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浮都第四層(平民街)の中心部、やや右寄りのあたりにある広場が、定期的に開かれる古物市の会場だ。
もともと小間物を扱う店が多く集まっている広場で、市が開かれる日は周囲の店舗も品物を持ち出して広場に並べる。アサキの祖父も、以前は時折、店の在庫を携えてこの場に参加することもあった。だが、マシロが店主代理を引き受けてからは、そんなことはなくなってしまった。今では、アサキが掘り出し物を探しに訪れるだけだ。
(あの引きこもりに、こんな往来で店を開け、っていうのは無理な話だよね)
雑踏の中をいつものカートを引きながら歩くアサキは、思い浮かんだ青年の姿に溜息をこぼす。
数多の品物が眠る静謐な棚の間に立つマシロは、その端整な容姿も相まって、彼自身が稀少な骨董品のようだ。雲上銀紅孔雀商会の空気にとてもよく馴染んでいて、マシロがそこにいるのは当然のようになっていた。
なので、彼が外に出ている姿は、彼が引きこもっているということを差し引いて考えても想像できない。
(それよりも、良さげな部品はないかな)
交換によく使う配線や基板、動力源になる小さな燃料遺石などを揃えた後で、アサキは今日の一番の目的を探し始める。
(……通信機能は遺石が持ってるんだろうから、それを鏡につなぐ部分に問題があるはずなんだけど、どうやってつないでいるのかが全然わからないんだよね)
件の手鏡を令嬢から預かって、三日ほど経った。
他に頼まれていた修理仕事の合間をみながら、手鏡にも手を付けているのだが、どうもよくわからない。
見た目は普通の手鏡だったが、枠を外してみるとその中には遺産らしく複雑で細かい回路が埋まっていた。その回路の正確な意味や仕組みは、古代文明を担っていた人々にしかわからない。だが、発掘された遺産の研究の結果、いくつかの定型がわかっている。
アサキが記憶している定型と照らし合わせてみると、その回路は何らかの画を映し出すものようだった。鏡だったり、透明な板だったりに、どこかの街の風景やどこかの誰かを浮かべる装置は、時折目にする遺産だ。
それだけなら難しくはない。問題は、“令嬢と婚約者が会話していた”ということだ。
この回路の中のどこに、その通信する機能があるのかが、さっぱり見当がつかないのだ。
回路の中にないのであれば、おそらくは遺石の中に秘められた力なのだろう。遺石の力については、外側からは判別できないが、拡大鏡でつぶさに見ても特に疵が付いていることもなさそうだった。そうなると、残りは回路と遺石をつなぐ配線になんらかの問題がありそうだ、という結論に達する。
それでアサキは、古物市へいつもの仕入れに来たついでに、配線の手がかりになるものを探しているのだった。
各店先に雑多に置かれた半端モノの山を漁ったり、顔馴染みの店主達に聞いてみたりしながら市場をしばらく回る。
だが、小一時間ほどたっても、めぼしいモノは見つからない。
「うーん……そんなに、貴重なモノなのかな……」
いったん帰って、マシロに相談するしかないだろうか。
あの引きこもり青年の手を借りるのは癪な気持ちはあるが、彼の知識が並外れて豊富なのは否定しようがない。
アサキがひと区切り付けて帰る決心をしたときだった。
「あら。アサキさん?」
聞き覚えのある朗らかな声が、やや下方から掛けられた。
振り返った先にいたのは、アサキよりも小柄な少女。細い銀糸のような髪と薄灰色の瞳の、人形のように整った容貌は、つい先日会ったばかりだ。
「マキホ!」
「また会えましたね」
