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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第一章 蒲生定秀編 両細川の乱
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第18話 我が友、蒲生定秀

主要登場人物別名


藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣


備前守… 浅井亮政 京極高延の宿老 京極家の実権を握る

京極五郎… 京極高延 京極家当主京極高清の嫡男 弟の京極高吉と家督を争う


 

 北河又五郎を討ち取った定秀の勝ち名乗りに、六角陣営から大歓声が上がる。又五郎配下の奇襲部隊も生き残った者は武器を捨て、投降の意志を示していた。



 定秀は名乗りを上げると、すぐに傍らの彦七に駆け寄って抱き起した。

「彦七!しっかりせよ!」

「殿… お見事で… ございました」

 彦七は息も絶え絶えになりながら笑顔を見せる。胸を貫かれて肺も傷ついているのだろう。呼吸すらも苦しそうだった。


「もうよい。しゃべるでない。又五郎を討ち取ったは彦七の手柄だ」

 既に血の気の無くなった彦七の顔を見下ろしながら、定秀は両の目から流れる涙を止められなかった。

 外池兄弟は定秀が蒲生家当主となる前から一心に尽くしてくれた忠臣だ。定秀にすれば両の腕をもぎ取られたに等しかった。


「殿… 日野の地を… お守りくだされ… 我ら兄弟… 魂はいつまでも殿のお側に…」

 掠れた声でそこまで言葉を絞り出すと、彦七の目から光が消えた。その死に顔は安らかに笑っていた。



 瞑目して涙を流す定秀に、遅ればせながら駆けつけた杉山三郎兵衛もかける言葉が見つからなかった。主君を守ってその身に敵の槍を受けた外池彦七という武士(もののふ)の見事さに心を打たれていた。



 ―――彦七。そなたの働き、決して無駄にはせぬ!


 やがて涙を払った定秀が馬廻衆に大声で叫ぶ。


「馬を引けぇ!」

「蒲生殿、一体何を…?」

 杉山が慌てて定秀に駆け寄る。左腕から血を流し、足元も覚束ない定秀の姿はどう見ても直ぐに手当てを必要とする重傷人だった。


「知れた事!加賀守殿や我が配下の仇を討つ!浅井備前守に一太刀浴びせて参る!」


 定秀の言葉に一瞬呆気にとられた杉山が、不意に大きく笑った。何とも見事な武辺者(ぶへんもの)ぶりに、杉山の心も躍った。


「ならば、我ら杉山一統、蒲生藤十郎殿の露払いを仕る!」

 杉山の一声に引き連れて来た郎党も大きく歓声を上げた。定秀は杉山の助けを借りて馬上に登ると、手綱を左腕に巻き付けて外れないようにした。

 すでに左の手には握っている感覚が無い。だが、太刀を握る右手はまだ充分使えた。


 杉山三郎兵衛を先頭とした一団は、蒲生藤十郎の旗をその中心に据えて前線へ向かって疾走を始めた。

 平井高安の側近や周囲の者達も巻き込み、旗指物もバラバラの集団が又五郎の来た道を引き返すように前線へと駆け上っていった。




 ※   ※   ※




 顔戸の浅井本陣では京極高延が落ち着きなくウロウロと歩き回っている。

 傍らでは高延など居ないような顔つきで浅井亮政が前線を睨みつけていた。左右からは三雲勢・後藤勢の攻めかかる声がもうすぐそこに聞こえていた。


「備前守!まだ退却せんのか!」

「今しばし、お待ちを。最後の一手の成否がまだ判じかねます」


 京極高延の声にも一切視線を動かさず、前線の騒ぎを見つめる。

 北河又五郎の決死の奇襲が成功すれば、六角本陣に大きな動揺が見えるはずだ。本陣が動揺すればそれは前線にも伝わる。又五郎が六角定頼を討ち取ることまでは出来ずとも、前線が動揺すれば隙を突いて浅井本隊が六角本陣に迫る事もできるだろうという計算があった。


 ―――まだか… 又五郎


 亮政は又五郎の騎馬の用兵を高く買っていた。又五郎ならば、前のめりになった先陣を切り裂いて本陣へ奇襲をかける事も出来るだろう。

 もはや亮政に残された手立てはそれしかなかった。


 ―――そもそもが最初に粘られ過ぎた…


 当初の亮政の戦術は押しの一手で決める腹積もりだった。戦力差はあるが、六角は鶴翼の包囲陣形を敷くために広く分布している。

 その為に前線だけ見れば浅井軍が有利だった。


 開幕早々に六角の先陣を踏みつぶし、包囲される前に六角本隊と決戦する。そうなれば魚鱗の陣で厚みを増した浅井軍の圧力で押し切れると踏んでいた。

 亮政の読みが甘かったとも言えない。並の軍勢なら開幕から半刻も保たずに総崩れになっていたはずだった。それほどの圧力を掛けていたという自信はあった。

 偏に蒲生の粘り強さを見くびっていた。蒲生高郷の戦振りからして、攻めには強いが守りは不得手だろうと踏んでいたのが大きな誤算だった。



「申し上げます!六角本陣より反撃の騎馬部隊が前線に突入しております!

