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アサキは平民街の石畳をカートを引きながらお気に入りの外縁広場に向かって歩いていた。
今は第三層(官庁街)まで、修理で預かっていた品を届けに行った帰りだ。層を移動する昇降機は外縁部にある。外縁広場も、方向は逆になるものの、ここからそう遠くない。
そんなアサキに聞き慣れた声が掛けられたのは、広場の少し手前だった。
「おや、アサキちゃんじゃないか」
「あれ、柳家のご隠居さん!」
馴染みの帽子姿を見かけて、アサキは手を振る。老人の背後には、使用人らしき男たちがいた。柳老はその使用人たちを先に返すと、ひとりでアサキのところに寄ってくる。
「今日も仕入れかい?」
「今日は配達です。第三層に勤めてる人のところまで。ご隠居さんも昇降機ですか?」
「ああ、儂は第三層の会館で昔仲間と会合があってね」
アサキが外縁広場へ行くところだったと聞くと、柳老は散歩がてら、と連れ立って歩き始めた。
外縁広場は、今日も人がまばらだ。浮都が飛行しているのは温暖な地域らしく、吹き付ける風も陽射しも、温かく優しい。
「たまにはこういう所にくるのもいいものだね」
手摺り壁に両手をついて地上を眺めていた柳老が、もともと細い目をさらに細めた。
アサキもその隣で同じように立つ。店で柳老と会話するのは慣れたことだが、外で一緒になるのは珍しい。ふと、前から思っていたことを聞いてみようか、という気になった。
「ご隠居さん。ひとつ聞いてもいい?」
「何だい?」
「ご隠居さんは、遺石についてそれなりに詳しいと思うんだ。なのに、どうしてときどき、こないだの夜星飛石みたいなモノに引っ掛かっちゃうんだろう。マシロは、特定の分野がダメって言ってたけど、どんな遺石だとダメなんだろう?」
かなり率直な問いだというのは、アサキにも自覚はあった。ただ、マシロのようにうまく言葉の綿でくるむ技術はない。答えてもらえないかもしれない、とも思っていた。
案の定、問いかけられた柳老は、細めていた目を大きく開いてアサキを見返す。だが、やがて再びその目を細めた。
「そうだね……ちょっと昔話をしようか」
柳老は地上のどこか遠くを眺めやりながら話し始めた。
「アサキちゃんは、浮都に来る前のことを覚えてるかい?」
「いいえ。お祖父ちゃんとここに来たことは何となく覚えてるけど、その前のことはほとんど覚えてない」
アサキの親がいなくなって、浮都に住んでいた祖父が引き取ることになったのは、彼女の物心がついたかどうかという頃。それ以前の記憶はかなり曖昧だ。
「そうか。儂はね、今でも覚えているよ。まだ地上で暮らしていた頃に見た、浮都の人たちの姿を」
そこで一度、柳老は背後を振り仰ぐ。
空に向かうように積み重なっていく浮都の層の先、空人がいるという先端部分を視界に入れて、また地上に戻した。
「儂は、とある都架の近くの街で生まれ育った。だから、浮都が一時着陸で寄るたびに、いつか中に入ってみたいと思っていた。あれは、儂が十二、三の頃かな。たまたま都架への着陸と慶秋節大祭の時期が重なったことがあった。特別に入都が許可されて、着陸中とはいえ初めて見る浮都内に興奮していた。そして見たんだ。広場を通る空人たちの行列を」
慶秋節祭は毎年秋に執り行われるが、たいていは浮都に住む人々しか参加しない。だが三十年に一度の大祭のときにだけ、空人たちも大々的に加わるそうだ。人形のように整った容貌ばかりの空人たちが、華やかな装いで行列する姿は、きっと幻想のように煌びやかなのだろう。
「今でもはっきりと覚えているよ。行列の中心の輿の上で、特に立派な空人が、大きな遺石を掲げていた。その遺石は、浮都を動かす特別な遺石だそうだ。周囲の見物人たちが言ってただけだから本当かどうかはわからない。ただ、あの行列は子供の心を捉えるには十分だった。とても綺麗な空人の、流れ落ちる水のような真っ白く長い髪。形良い手の中にあった、青緑の遺石。まるで孔雀の羽根みたいに複雑な色味で、陽射しに輝いていた」