「こんなところでどうしたの?」
「探し物の続きです」
「ああ、古物市なら、何か見付かるかもしれないけど……でも、一人で出歩くのは危ないよ」
マキホは今日も一人きりだった。良い身なりのお嬢さんが伴も連れずに歩いているのはやはり目立つようで、周囲の人々もどことなく遠巻きにしている。
浮都内は治安が悪いわけではないが、それでも市場のように混み合った場所では掏摸や置き引きは珍しくないし、イザコザが喧嘩に発展することもある。騒動に巻き込まれなくても、第四層の道は入り組んでいて、迷う人は跡を絶たない。
「アサキさんだって一人でしょう?」
「だって、わたしは慣れてるから。ここは近所だし」
「アサキさんのお店はこの近くなの?」
「うん。あそこの路地を入ってしばらく行った先にあるよ。正確にはわたしじゃなくてわたしのお祖父ちゃんの店だし、今は引きこもりが代理で店番してるけど」
「引きこもり?」
「あ、ごめん、気にしないで! ちょっと店内にこもってるけど、骨董屋としての遺石の知識は確かだから! わたしは遺産修理が専門だから、お店はその人が見てるんだ」
「……そうなんですね。私もいつかそのお店にお邪魔してもいいかしら?」
「もちろん。都合のいいときにいつでも顔出して。わたしはいないかもしれないけど、その店番は必ずいるから」
「ありがとう。楽しみにしてるわ」
にっこり笑ったマキホの目元は、やはり雰囲気がどことなくマシロに似ている気がする。
「アサキさんはお買い物ですか?」
「うん。修理に使えそうなモノの仕入れ。もうだいたい集まったんだけど、一つだけ足りないんだよね」
「何か珍しいモノを探されてるの?」
「通信に使う部品がね……この前、別れ際に昇降機のところでちょっと騒ぎがあったでしょ。そのときに依頼された品の修理に手間取ってて」
「先日の……」
ふと、マキホの眉がひそめられた。
「アサキさん。少しいいかしら?」
マキホは周囲を見回して、広場の端にベンチを見つけると、そこにアサキを引っ張っていった。
マキホが何に反応したのかわからないアサキは、とりあえず言われるままに従ってベンチに座る。
「急にどうしたの?」
「差し出がましいかもしれませんが、これはアサキさんにお伝えしておいた方が良いかなと思いまして。先日アサキさんがお知り合いになったご令嬢についてです」
マキホがあの令嬢とアサキが知り合ったことを知っているということは、ある程度のところまで様子を見ていたのだろう。別れてすぐ上層に戻ったわけではなかったようだ。
「少し気になったので、あの女性のことを探ってみました」
どうやって? というアサキの疑問には、第二層は狭いんですよ、と曖昧な微笑みを返される。
「それでわかったのは、あのご令嬢には婚約者はいない、ということです」
「……え?」
「かつては婚約者だという男がいたようです。けれどもその男はあまり性質が良くなかったようで、ご令嬢自身からもご令嬢の家からもいろいろと巻き上げて、最終的にはこの浮都から姿を眩ましてしまいました。もともと、浮都の住人ではなく、地上からの一時滞在者だったため、行方を捜すこともできなかった。お怒りになったご令嬢の父上は、婚約を破棄してご令嬢を家に閉じ込めてしまった」
まったく想像もしていなかった話に、アサキは息をのむ。これが本当の話だとしたら、アサキが預かっているあの手鏡はどういうことだろう。
あの手鏡は、令嬢が婚約者とつながって会話するためのモノではなかったのか。幸せそうにそう教えてくれた令嬢のあの笑顔はーー
眉根が寄って渋い顔になっていたアサキに、マキホは淡々と続ける。
