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2

 なんとか台所を元の状態に復帰させてベッドに潜り込んだアサキは、掛布を肩まで引き上げた。

 浮都の中はほぼ一定の気温が保たれているのだが、それでも浮都が浮かぶ外界の気候の影響を多少は受ける。今夜は寒い地帯の上空を飛行しているようだった。

 ヤエはその日の気分で、アサキとマシロのベッドを行き来している。たいていはマシロの布団に潜り込むことが多いが、今夜はアサキの肩口に丸まっていた。もこっとした毛玉の温もりが、寒い夜にはありがたい。

 寝付きのよいアサキはすぐに眠りに落ちていった、はずだった。

 ところが。

(あれ……?)

 気付くと、一階の骨董品店の中に立ち尽くしていた。

 ベッドに入る前に着替えた寝間着姿のままだが、アサキには一階に降りてきた記憶などない。店の中はいつもより静か過ぎる気がした。浮都の中にいれば常にどこかで感じるはずの、浮都が飛行する気配がない。

 現実と同じっぽいのに、どこか現実から切り離された空間。

(これは……また、かな……?)

 面倒なモノじゃなければいいけど、とアサキは眉をひそめる。

(今日、仕入れてきたものに、そんなに我が強そうな物はあったっけ?)

 作業部屋に並べた今日の成果を思い浮かべながら、店内を見回す。すると、一点が薄ぼんやりと光っているのに気付いた。

 そのあたりの棚に何が置かれていたのかを思い出してアサキの顔が一気に曇った。

「やっぱり、わたしを巻き込んでるじゃないかー!」

 そう叫んでしまうのを、抑えられない。

『やれやれ、騒々しい女子おなごじゃのう』

 やたらと時代がかった台詞が、唐突に頭の中に響く。空気を震わせないその“声”は、力のある遺石が発するものだ。

 誰でも聞き取れるものではないが、アサキには聞き慣れたもので、驚きはしない。

 いつの間にか棚の前に現れていた“声”の主は、ぱっと見たところ、上品な老貴婦人だった。

 古風な形に高く結い上げた髪は、紫色の中に白が入り混じっている。皺の多い顔は、手入れが行き届いているのかくたびれた様子はない。その中の紫色の瞳が、面白そうにアサキを見つめている。ぴんと伸びた背筋も、老人ぽさを打ち消していた。

 そんな泰然とした老貴婦人だったが、どこか違和感がある。

 じっくりと見返してみて、アサキはその違和感の正体に気が付いた。

 老貴婦人の身にまとう雰囲気に、彼女の着ているドレスが合っていないのだ。古風な髪型や喋り方、威厳のある表情には、いっそのこと思いっきり格式張った衣装の方が似合いそうなものだ。だが、彼女のドレスはわりと最近のさっぱり目の型で、しかもどことなく安っぽい感じだ。

 そのちぐはぐさ、髪の色味、そして老貴婦人が立つ場所から連想されるのは、昼間この店にもたらされた古いブローチだ。

「あなたは……」

わらわはシドネイアじゃ』

「いえ、お名前を聞きたかったわけじゃないんですが」

『なんじゃ。せっかく貴重な名を明かしてやったというに』

「遺石の名前なんて預けられても困ります」

 遺石と“声”を交わせる人間は、けっして多くない。そもそも“声”を発せられるほど力のある遺石の数が少ないし、聞き取れる力のある人間も少ない。遺石の名前を知ったところで、役に立つ機会はない。

 が、なんの因果かアサキはかなりはっきりと遺石の“声”を聞くことができる。そして、なにゆえかこの雲上銀紅孔雀商会には、“声”を上げられる遺石がよく集まってくるのだ。

 そのおかげで、アサキはちっとも望んでいないのに、いつの間にか店にやって来た遺石の相手をするハメになる。今夜のように夢の中で呼び出されることもあれば、白昼堂々、話しかけられることもある。

