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浮都の第四層、平民街には地図がない。
住民たちが必要に応じて好き勝手に建物の増改築を繰り返す結果、先日まで道があったはずの場所にいつの間にか壁ができていたり、そうかと思えば細い細い塀の隙間を抜けた先にぽっかりと陽射しを浴びられる広場があったりする。だから、余所者が平民街に立ち入るときは必ず住民の案内役を探せ、と言われている。
そんな平民街の入り組んだ路地を、軽やかに迷いない足取りで進む十代後半の少女がひとり。
動きやすい簡素な服に、明るい色合いの飾り紐をところどころに編み込んでいるのが年頃の少女らしい。肩に届く髪は黒緑石のようなつややかさ。ぱっちりした大きな瞳は、孔雀の尾羽のような青緑。この街に住んで十年ほどになるアサキにとっては、入り組んだ街路を歩くことは造作もなかった。
平民街の奥深く、人通りも減ってきた細い道。その上を横切る渡り廊下をくぐって、二軒目の角を右に。他よりもちょっと奥まって、その店はあった。
周囲に馴染む灰色の石造りの壁、使い込まれて黒っぽくなった木製の扉。その扉の上部には、雲の上で尾羽を広げる孔雀の模様が彫り込まれている。
雲上銀紅孔雀商会ーーアサキの祖父が開いた、遺石専門の骨董屋である。
慣れた仕草で扉を押し開ける。カロロン、と扉の内側に付いた木製の呼び鈴が涼やかな音を立てた。
「ただいまー」
扉横のショーウィンドウからしか外の明かりが入らない店内は薄暗い。がっしりした棚がいくつも並び、店の奥は見通しにくくなっている。その棚には、時の経過を感じさせる様々な物が乗っている。
碧い貴石の回りを乳色の小粒の石が囲む指輪、紅と白が斑になった石から削り出された大輪の牡丹の彫刻、鈍く光る真鍮に虹色の貴石をいくつもの嵌め込んだ香炉、向こう側の風景をゆるりと曲げて見せる硝子瓶ーーそれぞれは個性的なのに、この店内ではすべてが馴染んでひとつの空気を作り上げていた。
初めてこの店を訪れた者は、その空気に足を踏み込むことをしばし躊躇う。
もっとも、アサキは慣れた仕草で後手に扉を閉めて、歩みを進めた。
入り口右手の奥に黒檀の小さなカウンターがあり、その上にもこっとした塊が乗せられている。白と赤茶と黒の入りまじった毛に包まれたそれに向かって、アサキは声を掛ける。
「ただいまー、ヤエ姐さん」
のそりと顔を上げたのは、短毛の猫。透き通った琥珀色の瞳をちらりとアサキに向けると、再び前脚に顔を伏せた。長い尾が一度だけぱたり、と振られる。
ヤエという名のこの猫が素っ気ないのはいつものことなので、アサキは気にしない。そのままカウンター左手にある、作業部屋へつながる扉に向かおうとしたときだった。
「おかえりなさい。アサキさん」
店の棚の間から、柔らかい低音が響いた。
「あれ、そっちにいたの? マシロ」
振り返った先に立っていたのは、ゆったりとした長衣を着た背の高い青年。
アサキの髪よりもなお深い漆黒の髪は背にかかるほどの長さ、切れ長の瞳は薄い灰色、滑らかな白い肌の上の目鼻立ちは、彫刻のように整っている。薄暗い店内では、まるで精巧な人形のようだ。
だが、硬い雰囲気は口を開くとどこかに消える。柔らかい声音が彼の全身をふわりと包むのだ。
青年が姿を現したとたん、それまで丸くなっていたヤエがすっと起き上がった。すたり、とカウンターから飛び降りて、マシロの足元に擦り寄り、なぁーご、と小さく声を上げる。
(まったく。ヤエ姐さんったら、マシロには愛想がいいんだからっ)
ヤエがアサキに対して無愛想なのはもう諦めている。アサキがヤエと初めて会ったのはアサキがまだほんの子どもの頃のことで、その時に子分認定されてしまって以来、アサキに対するヤエの態度が変わらないのだ。
けれど、この店に来てたった二年のマシロの方がヤエに懐かれていることには、イマイチ納得がいかない。ヤエに、というよりは、古参の猫をあっさり手懐けるマシロの方に。
足元に身体を擦りつけるヤエに柔らかい笑顔を向けるマシロを、胡乱な目で見つめるアサキに気が付いたのだろう。マシロはヤエに断るようにそっと頷く。ヤエの方も、承知した、というようにすっと身体を離して、展示窓の陽だまりに移動する。それを見送ってから、マシロはアサキに手元の箱を示した。
「午前中にお客様がいらしていたので、お見せしていた品を片付けていたのです」
「お客さん? 柳屋のご隠居さん?」
「いいえ、初めての方でした。どこかでこの店の話を聞いた、とのことでしたが、興味本位のご訪問だったようで、お買い上げには結びつきませんでした」
「ふーん。マシロの売り口上に靡かなかったんだ」
「本気で何かをお探しではない方には、私は無理にお薦めしませんよ」
マシロが手にしているのは、両手を広げて持つくらいの幅の浅い木箱だ。内側には滑らかな黒天鵞絨が張られていて、指輪や腕輪などがいくつか乗せられていた。
そうやって木箱を手に品物を整理するマシロの横顔はすっと引き締まっていて、ずいぶんサマになってきたな、とアサキは思う。
マシロはこの雲上銀紅孔雀商会の店主代理だ。
本当の店主はアサキの祖父なのだが、その祖父は一年ほど前に「各地の遺跡を回って珍しいものを仕入れる旅に出る」と言い出し、店をマシロに任せて旅立ってしまった。
