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 顔に暖かい陽射しがかかったのを感じて目を開ける。朝の白っぽい光の眩しさに、目元を腕で隠しながら、カーテンを閉めていなかったっけ?と思ったところで、昨夜のことを思い出して、アサキはばちっと目が覚めた。

 自分の部屋のベッドの上に、アサキはいつもと同じように横になっている。

 ベッドを寄せている壁とは反対側にある小さな窓から差し込む光に照らされた狭い室内は、いつもと特に変わったところはない。

 「今日は疲れたでしょう」とマシロに促されて、昨夜はいつもよりかなり早めに自室に入った。ベッドに横になると、マシロの手がアサキの目許をそっと覆う。

 視界を閉ざされると、触れているマシロの感覚だけに包まれる気がして、その存在感に安心して、アサキはすぐに眠りについた。

 マシロがいつ部屋を出ていったのかはわからない。マシロは眠りが浅く短い性質だから、しばらくの間はアサキの隣にいてくれたのだろうか。

 そう思うと、胸の奥がほんわりと暖かくなって、自然とアサキの頬が緩む。

 階下からわずかに物音が聞こえてくる。マシロが店を開けている音だろう。引きこもりのくせに、毎朝きっちり開店準備をするところは几帳面だ。

 ベッドを抜け出して身支度を整え、アサキも一階に下りていく。狭い階段を出ると、マシロが降り口の手前で待っていた。

「おはようございます、アサキさん。よく寝られましたか?」

 迎えてくれたのは、いつもと同じ柔らかい笑顔。

 の、はずなのだが、いつもより眩しく感じられた。

「お、おはよ……っ」

 かろうじてそれだけ返したものの、それ以上はマシロの顔を見返すのも難しい。

(……う、わ。うわ、うわーっ!)

 次々と浮かび上がってくるのは、昨夜の記憶。

 マシロの落ち着いた声。

 大きな手。

 広い肩に包み込まれた温かさ。

 そっと抱きしめられて告げられた言葉ーー

(だめだ、これ! 無理。恥ずかしすぎる……っ)

 昨夜のことを、なかったことにしたいわけではない。

 けれども、平常心でいられるかどうかは別問題だ。

 耳元を赤く染めて視線を逸らすアサキに、マシロは薄灰の目を細める。そしてそっとアサキの耳許に顔を寄せてきた。

「そんな顔をしていたら、朝からアサキさんを手放せなくなってしまいますよ」

 かすかな吐息がアサキの黒緑石の髪を震わせる。

 その揺れに耐えられなくて、アサキは両手で耳を押さえて後退する。

「……な、な、なにするの……っ!?」

 いっそう顔を赤くしたアサキに、マシロは柔らかな微笑みを向けるだけだ。

 アサキはこんなに戸惑っているというのに、マシロはいつもと変わらない。いや、いつも以上に余裕があるように見える。それがなんだか悔しくて、アサキはむ、と口元を引き下げた。

