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鶴が舞う ―蒲生三代記―  作者: 藤瀬慶久
第八章 蒲生氏郷編 賤ケ岳の戦い
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第101話 日野楽市令

主要登場人物別名


忠三郎… 蒲生賦秀 蒲生家当主 後の蒲生氏郷

 

 関東での継戦を諦めた滝川一益は、七月に入ってようやく伊勢長島城に帰還した。

 行軍中一度も脱がなかった具足を脱ぐと、一気に解放された心持になる。夏場のことでもあり、関東諸将の裏切りを警戒しながら汗と垢と埃にまみれた行軍がようやく終わったという安心感があった。

 ついでの事に風呂にも入って戦陣の垢を落とすと、居室に戻ってようやく人心地ついた。


 居室の戸を開け放っていると、夕暮れの風が入って来て心地がいい。身につけていた薄手の浴衣ですら暑く感じて諸肌を脱ぐと、そのまま夕涼みがてらごろんと横になる。何とも心地いい風だった。


 何の気なしに見上げた天井の板には次々と人の顔が浮かんでは消えていく。様々な顔が浮かんだあと、旧主織田信長に続いて羽柴秀吉の顔が浮かんだところで一益は無意識に毒づいていた。


「くそっ」


 悔しさが心の中を埋め尽くす。

 関東からの撤退を決めた滝川一益だったが、まさに厩橋城を出立しようとするその前日に北条氏政が上野国に向けて進軍しているという情報を受け取った。

 信長亡き後の織田家中の混乱を予想して上野国を支配下に収めるためだ。


 急遽北条軍を迎え撃つ態勢に切り替えた一益は、緒戦で北条氏直の率いる二万の軍勢をわずか三千の手勢で敗走させるという勝利を挙げた。だが、北条氏政が一万の後詰を投入すると次第に劣勢となり、一益配下の関東諸将も動きが鈍く、ついには北条軍に包囲されて敗走するに至った。


 清州会議が行われていた六月二十七日は小諸城を出立して木曾に入った頃であり、織田家の勢力範囲である美濃に帰り着けたのは翌二十八日のことだった。

 当然ながら既に清州会議は終わっていた。


 ―――つくづく、ツイてない


 清州城に着いた自分を迎えたのは皮肉にも本能寺の変でツキを掴んだ羽柴秀吉だった。


『滝川殿。てっきり北条と戦の最中かと思っていたが、無事に戻れて何よりでしたな』


 秀吉の言葉が頭の中に蘇る。

 言葉遣いこそ気づかわしげだったが、その顔は『関東を捨ててノコノコと逃げ戻って来たのか』と言っていた。少なくとも、一益にはそのように見えた。


 一益は改めて信長の遺領の再配分を求めたが、羽柴を始めとした会議出席者たちはこの要求を拒んだ。

 既に遺領の相続手続きは始まっており、今更配分の変更などをすれば織田家の相続が混乱をきたすことになる。秀吉だけでなく、柴田勝家や丹羽長秀も一益の要求には同意してくれなかった。信長から任されていた関東を失った今、一益に残されたのは旧領である伊勢長島城とその周辺だけだ。


 秀吉とは対照的に、一益の織田家中での発言力は極端に低下せざるを得ない。本能寺の変を境に明暗がくっきりと分かれた格好だ。


 風呂上がりの汗も引いたところでガバっと起き上がって浴衣を着なおす。

 既に陽は山の端に差し掛かっていた。


「今に見ていろ」


 夕陽を見つめながら一益は再び呟く。

 このままで終わる気などさらさら無い。信長亡き後の畿内はまだまだ荒れると一益は見ている。

 何よりも羽柴と柴田がこのままで収まるわけがないと睨んでいた。元々仲が良いとは言えない二人だが、今後もその関係が改善することなど想像もできない。

 これは一益の妄想などではなく、織田家中でも公然の秘密と言えた。


 一益の中では、次に起こるであろう羽柴と柴田の戦では柴田に味方する決意を固めている。

 現状織田旧臣の中で最も領地が多いのは羽柴秀吉だ。その羽柴を下せば、必然的にその領地を分けとることが出来る。関東という大領を失った一益にも再び飛躍の目が出て来る。


 それに、柴田の領地は越前だ。いざ戦となれば、柴田は必死になって自分を口説きに来ると言う確信がある。

 越前に向かって羽柴が軍を進める中で伊勢の滝川が柴田に付けば、南北から羽柴を挟撃する態勢を整えることが出来るからだ。歴戦の勇将である柴田勝家がその利に気付かぬはずはない。