「それ以来、ご令嬢はほとんど外に出ることはなく。家族や使用人以外の者との接触もほとんどないそうです」
「……じゃあ、あの手鏡はどうなるの……? 婚約者の人と話すことができる、って言ってたのに」
「私はその手鏡のことは存じませんが、少なくともご令嬢には、鏡越しにお話しできるような方はいませんでした」
「そんな……」
今まで事実だと思っていたことがひっくり返されて、アサキは何を信じたらいいのかわからなくなっていた。
マキホの言葉が本当だとは限らない。でも、マキホがわざわざ自分に嘘を伝える理由も思い当たらないし、何より彼女の説明が正しければ、あの手鏡に通信機能が見当たらないのも頷けてしまう。
「……教えてくれてありがとう」
「いえ、たいしたことでは……アサキさんは、どうされるおつもりかしら?」
「……まだ、わからない。とりあえず、もう一度あの手鏡をよく調べてみるよ。わたしは遺産そのものを見ることしかできないから」
そうしてアサキは立ち上がる。マキホに手早く別れを告げて、まっすぐに店へと戻る道を進む。いつもよりも早く足を動かしているのに、いつも以上に家路が遠い気がして、アサキの心を焦らせるのだった。
店に帰るまでの記憶はほとんどなかった。
扉に掛けられた木鈴の軽やかな音も耳に入らなかった。
「おかえりなさい……アサキさん?」
いつも通りに柔らかなマシロの声にも返事をしないまま、自分の作業部屋に直行する。
カートの中身もそのまま、脱いだ外套も椅子の背に引っ掛けるだけで、アサキは机上の棚に置いていた手鏡の部品を引き寄せる。
まだ分解したままだったそれを、アサキは慎重な手付きで組み立て直し始めた。
古いモノだからか、接合部が緩んでいたり、埃や汚れが溜まっている部分がある。それらを丁寧に締め直したり取り除いたりしながら、元の手鏡の状態に戻していく。ーー修復はしているが、新たな機能は追加していない。
やがて、外側の汚れも落としてきれいになった手鏡を、アサキは机の上に戻した。
鏡の上部と持ち手の付け根部分には、青味のある黄色の丸い遺石が静かに嵌まっている。
遺石燈の光に照らされて、その表面は何層にも色が重なるような深みを弾く。その輝きの中でときどき、微かに細かな何かが揺れるような動きが混じるのが、見ている者の心を落ち着かなくさせられる。
アサキは、すうっと短く息を吸うと、作業用の手袋を外した右手をそっとその遺石に乗せる。
しばらくそのまま待っていると、磨き直して曇りがなくなったはずの鏡面が、わずかに揺らぎ始める。やがてその鏡の中にぼんやりと人の形が浮かんできた、と思ったら、すうっと像を結んだ。
表れた像は、若い男性の上半身。洒落た服装となかなか整った男っぽい顔立ち。一部の女性には好かれそうだが、どこか人を小馬鹿にしたような表情には、アサキには親しみは感じられなかった。
その男性の像は、そのまま安定して鏡に映し出されているが、それ以上の変化はない。動きはしないし、もちろん会話を交わすこともできない。
(……やっぱり、通信機能はなかったんだ)
手鏡の機能は修復されたが、もともと持っていなかった機能は追加できない。
それを確認して、アサキの眉が斜めになった。
触れていた遺石から手を外して、アサキは手鏡を布に包もうとする。そのとき。
くらり、と空気が揺らいだ。
はっとして視線を上げると、アサキの仕事場だったはずの周囲が、いつの間にか薄暗い空間に変わっていた。
アサキにとっては不本意ながら、こういう事態にはすでに慣れているので、とっさの焦りは感じない。
ゆっくりとあたりを見回すと、いくつかの人影があるのに気付いた。
(……え?)