「朝から揶揄わないでよ!」

「朝でなければいいのですか?」

「朝も昼も夜もダメ! とにかく、お店も開けたんだし仕事するよ!」

 気を取り直して、ぴしりと言い切ると、アサキは自分の作業部屋に向かう。

 そんな二人のやりとりを見ていたヤエが、(ハイハイ)と言わんばかりに小さくなぁ、と鳴いたのだが、二人とも気付かなかった。

 アサキは部屋に飛び込んだ勢いでいくつか預かっている遺産の修理に取り掛かった。いつも通りに修復の仕事を進めたからか、いつの間にかアサキもずいぶん落ち着けていた。

 昼を過ぎたところで、納品の約束があったことを思い出す。

 修理済みの遺産を梱包してカートに入れると、アサキは作業部屋から出た。

 店の奥で在庫の整理をしていたらしいマシロが、物音に気が付いて顔を覗かせる。

「お出かけですか?」

「うん。第三層(官庁街)の管財課に納品に行ってくる」

「では、今夜の夕飯は私が用意してお待ちしておきます」

「ちょっと待って、それはダメ。台所は使うなって言ってるでしょ」

「ですが……アサキさんのお役に立ちたいのです」

 薄灰色の瞳がじっとアサキを見つめる。微笑む口許が「昨夜もそう話したでしょう?」と言っているように感じられて、アサキは言葉に詰まった。

「……じゃあ、総菜屋のおかみさんのところで何か買ってくるから、パンだけ切っておいて」

「ええ、そうします!」

 マシロが、任せられて嬉しい、という笑顔になったのを見て、アサキは仕方ないか、と軽く溜息をつく。

 それに、自分のためを思ってマシロが何かしようとしてくれるのは、正直にいうと嬉しいと感じた。

 今までは後々の面倒な事態を避けたい気持ちばかりだったのに。アサキは自分の心境の変化が不思議だった。

「じゃあ、いってくるねー」

「お気を付けて。いってらっしゃい」

 マシロの穏やかな微笑みに見送られて、アサキは店の扉を押し開く。

「きゃっ!」

 木鈴の軽やかな響きと、小さな悲鳴が重なった。

「ご、ごめんなさい!」

 ちょうどやって来た客と出入りが重なってしまったようだ。アサキは慌てて扉を開き直し、客を迎え入れようと身体の向きを変える。そこでようやく客の姿を目に入れた。

「あれ、マキホ!?」

「こんにちは、アサキさん」

 そこに立っていたのは、人形のように整った容貌の小柄な少女。これで会うのは三度目のマキホだった。

「うちの店に来てくれたの? ようこそ、いらっしゃい」

「お邪魔してよろしいですか?」

「うん。わたしは配達があるから出かけちゃうけど、店には人がいるからゆっくり見ていって。マシロ、お客さん-!」

 店内に向かってアサキが呼びかけると、マキホの肩がぴくり、と動いた。骨董屋に慣れていないと、どんな店員が出てくるのだろうと身構えてしまうのも仕方ない。

「人当たりは悪くないから、平気よ」

 そう言いながらマキホを店内に促す。

「アサキさん、ありがとうございます。いらっしゃいませ。ようこそ、雲上銀紅孔雀商会へ」

 カウンター脇に佇んでいたマシロは、いつものように穏やかな微笑みを浮かべて来客を迎えーー入ってきた少女の姿を目にして、表情が抜け落ちた。

「……マシロ?」

 突然の変化に、アサキの眉が寄る。けれどマキホはそれに気付かなかったようで、小首を傾げてにっこりと笑った。

「こんにちは。探しているモノがあるのですが、お手伝いいただけるかしら?」

「……当店でお役に立てるものであれば」

「こちらのお店なら、私がほしいモノがきっと手に入ると思うわ」

「まずはお話をお伺いしてからですね」

 マシロは店内の小机にマキホを促す。後に続こうとするマシロを、アサキは思わず呼び止めた。

「マシロ……大丈夫?」

「何がですか?」

「何って……なんか、いつもと違う気がする」

「それは、アサキさんの私への気持ちが変わったからではありませんか?」

「っ!? そういう話じゃなくて……っ!」

「大丈夫ですよ。何も変わりはありません。アサキさんはお店の方は構わず、お出掛けください」

「でも」

「先様をお待たせしてしまいますから、ほら」

 アサキに笑いかけるマシロは、いつもと変わらない穏やかさだ。先ほどの無表情は何かの見間違いだったかと思うほどに。