 シドネイアと名乗った老貴婦人姿の遺石は、皺の多い手の甲を上にしてひらひらと振った。

『妾の名を知っても気にすることはない。妾はこの店もそなたも気に入ったぞ。なかなかに心地良い空気じゃ』

「あなたは預かり物だから、ウチを気に入られたらもっと困ります」

『つれないのう。せっかく言葉を交わせるのじゃから、仲良うしようではないか』

「遠慮しておきます。それより何か用があって私を呼んだんじゃないんですか?」

『おお、そうじゃ。久方ぶりに誰かと話しができて忘れておった。そなた、昼間の話を聞いておったであろう』

「あなたが引き出しの中から出てきてしまう、って話ですか?」

『それは妾に気付いてもらうためじゃ。そこは本質ではない』

「あなたが何かを嫌がっている、って方ですか?」

『そうじゃ!』

 シドネイアは、我が意を得たり、とぴしり、と指を立てた。

 いちいち動作が大袈裟だなあ、という感想を、アサキはそっと飲み込んでおく。(ずっとずっと昔からいるモノなのだから、時代がかってるのも、しょうがないのよ)そう内心で言いきかせながら。

「それで、何がお嫌なんですか?」

『妾の姿を見れば、わかるであろ。そなたもおかしいと思わぬか? この薄っぺらくひらひら安っぽい服! こんなものを不本意に着せられて、大人しくしていられようか!』

「ええ、まあ、あなたの雰囲気には合ってないなあ、とは思いましたけど」

『この妾が身に着けるのに相応しいのは、格式に則ったきちんと手間をかけられたものだけじゃ。こんなものをいつまでも着ているのは我慢ならぬ。妾に適した装いに取り替えてたもれ』

「そう言われても、あなたが造られた灰湖跡台地時代の遺産はこの店にはないってマシロが言ってたし、同時代のものは簡単には手に入らないです」

『別に同じ時代のものでなくても構わぬ。造りが良いものであればよい。この店の中には必ずあるはずじゃ。妾には感じるぞ。時を経た逸物の気配が』

 シドネイアはぐるりと店内を見回すと、にやりと唇を引き上げた。

『そなた、探してたもれ』

「……どうしてわたしが、とか言ったところで、たぶん聞いてもらえないんですよね」

 わざわざ寝ているアサキを呼び立てて、姿を見せて要求するくらいには主張の強い遺石だ。アサキの都合など考慮してくれないだろう。

『そなたは、妾の“声”を聞いて言葉を交わせる、よい感覚を持っておる。すぐに良い物を見付けてくれるであろう』

「せめて、どんな物を探せばいいかの手がかりくらいください」

『それは、この店の主が薄々勘付いていそうじゃ』

「マシロが? だったら、直接マシロに言ってくれればいいじゃないですか」

『あの者にも呼びかけたのじゃが、反応がなかった。我らの“声”を聞き取れぬのじゃろう』

 残念よの、と独りごちるシドネイアを前に、アサキは呆れた溜め息をつく。

(まったく、マシロったらこんな時も役に立たないんだから!)

 まあ、そう言ったところで、遺石の“声”を聞ける、ましてや姿が見える人間は非常に少ないこともアサキにはわかっている。わかっているが、遺石の我が儘に付き合わされる愚痴をぶつける相手がほしいのだ。

「……じゃあ、とりあえずマシロに聞いてみますけど。すぐには見付からないかもしれないから、気長に待っていてくださいよ」

『おお、探してくれるか。それなら静かに待っておる。安心せよ、妾は伊達に長生きはしておらん。気は長い方じゃ』

 シドネイアの笑顔にはイマイチ信用がおけなかったが、これで言質は取った。

「それから。あなたはおかみさんからの預かり物なので、台座を取り替えるのはおかみさんの許可をもらってからです。今の台座になったのはわりと最近のことらしいし、おかみさんのお姉さんが、何か考えがあって今の台座にしたかもしれないし」