アサキはまだ慶秋節大祭を見たことがない。だが、柳老が語る様子で、どれほど魅力的なものなのか十分に伝わってきた。
「そして儂は痛烈に思ったんだ。いつか自分もこの浮都の住人になりたい。そして、空を飛べる遺石を手にしたい、と」
「浮都の住人になる、というのは叶ってるよね。遺石の方は……」
「アサキちゃんも知っての通りさ。空を飛ぶどころか、物を浮かせる力がある、と言われて手に入れた遺石を、君たちの店に持って行っては偽物だと言われ続けている。だが、何回騙されても、なかなかダメだね。浮かせる力がある遺石、と言われただけで、どうしても判断が鈍くなってしまう。娘にも『もう諦めろ』とたびたび言われてるんだがね。もうね、これは隠居者の道楽と言われてもしょうがない。のんびり気長に探してみるさ」
柳老は肩をすくめて笑う。その笑顔は、自分自身を笑っているようで、でもどこか悪びれた様子がなかった。
「さて、これで年寄りの長話はおしまいだ。付き合わせて悪かったね」
「ううん。わたしから質問したんだもん。答えてくれてありがとう」
「いやいや。儂はもう帰るが、アサキちゃんはどうする?」
「あ、わたしはもう少しここにいるよ」
「そうか。気を付けて帰るんだよ」
にこやかに去っていった柳老の姿が見えなくなって、アサキは手摺り壁にもたれると大きな息を吐き出した。それから、首に掛かった細い鎖をゆっくりと引っ張る。ふだんは服の下に隠れているペンダントが引き出されてきた。
ペンダントヘッドは、真鍮色の細い金属で編まれた小さな籠の形をしていた。そしてその籠の中には、砕けた断面がそのまま残る遺石の欠片がいくつも入っている。
ペンダントヘッドを持ち上げて陽光に照らす。深い紺青と緑が入り混じった籠の中の遺石は、尖った断面が光を弾いて複雑に煌めいた。
(大きめの欠片だけ、つい持ってきちゃったけど、これが何の遺石かはまだわかんないままなんだよね)
この遺石を拾ったときの、引き絞られるような“声”。
あの外縁広場に残していくのは忍びなくて、とっさにポケットに入れてきた。その後もなんとなく気になって、結局ペンダントに加工して持ち歩いているが、もう一度この遺石の“声”を聞くことはなかった。
(どうしても浮都に来たくて、どうしても特定の遺石が欲しかったご隠居さん。それに対して、こっちはたぶん誰かに捨てられた遺石と、そして、マシロ。……マシロは、浮都から出て行くつもりだったのかな)
あの時アサキがいなければ、もしかしたらマシロの身体は広場から外れて、浮都の外に落ちていっていたかもしれない。
(まあ、今さらこの遺石について、マシロに聞くのもなんだし)
遺石を拾った直後は、マシロ自身の扱いをどうするかの方が大問題で、ポケットに入れた遺石のことなどしばらく忘れていた。そのまま質問する機を逃してしまって今にいたる。
(もう二年か……)
この遺石を拾って。
そして、マシロを拾って。
あの引きこもりの青年との生活にも、アサキはいつの間にか慣れてきてしまった。
だからといって、拾いモノのことを理解しているか、というとそれは別問題だ。
なぜ、あんな場所で拾うハメになったのか。遺石だけでなくマシロの事情もアサキは知らないし、こちらから質問するのもなんとなく憚られた。
(聞いたところで、マトモな答えが返ってくるとも限らないけどね)
穏やかな笑顔と柔らかな物腰に覆われて気付かれにくいが、マシロの内面は一筋縄ではいかない。彼自身に伝える意志がない事柄は、質問したところで適当に躱されるだけだろう。また、そういう話術はうまいのだ。
(そういう話の巧さが、お客さんへの遺石の説明に役立ってるところはないこともない)
引きこもってばかりのマシロが、それでもどうにか店長代理を務めているのは、あの話術のおかげもあるのだろう。
「さて。帰るか」
答えのない物思いを切り上げて、アサキはもたれていた手摺り壁から身体を起こす。ペンダントヘッドを改めて服の内側に戻し、それから改めて浮都の細い道を歩き始めた。