「こちらのお嬢様はアサキさんのお知り合いですか?」

「うん。少し前に外縁広場で知り合って、探し物があるって言ってたから、うちの店を紹介したの」

「わかりました。それでは、アサキさんのお知り合いのお相手はお任せください」

「うん……じゃあ、行ってくる」

 釈然としない気分を抱えたまま、アサキは出掛ける踏ん切りをつける。

「マキホ、ごめんね。今度またゆっくり話そう!」

「ええ、ぜひ。お仕事頑張ってください」

「あとは頼んだよ、マシロ」

「はい。いってらっしゃい、アサキさん」

 マシロの薄灰の瞳が、アサキにだけ分かるように甘く細まる。それが面映ゆくて、アサキはぱっと顔を背けてしまった。

「いってきます!」

 ほんのり熱くなった頬をごまかすように、アサキは勢いよく扉を出て行く。

 背後からマシロが見送ってくれているのはわかっていたから、振り返りはしない。

 軽快な足取りで道を進んでいくアサキは、前方しか見ていなかったのだーーーー




 アサキを見送ったマシロが振り返ると、客の少女は示された椅子には座らず、棚に置かれた雑多な品々を眺めていた。

 それを横目に、マシロはカウンターに陣取っていたヤエを促して奥の階段へ移動させる。ヤエが数段登ったところで、マシロはその階段につながる扉を閉めた。向こう側からヤエの鳴く声が聞こえてきたが、マシロはそのまま店内に戻っていく。

「さて、お客様は何をお探しですか?」

 立ったままのマキホに掛けられたマシロの言葉はいつも通りの丁寧さだが、声からも瞳からもすっぽりと感情が抜け落ちていた。

 一方のマキホはにこやかな笑顔のまま、後ろ手を組んでマシロに向き合う。

 表情は対照的なのに、精巧に整った顔立ちは二人ともどこか作りモノめいて、何か相通じるモノがあった。

 マキホは小さく息を吸って、形良い唇を開く。

「この空の“墓標”を制御コントロールする主集中演算装置(メインCPU)と、その主任運行者マスターコマンダーを」

 朗らかな声が、口調に反して仰々しい単語を告げる。

 それを聞いても、マシロは訝しんだりしなかった。

「それは既に失われたモノですね。当店では取り扱いがありませんので、お引き取りください」

 淡々としたマシロの回答に、マキホは唇の端を持ち上げる。

「私がここまで来ているのだから、はぐらかさないで」

「はぐらかしてはいません」

「だったら、言い方を変えるわ」

 マキホは微笑みをすうっと引っ込めると、薄灰の瞳でじっと店主の青年を見据える。

 そして。

「私と一緒に戻りましょうーー天城ましろ




 滞りなく納品を済ませたアサキは、軽い足取りで第四層の入り組んだ道を歩いていた。

 層移動の昇降機から雲上銀紅孔雀商会までの道のりの真ん中あたりには、常設の市場がある。食品や日用品などすぐに使うものが主な取り扱い品だが、ところどころに珍しいものが紛れ込んでいることもある。なのでアサキは、ここを通るときは、何とはなしに店先を覗いていく。

 そんな中、金物を扱う店先に、若い男女が立ち止まっているのに目がいった。

「えー、これ、かわいいよー!」

「そうかぁ?」

「ほらほら、この丸くなってるとことか!」

 恋人同士なのだろうか。片腕をお互いに組んで寄り添い、店の端に置かれた装飾品をあれこれ見比べている。

 女性の方が熱心で、男性の方はやや仕方なさそうに付き合っている、という街中でよく見かける光景だ。だが、アサキはなぜか見入ってしまう。

「じゃあ、こっちは? 二つあるし、お揃いにしようよー」

「オレはいいよ」

「えー、いいじゃない」

 小さな腕輪を二つ持ち上げて品定めする女性を、呆れつつも優しい眼差しで見つめる男性。その様子に、アサキの胸の奥が揺れる。

(二人で一緒に買い物か……)

 こういう場にマシロがいたらどういう態度になるのだろう。

 店で骨董品の遺産を扱っているときと同じように、あれこれと品物の説明をしてくれるのだろうか。

 それとも、あの穏やかな瞳と微笑みで、ただ見守っていてくれるのだろうか。

(……って、何を考えてるんだろ、わたしは。そもそも、あの引きこもりが市場になんて出掛けてくるわけないのに!)