『それは気にする必要はない。あの娘は、妾をこの空の城に戻すために妾の服を取り替えた。妾がここにいる今、もうこの格好でいなければならない理由はないわ』

「あの娘?」

『妾の前の持ち主じゃ。知り合ったときはまだ娘子だったに、別れるときはもう妾より年老いておった。人の子の時の流れは早いの』

 シドネイアは総菜屋の女主人の姉のことを言っているのだろう。しかし、この浮都に戻すためとは、どういうことだろう。

 首を傾げたアサキに、シドネイアは目を細めた。

『この空の城にいる妹に、他の装飾品に紛れ込ませて渡したかったのだろう。元の服のままでは、妾だけ目立ってしまって、婚家に訝しがられると考えたようじゃ』

「はあ。それで、貴女が不釣り合いな台座に乗せられているのはわかりました。でも、どうしてそんなに貴女を浮都に戻したかったんでしよう?」

『それは知らぬ』

「ええー?」

『あの娘の意図は知らぬが、ただ、あの娘がこの空の城に戻りたがっていたことは知っておる。あれは嫁いで以来、一度もここには来られなかった。時折ひとりになると、妾を取り出しては呟いておった』

 シドネイアの顔が、孫娘を思い出しているかのように柔らかくなる。

 それと同時に、アサキの目の前に、ふわりとある光景が浮かんだ。

ーー若い女性が、両手の上に紫と白の遺石を隠すように乗せて見つめている。その女性の顔立ちは、どことなく総菜屋の女主人と似通っている。

《私はもう浮都に戻ることはないだろうけれど、この遺石はいつか私の代わりに戻してあげられるかしら……》

 そんな“声”が聞こえて、そしてその光景はすうっ、と消えていった。

 残されたのは、胸の奥を焦がし付ける憧憬。幻の中の女性の感情が伝染ってきたようだ。

 アサキは大きく息を吸い込むと、胸の奥からその焦げ付きごとゆっくり吐き出す。

 遺石が伝えてくる記憶や感情を読み取りはするが、それに流されてはいけない。

「……わかりました。良い台座が見つかって、おかみさんの了解が取れたら、台座を取り替えるようにしますから」

『そうか。では、良い服を着られるのを楽しみにしておるぞ』

 唇を引き上げたシドネイアの姿がゆらり、と揺らいだ。

 と思ったときには、アサキの視界もふわりと霞む。

 なぁご、と耳元で聞こえた鳴き声に目を見開くと、そこはアサキのベッドの中だった。横に目をやると、ヤエの三色の毛並みがある。

「ヤエ姐さんが呼び戻してくれたのかな? ありがとう」

 もしかして、アサキが遺石に呼び出されることを察知して、今夜はアサキのベッドに来てくれていたのだろうか。

 当のヤエは、いつもと変わったところなく前脚に顔を伏せたままだったが、細長い尻尾がアサキの肩に乗せられていた。

 室内はまだまだ暗い。朝までには時間がありそうだ。

「……もうひと眠りしてから、いろいろ考え始めよう」

 そう決めて、アサキは再び瞼を閉じる。肩口のヤエの温もりをありがたいと思いながら。




 夜中に呼び出されたせいで、アサキはいつもより起きるのが遅くなった。

 居間にいってみると、マシロの姿はなかった。階下でわずかに気配がするので、もう店に出ているのだろう。

「まったく。引きこもってるくせに、店は律儀に開けるんだから」

 台所に入ってみると、昨夜の残りのパンをマシロが食べたらしい様子があった。そのことに、ついほっ、と息をつく。

(……べつに、心配してるわけじゃなくて、ほら、手のかかる子供が成長してラクになったなぁ、と思う母親の気持ちになってるだけというか)

