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8

 ーーマシロがいなくなった。

 その日、夜までひたすらに待ってみたが、マシロが戻ってくることはなかった。

 朝になったらひょっこり帰ってきているかも、と微かな望みを胸にヤエを抱えて浅く眠り、早々に目覚める。身支度もそこそこに寝室から出てみたが、見慣れた人影はやはりなかった。

(どこに行っちゃったのよ)

 なぜマシロがいなくなってしまったのか、アサキにはまったくわからない。

 書き置きが残されていたのだから、誰かに無理矢理連れ去られたということはなさそうだ。では、自分の意志で出掛けたとして、どこに向かったのか。

 マシロが行きそうなところなど、ひとつも検討がつかない。

(ずーっとお店の中に引きこもってたのに、どこに行けるっていうの?)

 閉じたままの店の中、カウンター奥の椅子に座って、アサキは力なく扉を見つめる。木鈴が今にも鳴るのでは、と思いながら。

 けれど、鈴が揺れることはなかった。

(……静か、だな)

 マシロがいたときだって、別にこの店内は騒がしかったわけではない。

 ただ、彼が客を相手にする静かな声や、棚を整理する気配が絶えず存在していたことが、この店に落ち着きをもたらしていたのだ、ということに気付く。

 自分以外の人がいない店内が、こんなにも寂しいものだなんて、知らなかった。

 遺産修理の仕事も手に付かず、アサキは椅子に座りこんだまま動けなかった。そんなアサキの足元に丸まるヤエは、ときどき店内をぐるりと回る。ヤエなりにマシロを探しているようにも見えた。

 そうして一人と一匹でまんじりと待つ一日を過ごし、また浅い眠りの夜を越える。

 翌朝になると、さすがにただ待つだけなのはアサキの性に合わなくなってきた。

 店を出て、近所の顔馴染みの人々にマシロを見かけなかったか尋ねてまわる。けれど皆、マシロが外に出たことに驚きこそすれ、彼の行き先に心当たりがある者はいなかった。

 店に戻ってきて、またアサキはカウンター奥に座り込む。

(ほんとに、どこに行ったの)

(待ってる、って言ってたのに)

(……好きだ、って言ってくれたばかりだったのに、なんで黙っていなくなったの)