 我が方の防陣を切り裂き、この本陣に迫る勢いを見せております!」

 伝令の言葉にも振り向かずに亮政は前線を見つめ続ける。だが、六角軍には大きな動揺も無く、遠方にかすかに見える四ツ目の旗は何事も無かったかのように風に揺らめいていた。


「……しくじったか」


 ポツリと呟くと、亮政は慌ただしく指示を出し始めた。

 最後の一手が失敗に終わったのならば、今すぐにでも陣を退いて小谷城に籠らなければならない。逃げると決めた時の亮政の判断は早かった。


「四郎三郎!殿(しんがり)を頼む」

「ハッ!殿は五郎様と共に一刻も早く小谷へ!」


 亮政は一つ頷くと、京極高延を促してすぐさま本陣を引き払った。前線で戦う各陣にも伝令を出し、本陣まで退いてそこから中連寺(ちゅうれんじ)四郎三郎の殿(しんがり)軍を盾に撤退するように指示した。

 撤退戦の途中で浅井と同格の国人領主三田村直政が杉山勢の攻撃に数カ所の槍傷を負う重傷となった他、殿(しんがり)の中連寺四郎三郎並びに中連寺弥左衛門尉が突撃してきた蒲生定秀に一太刀で討ち取られる。


 正午を待たずして、箕浦河原の合戦は六角軍の勝利で幕を閉じた。




 ※   ※   ※




「蒲生藤十郎殿、参られました!」

 側近の馬廻衆の言葉に、本陣で座していた定頼が思わず立ち上がって定秀を出迎えた。

 定秀は体中に傷を負っていた。陣幕を上げてもらい、町野将監の介助を受けながら定頼の前に膝を着く。


「藤十郎!」

 立ち上がった定頼は、案に相違して厳しい顔で定秀の側まで歩み寄って来た。



「御屋形様… 平井加賀守殿を討たれたは某の失態でございます。申し訳ありませんでした」

 定頼の顔つきに定秀も頭を垂れてうなだれる。何と言い訳しようとも、どれだけ武功を積み上げようとも、六角家の宿老の一人である平井加賀守を討ち取られたのは前線を維持しきれなかった自分の失態と思っていた。

 宿老クラスの重臣を討ち取られるということはそれだけ六角の武威を軽んじられるという事にもつながる。六角が舐められれば六角の庇護を受けている国人衆や商人衆、各郷の百姓に至るまで類は及ぶ。


『六角に逆らえば命はない』

 そう思わせ続ける事が乱世における平和を創り出す唯一の方法だった。



 頭を垂れて膝を着く定秀は首筋に不意に具足の冷たい感触を感じた。驚いて顔を上げると、主君定頼が定秀の首筋に腕を回し、額が触れ合いそうなほど顔を近づけている。お互いの吐く息がかかる程の距離に顔を近づけた定頼の瞳は、心なしか潤んでいた。


「よくぞ… よくぞ、生きて戻った。天晴だ」

「……ふぐぅっ 御屋形様ぁ」

 定秀も両の目から滂沱と涙を流していた。

 弥七や彦七、平井高安だけではなく、蒲生家の物頭(ものがしら)達も多くがこの戦で討死している。死んだ者達の顔が浮かび、生きて戻った事を褒められた事で彼らの死が無駄にはならなかったと実感した。


 初夏の青臭い草の匂いに包まれた本陣では定秀と定頼の涙に誘われ、周りの近臣達も目をしばたたかせている。時ならぬ涙にしばし本陣にはすすり泣く声だけが響いた。



 しばしの沈黙の後、定頼は蒲生勢の帰郷を決定した。

「蒲生は手勢をまとめて一旦日野へ戻るが良い」

「お心遣いかたじけなく。ですが、この戦の始末は…」

「それはわしに任せよ。そなたはこの戦で討死した者を弔ってやるが良い」

「はっ……」

「今後もわしには藤十郎が必要だ。今は体を休め、傷を治す事に専念するがいい。我が友よ」

「御屋形様…」


『我が友』と呼ばれた事に感動しながら、定秀は定頼の前を辞した。

 今まで定頼が友と呼んだ者は進藤貞治、後藤高恒、平井高安のいずれも譜代の重臣ばかりだった。

 本当の意味で六角家の重臣の一人と認められた事で、定秀は終生六角定頼に忠誠を尽くす決意を新たにした。



 室町幕府の制度の下にあって領地の百姓や地侍を直接に支配するのは地頭と呼ばれた国人領主層だ。守護大名には一国の警察権や裁判権は付与されているものの、領国を直接に支配する権限はない。

 守護大名である六角家と蒲生家などの地頭を繋ぐのはひとえに大名個人の器量しかなかった。六角家ではなく六角定頼という大名にこそ忠誠を誓う。後世の徳川幕府に見られるような家への忠誠という観念は未だ充分に育ってはいなかった。