カロロン、という涼やかな音を背中に、アサキは店の扉を閉めた。
「ただいま」の声には、いつものようにカウンター上に陣取ったヤエが三色の長い尻尾のひと振りで応えてくれる。少し遅れて、店の奥から響きの良い「おかえりなさい」が届くのも、その後に穏やかな笑顔のマシロが現れるのもいつも通りだ。その変わらなさになんとなく安心して、アサキはほっと小さな息を漏らす。
「お疲れさまでした。意外と時間がかかりましたね。第三層は混んでいましたか?」
「ううん。途中でご隠居さんと会って、立ち話してたから」
「ご隠居様は、先日の石の件はまだ気にかけてらっしゃる風でしたか?」
「どうだろう。そんなに気にしてる感じじゃなかったかな。気長な道楽、って言ってたし」
「そうですか。……もし、あまり気にかけておられるようなら、この店にある別の遺石をご案内しようかと思ったのですが」
「え? 空を飛べる遺石って、うちの店にもあったんだ!?」
「おや、アサキさん。ご隠居様が拘っている遺石が何か気付いたんですか」
「あー、うん。さっきご隠居さんといろいろ話しててね……それより、うちの店にもあったの、飛ぶ遺石?」
「人を浮かせるほどのモノはありません。そんな力があるのは、空人の飛行翼くらいです。しかし、物と床面との摩擦を減らして、浮いているように滑らせられる遺石なら、在庫がありました」
「うーん。それはそれで面白そうな遺石だけど、たぶんご隠居さんが欲しいものとは違うんじゃないかな」
「ええ。なので、ご隠居様が特に気にされていないようでしたら、こちらからお勧めはしません」
それに頷いて返して、アサキは自分の作業部屋に向かった。
カートを扉脇の定位置に収めて、自分の椅子に座る。次の修理はどれだっけ、と机上を眺め渡したところで、道具箱の横に置きっ放しになっていた丸い鉱石が目に入った。
遺石燈の白い光に照らされるその石の表面は、透明な層と奥の濃紺の二種類の光を弾く。それは、遺石と比べたら単純な輝きだ。
「こんなにわかりやすいのに、騙されちゃうんだもんな」
自分もいつか、そんな風に何かに盲目になることはあるのだろうか。
そうなったら、それはとても怖いことのような気がする。
そんなことを思いながら、アサキはその石を手のひらに乗せてみた。
その瞬間、再び周囲の光景が一変した。
また、静謐な夜空に取り囲まれている。
「!?」
二度目だったので、今度はまわりを確かめるとか悠長なことはせずに、アサキは慌てて石を手放す。
カツン、カラン、と机を転がる石の音に、アサキは元の空間に戻れたことを実感した。
「……なんなの、この鉱石? 遺石じゃないのに、どうしてこんなことするわけ?」
近くの引き出しから薄い手袋を取り出して嵌めた。それからピンセットで鉱石を慎重に持ち上げる。角度を変えながら遺石燈に透かして、丹念に探る。
やがて、燈灯の光が強く弾かれる場所があるのに気が付いた。
拡大眼鏡を掛けて、その場所をより詳しく見る。
そこは、透明な層の結合部だった。
「これ、開けてみるか……」
透明な層に包まれた中の鉱石を直接見てみれば、何かわかるかもしれない。
超硬度の遺石の粒が練り込まれた小さなナイフを、その接続部分に当てる。慎重にナイフを動かして、繋ぎ目を剥がしていく。
刃先が爪の先ほど進んだところで、硬いモノに阻まれた。このナイフより硬い鉱石はまずない。アサキは眉を寄せたまま、ナイフを左右に動かす。
やがて、ぱきっと軽い音を立てて透明な層が欠ける。一カ所割れるとあとは簡単で、ぽろぽろと剥がれるように透明な層は外れていく。
剥がれた透明な層の内側には、何らかの塗料とみられる濃紺の色素が付いている。そして後に残ったのは。
「……やっぱり」
当初の石よりもひとまわり小振りな球体は、同じ濃紺でもより複雑な反射をして、角度によって微妙な色の変化をする。わずかな凹凸も感じられないつるりとした滑らかさなのに、その色の多彩さは、まさに遺石の特徴だ。
この色味と比べると、もともと透明な層越しに見ていた紺色は、ぺたりと色を塗っただけの単調なものに見えてくる。