 つまり、座して待っていれば再び好機が巡って来るという訳だ。その時に自分をどれだけ高く吹っ掛けるかで今後の発言力が決まる。


 実際の戦については心配していない。秀吉も用兵が下手とは言わぬが、どう考えても柴田と自分に挟撃されれば無事で居られるはずがない。

 良くて引き分け、最悪の場合はすぐに首を討たれることになるだろう。次の戦に自分が負けるとはこれっぽっちも考えていなかった。


「次は和泉と河内でも貰うかな」


 和泉・河内は鉄砲の一大産地である堺を擁している。堺の鉄砲鍛冶を配下に収めれば、今後の滝川鉄砲隊は益々天下無敵の軍勢となるだろう。

 そうなれば、柴田勝家も丹羽長秀も恐れるに足りない。天下最強の座は滝川一益の物になる。


 そうやって思考を巡らしていると、次第に悔しさが薄れて来た。次に見る秀吉の顔は戦に敗れて項垂れた顔になるか、あるいは討死して首だけになっているかと考えるだに先日の清州城で向けられた秀吉の顔がいっそ愉快にすら思えた。


 と、突然大きな音が腹の辺りに響く。

 そう言えば北条に敗れてから今日まで、慌てて腹に流し込むだけでまともに飯を食えていなかった。


 ―――まずは腹ごしらえだ。


 立ち上がった一益は厨に向かって歩き始める。陽は既に山際に隠れ、残光がわずかに辺りを照らすだけになっていた。


「誰ぞある! 飯を持て!」




 ※   ※   ※




 蒲生賦秀は中野城の一室で五井宗兵衛と話し込んでいた。


 宗兵衛は日野の出身でかつて保内衆の頭分であった伴伝次郎の元で足子として働き、六角家の没落以後は故郷の日野に帰って地道な商いに精を出していた男だ。

 その後も織田信長に従って各地で戦う賦秀の元へ兵糧・武具などの手配りを行い、今や賦秀から深い信頼を得ている。

 言わば賦秀の御用商人の立場にあった。


「間もなく戦が始まる。兵糧の用意を怠りなく頼むぞ」

「ご心配なさらずとも今年収穫した米の備蓄も進んでおります。あと一年は中野城で籠城することもできますぞ」

「それは頼もしいな」

「ですが、戦と言うことはいよいよ羽柴様が動かれますか」

「ああ。修理亮殿が雪で動けぬ冬場を狙って動くつもりだ」


 賦秀の言葉に宗兵衛は不審な顔をした。先ほどまで上機嫌だった賦秀の顔に、今は明らかな嫌悪があったからだ。


「殿様には何かお気に召さぬことがおありでしたかな?」

「……ここだけの話ぞ」

「ご安心下さいませ。無論のこと、他言は致しませぬ」


 宗兵衛がゆっくりと頭を下げる。

 一端の商人らしく、宗兵衛は余計なことを余所でベラベラ喋るような男ではない。その点では賦秀も安心していた。


「羽柴は儂を軽んじておるように思う。所詮は物を知らぬ若造だ、父に比べて不肖の息子だ、とな」

「そのようなことは……」


 ありますまいと言おうとした宗兵衛が思わず言葉を飲み込んだ。賦秀の顔が蒼白になっていたからだ。

 宗兵衛の経験上、こういう顔をする時の賦秀は心底怒っている時だ。


「ならば何故儂に何の相談も無く戦の段取りを始める。儂に話が来たのは九月も終わりに近くなってからだ。今になって急に柴田を攻めることにしたなどと見え透いたことを言っておるが、夏から準備を始めていたに決まっている」


 秀吉は、信長亡き後も当面は相変わらず織田家の重臣としての立場を崩していない。

 日野からほど近い伊勢は織田信雄が領有しているが、秀吉は現在の所信雄の家老という立場を堅持している。

 秀吉が事を起こすのならばそれは織田信雄抜きではあり得ず、従って日野の蒲生も信雄と共に羽柴側として戦う見込みが大きいのは確かだ。


 宗兵衛から見ればそれは賦秀に対する信頼の証に見える。何も言わずとも味方に付いてくれると期待しての行動だろう。だが、当の賦秀は秀吉から侮られている証拠だと受け取っている。


