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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第三章 蒲生定秀編 木沢長政の乱
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第36話 武家の女

主要登場人物別名


左兵衛大夫… 蒲生定秀 六角家臣

治部大輔… 梅戸高実 梅戸家当主 六角定頼の実弟

源太郎… 平井定武 六角家臣


 

「もう近江にお戻りになるのですか?」


 別れの朝に切なさが募る雪に、定秀も困ったような、愛おしいような顔をする。


「若殿のお供をせねばならん。名残惜しいが、やむを得ない。何、今生の別れということにはならんさ」


 尚も雪の顔色は晴れない。武門にある以上戦に出かけることを止めることは出来ない。それは最初から分かっていたはずだ。

 だが、現実に戦に行くとなると万一のこともあり得ないとは言い切れない。恋をしてはいけない男に恋をしてしまった自身の業が、いっそ恨めしかった。


 ―――この人を戦に行かせたくない


 それがただの我がままと分かってはいるが、心の奥から湧いてくる思いに抗うことが出来ない。

 自分が定秀にとって重荷にはなりたくないと思ってはいるが、自分の思いを抑える術も知らない。

 辰の元に戻ると言われる方がまだ気持ちが楽かも知れなかった。少なくとも、戦でなければ死ぬことはない。


 ―――武家の女性とは、こんな思いを抑えて殿方を送り出しているのでしょうか


 戦に行くと言われただけで胸が潰れそうに苦しくなる。今更ながら、辰の心根の強さに頭が下がる思いだった。



 天文九年(1540年)二月

 三好長慶の反乱を未然に防いだ定頼は、幕府の争論に裁定を与えた後帰国の途に就いた。

 国元に帰れば、いよいよ北伊勢遠征を開始する。遠征軍の総大将は定頼の嫡子である義賢が務め、副将格として定秀が従軍することは既に内定している。

 その前提で定秀は前年より伊勢の調略に取り掛かっており、既に中伊勢に威を張る関盛信にまで意を通じていた。

 今更定秀が遠征軍から外れることなどあり得ない情勢だった。




 ※   ※   ※




「左兵衛大夫。状況を説明してほしい」

「ハッ!」


 二十歳になった若々しい義賢の声が観音寺城の広間に響く。北伊勢遠征の詳細を詰める最後の軍議だ。

 北伊勢の絵図面の上に白黒の碁石を並べながら定秀が状況の説明を始める。


「北伊勢国人衆の内、関、朝倉、横瀬、大木、佐脇、南部には既にこちらの意を通じております。特に朝倉などは我が軍の来着を今や遅しと待ち焦がれておるとの文が届いております」

「うむ。さすがは左兵衛大夫だ」


 義賢が上座で頷く、上座の脇で息子の大将ぶりを見守る定頼も眩しそうな表情をしていた。


「某はこの後日野に戻り、軍勢を整えて千草街道を進みます。八風街道方面からは梅戸治部大輔様が主力となってに桑名方面を制圧いたします。中伊勢と北伊勢を同時に相手にすることになりますが、今の情勢では何ら問題になるものではないかと思われます」