 陽が陰ってくると、思考はどうしても沈みがちになる。

 カウンターに肘を突いて、再び扉をぼんやり見ていたら、ふいに木鈴が揺れた。

「マシロ!?」

 軽やかな音よりも先にアサキの声が響く。

 開きかけた扉を待ちきれずに押し開ける。

「おっと! びっくりしたねえ」

「……おかみさん」

 そこに立っていたのは、ふくよかな体格の総菜屋の女店主だった。期待していた姿ではなかったことに、アサキの肩は自然と落ちる。

「また何か壊れたんですか? 今ちょっと修理の受付できなくて……」

「ああ、そうじゃないよ。ただ、アサキちゃんの様子を見に来ただけさ」

「え?」

「だって、あのこもりっぱなしのマシロがいなくなった、って聞いたからね。アサキちゃん一人でどうしてるかと思って」

 おおらかな笑顔でそう言われて、アサキは固まっていた顔が歪みそうになる。

 とりあえず店内に招き入れて、椅子を勧めようとしたところで、再び扉の木鈴が揺れた。

「アサキちゃん、いるかいー?」

「ご隠居さんっ?」

 続いてやって来たのは、柳老だった。

 短い筒型の帽子を乗せた丸っこい頭がひょい、と覗く。

「ご隠居さん、ごめんなさい。今日はお店を開けてないんだ。ちょっとマシロが……」

「うんうん、マシロ君のことは知ってるよ。今日は遺石を見に来たんじゃない。アサキちゃんの顔を見に来ただけなんだ」

「ご隠居さんまで…」

「おや、柳家のご隠居じゃないか。今日は娘さんのお小言はいいのかい?」

「総菜屋のおかみさんもいたのか。おかみさんこそ、そろそろ夕刻の忙しい時間帯だろう」

「あたしはいいんだよ。アサキちゃんの方が心配だ」

「おかみさん。わたしは別に何も」

 アサキは言いかけた弁解を途中で遮られた。女主人の逞しい腕に抱きしめられる、という形で。

「お、おかみさん!?」

 慌てて抜け出ようとするが、女主人はにこやかに笑ったまま腕を緩めない。

「ほら、こうやってアサキちゃんは平気なフリをするからね。ダメだよ。そうやってごまかしてると、そのうち自分が本当はどうしたいのかわからなくなっちまうよ」

「……おかみさん……」

 女主人の腕に顔を隠されて、アサキはぎゅっと目を閉じた。

 腕の中の温かさに、アサキの心は少しずつ落ち着いてくる。マシロがいないことを受け入れられたわけではない。まだまだ心の裡はぐらついているし、どこに向かっていったらいいのかわからない。

 だが、女主人や柳老のように自分を心配してくれる人がいる、という実感はぐらついた心の一端を掴まえてくれた。揺らいだ心持ちでも、その支えがあれば、次の行動に移せる気がする。

「もう、大丈夫だよ」

 そう言ってアサキが顔をあげようとしたときだった。

 ふわん、と周囲が薄い膜に包まれたような気がした。そして。

『やれやれ、ヒトというのは難しいの』

 どこからか、時代がかった台詞が掛けられた。

「え!?」

 頭の中に直接響いてくるその声に、眉をひそめながら周囲を見回す。

 いつの間にか、女主人も柳老も消えてしまっていた。店内は余計な音がひとつもしない。そして女主人のいた背後あたりに、豪奢な衣服の老婦人が立っていた。

「おかみさんのブローチの……!」

『久しいの、娘』

 紫と白が入り混じった髪をきちんと結い上げた老婦人は皺に囲まれた瞳を細める。

 それは、先日アサキが修復した遺石が見せる仮初めの姿。老貴婦人の正体にはすぐに思い至ったが、女主人が持ち帰ったはずの遺石がなぜ今ここで現れるのかわからない。

「どうして貴女がここに?」

『何、些か気に掛かることがあったからの。妾一人ではここまでは来られぬから、持ち主に足を運んでもらった』

「おかみさんにも姿を見せたの!?」

『いいや。並みのヒトには妾の姿は見えぬし声も聞こえぬ。ただ、意識の奥に語り掛けただけじゃ。そして妾の他にも同様のことをしたモノがおるぞ』

「え?」

 女主人と同じく店に来たのは柳老だ。ということは……

『ほら、おぬしも姿を見せたらどうじゃ』

 シドネイアがちらりと紫色の視線を向けた先には、枯れ木のように細くかさついた小さな影があった。

『やれやれ、強引な部品パーツね。ワシは嬢ちゃんが寂しくないようにと、知り合いを呼んだだけで、顔を出す気はなかったのにね』

 ぎしぎしと軋みが聞こえてきそうに身体を伸ばして、その小さな老人もアサキの近くに来る。こちらも元は以前アサキが修復した遺石の幻影だ。

 老人はアサキを見上げると、ただでさえ皺だらけの顔に更に皺を深めてにかり、と笑う。

『久しぶりね、嬢ちゃん。元気にしとったか? あー、今は、元気とはいえんかな』

「……すみませんが、今は貴方たちに関わってる暇はないです。落ち着いたら改めて話を聞くから、今はわたしを元に戻してくれませんか」

『あの者に関することであってもか?』

 何かを含んだようなシドネイアの言い方に、アサキははっとして顔を上げた。

『ほれほれ、そんな意地悪言わんと、嬢ちゃんに教えてあげたらどうかい? そのためにわざわざやって来たんよね?』

 ウィワクシアが水を向けると、シドネイアはふ、と鼻を鳴らしてアサキに向き直った。

『最初に断っておくが、妾はあの者が今どこで何をしているかは知らぬ。ただ、この店から感じたコトを伝えておこう』

「あの者、って、マシロのことなんですよね? 聞きます!」

 シドネイアが何を言おうとしているのか、アサキにはまったく想像がつかなかった。どんなことを言われても驚かない。そう心に決めて、両手をぐっと握りしめる。

『一昨日、非常に波動エネルギーの大きな者がこの店に入っていくのを感じた。波動というのは……ヒトにわかるように説明するのは難しいが、「空人」とそなたたちが呼んでいる存在は、比較的大きな波動を持つ。この店に入ったとたん、波動は寸とも感じられなくなったが、しばらくして、その波動の者と、それよりも更に大きな波動を持つ者が店から出てきた。二人はしばらく進んだところで気配を絶った。その先は妾もわからぬ』