 今まではこんなことを考えたこともなかったのに、急に思い浮かんでしまったこと自体に戸惑って、アサキは頭を振ってそれを追い出そうとした。

 いつの間にか若い男女は店先からいなくなっている。

 アサキはその後に立って、つい店頭の品を覗き込んでしまった。

 先ほどの女性が手にしていた腕輪の他、小振りな装飾品がいくつか無造作に置かれている。遺産のように価値があるものではないが、市場の端で売られているにしてはなかなかの細工だ。

「どうだい、お嬢ちゃん。親戚の職人が作ったのを置いてるんだ。気に入ったのあるかい?」

 金物屋の主人らしき男性が声を掛けてきた。

「……あ、えーっと、ちょっと見てるだけなんで……」

 身を引きかけたアサキに、けれど主人は臆さない。

「他にもまだいくつかあるから出してやるよ。……ほら、これとかこれとかもいいんじゃないか」

 台の下の引き出しからがさごそと取り出して、台上にざらりと広げてくれる。そこまでされると、見ないわけにはいかない。

 気乗りしないまま、広げられた品を流し見していたアサキは、とある品で手を止めた。

「これ」

「ああ、それ。珍しい形だろ? この浮都の形らしい。なんでわさわざそんなものを真似たかね」

 それは、細い金属を組み合わせた歪な三角錐をしていた。掌に隠れるほどの小ささで、内側は何か入れられるように空洞になっている。てっぺんに小さな環が付いているので、首飾り等、何か提げることを考えられているのだろう。

 店主の言うとおり、浮都の形を模したモノは珍しい。アサキも他で見た記憶はない。

特に第四層の勝手な増改築によって広がった浮都は、お世辞にもきれいな外形とはいえない。なので、なかなか装飾品の題材にしようとは思われないのだろう。

「ずっと売れ残ってるやつだから、安くしとくよ。買ってくれたら、おまけにもう一個あげるし」

 店主の手元には、同じ物がもう一つあった。

 これを二つもらっても……と躊躇ったところで、ふと先ほどの男女を思い出した。

(……おそろい、か……)

 頭の中に浮かんできた単語に、ハッと目を見開く。

(いやいやいや、そんな、昨夜あんなこと話したからって、今日いきなりこんなもの用意するのは、先走りすぎでしょ!)

 その、“昨夜のあんなこと”を思い出して、またもやアサキの鼓動が上がる。頬もうっすら熱い。

 そして店の主人はそんなアサキの変化を見逃してくれなかった。

「お、お嬢ちゃん、誰か揃いで持っときたい相手がいるんだね。ほら、ちょうどいいじゃないか。珍しい形だから、他に被ることもないし」

「おじさん、単に在庫処分したいだけじゃないの?」

「いやー、そんなことはないよ。お嬢ちゃんとお相手のことを考えてだね。ほら、二個でこの値段でいいから」

 主人はアサキの手にその飾りを押し付ける。

「わかった。これ、もらいます。……別に、誰かと使うためじゃないから! 何かに使えるかもしれないから、ほっとくのももったいないってだけだから!」

 にやにやした主人に言い訳のように言い募りながら、アサキは支払いを済ませる。

 こうして自分の物となった二つの三角錐の飾りを、アサキは手早く上着のポケットに突っ込んだ。

(マシロに見付かって、何か余計ならこと言われても面倒だし、とりあえず作業部屋に置いとこう。そのうち何かの修理で役立つかもしれないし。うん、きっと何かには使えるでしょ)