 誰にともなく言い訳しながら、アサキも軽く朝食をとる。

 階段を下りて店に出ると、やはりマシロは先に店を開けていた。ヤエもおなじみのカウンター上に陣どって丸まっている。

「おはようございます、アサキさん」

 棚の間でいつものように品物の整理をしていたマシロが、下りてきたアサキに気付いた。いつもの穏やかな微笑みに、アサキも「おはよう」といつもどおりに短く返す。

 それから「ちょっと」とカウンター脇までマシロを招いた。

「昨日おかみさんから預かった遺石があるでしょ」

「ああ、灰湖跡台地のものですね」

「その遺石に、昨夜、呼び出された」

「おや……」

「わたしを巻き込むな、って言ったのに」

「私は何もしてませんよ。遺石自身がアサキさんとお話ししたかったのではないかと」

「……ほんっとーに、そう思ってる?」

「もちろん。私にもアテはあると言ってたでしょう。……それより、この遺石はアサキさんに何を訴えたのですか?」

 マシロの態度は本当に何も知らない、という様子だが、イマイチそれをそのまま素直に信じられない。胡乱な目をマシロに向けつつ、アサキは昨夜のことを話す。

「つまり、今の台座が気に入らないんで、自分が気に入るものに取り替えろ、ってことだった」

「そうですか。具体的にどんなものがいいか言っていましたか?」

「ううん。造りがよければいいって。あと、マシロが何か気づいてるだろうってさ」

「私がですか?」

「うん。だから、さっさとマシロのアテとやらを持ってきてよ。わたしに手間かけさせないで」

「……私も、はっきりとした自信があるわけではないのですが」

 そう言いながら、マシロはいったん棚の列に戻ると、さきほど整理していた品物のあたりから何かを手に取った。

 アサキの前で小振りな布張りの木箱に乗せられたのは、件の遺石の他に二つ。金が鈍く光る台座に細かい遺石が散ったブローチと、余計な装飾のないよく磨かれた太めの腕輪。どちらもかなりの時間を経た遺産のようだ。

「こちらのブローチは、灰湖跡台地の時代に近い雪泥花層から出てきたものです。腕輪の方は、灰湖跡台地よりもずっと後ですが、同じ地方のものです。どちらもこの遺石に何らかの関わりがあるものを選んでみました」

 マシロの説明を聞きながら、アサキは出された装飾品を手に取る。二つとも手を掛けて造られたことがわかる良い品だ。それにシドネイアの遺石を重ねてみる。

「……うーん。ブローチも腕輪も、良いものだとは思うし、この遺石とも合わせられないこともないんだけど、なんか、しっくりこないな」

 遺石と装飾品を角度を変えて眺めてみるが、どちらもうってつけだとは感じられない。

「やはりそうですか。アサキさんがそう言うなら、きっとこの遺石にも気に入ってもらえないでしょうね」

「他に候補はないの?」

「実は、あとひとつあります」

「じゃあ、それも出してみてよ」

「いえ、最後の候補はアサキさんがお持ちです」

「わたしが?」

「ええ。昨日の古物市でアサキさんが仕入れてきた、光線レーザー加工の透かし彫りの台座です」

「え? あのブローチの? でも、暁闇大陸と灰湖跡台地じゃ、場所も時代もぜんぜん違うんじゃない?」

「ええ、確かに、ふたつの場所にも時代にも関連はありません。灰湖跡台地の方がかなり古いです。けれど、暁闇大陸の光線加工の技術力は灰湖跡台地の遺石に引けを取るものではありません。お互いの良さを引き立て合えるのではないかと思うのです」

 自信ありげなマシロの微笑みに、アサキは従うことにした。

「わかった。古物市のブローチを持ってくる」

 すぐ隣の作業部屋に置いておいたブローチをとってきて、木箱の中にそっと乗せる。滑らかな黒天鵞絨の上で、そのブローチの台座は落ち着いた輝きを見せた。

 その隣に、シドネイアの遺石を置いてみる。

 そのとたん、アサキには、シドネイアの遺石が淡く光を発したように感じられた。

「……ああ、うん、そうだね」

 思わず声に出して呟いたアサキの隣から、同じように木箱を覗き込んでいたマシロも頷いている。

「ああ、これは、私にも遺石が喜んでいるのがわかります」

 精巧な透かし彫りで豊かな蔓草が象られているブローチの台座と、紫と白が複雑に入り混じったシドネイアの遺石の縞模様は、互いの繊細さを引き立て合っている。まったく異なる遺産のはずなのに、その二つはあらかじめ示し合わされていたかのように雰囲気が調和していた。