「一昨日って、マシロがいなくなった日……あの日の来客はマキホだけだった。その店に入ったって方は、もしかしてマキホのことですか?」

『最初の者のことは、妾は知らぬ。だが、より大きな波動の者の気配は、妾も知っておる。そなたがマシロと呼ぶ、この店の主だ。以前、店で会うた時はそんな波動は感じられなかったがの』

 シドネイアはそこで口を閉じる。それに続けたのはウィワクシアだった。

『ワシが知っていることとほぼ同じだわね。やたら波動の大きいのが来たな、と思ってたら、嬢ちゃんが出掛けていった。その後、もっと大きな波動が突然湧き上がってきて、二人揃って出ていったんよ。あの波動は、空人っぽいやね。しかもかなり高性能な運行者よね』

 うんうん、と頷くウィワクシアを前にして、アサキの眉はますます険しくなる。

「それはつまり、マシロが……マキホも、二人とも空人だっていうこと?」

 そんなこと、今まで考えたことなかった。

 マシロとマキホのことを、空人のように綺麗だ、と思ったことはある。けれど、“空人”のよう”と“空人そのもの”はまるで違う。

「そんな、まさか、だって二人とも“人”でしょ……? マキホとは普通におしゃべりしたし、マシロなんて、ずっと普通に暮らしてたよ」

 空人は、もっとずっと遠い存在だ。彼らが表情を変えて会話したり、食事したりする姿なんて想像できない。ましてや、店主として客の相手をしたり、家事ができなくて失敗したり、そして、誰かのことを好きになったりするなんてことはーー

「……マシロは、空人なんかじゃ、ない……」

 握りしめた両手を口許に当てて、アサキは低く呟く。

『まあ、あの波動はちょおっとどころでなく規格外だったんよね。だから、実際のところどんな存在なのかは、ワシらにも明言できないのね』

『妾も波動を感じただけで、直に相対したわけではないからの。とにかく言えるのは、その辺りのいざこざに巻き込まれたわけではなさそう、ということじゃ』

『あの波動を持つモノ相手に、滅多なことでは危害は加えられんよ。だから、嬢ちゃんもよけいな心配はしなくていいと思うんよ』

「ということは、マシロはやっぱり自分の意志でいなくなった、ってことだよね。マシロが空人かなんなのかはわらないけど、マシロは自分で決めて、この店を出ていったんだ」

『……えーっと、それは、その……』

 アサキのきっぱりとした結論に、二体の遺石の幻影は言葉を濁して視線を逸らせた。

「お二人とも、ありがとう。わたしのことを気遣っていろいろ教えてくれて。もう、大丈夫だよ」

 アサキは握っていた手を下ろして開いた。

 俯いていた顔を上げる。青緑の瞳は、もう曇ることなく前を見つめている。

『強がっているのではないか?』

 シドネイアの問いに、アサキは頷く。

「うん。もちろん、マシロがどうしてるかわからない不安はあるけど、でもマシロの意志で姿を消したんだったら、闇雲に探してもきっと手掛かりは見つからない。ちゃんと考えないとだめだと思う。そういう方向性がはっきりしたから、大丈夫」

『そうか』

「わたしには、ずーっとぐるぐる考えてるのは向いてないんだよ」

『ほっほー。嬢ちゃんはやっぱり頼もしいの』

『では、今のところはこれで話は終わりじゃが、もしまた何か感じることでもあれば、そなたに教えてやろう』

『ワシも、何かあればいつでも呼んでよ。嬢ちゃんのためならいつでも手伝ってやるんよ』

「それはありがたいんですが、おかみさんやご隠居さんのご迷惑にならない時間にしてあげてください」

 それには、シドネイアもウィワクシアも、軽く笑っただけだった。




 「空人」ーーかつてこの地上で栄華を極めた古代文明の生き残り、と言われている。

古代文明が遺した巨大な空飛ぶ街「浮都」。その最上層が、空人たちの居処だ。ごく少人数でひっそりと長らえる彼らは、下層に暮らす人間たちとは滅多に交流しない。必要がない限りは下層にも降りてこない。