青緑色の瞳を見開く。
こういう空間で複数人に遭遇することはあまりない。珍しいこともあるな、と改めて目を凝らし、そして理解した。
(鏡か)
アサキの周囲は、すべて鏡で囲われていた。床も天井も、そして四面ではなく歪な八面ほどになっている壁も、すべて鏡だった。
壁までそれなりに距離があるので息が詰まるほどの圧迫感はないものの、それでも互いに写し合って数を増やしている自分の影に見つめられるのは、あまり気分の好いものではない。
そういえば、この空間に引き入れた遺石はどこにいるのだろう。
鏡を見渡してみるものの、見返してくるのはアサキと同じ青緑の瞳ばかりで、それらしい姿形はない。
「わたしをここに引き込んだのは、何か言いたいことがあるからでしょう?」
とりあえず前方に向かって声を出してみる。すると、鏡全体がゆらり、と揺れた。
『我を修復してくれたこと、礼を言う。娘御よ』
低く暗く聞き取りにくい声は、鏡の空間全体から発せられているように感じられた。
「あなたは、あの手鏡に付いてる遺石ですよね?」
『そう。我はレアンコイリア。画像記憶装置の部品だったモノ』
「画像何たら……ってことは、やっぱりあなたには誰かと通信する機能はないんですか?」
『ない。記憶している画像を求めに応じて写し出すのが、我の役目』
遺石本人ーー本体、というべきだろうかーーに明確に否定されて、アサキはかえって、すとん、と納得できた。
「じゃあ、あのお嬢さんが言ってたことは嘘だったんだ、やっぱり」
騙されたという怒りはなかったが、徒労感は感じて力が抜ける。そんなアサキに、鏡の空間のどこかから再び声が掛かった。
『あの娘は、嘘は吐いてはいない』
「え? でも、あなたに通信機能はないって……」
『そう。だがあの娘にとっては、我は遠く離れた者と意志を通わせられる道具』
「どういうこと?」
『あの娘は、線の細い性質。婚約者と家族の冷淡な仕打ちに耐えられなかった。……心を閉ざし、そしてあの娘にとっての真実を書き換えた。婚約者は仕事で一時的に遠方に出掛けているだけだと。そして、我の中に残された婚約者の画像に語り掛けるようになった。あの娘の中では、我が鏡の中の婚約者は、呼びかけに応えてくれる存在』
「そんな……」
この手鏡を抱えて、幸せそうに微笑んだ令嬢の姿が思い浮かぶ。
あの微笑みは、彼女の心が壊れてしまったがゆえのものだったのか。
実際に彼女にあんな顔をさせられる人物は、現実にはいないのだーー
『我は、もともとあの娘の家にあったモノ。当初は本来の機能どおりの使われ方をしていたが、いつからか娘が我に語り掛けるようになり、そしていつの間にか、あの娘の中で我は婚約者とやらと語り合えるモノに変わっていた』
相変わらず、レアンコイリアと名乗った遺石の姿は見えない。だが、その声だけでも、どことなくこの遺石が落胆しているように感じられた。
『我は古いモノゆえ、十分に機能しないときもある。そういう時が増えるに従って、娘の塞ぎ込みは深くなった。そんな我を修復してくれた。娘御には重ねて礼を述べる』
「わたしは、修復なんていうほどたいしたことしてなくて、ただ汚れを落としたり調整したりしただけで……あのお嬢さんが本当に望んでることを叶えてあげるなんてことはできてないのに」
アサキにしては珍しく、歯切れが悪い言葉しか出てこない。自分でもよくわからないが、気持ちがとても重い。周囲を取り囲む鏡の圧迫感が強まった気がする。
『我は娘御に礼を伝えたかった。それは済んだ。あとはあの娘の元に戻してくれれば良い』
「……あなたは、それでいいの? 本来の機能じゃないことができるように思われたまま扱われて?」
『我をどう使うかは、使う者の自由。元がどうであったかなど些細なこと』
きっぱりと言い切られた内容に、アサキは既視感を覚える。同じようなことを誰かに言われなかっただろうかーー