「このブローチの台座を気に入ってくれたようですね」

「うん、これなら文句を言われなさそう」

「では、この遺石を、この台座に乗せていただけますか?」

「それにはまず、おかみさんに許可をもらわないと」

「そこは大丈夫。昨日の帰り際に、すでにご了承いただいています。”場合によっては、一部加工することもあります”と。なので、あとはアサキさんのご自由にどうぞ」

「って、簡単に言わないでよ。この台座の細工、半端なく精巧な造りよ。迂闊に加工したりしたら、彫りを壊しちゃう。今では再現できない技術なんでしょ?」

「確かに光線加工の再現は難しいですが、材質自体は白金を素地にしていますから、手を加えることは可能です。細かな修復作業は、アサキさんのお得意でしょう?」

 薄い灰色の瞳が、信頼している、という視線を向けてくる。

 向けられたアサキにとってみれば、単に信頼されているだけではなく、矜持を煽られているような気がする。ーーするのだが、その煽りを受け流すことは、職人としての誇りが邪魔をしてできない。

 なので結局。

「わかったよ。やるよ。他の修理屋に持ち込んだところで、どうせ断られるだろうし。だいたいマシロはこの店に引きこもってて出かけないんだから、他所に持ってく役目もわたしがやらなきゃいけないし。だったらわたしが手がけた方が早い」

 そう宣言してしまっていた。

「ありがとうございます。アサキさん」

 にっこり笑うマシロは、そんなアサキの内心の葛藤など知らなさそうだ。その態度に、アサキはいっそう乗せられた感じがして腹立たしいのだが、仕方がない。

「加工代はこの店からきっちりもらうからね!」

 ぴしり、とそれだけ言うと、ブローチの台座とシドネイアの遺石が入った浅い木箱を抱えて、さっそく作業部屋に向かった。

 店に残ったマシロがアサキに向ける目が、笑いを含んでいるように見えたのには、気付かないことにしておいて。




 作業机の前に座ったアサキが机上の遺石燈ライトを付けると、ふわっとした白い光が天板を照らした。この遺石燈は発掘された遺産を元にアサキが改良したもので、目に柔らかい光ながら、細かな作業に不自由しない十分な光量を発してくれる優れものだ。

 アサキの作業部屋は、数歩四方の小さなものだ。換気のための小窓はあるが、屋外の明かりはほぼ入ってこない。

 部屋の三分の一は頑丈な作業机が占め、その上には遺産修理に使う様々な工具が乗っている。もう三分の一は、交換用の部品や古物市で仕入れてきた半端な遺産を保管する引き出しが埋め、残り三分の一にアサキが座ると、それでほぼ部屋はいっぱいになる。

「さて、と」

 遺石燈の幌を調整して明かりの向きを整える。こちらもアサキお手製の拡大眼鏡を掛けると、まずはブローチの台座を手に取った。

 緻密に立体的に彫り込まれた蔓草は、複雑に絡み合って切れ目がない。かつて遺石が嵌まっていた部分は、ぽっかり空いているだけで、どうやって遺石を留めていたのかわからない。

「この彫りを崩さずに、どこで留めてたのかなぁ。接合剤の痕はないから、台座のどこかで引っかけてたんだと思うけど」

 台座をゆっくりと回しながら、拡大眼鏡で細工を隈なく調べていく。

「……あ、これかな」

 やがて気が付いたのは、遺石を置く凹みの周囲の蔓草が、他とはわずかに形を変えていること。小さな草の葉がところどころ不揃いな向きになっている。

「これで遺石を留めてたのか。うーん、この葉っぱ、再利用できるかな」

 元々の遺石がいつ外れて失われたのかはわからないが、その遺石が外れたのは遺石留めの葉のいくつかが歪んだり潰れたりしたからだと思われる。ここに新しい遺石を入れたとして、その歪んだ葉の彫刻が綺麗に戻るだろうか。しかも、当時の光線加工技術は今の時代には受け継がれていない。使える工具は手で動かすものしかない。

「あ、しかも、よく見たら、こっちの遺石の方が小さいじゃない!」

 取り付け方を考えている合間に、シドネイアと名乗った紫と白の遺石を今の台座から取り外しておく。こちらはごく普通に台座の金属の爪が押さえているだけだったから、何の苦労もない。その取り外したシドネイアの遺石を、光線加工の台座に乗せてみたところで、新たな問題に気が付いた。