 だから人々が空人について知っていることはとても限定的だ。

 空人は皆が精巧な人形のように整った外見で、下層の人々には、とても似通って見えて区別がつきにくい。全員が二十代くらいの年齢で、性別はあるようだが、彼らがどのように育ち老いていくのかもわからない。古代文明の人々は不老長寿だったという説もあるくらいだ。

 古代文明の遺産を自在に操り、この浮都も彼らのおかげで飛行を続けている。

 すぐ近くで暮らしているはずなのに、ほとんど交わらない存在。それが空人だ。

 だから、アサキも、空人と間近に接したことはない。浮都に暮らす人々が行けるのは第二層までで、第一層と交流があるのは、上流階級や浮都の役人のごく一部だそうだ。

 だから、マシロが空人かもしれない、と言われたからといって、どこへ探しに行けばいいのかはわからなかった。

「第三層(官庁街)の相談窓口で、答えてくれるわけないしねー」

 石塀に両肘をついて、アサキはため息をこぼす。

 塀越しに見えるのは、豊かな緑が続く森林地帯。吹き過ぎる風は爽やかで、心なしか浮都の高度がいつもより高く、速度も速い気がする。

 何もかもがアサキの気分とは正反対で、何となく腹立たしい。

 彼女が今いるのは、いつもの外縁広場だ。

 マシロを探すことに行き詰まったアサキが最終的に思い浮かべたのは、彼と出会ったこの場所だった。

(出会った、というよりは、拾った、って言う方が正しいかな)

 今でもあの時の光景は忘れられない。

 浮都先端の爆発に続いて、空からふわりと舞い落ちてきた、真っ白な姿。流れ溢れる艶やかな髪。アサキの腕の先に、静かに浮かぶ姿ーー

 あれがどういう状況だったのか、マシロに聞いたことはない。

 尋ねてもきっと答えてくれないだろう、と思っていたからだが、もし深く追求してしまったら、彼は答えるよりも姿を消すことを選びそうな恐れもあったのかもしれない。

(あのときマシロは、この上の層のどこかから落ちて来たのかな)

 落ちて、というにはゆっくり過ぎだったが、浮都以外の場所が浮都の上にあるはずもなく。マシロがいたのは、やはり浮都上層部だったのだろう。

「元の場所に戻った、のかな……」

 太陽を背に聳える、砂色の影になった層を見上げながらそう呟いたときだった。

「その通りよ」

 聞き覚えのある声が、憶えのある状況で飛び込んできた。

 ばっと姿勢を正して、声のした方を向く。

 そこには、絹糸のような銀髪を持つ、端整な美少女に見える人物が立っていた。

「マキホ……!」

 シドネイアとウィワクシアの話を聞いた後では、この少女がその外見そのままの存在だとは思えない。アサキは表情も硬く身構えた。

「何しにきたの……?」

「こんにちは。またお会いできてよかった」

 不審を露わにしたアサキの問いかけにも表情を変えず、にこやかに小首を傾げるマキホに、かえってアサキの違和感は強くなる。

「先日はきちんと挨拶ができないままでしたから。せめて私だけでもと思って」

「マシロを連れて行ったのは、やっぱりマキホなんだね」

「帰ることを決めたのは彼自身よ。私は迎えに行っただけ」

「マシロはどこにいるの?」

「知ったところで、アサキさんには行ける場所ではないわ。もう会うこともないでしょうし、ちょっと変わった居候がいたな、とでも思って忘れてちょうだい」

「そんなこと言うなら、どうしてわざわざわたしに顔を見せに来たの?」

「……あら。察しがいいですね」

 マキホは薄灰の瞳を大きくすると、形良い唇の端を引き上げた。

「実は、まだ探し物が見つかっていないのです。やっぱりアサキさんが手掛かりを持っているんじゃないかと思いまして」

「探し物? マシロを探してたんじゃなかったの?」

「一番の探し物は彼だったけれども、もう一つ探しているものがあります。アサキさんは、彼の周囲で大きな遺石を見たことないかしら? 両手のひらに乗るくらいの大きさで、特に装飾は付いていないモノです。色は、そう、貴女のその瞳のような深い紺青と緑よ」