「相分かった。わしは八風街道から進み、梅戸の叔父上と合流する手はずで良いのだな?」

「はい。まずは治部大輔様と共に桑名方面の国人衆を下していただき、同時に某が千草を攻略致します。

 最後には若殿、治部大輔様の軍と合流し、長野の頭を抑えることが今回の目的にございます。

 今回の戦で、伊勢への街道は全てこちらの手に落ちましょう」


 広間にざわめきが広がる。たったの一年でここまで戦略を練り、調略を完了させた定秀の手腕に感心する声が高かった。


「よし、それではわしの出陣は三月二十日とする。従軍を申し付けた諸将はそれまでに軍勢を観音寺城に終結させよ」

「ハッ!」

 義賢の一言で広間の全員が頭を下げる。

 定頼は、今回の北伊勢遠征は全ての采配を義賢に任せて自身は一切口を挟まなかった。

 義賢もすでに充分に大人になった。ここからは六角家の当主として家臣を率い、独自に判断するという経験を積ませようと考えていた。



 天文九年(1540年)三月

 六角義賢率いる北伊勢遠征軍は観音寺城を進発し、八風街道を進む。

 蒲生定秀は配下に後藤賢豊と平井定武の軍勢を預かり、総勢三千の軍勢で千草街道を進んだ。

 賢豊と定武はそれぞれ後藤・平井の嫡男で、十七歳と二十三歳の若武者だ。義賢の出陣に合わせてそれぞれの父から従軍を申し付けられ、定秀に対しては引率者としてくれぐれも息子をよろしく頼むと挨拶があった。


 あと十年も経たないうちに鶴千代もこのような日を迎えるのかと思うと、若者たちを見る定秀も眩しそうな顔をするだけだった。




 ※   ※   ※




「平井勢の援護が弱いな。あれでは後藤の前衛が打ち負けてしまうぞ。伝令!」


 定秀の一声に使番が進み出て膝を着く。


「平井源太郎殿にあと二百歩軍勢を前進させよと伝えろ!遠すぎて矢の威力が死んでしまっている!」

「ハッ!」


 定秀の命を受けて使番が三騎走ってゆく。当たり前のこととはいえ、百戦錬磨の定秀から見れば平井定武も後藤賢豊もまだまだ軍勢の動かし方がぎこちない。

 そのため蒲生の本軍は軽々に動かさず、後方で平井と後藤の隙間を埋めるように動いていた。


 ―――ふむ。後藤隊の右翼が少し苦戦している。このままでは崩れるかもしれん


「伝令!」

「ハッ!」

「外池茂七に申し伝えよ!後藤隊の右翼のさらに右へ進出し、敵の後方を遮断する動きを見せよ!そのまま茂七は敵の後ろを突け!状況を見て増援を送る!」

「承知しました!」


 使番が外池隊に駆け込むや否や、外池茂七が兵二百を率いて千草勢の最左翼を回り込んでゆく。慌てた千草勢は正面からの後藤勢の動きと合わせて、対応に苦慮していることが見て取れた。