 枠より大きい遺石であれば、削るなり磨くなり台座側を広げるなりで合わせることはまだ容易い。しかし遺石の方が小さい場合は、台座側を縮める以外にない。

「この透かし彫りを崩さずに、大きさ調整できるかな……」

 再び台座を持ち上げて、拡大眼鏡のレンズ越しに何度も向きを変えて眺める。そうして全体の構造を立体的に頭の中に叩き込み、どこにどう手を付けるべきかを脳内で何度も模倣する。極細のピンセットや針で、細工の隙間の幅や金属の硬さを確かめながら。

「……よし。たぶん、なんとかなるでしょ」

 十分に方針を検討できた、と思ったところで、アサキはついにそのの台座に手を加えることにする。

「もう少し待っててよね。必ず気に入ったって言わせてみせるから」

 昨夜の我が儘な老貴婦人の姿を脳裡に浮かべながら、アサキは小型の加熱器具を手元に引き寄せたのだった。




「……灰湖跡台地での遺石制作が盛んだった時代、希代の名工と言われた石工が己の技術の粋を集めて作り上げた遺石でした。けれど遺石の出来が良すぎて、それに見合う細工を用意することができなかった。『いつかお前に相応しい細工を見つけてやるからな』。石工はそう言いながら亡くなるまでこの遺石を手放さなかったそうです。遺されたこの遺石はやがて時を経るごとに持ち主を変えていきます。その課程で加工されて台座などを付けられることもありました。でも、自らを生み出した石工の言葉を信じた遺石は、なかなか自分を載せる飾りに満足できませんでした。ーーこの、暁闇大陸の光線加工技術に出逢うまでは。灰湖跡台地とはまったく異なる時代と産地の細工ですが、その繊細な加工技術の素晴らしさと、そして遺石の声を聞ける稀有な技術者の腕が偶然重なって、この遺石の長年の望みを叶えることができたのです」

 柔らかい低音が、淀みなく流れる。その声に聞き入っていた女主人が、ほう、と吐息を漏らした。

「まるで実際に見てきたように話すんだね。それはすべて本当のことかい?」

「さあ、どうでしょう」

「骨董の物語を売るのも、あんたたちの仕事だろうからね……いいわ。本当だろうと創作だろうと、このブローチがとても素適に生まれ変わったのは事実だ」

「気に入っていただけましたか?」

「ああ。こんな立派な形にしてもらって、あたしにはもったいないくらいだよ」

「いいえ。良くお似合いですよ。姉上がおかみさんの元にとお望みだったのですから、おかみさんが身に付けられるのが一番です」

「そういうものかねえ。まあ、とにかく、これならこの遺石も文句はないだろうよ」

 マシロの滑らかな口上に、女主人は若干照れた様子ながらも、嬉しそうだ。

 出来具合を確かめるために、女主人の胸元に留められたブローチは、派手ではないものの重厚な輝きをまとっていた。身につけている女主人自身が、いくぶん誇らし気に見える。

「アサキちゃんも、ありがとうね」

「いいえ。これがわたしの仕事だし……でも、ほんとに良かった? お姉さんが遺してくれた形から変えてしまったのは」

「それなんだけどね。あのあと、改めて昔のことを思い返してみたんだ。で、ふと思い出したよ、この遺石のこと。やっぱり憶えがあった。姉が嫁入りする前に、こっそり見せてくれたことがあったんだ」

 女主人はブローチに片手を添えて、遠い目をする。

「あの時は、台座がもっと古びていて遺石もくすんでいたから気付かなかった。この遺石は、姉がどこかの古物市で見つけたそうだ。当時は姉も遺石の価値は知らなかっただろうね。自分だけのお守りにする、って言ってた」

「お守り?」

 その単語の意味と、先日の夜中に顔を合わせた幻影の老貴婦人の印象が一致しなくて、アサキはつい首を傾げてしまった。

「『私は恐らくもうこの浮都に戻ってくることはないだろう。でも、浮都で暮らしていたことは忘れたくない。私が浮都で見付けたこの遺石は、私が浮都にいたことの証だ』って。実際に、姉が浮都に帰ってきたことは、一度もなかったしねえ」

 浮都の平民街はかなり無秩序に見えるが、住民についてはきちんと管理されている。一時的な訪問はともかく移住には第三層(官庁街)の許可が必須だ。たとえそれが出戻りであっても。

