
「ハッ!」
次々ともたらされる情勢に、長慶の頭の中には敵味方の布陣図がはっきりと輪郭を表してきた。
―――右翼をひたと押せば我らが優勢になる
瞬時に断を下した長慶は本軍の越水城の軍勢を真正面に展開させて後詰の役割を果たしながら、十河一存の軍勢二千を右翼の増援に回した。
正面では遊佐長教の軍勢と真っ向からの叩き合いになっている。敵左翼を突破して遊佐勢の側面を突けば勝ちが見えてくるはずだ。
「右翼に又四郎の軍勢を送る!彦次郎と合わせて敵左翼の畠山修理大夫を粉砕し、そのまま正面の遊佐に攻めかかれと伝令しろ!」
「ハッ!」
長慶の指令を受けて使番が駆け出す。本陣には床机が用意されたが、長慶は尚も馬上にあって伸びあがりながら戦場を視界に捉えようとしていた。
今や視界一杯に敵味方の旗指物が揺れている。戦線はかなり広く展開されていることは確実だった。
「正面の圧力を強くしろ!押し太鼓を鳴らせ!」
長慶の下知で太鼓の音が鳴らされる。太鼓の音に一拍遅れて前方でもう一度鬨の声が上がった。
前面に展開する長慶本軍の長柄隊が前線に投入される。旗指物が揺らめき、前線で戦う兵の喚声が一層大きくなったように感じる。
―――さすがは遊佐河内守
長慶の目にははるか遠くの遊佐本陣の大幟は一切動揺していないように見える。
河内軍にとってもこの戦は遭遇戦であり予定外の会戦だったはずだ。にも関わらず堂々たる戦ぶりは河内の覇者としての風格を感じさせる。
―――兵数ではこちらに有利のはずだ。このまま正面からひたと押す
しばしの逡巡の後、長慶は本陣の戦法を正攻法に定めた。
同時に松永甚助の率いる旗本衆三千を後詰として前線へ移動させる。あとは状況の変化に応じる他はないと思い定めた。
―――これほどの大会戦ならば河内守にも奇策は無いはずだ
広大な河内平野では奇襲戦法は成立し辛い。まして河内には大小の河川があり、騎馬の機動力も存分には発揮できない。結局は長柄隊同士の突き合い、押し合いで勝負を決めることになる。
六角のように強力な弓隊があれば話は別だが、少なくともこの戦においては正面からの叩き合いで決着すると長慶は睨んでいた。
※ ※ ※
「甚助様!前線から後詰の要請が来ております!」
松永甚助は使者の言葉を聞き流すと馬上から右翼の状況を望見した。
―――右翼もまだ一進一退。我ら旗本衆は最後の一撃にならねばならん
「甚助様!」
「聞こえている!だがまだ前線に出るわけにはいかぬ!今しばし耐えよと申し伝えろ!」
「ハッ!」
甚助の見た所前線はまだ崩壊するほどの状況ではない。今は無闇に戦力を投入するよりもとどめの一撃に残しておくべきだと判断した。
正面に視線を戻すと遊佐本陣はようやく旗指物が慌ただしく動き始めている。遊佐本陣が正面に出て来れば、その時こそ全軍を持って前線に出て行く心づもりだった。
―――十河殿の軍が右翼を突破するまでの辛抱だ
長慶軍の左翼は平野川沿岸まで達し、左翼のさらに外からの攻撃は無いと判断した。川を越えて軍勢を回すのは言うほど容易な事ではない。
右翼の優劣が合戦の勝敗を決めることになる。
「長柄隊の援護に弓隊を出せ!敵の後方に矢を撃ち込んで敵の後詰を妨害しろ!」
お互いに二線目からは弓隊の矢が繰り出され、甚助の足元にも数条の矢が突き立っている。前線の交代を妨害し、兵を疲れさせる戦術だ。
こちらも弓隊の援護によって前線の長柄隊の不利を補っていく心づもりだった。
弓隊が矢を放ち始めた頃、右翼から大きな喚声が上がった。
思わず甚助も馬上から伸びあがって状況を望見する。
―――しめた!敵左翼が崩れたぞ!
畠山政国軍の旗指物が大きく後退していくのが見える。前線の交代にしては動きが乱れ過ぎているように感じた。おそらく圧力に耐えかねて崩れ立ったのだろう。
「旗本衆!前線に出るぞ!遊佐河内守の本軍を正面に釘付けにする!かかれー!」
三千の旗本勢から大歓声が上がり、隊列を整えた長柄隊がひたひたと前方へ行進していく。
急ぐでもなくひたひたと押していく軍勢は合戦の中にあって異様ともいえる迫力を放っていた。
開戦からすでに二刻(四時間)ほどが経ち、日はすでに中天をわずかに越えるあたりにまで登っている。ここが勝負所と甚助は全戦力を投入した。
※ ※ ※
「申し上げます!畠山修理大夫様が敗退!敵右翼はそのまま本陣に攻めかかる構えを見せております!」
遊佐長教は床机に座ったまま軍扇を握りしめていた。
不意の開戦に多少は慌てたが、そのまま槍合わせに移行した後は一進一退を続けている。右翼の細川氏綱軍はむしろ優勢に展開していた。
だが、左翼が崩れたとなると戦局は一気に不利に傾く恐れがある。左翼の向こうは摂津欠郡の中でも平野部が広がっている。左翼の外側から押し込まれれば平野川を背に背水の陣を強いられることは確実だった。
「正面の状況はどうか!」
「新たに投入された筑前守旗本の三千が正面からひたと押してまいります!一気呵成に攻めかかっては来ませんが、ゆっくりとこちらの前線を押し込んでおります!」
―――ここまでか。決して筑前守を侮ったわけではないが……
今までの三好長慶はあくまでも援軍や小規模の戦闘指揮だけを行っていた。大軍同士の会戦を指揮した経験は無いはずだ。にも関わらず堂々とした戦ぶりは、まさに往年の三好元長の戦ぶりを思い出させる。
細川高国を押し返し、摂津・山城を所せましと暴れまわった元長の背中は遊佐長教から見ても颯爽としたものだった。
―――やはり鷹の子は鷹だな
奇妙な感慨を抱きながら、口元でフッと笑う。負けたというのに何故か嬉しいような懐かしいような思いを抱いていた。
だが、今は自分の想いよりも目の前の将兵の被害をこれ以上出さないようにしなければならない。
「撤退する!高屋城へ戻るぞ!」
遊佐長教の野太い声に本陣の将も一斉に退却準備に掛かった。
一転して騒がしくなった本陣の騒動を尻目に、遊佐長教は三好長慶をどうやって自陣営に引き込むかの算段を始めていた。
この戦によって三好長慶の武名は畿内に響くだろう。それを細川晴元がどう思うか……
遊佐長教の頭には三好元長の最期の様が思い出されていた。ここで負けたとしてもそれをひっくり返す手段はまだある。
細川晴元陣営の最大の弱点は、皮肉な事に陣営の首領がまさに細川晴元であるというその一点にある。
―――六郎よ。貴様には自分よりも優れた家臣を扱う器量はあるまい
遊佐長教が細川氏綱を担ぐ気になったのもまさにその一点にある。晴元では駄目だ。どれだけ武功を積み重ねようとも、それを妬みこそすれその力を有効に用いるという器量は晴元にはない。
遠くには傾きかけた陽に照らされて三好の三階菱の大幟が見える。いずれは自分の元で働くことになるその威容を一瞥すると遊佐長教は背を向けて撤退指揮に掛かった。
敗戦直後にも関わらず、その顔には不敵な笑みを湛えていた。