そしてその艶やかな濃紺以上にアサキの目を引き付けたのは、遺石の表面に散る金色の粒。彫り込んであるというよりは、遺石の表層ごく浅くに埋め込まれているようにも見える金の粒たちは、これまた夜空の星のようだ。
単に彫り削った跡に金色を嵌めているのではない。微細な模様が施された金色の極小の粒を埋めて、その上で表面全体を滑らかに整えてある。
どれほどの手間をかけて作られたのだろう。
「すごいな、これ……でも、なんでこんなに立派な遺石を、普通の鉱石で隠してるんだろ」
全体をよく見ようと拡大眼鏡を外したところで、それはまた起こった。
視界が一瞬で濃紺の星空に切り替わる。夜空は今までの二回よりもいっそう広く深く、そして煌めく星はよりはっきりとしている。
(あー、そうだね。手袋なんて、役に立つわけないよね……)
鉱石の層に覆われていても、アサキに幻影を見せられるほどの力を秘めていた遺石なのだ。解放されたら、素手で触れていなくても力を発揮することなど容易いだろう。
諦観を持って夜空に身を委ねていたアサキは、ふとその空間に見慣れないモノがあるのに気付いた。
それはアサキの足先少しのところに踞っていた。
がさがさと荒れた見た目は、古びて朽ちかけた切り株を思い起こさせる。(浮都には古株なんてものはないが、書物の挿絵でならアサキも見たことがある)
その古株が、ぐん、と起き上がった、ように見えた。
『あ~、ようやっと身体が伸ばせる。さすがにあちこち凝り固まっとるわい』
「……え!? 人!?」
急な動きにぎょっとして、アサキの青緑の瞳が一段と大きくなった。
古びた塊だと思っていたものは、伸び上がってアサキの腰丈くらいの大きさの老人らしき形になった。
黒っぽい衣服で、かさついた浅黒い肌には幾筋も深い皺が刻まれ、衣服からわずかに覗く腕も首も枯れ木のように細い。その細い片手を腰に回しながら片手は肩に当てて首を傾げている姿は、普通の老人のようだ。だが、人にしては圧倒的に背丈が足りない。
(人の形はしてるけど、遺石が見せてる幻影だ、これ)
そんな中、周囲の幻影を映し込んだ大きな濃紺の瞳だけが溌剌とした輝いている。
そのぎょろりとした瞳がアサキに向けられると、ニカリっ、と微笑んだ。すると、不気味にも思えた外見がとたんに人懐っこい印象に変わる。
『嬢ちゃん、あんたがワシを助けてくれたんね。ありがとね』
「助けるつもりだったわけじゃないけど……どうしてあんな状態になってたんですか?」
浮いているのか立っているのかもわからない夜空のような空間で、人ではないモノと話し込むのはどうかと思わないでもなかったが、この際だからと割り切ることにした。
『ワシね、もともとは夜間運航飛行艇の主要集積回路の部品のひとつだったんよ。それなりに長年働いて、性能も型も落ちて、もうお役御免になるかと思ってたら、どうも長く頑張りすぎて、他にほとんど残ってない型になってたらしくて、研究も兼ねて記念館に収納されることになった。しばらくして、記念館自体が改修されるときに、あまりにも古すぎるからって、表面だけ化粧直しされたんよね。ワシにしてみたらよけいなお世話だったんよ。閉じ込められるようなものだから。複製品作ってくれた方がよっぽどマシ。で、そのまま更に時間が経って、大異変があって記念館も何もなくなって、埋まってたところを掘り出されて、何人かの手元を移ろって、嬢ちゃんのところまで来たのさ』
「はあ……」
古代文明の頃の言葉なのだろうか、ところどころよく分からない単語も混じっていたが、おおよその経緯はわかった気がする。
「あ! 夜間飛行何たら、って言いましたよね。あなたは空を飛べるんですか? 人を乗せて。もしかして、あなたは“夜星飛石”と言われてるモノ?」
鉱石の層から解放されて、本来の力が発揮できるようになったのなら、柳老が探し求めているものになり得る。
けれど、小さな老人は済まなさそうに首を振った。