 だが、近江という日本の中でも先進地帯に属する地域では惣村(そうそん)という村落の自治意識は充分に育っていた。

 大名が気に入らなければ惣村の者達の意志によって地頭を動かし、守護たる大名の権限を駆逐する。守護不入の権を武力で勝ち取る。それを一般に『下剋上』あるいは『国一揆』と呼んだ。


 惣村や地頭たちを服属させ、一国の平和を保つためには、惣村の者から地頭に至るまで守護大名を身近に感じさせる必要がある。自分達の上に立つに相応しい人間と認めさせる必要がある。

 その意味で、六角定頼は力強さと人間臭い魅力にあふれた稀有な大名だった。



 箕浦河原の合戦の翌々日、蒲生勢は陣を払って日野へ帰還する。外池兄弟や森又九郎、西田宗衛門、和田新三郎など高郷の時代から蒲生家を支えてきた数々の物頭(ものがしら)達も多くが討死していた。

 蒲生家が失った者は物頭以上の兜首だけで三十一名に上る。しかし、蒲生定秀が上げた首級も北河又五郎、中連寺四郎三郎、同弥左衛門尉、井上彦九郎など二十九の兜首を上げていた。


 正に血で血を洗う激戦を制する原動力となった事で『鬼左兵』の武威は未だ健在なりと近江一国に広く知れ渡った。蒲生勢の突撃の威力に恐怖を覚え、戦後しばらくは夜中に対い鶴の旗を夢に見て深夜にガバっと跳ね起きる者が絶えなかったという。



 勝った六角軍も損害は少なくなかった。

 定頼は野戦での勝利の後は小谷攻めに移る事無く、戦場となった箕浦や顔戸を始めとした坂田郡南部の支配権を京極高吉の物とし、北近江の支配域を広げるに留まった。

 浅井亮政は何度も六角定頼に敗れながらも、対内的には敗戦の度に北近江の国人衆の結束を強めるという抜群の政治力を発揮する。

 当初の目的である『浅井の屈服』は果たせず、勝ったとはいえ今回は痛み分けに近い内容だった。




 ※   ※   ※




「ああ、殿… よくぞご無事で…」

 日野中野城の玄関口で定秀を出迎えた辰は、潤んだ瞳で定秀を見つめていた。定秀は左腕を動かすと激痛が走る為、さらしを巻いて首から左腕を吊って動かさないようにしていた。

 定秀の体中に広がる生々しい傷跡に辰も思わず涙を零していた。


 ―――心配をかけさせたな


 自分の傷を見て涙を流す辰に不意に愛おしさが込み上げてきた定秀は、辰に近付くと自由になる右腕でそっと辰の肩を抱き寄せた。


「藤十郎様?あの… お怪我に障ります…」

「なに、そなたに掛けた心の痛みに比べれば何ほどの事もない」

 辰は戸惑いながら定秀を見上げていたが、遠慮がちに定秀の胸に顔を寄せた。寄せた顔の先に定秀の体温を感じ、生きて戻ってくれた事に心からの喜びが溢れて来た。




 二か月後の享禄四年六月には、摂津国天王寺周辺で睨みあっていた細川高国・浦上村宗と三好元長の戦いにも決着が付く。赤松政佑が高国を裏切って細川高国軍に攻めかかり、連動して三好元長も高国・浦上連合軍に圧力を加え、支えきれずに細川高国は敗走した。

大物崩(だいもつくず)れ』と呼ばれる敗戦によって逃げ道を絶たれた高国は、尼崎の藍染屋の(かめ)の中に身を隠すという凋落ぶりだった。

 その隠れ先も探索に当たった三好一秀に発見され、細川晴元の命令で尼崎広徳寺にて高国は切腹する。管領職と細川京兆家の家督は、正式に細川晴元が継ぐ事となった。


 ここに、永正の錯乱から始まり、京洛中を大混乱に陥れた『両細川の乱』は終結した。だが、この戦勝も細川晴元と三好元長の関係を修復するには至らず、束の間の平和に喜びを表す暇も無いほどに時代は次なる戦乱の気配を残していた。



第一章時代背景 ちょこっと解説


第一章の舞台となった大永~享禄年間は、未だ織田信長は生まれておらず美濃では後の斎藤道三が長井新九郎と名乗りを改めて土岐頼芸の重臣となり始めた頃です。

大永七年には、蒲生定秀と同じ時期に信長の父である織田信秀がようやく家督を相続しました。

関東に目を向ければ、北条早雲の跡を継いだ北条氏綱が扇谷上杉氏の上杉朝興と戦って劣勢に立たされている状況です。


近江や山城、摂津、河内などの先進地帯では農業生産力の向上によって国人衆が実力を持ち始めますが、他方で旧来の守護大名達も国人衆の掌握に務め、領国を直接支配する戦国大名へと脱皮を図り始めます。

その先鞭を付けたのが六角定頼という人物でした。


次章から定頼の領国経営や京周辺の争いにどのように影響力を発揮していったかを描きます。

蒲生定秀は六角家の重臣として京の公家や敵対勢力からも広く名前を知られるようになります。

対い鶴の活躍をお楽しみに。


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