『娘御も、心に誰かを棲まわせておるな』
「は?」
『ほら、その者の姿が鏡に写っている』
「ええっ!?」
思ってもみなかったことを言われて、アサキは慌てて自分を囲む鏡を見回してみる。
そこには、今までと変わらずアサキの姿しかない。
どういうことだ、と尋ねようとはアサキは声の主をまた探しかけ、そしてふと視界の端に白っぽい何かを捉えた。
見慣れた自分の黒緑石色の髪。その奥に、白く艶やかに輝くのは。
その正体を見極めようと目を凝らしたところで、すうっとあたりの色が薄まった。
『さらば、娘御。その者を大切に』
それが、最後に聞こえたレアンコイリアの声だった。
詳しいことを確認することも尋ねることもできないまま、アサキは鏡の空間から投げ出され、元いた作業机の前で現実の感覚を取り戻す。
机の上には、修理したばかりの手鏡。もうそれが何かに応えてくれそうな様子はない。
「……何なのよ。ぜーんぶ一方的に」
主張してくる遺石は基本的に一方的なモノだが、今回のレアンコイリアは特にそれが顕著に感じられた。
胸の裡が燻ったまま、アサキは手鏡を布に包む。
まずは令嬢に連絡しなくては。そこからひとつずつ片付けていくしかない。そう思いながら。
手鏡の受け渡しは、第二層にある令嬢のお屋敷で行われた。
第二層は上流階級の人々が暮らす層だ。第四層と比べると、建物も道も整っていて空間にも余裕が感じられる。
雲上銀紅孔雀商会でもたまに第二層の人との取引があり、アサキも納品や受け取りに時折この層に来ることがある。とはいえ上品な雰囲気にはどうしても気後れする。
通用門を通って家人に案内されたのは、小さな応接室だった。
落ち着かない気持ちでしばらく待たされて、やがて使用人に導かれて令嬢がやってくる。
先日は制止する使用人を振り切る勢いだったが、今日は無言のまま俯き気味で、ただ使用人に促されるまま長椅子に沈み込む様子は、初対面の時とはずいぶんと異なる印象だ。
アサキのことなど興味なさそうな令嬢の態度に戸惑ったものの、令嬢の背後にいた使用人が目線で促してきたので、アサキは用件を進めることにした。
「お待たせいたしました。お預かりしていた品の修復が終わりましたので、お届けにあがりました」
運搬用の小箱からアサキが布包みを取り出したとたん、令嬢の瞳が煌めいた。
「ああ! 旦那様! お戻りになられたのですね!」
つい先程までの無気力さが嘘のように、令嬢は身を乗り出して両手を差し出してくる。
その勢いに気圧されて、アサキは言葉を続けられず、ただ布ごと手鏡を令嬢に渡した。
「ああ、旦那様! お目にかかれるのをお待ちしておりました! こんなに長く顔を見せなかったわたくしをお許しくださいね」
取り出した手鏡に頬ずりして抱き締める令嬢に、アサキの眉は自然と寄ってしまう。声が震えそうになるのを堪えて、修復内容を淡々と伝える。
「この手鏡の機能は、どこも壊れてはいませんでした。なので部品の交換等は行っておりません。ただ、古いものなので、細部の埃や汚れの除去と、緩んでいた螺子の締め直しをしています」
令嬢はアサキの説明など聞いている様子はなかった。ひとしきり手鏡を愛撫し終わると、いそいそと手鏡を机の上に置いて、髪や衣服の裾を整え、使用人に声を掛ける。
「どう? 髪も服もおかしくないかしら? ああ、紅玉の髪飾りにしておいた方がよかったかしら。あれは旦那様にお誕生日祝いにいただいた物だったから……」
「大丈夫です。お嬢様はお綺麗でございます」
それを聞いて満足そうに頬を染めた令嬢は、細い手を手鏡の遺石に乗せた。
ゆらりと鏡の表面が揺れて、やがてそこに一人の男の影が浮かぶ。とたんに令嬢の声が一段高くなった。