『その“夜なんたら”とは、呼ぼれた記憶はないの。ワシは、もともとは回路の中の一部品。専用の回路に組み込み直せばともかく、ワシだけでは大きなモノは飛ばせんのよ。それにさっきも言うたが、もうワシにはほとんど力は残っとらん。せいぜい、落下速度を緩めるくらいかの』
「そうですか……」
柳老には残念だが、それも仕方ないだろう。そもそもこの遺石が飛ぶ力を今も残していたら、きっとどこかで使われ続けていて、詐欺の品として流れてくることもなかったはずだ。
(でも、そう思うと、この浮都を昔から運行している技術ってほんとに凄いんだな。どんな遺石と遺産で動いているんだろ)
『そりゃー、こんな大物を動かしてるのと一緒にされたら堪らんて。この空の城は、回路も部品も運行者の空人も特別仕様だで』
頭の中で浮かべただけのことも、この空間でこの老人には伝わってしまうようだ。
いささかやりにくいな、とも思うが、アサキはこれもまた割り切ることにする。
「そんなに特別なんですか? じゃあ、ご隠居さんが子供の頃に見たっていう遺石と同じようなモノを探すのはやっぱり無理なのかな」
『んー、その見たってのがどんなモノかはわからんが。特別仕様の部品なら、この近くでうっすら気配は感じるの』
「え!? 近く!? もしかしてうちのお店のどこかにあったりする? お祖父ちゃん、どこかに仕舞い込んじゃってたりしてるのかな?」
『そこまではワシにはわからんのー。まだ嬢ちゃんのところに来て日も浅いしな』
「ううん、いいわ。マシロにも話して探させてみる」
最初は驚かされた老人の外見だが、独特の話し方と会話しているうちにどことなく親しみを覚えてきた気がする。
『そうか。じゃあ、そろそろ邪魔も入りそうだし、ひとまずお別れしよか。あ、そうそう。助けてくれた嬢ちゃんには、何かお礼をしないとの』
「べつに助けるつもりじゃなかったから、気にしなくていいですよ」
『いやいや、そうはいかんて。ワシの名はウィワクシア。何かあったら呼んでみて。ワシにできる範囲で、今度は嬢ちゃんを助けに行くからの』
「いや、ちょっと、だから! 遺石の名前なんて預けられても困るんですって!」
そう叫んでも、もう遅かった。
すうっと流れこぼれるように夜空の紺色が消えていく。三回まばたきしたら、すっかり元の作業部屋に戻っていた。
トントントン、と控えめに扉が叩かれる音が聞こえる。
「アサキさん?」
耳慣れた落ち着いた低温に呼び掛けられて、意識も完全に戻ってきた。
「何か用ー?」
立ち上がって扉を押し開ける。そこにはマシロが穏やかな笑顔で立っていて、そして、なぁーと足元で鳴き声がする。
「あれ、ヤエ姐さんも?」
「お茶を用意していたら、ヤエ姐さんが扉前で待っていました。アサキさんを誘いに行ってくれたんですね」
見下ろすと、ヤエはのっそりと立ち去るところだった。ピンと伸びた三色のしっぽが、「アサキが出てきたから、もう用は済んだ」とでも言っているようだ。
振り返ると、机上には先ほどの遺石が無造作に転がっている。
複雑な色を反射する艶やかな表面は、ウィワクシアと名乗ったあの皺だらけの老人の姿とは結びつきにくい。だが、先ほどまでアサキがウィワクシアといた空間を、この遺石が裡に包み込んでいることには納得がいく。
(ご隠居さんにも、マシロにも、何て説明するかな……)
そんなことを考えていたところに、マシロからまた声がかかって、アサキは向き直った。
「アサキさん。お茶も入りましたし、ひと息つきませんか? かなり長く取りかかってましたし」
「え? そんなに時間経ってた? ……って、ちょっと待って。だったら、保温器の中のお湯はもう冷めてるよね。なのにお茶って、もしかしてマシロが淹れたの!?」
「はい。私が用意しましたよ」
それが何か? というように暢気に首を傾げられて、かえってアサキの危機感は強まる。
作業部屋を飛び出して狭い階段をかけ上がり、台所を覗き込んで、力が抜ける。
「やっぱり……」
「アサキさん? 急にどうされました?」
「どうしたもこうしたも、なんでこんなにお茶っ葉が舞い散ってるの…… お湯もあっちこっち濡らしてるし、ほんとに、もう……」
