第37話 妻の怒り
主要登場人物別名
左兵衛大夫… 蒲生定秀 六角家臣
安芸守… 関盛信 中伊勢の国人衆
軍議の場で平井定武がうつらうつらと船を漕いでいる。隣の後藤賢豊も同様だ。
二人の後ろでは、補佐に付けられた平井家、後藤家の老臣達が背を突いたりして起こそうと必死になっている。
―――困ったものだ
若者たちの醜態に、上座に座る蒲生定秀にも思わずため息が出た。
もっとも、二人の気持ちは良く分かる。定秀にも疲労感と眠気が残っていた。
―――だが、ぐずぐずもしておれん
千草城にほど近い宿野川原では、蒲生軍が陣を置いていた。
軍議だけでなく、陣全体にもどこか弛緩した空気がある。昨夜は千草軍の夜襲を受けてそれなりの被害を出していた。
―――まだ若い二人には戦陣の引き締めは難しいのかもしれんが……
特に平井勢と後藤勢の被害がひどかった。
兵達が酒に酔い、戦陣にあるというのに眠りこけている者が大勢いた。平井と後藤の老臣達は若い主人を諫めて陣中の引き締めを図ろうとしていたが、肝心の大将が共に酒を飲んでいるのだから綱紀粛正など行き届くはずがない。
苦々しく思っていた上に手痛い被害を受けて定秀にとっても面白くなかったが、勝ち戦と思って合戦を舐め切っている二人にとってはちょうど良い薬になるかもしれないと頭を切り替えることにした。
「若殿から報せがあった。北伊勢の国人衆はほぼ切り従え、桑名までの道は確保したようだ。
今は我が軍に協力した国人衆に安堵状や感状を出しながらこちらに向かっている」
「そうなれば千草城も間もなく落ちましょうな」
「油断はできん。中伊勢には長野も居るし、関安芸守殿は依然として敵中に孤立した状況になっているのだ。我らも千草城を捨て置けば後ろを突かれる恐れが残るし、早いうちに千草をなんとかせねばうかうかと進めん」
定秀は原小十郎との会話中にも船を漕ぎ続ける二人に視線を移し、再びため息を吐いた。
「二人共、聞いているか?」
「はっ!はい!」
ビクンと反応した二人が、目を見開いて背筋を伸ばす。
見開いた目はくっきりと二重瞼になっていた。
「疲れが残っているのはわかる。しかし、我らも早くここを片付けて関城の援護に向かわねば、味方が危険になるのだ。もう少し気を引き締めろ」
「ははっ!」
二人の背後で老臣達が気まずそうな顔をする。
定秀にとっても鶴千代が年ごろになればこのような醜態を晒すかもしれないと思えば、他人事ではなかった。
「ともかく、今夜は夜襲を警戒しつつ兵達を交代で休ませてくれ。くれぐれも今夜は禁酒するよう全軍に通達せよ。
今日休息を取らせて、明日は寅の刻(午前四時頃)より総攻めを開始する」
「ハッ!」
―――やれやれ、ようやく目が覚めたようだな
定秀としても関盛信を見捨てて良いと思っているわけではない。義賢の軍勢の到着を待てば確実ではあるが、それでは関城が落城してしまう恐れがあると見ていた。
天文九年(1540年)六月
定秀は千草城の総攻めを開始するが、城方も良く守って中々城は落ちなかった。
順調に勝ち戦を積み重ねているとはいえ、伊勢遠征軍には関盛信が敵中で孤立しているという焦りがあり、その焦りが知らず知らずの内に蒲生軍の攻めを単調なものにしていた。
※ ※ ※
「申し上げます!関城が陥落致しました!」
「何!?安芸守殿はどうなった!」
「城を落ち延びられて、こちらに向かっております」
「生きているのだな?」
「ハッ!」
使番の報告に定秀は一旦胸を撫でおろす。ここで関盛信が討死などでもすれば、六角定頼の名に傷がつくところだった。
周囲には千草城を攻める鬨の声が響く。既に城の虎口を抜いて正門前を占拠し、今は丸太の槌を使って城門の破壊に掛かっている。あと一息だった。
―――死にはしなかったとはいえ、関城を落とされたのは痛いな。若殿に何と言って申し開きをすればいいか
定秀は遠征軍の事実上の総大将として責任を背負っている。しかし、世評では総大将は六角義賢になってしまう。
定秀の失敗は即ち義賢の失敗になってしまうのだ。
「ともあれ、今は千草城を全力で落とす。若殿が来着する前にケリを付けるぞ!」
配下の諸将を督戦し、定秀は全力を城攻めに傾けた。
既に義賢の軍勢は菰野を通過して四日市まで来ている。明日か明後日には千草城付近に到着するだろう。
外見の落ち着きとは裏腹に、定秀の内心は焦りに染まっていた。
※ ※ ※
「どうした?左兵衛大夫らしくない不始末だな」
「はっ!面目次第もございません」
「まあ、良い。関安芸守は生きているし、関城は我らの手で取り返そう」
梅戸高実の言葉に定秀が頭を垂れる。何とか千草城は本軍到着前に降伏させたが、それで言い訳が出来るほど軽い失態ではなかった。
軍議の上座に座る義賢は無表情で会話に聞き入っている。怒っているのか、それとも呆れているのか、定秀は顔を見るのが怖くなっていた。
「左兵衛大夫。此度の原因はどこにある?」
義賢からの下問に定秀がビクンと身を震わせる。正直に言えば平井と後藤が足を引っ張った感は否めない。だが、それを言っても仕方ない。事実として、軍勢を率いていたのは定秀だ。
「全ては某の見通しの甘さにございます。申し開きのし様もございませぬ」
覚悟を決めて義賢に顔を向けると、義賢の目には意外にも労りがあった。
「ならば、そういうことで良い。年寄(年長者)は苦労するものだな」
―――若殿は知っているのか?