「旦那様! ずいぶんご無沙汰しておりまして、大変失礼いたしました。再びお顔を拝見できるのをどれほど待ち望んでいたことか……まあ、旦那様もそう思っていただいていたのですね。嬉しい!……ええ、そうです。おっしゃるとおりですわ。わたくしもお話ししたいことがたくさん溜まってしまいました。何からお話ししましょうか……」
うきうきと華やいだ声は、途切れる気配がない。傍から見たらただ男の姿が写っているだけの鏡だが、令嬢の心の中ではその男は彼女に優しく語りかけているのだろう。
その様子を目の当たりにして、アサキはもう耐えられそうになかった。
横に向けた顔の中、眉が斜めになって、唇を噛み締める。
そんなアサキの様子に気付いたのか、部屋の隅に控えていた使用人が静かにアサキに退室を促した。
令嬢は周囲のそんなやりとりはいっさい意識に入っていないようで、夢中で鏡と語り合い続けている。
部屋の外に出ると、使用人が申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
「貴女様には、お嬢様の大切な品を修理いただき大変感謝いたします。ご迷惑をおかけいたしましたが、お付き合いいただき誠にありがとうございました。これは修復のお代です。当家当主からも感謝の意を伝えるよう申しつかっております。なお、此度の件については何卒貴女様の胸の裡だけに留めおきいただけますと幸いです」
差し出された封筒は、手鏡の修繕分にしては分厚いものだった。その厚さが、令嬢に対するこの館の人々の態度を物語っていて、アサキは胸奥が嫌な気持ちに覆われる。けれどその封筒を突き返すほどの気力がもう残っていなくて、促されるままに封筒を受け取り、館の通用門を出された。
重い足を引きずるようにして、雲上銀紅孔雀商会に帰り着いたのは、もう陽が暮れる直前だった。
店の扉を照らすうっすら緑がかった黄色の燈火が、無性に目に滲みる気がして、アサキは少し手前で足を止めて瞼をこする。
一瞬ぼやけた視界が戻るのを待つつもりで、そのままぼうっと孔雀の模様が彫り込まれた扉を眺める。いつもは何の躊躇いもなく軽く押し開けるその扉が、今はなぜだかとても分厚いもののように思えた。
扉を開けるための活力を何とか確保しようと、息を大きく吸いこみかけーー
「おかえりなさい、アサキさん」
ふわっと立ち消えるようにあっさりと、扉が内側から開けられた。
カロロン、と軽やかに鳴る木鈴の音色。その向こうに、柔らかな微笑みが立っている。
細められた瞳は、夕陽の残照を弾いて、いつもの薄灰よりもさらに薄く、まるで銀色の欠片を埋め込んだようだ。だが、そこに宿る温かさは常にアサキに向けられるものと変わりはない。
「……なんで、帰ってきたことがわかったの?」
「アサキさんの音がしましたから」
「音? でも、今日はカートは引いてないよ」
アサキお手製のカートは、荷物の運搬にはとても便利だが、車輪の音がそこそこ響く。その音が帰宅の合図になっている、というのならわかるのだが。
「カートがなくても、アサキさんの足音ならわかりますよ」
あっさりと答えられて、いつもならふざけたことを言うな、と切り捨てるはずが、今のアサキには返す言葉が出てこなかった。
無言になったアサキをどう思ったのか、マシロはそれ以上は何も言わず、身体をずらして店内に招き入れようとする。アサキもそれに大人しく従った。
カウンターに運搬用の小箱を下ろすと、いつも通りにカウンターの上で丸まっていたヤエがちらりと顔を上げる。なぁーご、といつもと違ってひと声鳴いて、細長い尻尾がふわりとアサキの頬を撫でた。
それは、ヤエなりに、アサキの様子が違っていることに気付いているよ、というアピールだったのだろうか。
そんなことを思ったら、アサキはもうその場を動けなくなってしまった。
「アサキさん?」