(もしかして、ヤエ姐さんはこの惨状を伝えるためにわたしを呼びに来てくれたのかな)
そんなことを思いながら、アサキは布巾を手に取る。
「アサキさんー? お茶が冷めますよー?」という階下からの声は、当分聞こえないふりをすることにした。
濃紺の遺石は、滑らかな黒天鵞絨に乗せられるといっそう埋め込まれた金粒が映える。木箱の中が満天の星の夜空になったようだ。
アサキに譲ったときと比べて、格段に複雑な色合いになったその遺石を目にして、柳老はほう、と息を吐いた。
「これが、ご隠居様が耳にされていた“夜星飛石”と同じモノかどうかは、あいにくわかりません。仮初めの覆いの内に眠っていたこの遺石は、かつて夜空を行き来する飛行船に載せられていたものでした。表面に埋められた星粒は、夜間航路の道標だったのでしょう。航空士はこの遺石と夜空の星を見比べながら、進路を定めていたようです。長年の勤めの末、役割を終えた遺石は往時の姿を模した覆いに包まれて眠りにつきます。それから長い時が経ち、これが本来は遺石だったことは忘れ去られ、ただの鉱石だと思われてきました。そうしてご隠居様の許へ来たのです」
マシロの滑らかな低音が、暗めの店内に静かに響く。立ち並ぶ棚に置かれた品々の間を通り抜けて、マシロの声には遺産から発せられたかのような重みが加わっていた。
マシロの向かいに座る柳老は、うんうん、と頷きながら濃紺の遺石に見入っている。
「もともと綺麗な石だと思ってたけど、本来の遺石の姿は格別だね。こうやって見れば、儂が気付かなかったのが不思議なくらいに色味の違いが一目瞭然だ。……マシロくん、この遺石は、その、どんな力があるんだろう?」
柳老の最後の問いはいささか躊躇いながらだった。
マシロはそれにやや気の毒そうな、だが優しい笑顔を返す。
「もともとは飛行船を飛ばすのに使われていたので、かなり大型の物を浮かす能力があったようです。しかし残念ながら、外側の覆いを被せられた時点で能力のほとんどを失っていたようで、今は単に鑑賞品とするしかなさそうです」
「そうか……それはそうだろうね。むしろ騙されて手に入れた品の中にこんな綺麗な遺石が隠れていただけでも、儂にとっては奇跡的なことだな」
マシロは、事前にアサキから聞いていた内容を適度に噛み砕いて、そこに彼の知識を加えてわかりやすく柳老に伝えてくれる。
アサキが遺石の“声”を聞ける(ましてやときどきは会話までできる)ことは、秘匿しているわけではないがおおっぴらにもしていない。なので、アサキが遺石から聞いたことは、マシロが調べたこととして客に伝えられることが多い。柳老にも、アサキが石を加工しようとして中に収められていた遺石を発見したことは報告したが、その遺石の由来をどうやって知ったかまでは話さなかった。
だから柳老も、まさかこの遺石の中に枯れかけの古株のような老人が潜んでいるとは思っていないだろう。
このウィワクシアに限らず他の遺石でも、それを黙っているのはどうだろうと思わないこともないのだが、そもそも普通には遺石の中の人格と話すこともないので、まあいいか、ということにしておく。
「ご隠居さん、この遺石返そうか? わたしは今のところ他に使う予定もないし」
脇から控えめに問いかけたアサキに、柳老はしばらく考えていたが、やがて静かに首を振った。
「せっかくの申し出だが、遠慮しておくよ。この石が遺石だと気付いたのはアサキちゃんで、儂の発見ではない。儂は自分が望む物は自分で手にしたいんだ。なあに、今までも、のんびり探してきた。これからもゆっくり探していくさ。いつかそのうち、もっと素晴らしいものを見つけてやるよ」
柳老の目は、まだ見ぬ何かを求める期待に細められる。本人が楽しそうだから、まあいいか、とは思うが、この様子だとまだまだ紛い物をつかまされることになりそうだ。
「そう? じゃあ、これはわたしが預かっとくけど、やっぱり欲しくなったら言ってください」
「いいよ、いいよ。アサキちゃんの好きなように使ってくれて」
「アサキさんが使われないのでしたら、この店の棚に置きましょうか?」