 そう言われて、アサキは目元に手をあてた。それからその手を胸元まで下ろして、上着の前を握る。

 ごく、と息を飲み込んでから、アサキは首を振った。

「そんな大きな遺石は見たことないよ。うちの店の棚には置いてないし、たぶんマシロが隠し持ってたということもないと思う。っていうか、マシロは近くにいるんじゃないの? 本人に聞けばいいじゃない」

「本人は何も語らないので。……そうですか。ご存知ないなら仕方ないですね」

 アサキは上着を握る手をそっと外した。

 その手の下、上着の内側に提げているものに気付かれてはいけない、と思ったからだ。

(もしかして、この欠片が、マキホが探してる遺石の一部かもしれない)

 ーーだが、きっとそれは伝えない方がいい。

 マシロが何も語らないということなら、アサキが迂闊に言うべきではないことなのだ、きっと。

「それでは、失礼しますね。これでもうお会いすることはないでしょう」

「待って!」

「まだ何か?」

「これで最後なら、マシロがどこに行ったかくらいは教えてくれてもいいでしょ!」

「聞いたところで、どうもできない、と言いましたよね」

「それは、あなたたちが空人だからっ!?」

 思わずそう叫んだアサキに、マキホの薄灰の瞳が軽く見開かれた。翻しかけていた身体を、改めてアサキに向き直す。

「彼から聞いていたのですか?」

 意外だ、という様子を含んだ問いに、アサキは言葉を詰まらせてしまった。

 マキホの切り返しは、彼女たちが空人だということは肯定していた。

(……やっぱり、空人だったんだ)

 マシロは自分とは違う存在だった、という事実が、アサキの中で重くのしかかる。

 言葉を返せなかったアサキだが、その無言を肯定と受け取ったらしいマキホは、仕方ない、というように溜息をついた。

「聞いていたのなら仕方ないですね。その通り。アサキさんが“マシロ”と呼んでいた彼は、本来の役割を果たすために、この城の最上層に戻りました。その一帯は、空人の中でもごく一部しか立ち入りできません。ましてやただの人間はその層にさえ行けません」

「本来の役割って……?」

「彼は、この城の運航を管理する最高運営責任者です。彼がいなければ、この城は正常に飛行できません。アサキさんも気付いていたでしょう? このところ雨が多い、と」

 そう言われて思い出したのは、初めてマキホと出会ったときのこと。あの時もちょうどこの場所にいて、雨の話がマキホとの会話のきっかけだった。

「彼がいなくなってから二年。残った我々で運航を続けてきたけれど、そろそろ限界です。やはり彼の回路に組み込まれた機能は特別で他者には代替できそうもない。何しろ彼はーー“天城”(ましろ)ですもの」

 マキホが口にしたのは、マシロの名前のはずなのに、アサキには聞き慣れない音だった。

聞き返そうにも、どう発声したらいいかわからない。

「彼は、この城そのもの。この城から離れてしまっては、存在する意味がない。彼は彼の場所に戻るべきだったのです」

 淡々と続けるマキホの説明は、誤りなどなさそうで、口を挟む余地もなく感じられていた。けれど、そこまで言われたところで、アサキの中の心が大きく弾けた。

「そんなこと、勝手に決めないで!」

「何をですか?」

「マシロの役割がこの浮都を動かすことだけなんてことはないよ! 誰かの存在理由を、他の人が決めてしまうなんておかしい」

「でも、それが私たち空人です」

「そんなの知らない! だいたい、マシロがどんな人だったとしても、わたしはマシロと一緒にいたい。彼の役割が何かなんて関係なく、わたしはマシロを必要だと思う!」

 青緑の瞳をぐっと見開いて、アサキは噛み締めるようにそう言い放つ。

(そう。マシロが空人だって何だって構わない。わたしが一緒に暮らしてきたのは、引きこもりで、家のことにはまったく役に立たなくて、でもわたしのことを待っててくれてる、そういう人なんだから)