今の言葉からはそうとしか思えない。
まだ甘さの残る若者かと思っていたが、油断ならない一面を垣間見て定秀はむしろ頼もしく感じた。
―――あの二人にもこれくらいのしたたかさがあれば良いのだがな……
次世代の六角家も頼もしい主君を得る。
その予感に、定秀は失態を詫びる身であることを一時忘れた。
天文九年(1540年) 十月
六角義賢率いる伊勢遠征軍は、失態こそあったものの関城を奪還して千草氏を降し、長野藤定の頭を抑えるという初期の目的は達成した。
八風、千草の両街道は六角家の支配下に服し、以後幕府からの指示も六角家を通じて下されることになる。定秀も遠征を終えて日野に帰還した。
※ ※ ※
日野中野城に戻り、戦支度を解いてようやく人心地ついた定秀は、書院にて今回の戦で家臣達への褒美を検討しつつ白湯を飲んでいた。
目の前には途中で発した感状の控えや戦目付からの報告書が並んでいる。
一通りの報告書に目を通していると、襖越しに辰の声が響いた。
「殿、失礼いたします」
「辰か。済まぬが後にしてくれぬか」
「いいえ、失礼いたします」
言うや、制止も聞かずに辰が室内に入って来る。やむを得ず書状をまとめて文箱に直すと、改めて辰と向き合った。
「一体どうしたというのだ?今は遠征の後始末をせねばならんのだが……」
言いながら白湯を一口含む。
「雪さん……ですか?綺麗なお方ですね」
「ブッ!」
思わず盛大に白湯を吐き出す。書状を広げたままにしておかなくて良かったと妙な考えが浮かんできた。
しかし、何故辰が雪のことを知っているのか……
「な、何のことだ?俺はもうちっと戦のことを締めておかねばいかんから、話は後で……」
そう言って立ち上がろうとするが、辰の目は怖いくらいに冷たかった。
「いいから、お座りなさい」
「……はい」
「いつからですか?」
「その……何故、雪のことを?」
「私が病に罹った折、瑞竹先生の助手として私の看護に当たってくれました」
―――そう言えば辰が倒れて吉田に紹介された医師に治療を頼んだと報せがあったな
無事に回復したと報せを受けてからは、遠征軍を率いるのに精一杯ですっかり頭から抜け落ちていた。
「で、いつからですか?」
「三年前から……」
「まあ!三年も囲い女として置いておかれたのですか!」
辰の口調が一気に険悪さを増す。こうなっては、定秀に逆らうことはできない。
「その……お前が嫌がると思って……」
「嫌でございます!当たり前でしょう!」
―――だから秘密にしていたのに……
「ですが、コソコソされるのはもっと嫌でございます!やるなら堂々となさい!堂々と!」
―――ん?
一言も口を挟めないが、それでも辰の言葉の意味が染みて来る。まるで、堂々とするならいいと言っているように聞こえる。
「第一、これで雪さんに子が授かったら一体どうなさるおつもりです!雪さんの子もれっきとしたあなたの子でありましょう!」
「……」
「よろしいですね!何としても雪さんを側室にお迎えなさい!」
「あ……しかし、雪は親も居ないし、側室としてはちと身分が……」
「そんなもの、何とかなさい!あなたは蒲生の当主でしょう!」
バンッと派手な音を立てて辰が床を叩く。
思わず定秀がビクッと身を震わせた。
「わ……わかった。何とか考えてみる」
ふんっと荒く鼻息を吐くと、辰がすっと立ち上がろうとする。
ほっと息を吐きかけた所に、辰が何かを思い出したようにもう一度定秀の顔に視線を合わせた。辰の視線を受けて、再び定秀の背筋が伸びる。
「雪さんを迎えたとして、今後雪さんばかりに通われては承知しませんよ!よろしいですね!」
「は、はい!」
言い捨てると、今度こそ辰は立ち上がって下がって行った。
戦場での緊張とは違う緊張感から解放された定秀は、思わず力が抜けてヘナヘナとへたり込む。
―――側室に、か。とりあえず御屋形様に相談してみよう
※ ※ ※
「わぁっはっはっは。それでそれで、どうなった?ん?」
定秀から話を聞いた定頼は、相談などそっちのけで辰の話を聞きたがった。定頼にとってみれば、クソ真面目だった定秀が女がらみで女房に怒られるというのが可笑しくてたまらないらしい。
「は、その……必ず側室に迎えよと……しかし、身の上のことをどうすれば……」
「それなら心配いらん。吉田の養女とするようにわしから言ってやろう。吉田忠宗の娘ならば、誰も文句はないだろう」
「あ、ありがとうございます」
こうして定頼に平伏するのもいつぶりだろうか。
そんな場違いなことを考えつつ、定秀は定頼の前に深く頭を垂れた。
辰の怒りのすさまじさもあり、雪は天文九年のうちに側室として日野中野城に入った。通常輿入れと共に帯同してくる侍女などは居ないので、身の回りのことは全て辰の侍女がやってくれた。
働いていないと落ち着かない性分だった雪は、侍女たちが止めるのも聞かずに台所に立って様々な料理を定秀や辰に振る舞った。辰への精一杯の恩返しのつもりだったが、その献身ぶりは正室と側室のそれではなくまるで姉に尽くす妹のようだった。