「……それは、なんか嫌だ」
アサキが断ることは予想できていたのか、マシロは軽く肩をすくめただけでそれ以上は深追いしなかった。
「さて、それじゃ、儂は今日はこれで失礼するよ。もし何か面白い物が入ったら、ぜひ教えておくれ」
いつもと同じ台詞を残して、柳老は店を出て行く。
それを見送ってから、後に残された濃紺の遺石をアサキは改めて眺める。念のため手には載せずに木箱に置いたままで。
「……ほんとに良かったのかな、これ返さなくて」
「ご隠居様がいいとおっしゃってるのですから、よかったのではないですか」
「でも、元はかなりの力があった遺石なんだし」
「その力とやらは、あくまでも古代文明が盛んだった頃に必要とされたものです。当時の装置が失われている今では、たいして重要なものではありません。それよりは、持ち主がそのモノに対してどんな意味付けをするかどうかの方が、大切です」
マシロのいつも通りの穏やかな口調ながら、薄灰の瞳にはつい息を止めてしまう強さが含まれていて、アサキはすぐに返す言葉が出てこなかった。
「かつてどんなに大きな力があったとしても、そしてたとえ今もその力が残っていたとしても、その力を使っていた古代文明の人々はもう存在していません。だから、今ここにいる人間たちが、自らの必要に応じて、好きなように扱えば良いのですよ」
「でも、空人は数少ないけど残ってるよ。彼らに本来の使い方を聞けば、より便利に使えるんじゃない?」
この浮都を今も動かし続けている、精巧な人形のような人々。その整った姿を思い浮かべたアサキに、マシロは眉根をほんの少し寄せて微笑んだ。
「……彼らは、遺人にはなりえませんから」
「え? イジン?」
アサキが首を傾げて、マシロは初めてはっとした顔になる。
「いえ……空人も、年月を経ているから、失われている情報も多いと思いますよ。それに彼らはあまり人間の生活に口を出しませんしね。ああ、そうだ、アサキさん。ご質問いただいていた特別な遺石とやらのことですが」
「あ、探してくれた? あったの?」
アサキは、ウィワクシアに言われたことが気になっていて、マシロに該当しそうなモノを探すよう頼んでいた。
「お師匠さんが置いていかれた、在庫品の備忘録なども確認したのですが、それらしいモノは見当たりませんでした。というかですね、そもそもどういう状態が”特別”なのかが私にはわかりませんので、探せと言われてもなかなか難しい、というのが本音です」
「やっぱり、そうだよね。この遺石も、何が特別仕様なのかは教えてくれなかったしな」
そういうアサキに対して、マシロが意味ありげににこりと笑った。
「一番簡単なのは、アサキさんがその遺石に見分け方を聞いていただくことですよ」
「それは嫌だ! わたしは遺石の方から寄ってきちゃうから、仕方なく対応してるだけであって、こっちから近付くなんて冗談じゃないよ」
「そういうものですか?」
「だって、さっきマシロが遺石は本来は古代文明のモノだって言ったことと一緒だよ。遺石と話ができる人が少ないってことは、これはわたしたち人間に本当に必要な能力じゃないんだよ。だから、むやみに使う気はないんだ」
「確かに、遺石については本来の役目を終えているモノだと言いましたが、それと会話できるアサキさんの能力まで否定はしませんよ」
アサキに向けられるマシロの笑みが柔らかくなる。
「アサキさんにとっては必要な能力だから、アサキさんは遺石と会話できるんだと思います」
アサキを丸ごと包み込むような瞳の優しさに、アサキはどことなく落ち着かなくなる。
「……そんなふうにおだてたって、わたしからはこの遺石に聞かないからねっ」
「おだてているつもりはないのですがね」
緩く首を振るマシロにそれ以上は付き合わず、アサキは濃紺の遺石が乗った木箱を持って立ち上がった。
「とりあえず、この遺石はわたしの部屋に置いておくから」
どこか棚の奥の方に片付けて、できるだけ関わらないようにしておこう。
そう思いながら、アサキは自分の作業部屋に向かったのだった。