 そしてアサキは、店へと向かう足を早める。

 それなりに時間が経ったので、もうマキホは帰っているだろうが、彼女が探していたモノが店にあったかは気になる。経緯を聞いておきたい。

 何より、いつも迎えてくれるマシロの柔らかい笑顔を早く見たかった。




 かろろん、と軽やかな音を立てて木鈴が揺れる。

「ただいまー」

 総菜屋の女主人のところで買ってきた夕飯のおかずをカウンターの上に置きながら、アサキはいつものように声を掛けた。

ーーしかし、いつものようにアサキを出迎える声が聞こえない。

「マシロ? 奥にいるの-?」

 並んだ棚の奥の暗がりを覗いてみたが、そこにも見慣れた人影はない。

「マシロ?」

 自分の声が店内に妙に響く。

 それが店内の静けさを強調していて、アサキは胸の奥がざわついた。

「マシロ? もう二階にいるの?」

 店を放ったまま階上に行ってしまうのは考えづらいが、何か用事があったのかもしれない。

 階段につながる扉の前まで来て、小さく擦るような音に気付いた。それは、ヤエが扉を開けて欲しいときに爪で立てる音だ。

「ヤエ姐さん?」

 扉を開けると、そこにはやはり三毛の猫がいた。アサキの顔を見ると、なあ、と鳴いて珍しく足許にすり寄ってくる。

「ヤエ姐さん、マシロは上にいるの?」

 そう尋ねながらも、アサキはそれは違うだろうとわかっていた。階段上にマシロがいるならば、ヤエはマシロの方に扉を開けることを訴えに行くだろう。

 アサキは足早に階段を駆け上がる。予想通り、二階にもマシロはいない。居間にも台所にも、マシロやアサキの部屋にも。

 彼が朝、用意しておくと言っていたお湯や夕飯の準備もまったくされている気配はない。

「マシロ、もしかして、どこかに出かけたの……?」

 彼がこの家に来てから二年。アサキがどう促しても一度も外に出ることはなかった。それがようやく出かけるようになった、というなら喜ばしいことなのだが、しかし。

 再び一階に戻って、店内をじっくりと見直す。

 店は開けられたままだが、散らかっていたり、ましてや荒らされたような形跡はない。客に品を見せるときに使う天鵞絨張りの浅い木箱は、きちんと手前の棚に仕舞われているし、商談用の小机に出しっぱなしになっている品もない。来客用の茶器も使われた様子はなかった。

(誰かが無理矢理連れ出したわけじゃない、よね?)

 アサキの眉がぎゅっと寄る。何が起こっているのかわからなくて、次にどうしたらいいか、身動きが取れない。

 カウンターの横で立ち尽くすアサキの足元を、ぱたり、と何かがはたいた。

 はっと視線を向けると、ヤエがするりと通り抜けていく。アサキの作業部屋の前まで行くと、扉に前肢を掛けてなあ、と鳴く。

「ヤエ姐さん? ……そうだ、わたしの部屋!」

 普段、マシロがアサキの作業部屋に足を踏み入れることはないから、その中を探すのを忘れていた。

 慌てて駆け寄り、勢いよく扉を開ける。

「マシロ! ここにいるの!?」

……けれど、アサキに応える声はここにもなかった。

 室内は、昼間にアサキが出かけたときのままだった。大きな作業机や素材を詰め込んだ引き出しでいっぱいの狭い部屋には、男性が隠れられるほどの場所はない。

「……ここにも、いない、か」

 そう呟いて、アサキはしまった、と思う。

 口に出したことで、マシロの不在をはっきりと認識してしまった。

 とたんに、胸の奥のざわつきが大きくなる。

 すると、再びヤエが、な、と小さく鳴く。いつもならヤエもこの部屋には入ってこないのだが、今日は何かが違った。

 ヤエは身軽にアサキの作業机に上ると、アサキを呼ぶように鳴く。

「……ヤエ姐さん、それ……!」

 ヤエの横に一枚の紙があるのに気付いていなかった。アサキは駆け寄ってその紙を取り上げる。

 店のカウンターで使っているメモ用紙には、流麗な字で短い文が記されていた。

『ヤエさんをよろしくお願いします』

 たった数個の単語だけで終わる簡素な文。筆跡はマシロのものだ。

「……何、これ。どういうこと?」

 何をどうお願い、なのだ。

 なぜ、お願いされなければならないのだ。

 こんな短い文章では、事態はまったく理解できない。

「こんなんじゃ、ちっともわからないよ、マシロ……」

 小さな紙片を握りしめたまま、アサキは震える声を絞り出したのだった。

 

 

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