 そんなアサキの強い視線に見据えられて、マキホは首を傾げた。何を言っているのかよくわからない、という表情で。

「役割を果たすために私たちは作られています。それを放棄した者を必要とする理由はありません」

 自分の言葉がまったくマキホには通じていない。そのことに、アサキは哀しくなる。

 そして、最初に彼女に対して感じた「人形みたい」という印象を思い出した。

 そう、それはけっして外見が整っている、というだけのことではなかった。この、感情が伝わらないところこそ、彼女がよりいっそう作りモノめいて感じられる部分なのかもしれない。

(……あれ? “作られた”って言った……?)

 けれど湧いてきた違和感を言葉にするよりも先に、マキホは会話を切り上げてしまった。

「さて。これでもういいでしょう。私がお伺いしたかったことは結局わからなかったし、アサキさんに話せることは話しました。短い間でしたが、ありがとうございました。さようなら」

 丁寧にお辞儀をして、くるりと踵を返す。アサキと会話を続ける気はひとつもない、という態度だ。

 アサキの方も、もうあえて引き留めようとは思っていなかった。これ以上マキホを問い詰めても、何も得られないだろう。

 小柄な背中が広場を出るまで、ぐっと見続ける。そして銀色の髪の毛が遠ざかって見えなくなると、はああっ、と大きな息を吐き出してその場にしゃがみ込んでしまった。

 ほんの少しの時間だったはずなのに、とても多くのことを考えたし、気力も振り絞った気がする。精神的な疲労感が大きかった。

 軽く目を閉じて、後頭部を手摺壁にもたれさせる。

 ひんやりとした石壁の冷たさが、頭部の熱を吸い取ってくれるようで心地良い。

 目を閉じてそのまましばらく時間が過ぎる。

 やがて瞼を上げると、青い空と、黒々とした浮都の先端部が視界に入ってきた。

 凸凹と歪に増築された浮都だが、第一層はまだ往時の規則正しさを保っている。空をくっきりと区切る直線は、下層の乱雑さとはきっぱりと分離されているようで、下層の人々との交流を一切拒んでいるようにも感じられた。

「マシロは、あの中のどこかにいるのかなぁ……」

 マキホの言うとおりマシロがこの浮都を動かす重要人物なのだとしたら、きっと第一層の更に奥深くにいるのだろう。

 第一層へどうやったら行けるのか、アサキにはわからない。

 二層までなら、層移動の昇降機で自由に行き来できる。二層と一層をつなぐ昇降機もどこかにあるのだろうけれど、アサキは知らないし、ふらりと行って乗せてもらえるとも思えない。

「いっそのこと、外側から直接入れればいいのにね」

 それはもちろん、ただの思い付きだ。アサキには空人が使う飛行翼もないし、外壁をよじ登るような力もない。そんなことができたらいいな、という程度のつもりだったのだ。

が。


ーー唐突に、ざわざわっとした“声”が、湧き上がった。


 どこから発せられたか確認するよりも先に、胸元が熱くなる。

「……これっ?」

 アサキは慌てて上着の下から細い鎖を引っ張り出した。

 その鎖の先には、孔雀色の遺石の欠片。

 その一つ一つが、とても細かく震えながら、淡い青緑の光を発している。その振動か、あるいは光が原因か。服越しでも分かるほどに熱くなっていた。

 そして、ペンダントとしてぶら下がっていたはずの遺石が、ふわり、と浮き上がった。

 アサキの首が鎖に引かれる。それにつられてアサキも立ち上がる。

「なんなの!?」

 遺石の欠片たちは、アサキの視線よりも少し上まで昇ってしばし留まる。

 光が徐々に強まってきた。

 やがて呆然と成り行きを見ているアサキの前で、ぶわっと青緑の色がひろがる。

 反射的に腕で顔をかばったアサキごと、その光は広場をつつみこんだのだった。

 

 

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