扉の施錠を終えたマシロが、立ち止まってしまったアサキの背後から声を掛ける。そのまま静かにアサキの隣に回ってきて、そっと顔を覗き込まれた。
「……上に、行きましょうか」
マシロは多くは語らなかった。
それだけ言って、そっとアサキの肩を押す。
促されるままに細い階段を上がり、二階住居部分の居間に移動した。
居間の隅には、これまた年季の入った長椅子が置かれている。古いが座り心地は十分で、大きさも大人が三人くらい座れそうな余裕だ。
マシロは、アサキをその長椅子の端に座らせると、保温器からお茶を注いできて手渡す。すでにぬるくなりかけていたが、それでもカップを伝わってくる熱は強張っていたアサキの身体を少しだけ緩めてくれた。
マシロは、自分からは口を開かなかった。ただ静かにアサキの右隣に腰掛けて、アサキが口を開くのを待っていてくれた。
隣、といってもアサキとの間には拳一つほどの空きがある。 それは、アサキとマシロの、いつもの距離感だ。逆に、階段をのぼってきたときに肩に添えられていた手の方が今までにない近さだった。
そして左隣には、ヤエが丸まっている。こちらはアサキの脚に触れるほど近くで、ときどき尻尾でアサキの背中を撫でていく。
一人と一匹が、そうやってただアサキを待っていてくれたおかげで、次第にアサキの心の内側は波立ちが弱まっていった。
「……マシロは、気付いてたんだよね。あの手鏡のこと」
「……そう、ですね。あの鏡に付いていた遺石に通信機能がないことは、最初に見せていただいた時にわかりました。あの遺石は北森氷洞産が多いのですが、基本的には画像処理や動画処理に用いられるものです。通信のためには硅晶渓谷あたりの遺石が必要です」
こんな時にも詳しい解説を付けてしまうあたり、マシロはやはり骨董屋の店主に向いているのだろう。そんなことを思ったら、なんだかおかしくなってきた。
令嬢宅での出来事をかいつまんでマシロに説明したところで、アサキはぽつん、と呟く。
「わたしは、余計なことをしちゃったのかな」
いったん口に出してしまったら、今までもやもやと抱えていた暗い気持ちが止まらずに溢れ出てきてしまった。
「あの手鏡を直しちゃったから、あのお嬢様はまた自分の思い込みの世界にのめり込めるようになっちゃった。わたしは、おかしくなってるお嬢様を直すのとは真逆のことをしちゃったんだ。……わたしは、ちょっとくらい遺産の修復ができるからって、いい気になってたんだ。余計なお節介かもしれないことに口を出して、かえってあのお嬢様にも屋敷の人たちにも迷惑かけてたんだ……」
肘をついた両手に顔を伏せて、アサキは重く湿った息を吐き出す。被さった黒緑石色の髪が細く震えだす。
すると、アサキの手首に温かい手がそっと添えられた。
「アサキさんがすべて決めつけてしまうことはありません」
柔らかいながらも凛とした響きに、アサキは伏せていた顔をそろりと上げる。
いつの間にか、アサキの正面にマシロが跪いていた。アサキの手首を優しく掴んで、ゆっくりと腕を下ろす。膝の上に戻された手は、マシロの大きな手に包まれたままだ。
「アサキさんの行為が余計なことだったかどうかは、私にもわかりません。そのご令嬢が我に返って辛い現実と対峙するのと、いつまでも幻想の中にいつづけるのと、どちらがより望ましいのかは、誰にも判断できません。けれども、手助けしたい、と思ったアサキさんの気持ちが、間違ったものだったとは、私は思いません」
薄灰色の瞳が、アサキの瞳をまっすぐに見つめている。
「でも、その手助けしようって気持ちが、問題だったわけで……」
「いいえ。実際の行動については振り返るべきこともあるかもしれませんが、手助けしたい、というその気持ち自体を否定することはありません」
「気持ち……」