 ―――茂七の槍隊も強くなった。今や充分に一手を任せられる精兵だ


 定秀は満足だった。外池兄弟の末弟である茂七は、兄二人以上に蒲生軍の中核を担う物頭に成長している。


「よし、敵の中央と左翼の連携が崩れたな。伝令!」

「ハッ!」

「原小十郎に正面から突撃をかけよと申し伝えよ!正面が崩れれば、この戦は終わりだ」

「承知!」


 満を持して原小十郎の率いる兵三百が進発する。

 小十郎は今や蒲生軍の主力ともいえる部隊を率いる物頭になっており、名実ともに蒲生の武を担う存在になっている。

 若いころの一拍遅れるところは既に払拭されており、優秀な現場指揮官として定秀の深く信頼する武将へと成長していた。


 ―――もう俺が槍を振るうことも無いかもしれんな


 一抹の寂しさを感じつつ、定秀は戦況を見つめる。

 勢いをつけた原隊の突撃は充分に千草軍の中央を噛み破り、千草軍は算を乱して逃げ帰ろうとしていた。

 元々蒲生軍三千に対し、千草勢は五百とその不利は最初から明らかだった。


 野戦で千草軍を破った蒲生軍は、そのまま千草街道を進軍して宿野川原に陣を敷き、本格的に千草城包囲に移る。

 北の八風街道では梅戸高実の軍勢が大木氏などと連携しつつ北伊勢を制圧しつつある。全ては順調に進んでいた。




 ※   ※   ※




「お方様。お加減はいかがですか?」

「瑞竹様のおかげでずいぶん楽になりました。雪さんにもお世話をおかけしますね」

「いいえ、私は何一つお役になど立てておりません。せいぜいお体をさすり、身を拭って差し上げることくらいしか……」

 熱に顔を紅潮させながら辰がかすかに首を横に振る。


 雪は日野中野城で病に伏せる辰の看護に当たっていた。



 この年の三月に定秀の出陣を見送った辰は、四月に入って体調を崩した。最初は軽い風邪かと思ったが、いつまで経っても病状が収まらない。

 そのうちに微熱が続き、五月にはとうとう床から起き上がれなくなっていた。


 慌てた岡貞政は京の吉田忠宗に連絡し、至急日野に下ってもらうように要請したが、折り悪く吉田忠宗も公家に患者を抱えていて京から離れることができない。

 そこで、吉田忠宗を通じて同じく京の名医として名高い竹田瑞竹に日野行きを依頼していた。

 雪と定秀の関係を承知していた吉田忠宗は、瑞竹が日野行きの為に助手を貸してほしいと言って来た時に別の者を充てるつもりだったが、雪自身が何としても日野に行くと言って譲らなかった。


 ―――私は、嫌な女だ


 辰が居なくなればいいと心のどこかで思っていたのかもしれない。愛する男の正室として堂々と隣に立つ辰を羨ましいと思ったことは何度もある。

 辰が居なくなったところで自分がその地位に就けるはずがないことも重々承知している。

 しかし、この(ひと)は定秀の子を二人も産み、しかもそれが定秀の実子として当たり前のように世間に認知されている。


 もしも自分に子供が出来れば同じ扱いをしてもらえるかどうかはわからない。いや、きっと表面上は他人として養育の費用の面倒だけを見てもらい、子供は自分が育てるということになるだろう。

 定秀は今までのように京へ来た時には自分と子供を可愛がってくれると思う。しかし、定秀が近江に戻れば再び子供と共に定秀の帰りを待ち続ける生活を続けることになる。

 そう思うと、日野へ来た理由の一つに辰への嫉妬が無かったと言えば嘘になる。


 しかし、定秀の大切な人が病に伏せっている。その現実を目の前にして、今ではなんとか元気になって欲しいという思いが雪の胸の中で大きく膨らんでいた。


「京では、夫がお世話になっているのでしょう?」


 紅潮した顔のまま、辰が雪に微かな笑顔を向ける。

 一瞬雪の背中に冷たい物が走ったが、すぐに『医師・吉田忠宗の助手として』という意味だろうと思い直した。

 だが、次の辰の言葉で完全に顔色を失った。


「あの人も意気地が無いこと。好きな女子が出来たなら素直にそう言えば良いのに」


 ―――どうして?


 今度こそ雪は観念するしかなかった。辰は京で定秀と雪がどういう関係にあるかを完全に知っている。今の言葉からはそうとしか思えない。

 思わず震えながら床に両手をつく。


「お方様。申し訳ありません。あのお方のご厚情に甘え、情けをかけて頂いていたのは私の方でございます」


 一筋の涙が雪の目からこぼれる。定秀の正室の弱った姿を見てやろうという醜い心を持った罰が当たったのだと心底後悔した。


「あら、雪さんが謝ることではありませんよ。むしろ、そういう女性が出来たのにちゃんとしたことをしない夫の不明です。私からも改めてお詫びいたします」


 身を横たえながら辰が微かに首を縦に動かす。

 後悔はしても、雪には何故辰に自分と定秀の秘め事が暴かれたのかがわからなかった。


「……でも、どうしてお方様はその事を?」

「雪さんを一目見た時に分かりました。何故と言われても困るけれど……

 きっと、同じ(かた)を愛した者同士だからでしょうかね」


 相変わらず穏やかに笑う辰に、雪の目からはもう一筋の涙がこぼれる。


 ―――このお方には敵わない


 女として、武家の妻として、辰と同じように振る舞える自信など雪にはなかった。

 器の違いを思い知り、今度こそ雪の目にも滂沱の涙が溢れる。


「そんなに泣かないで。綺麗な顔が台無しですよ」

「……」

「ご安心なさい。病が癒えたら、貴女のことは私がちゃんと致します」


 ―――ちゃんと?それはどういう……


 雪は再び辰の穏やかな笑顔を覗き込んだ。



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