 ――良くないな


 腹の底で宗兵衛はため息を吐いた。

 宗兵衛の見るところでは、秀吉に付いた賦秀の判断は間違っていないと思う。山城と播磨を抑える秀吉は、西国から繋がる巨大な商圏を持っている。その経済力は侮るべきではない。

 武士は石高で何事も計ろうとするが、宗兵衛のような商人から見れば石高よりもどのような立地にあるかの方がはるかに重要だ。その意味では、柴田よりも羽柴の方に圧倒的に利がある。


「大殿様のお話は手前も聞いておりますが、羽柴様の力は存外に強いものとなりましょう。今はお心を鎮め、何事も羽柴様のお下知に従われるのが上策と存じます」

「分かっておる。家臣の前ではこのような話はせぬさ」

「それが良い分別にございましょう」


 賦秀が宗兵衛を信じているのと同様に宗兵衛も賦秀を信じていた。

 蒲生忠三郎は武辺者と世間では言われているが、宗兵衛の見る賦秀は理性的で頭の良い男だ。感情が激しやすい所はあるが、いかに感情が高ぶっても自分の振舞を客観視できる冷静さも持ち合わせている。

 感情を顔に出す為に人は賦秀を与しやすい男と見がちだが、実際の賦秀は敵に回すと油断ならない男だ。


「いずれは、天下が忠三郎様の御器量を知ることになりましょう」

「そうなると良いがな……。ああ、そうそう。亡き上様に倣って日野城下でも『楽市』を定めることとする。これがその掟書の草案だ。宗兵衛の意見も聞かせてくれるか」

「拝見します」


 差し出された木片には荒々しい字で十二条の条文が書かれている。恐らく草案としてざっくりと考えた物なのだろう。

 おおよその文面は四年前に信長が安土城下に定めた掟書に近い物だったが、その第一条が安土山下町掟書と決定的に違っていた。


 信長が『諸座諸役諸公事()()の事』とした条文を賦秀は『諸座諸役()()()()()()()()()事』としていた。

 つまり、信長の免許と違い、完全に中野城下の市を無税としたのだ。それだけではなく、賦秀は町家にかかる地子税も無税としていた。


「これは……我ら商人を随分と優遇頂きましたな」

「何としても日野に人を呼びたくてな。安土と違い、日野は木椀や茶、武具などの産物が豊富だ。それを買い付けに来る者が増えれば、必然的に人も居付くようになるだろう」


 今風に言えば税制優遇特区とでもいうべきだろうか。

 税が安くなればその市で扱う産物も安くなる。信長が各地の関を廃止したことで織田領内の人の往来は頻繁になっている。そういった人々を日野に呼び込もうというのだろう。


 商品買い付けの為に人の往来が増えれば、それを当て込んで宿や旅用品を売る店も増えるだろうし、それらの商人がまたさらに人を呼ぶことになる。

 信長の楽市令を発展させた賦秀の大胆な経済政策だった。


「結構に存じます。ですが一点だけ」

「どこだ?」

「呉服商売のことも盛り込んで頂きたい」

「呉服商売?」

「左様です。ご領内での呉服商売を日野城下のみとされれば、近郷の者達もご城下に集まりましょう。領内の者にご城下の繁盛ぶりを見せれば、近郷の者達もご城下で商売をしようと考えるのではないかと」

「なるほど。その為には近郷の者達すらも楽市に集まらざるを得ないようにせよということか」

「いかにも」


 しばしあごに手を当てて思案に暮れていた賦秀だったが、やがて条文を一条書き足した。


「分かった。呉服商売はお主がやるのだな?」

「お任せいただければ幸いにございますが……」

「水臭いことを言うな。儂とお主の仲ではないか」


 そう言って笑う賦秀からは、先ほど見せた怒りはすっかり影を潜めていた。

 この切り替えの早いところも賦秀の美点だと宗兵衛は思った。


「年内には形にして発布する。後のことは任せるぞ」

「承知いたしました」


 この後、日野城下掟書は天正十年の十二月二十九日に正式に公布されることになる。

 信長の楽市令は安土城下に商人の定住を促す物だったが、蒲生賦秀の楽市令は旅人を誘致するための物という色合いが強かった。

 言い換えれば、賦秀は他国から来た商人が日野の産物を仕入れて帰ることを狙っていた。


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