「浮都に戻ってきたかったんだねぇ……姉さん」

 独り言のような呟きに、アサキとマシロはそっと目を逸らした。

 やがて吹っ切れた笑顔で店を出て行った女主人を、アサキとマシロは扉口で見送る。客がいなくなったのを待っていたかのように、店の奥からヤエが出てきて、マシロの足元にすり寄った。マシロはそのヤエを軽く撫でてから、アサキの方にやってくる。

「おかみさんにもご満足いただけましたし、ありがとうございました。私から見ても、とても良いブローチに仕上げていただきました。さすがアサキさんですね」

 マシロの薄灰色の瞳に率直な賞賛を向けられて、アサキはかえって面映ゆい心地になる。

「……あれ、それなりに手間がかかってるんだからね。いつでも簡単にわたしがなんとかするだなんて、思わないでよ」

「ええ、十分に承知しています。今回は遺石がアサキさんを呼んだからですよね」

「そうよ。じゃなかったら、マシロなんかの手伝いはしないから」

「それで、その遺石は、アサキさんの仕事をどう言っていたのですか?」

「あー、うん。誉めてくれた、んだと思う」

 アサキが台座の光線加工の調整を終えて遺石を嵌め込むまでには、丸一日ほどかかった。

 手を付けてしまったらなかなか中断しにくくて、他に急ぎの仕事がなかったこともあって、このブローチの修復にかかりっきりになってしまった。光線加工の細かさと緻密さに、いくらかの苛立ちとかなりの挑戦心をかき立てられて、黙々と作業を続ける。

 ようやくアサキの中で納得のいく仕上がりになったのは、翌日の夜だった。修復済みのブローチはひとまず布張りの木箱に入れて、休息のために自分の部屋に戻る。そのままベッドに潜り込んだ。

 今度は遺石に呼び出されることはなかった。代わりに、遺石の方がアサキの夢の中に訪れてきたのだ。

 眠りの淵と浅瀬をゆうらりと漂っていたアサキの意識の隅に、煌びやかな布地が入りこんでくる。ぼんやりとした意識のまま見上げると、シドネイアのすらりとした立ち姿だった。

 紫と白が入り混じった髪は、先日と同じようにきれいに結い上げられている。そしてその身にまとっているドレスは、この前シドネイアが着ていたものとはまったく違っていた。

 布自体は落ち着いた鈍色だが、そこには蔓草模様の刺繍が隙間なく施されている。銀糸が盛り上がって立体的になり、複雑な陰影を作り出していた。泰然としたシドネイア自身によく合ったドレスだ。

(重そうな服だなー……)

 ぼやっとした意識のまま、そんなことを考え。

(あ、あのブローチか)

 少し遅れて、そのドレスが意味するものに思い当たった。アサキが先ほどまで手掛けていたブローチの台座をドレスにしたら、こんな風になるのだろう。

 そのドレスを優雅に波打たせて、シドネイアが軽く身を屈めた。まるで、横たわっているアサキを覗き込んでいるようだ。

『なかなか気の利いたものに仕立ててくれたの。妾には馴染みのない細工じゃったが、気に入った』

 紫色の瞳が細まる気配を感じる。

『そなた、良い腕を持っておるな。礼を言うぞ』

 ドレスの布地が再びうねる。シドネイアが身を翻したと思ったら、ふうっと姿が薄まった。そのままアサキは夢の続きに戻り、次に気付いたときには朝を迎えていた。

 そんなわけで、一方的に告げられただけだが、誉められたというのに間違いはないだろう。

(まあ、こんな細かい話をマシロにすることはないけどね)

 簡単に応えられたマシロの方も、詳しく尋ねることはなかった。

「あの遺石もあの台座を気に入ったのなら良かった。アサキさんもお疲れさまでした」

「うん、疲れた。もう面倒な品は仕入れないでよ」

「善処はしますが……その遺石が喋るかどうかが、そもそもアサキさんにしか判断できませんからね」

「なんなの、その他人任せは!?」

 にこやかに悪びれない笑顔を見せるマシロに、アサキは思わず声が荒くなる。

 その向こうで、ヤエがなぁ、と小さく鳴いた。『またやってる』ーーその鳴き声にそんな含みがあったかどうかはわからない。

 

 


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