「役に立ちたいと思う気持ちは、人間になら誰にでも、いいえ、人間以外にもあるものです。ヤエさんがさきほどから付き添っていてくれるのも、きっとアサキさんを想ってくれてのことですよ」
なぁ、と左隣から小さな声が聞こえた。それが同意の合いの手のようで、三毛色が触れている暖かさが脚からじんわりと広がってくる。
「ヤエ姐さん」
「それに、私にも同じ気持ちはあります。私もアサキさんのお役に立ちたいと、いつでも想っていますよ」
「それは……知ってる」
『アサキの役に立ちたい』ーーその言葉と共に為されたいくつかの行動と、その後に待っていたアサキの苦労が脳裏に呼び起こされて、アサキは思わず苦い笑いを浮かべた。
その表情で、アサキが何を思い起こしているか悟ったのだろう。真剣だったマシロの顔にも、少し気まずい色が加わる。
「まあ、実際にお役に立てているかどうかはこの際、脇に置いておいてですね……」
「……ううん。確かに、マシロには困らされることもいっぱいあるけど。でも、マシロがいてくれるから、助かってくれてることもあるよ」
「本当ですか?」
「うん。まず、マシロがいてくれなきゃ、お祖父ちゃんが旅に出ちゃった後に私一人でこのお店を続けることはできなかっただろうし。ヤエ姐さんもすごく懐いてるし。それに、帰ってきたときに、”おかえり”って迎えてくれると、わたしも安心する……」
「アサキさん……」
アサキの手を包んだままだったマシロの手に、力が加わった。
あれ? そんな特別なことを言ったっけ? と自分の発言を反芻して、最後の言葉に自分で引っかかった。
(安心する……? うん、確かに、さっき帰ってきた時は、マシロに”おかえり”って言われて、すごくほっとしたんだ。そして、別に落ち込んでいないときだって、マシロに出迎えてもらうのが、当たり前になってて……)
「…………っ!!!」
唐突にそのこと(・・・・)に気付いて、アサキの青緑の瞳が大きく開かれた。
かっと顔が熱くなって、マシロの顔を見ていられなくなって、慌てて顔を逸らす。
本当は握られた手も離して飛び退りたいくらいだったが、マシロの手は意外と力強くて指が抜けなかった。
「アサキさん? どうしたんですか?」
急激なアサキの変化に、マシロは戸惑って顔を覗き込もうとしてくる。だが、今そんなことをされたら、いっぱいいっぱいになってどうしたらいいかわからなくなってしまう。
顔を見られるのを避けたい、けれど両手は捕まっている。そんな状況での手っ取り早い手段として、アサキは目の前にあったマシロの肩口にばふん、と顔を埋める。
「アサキさん!?」
さすがのマシロにも、そのアサキの行動は予想外だったらしい。
アサキの勢いに姿勢を崩さないよう気を付けながら、うろたえ気味にアサキに視線を動かす。
「……きだった」
「え? アサキさん?」
「わたし、マシロのこと、好きだったみたい……って、今、気付いた」
肩口に顔をうずめたまま、ぼそぼそと呟いた声は、けれどしっかりとマシロに届いていたようで。
「……アサキさん」
アサキの手を掴んでいたマシロの手が、ゆっくりとアサキの後頭部に回る。
そっと込められる力の具合に心地良さを感じながらも、素直には受け入れ難くて。
「なんか、認めるのはすごく癪なんだけど、でも」
「認めていただけて、嬉しいですよ、アサキさん。私もずっと、アサキさんのことを想っていました」
「……お店での社交辞令じゃないんだよね」
「もちろんです」
マシロのもう片方の手が背中に触れて、ぐっと強く抱き締められる。
大きな身体に包まれる温もりに、アサキもおずおずとマシロの背に腕をまわす。
「どんなアサキさんであっても、私の好きなアサキさんですよ」
「……うん。わたしも、マシロのことはそう思ってる」
お互いの腕に力がこもる。
そんな二人の元から、ヤエが音を立てずに静かに歩き去って行ったのだった。