確かに、マシロは遺石やそれを生み出した古代文明についての知識が豊富で、遺石専門の骨董屋にはありがたい存在だ。だが、彼に店を任せるなんて無謀もいいところだと、アサキは我が祖父ながら呆れたものだ。というのもーー
「アサキさんはいかがでした? 何か良い物はありましたか?」
「ああ、うん。それなりには。ざっと見る?」
ヤエがいなくなったカウンターの上に、肩に掛けていた鞄を下ろす。マシロも棚の空いたところに木箱を置いてカウンターに近付いてきた。
「今日は道具系であまりいいものかなかったんだよね。かわりに装飾品は豊富だったかな」
先ほどまでアサキが出かけていたのは、平民街の片隅で定期的に開かれる古物市だった。小さな飾りや日用品から、わりと大型の機材、そして何に使われたのか今ではわからなくなっているものまで、雑多な遺産が集まる市場は、骨董屋にとっても、遺産の修理を生業にするアサキにとっても重要な仕入れ場所だ。
「これはブローチですね。台座の細工の繊細さは光線加工かな。暁闇大陸の工房が有名だったようですが、今では再現するのは難しい技術です。こちらのペンダントの遺石は、なかなかの大きさですね。桜貝色でこの大きさは珍しい。東古中海産のものでしょうか。こちらはまたずいぶん手の込んだペン軸……」
アサキが取り出す品々を、マシロは順に手にとって確認していく。こういうときのマシロには本当に感心させられる。
古代文明を担っていた人々が姿を消してからすでに幾世代も経ち、往時の記憶を探るには遺された遺跡や遺産を手がかりにするしかない昨今。市井の人々は、遺産を使ってはいても、その原理や経緯はほぼ知らないままだ。
けれどマシロは、まるで古代文明が盛んだった往時を知っているのではないかと思わされるほどに、遺産を見定めていく。二十歳そこそこの見た目なのに、その博識さはいったいどこで身に着けてきたのだろう。
白く長い指が遺産を確認していく様につい見入っていたアサキだが、その指がふいにこちらに伸ばされてきて、そっとアサキの髪のひと房を掬ったところで、少女は我に返った。
いつの間にかカウンター越しにマシロの顔がすぐ近くまで寄ってきていた。
その顔は、すぐそばで見ると、本当に造りモノめいた整いかたをしている。
そして、その人形のような薄い唇が静かに言葉を紡ぐ。
「でも、私は、どんな遺石よりも、アサキさんのこの黒緑石のような髪のつややかさの方が美しいと思います」
薄灰色の瞳が細められて、形の良い唇が柔らかく孤を描く。
「……」
それ以上は言葉を続けないマシロに、アサキも無言を返す。
青緑と薄灰の視線が交わる。
それから、アサキは軽く溜息をついた。
「わたしに向かって、お客さん用のお世辞を並べたところで、なんの得にもならないでしょ」
ふる、と頭を振ってマシロの指から毛束をはずし、アサキは仕入れてきたものの整理に戻る。
「……お世辞のつもりはないのですがね」
取り残されたマシロが漏らした呟きも、そんな彼をヤエが尻尾の先で撫でるようにしたのにも、アサキは気付かなかった。
軽く肩を竦めたマシロは、表情を店主の顔に改めて、小さく溜め息を吐き出す。
「しかし、これだけ見事なモノを見出す“目”を持っているのに、どうしてアサキさんが仕入れてくるものはどれもこれも壊れていたり欠けていたりするんでしょうねえ」
呆れている、という顔でマシロが机上を示す。繊細な細工のブローチは中心の石が欠けてぽっかり穴が開いているし、桜貝色のペンダントはその中心の遺石以外は飾りが外れてしまっている。ペン軸のペンを差し込む部分は潰れているし、その他も完全な形を残しているものはない。
しかし、その指摘にアサキは悪びれる気配はない。しっかりと胸を張って答える。
「だって、わたしの仕事には完成品は必要ないから。まだ使えるモノを組み合わせたり補ったりして補修してあげるには、こういうモノたちの方がいいの」
アサキは骨董屋の孫娘ではあるが、骨董屋の仕事にはあまり携わっていない。彼女の主な仕事は、遺産の修繕だ。長年の使用で磨り減って動かなくなった遺産の部品を交換してまた使えるようにしたり、壊れた遺産をつないで新たなモノを作ったり。そうした作業のために、アサキはあちこちの古物市で古い部品を探したり、ときには浮都を出て遺跡の近くを探索したりもする。
「ええ。アサキさんの修復の腕が若いながらにとても素晴らしいのは充分に承知しています。……でも、骨董を求めるお客様はどちらかというと修復されたモノよりも傷が付いていないモノに価値をおかれますからね」
「昔から傷付きも壊れもせずにきた遺産たちは、それはそれでよく頑張ってきたと思うよ。でも、大切に飾り立てて使ってあげないのは、その遺産たちがかわいそうだわ。それにちょっと傷があったり壊れたりしたからって放っておくだなんてしかし、もったいないじゃない!」
「……アサキさんの、そのもったいない精神には常に感心しますが……しかし、せっかくなんですから、ひとつくらいはこの店で扱いやすいモノを仕入れてきていただいてもいいのではないかと」
残念そうに言われて、アサキはむっとなった。
「そんなに言うなら、マシロが自分で仕入れに行けばいいでしょ! ずっとお店の中にばかりいる引きこもり店主なくせに!」
ーーそう。アサキが祖父の良識を疑った理由がこれだ。
この店の中では立派な骨董屋の主人のような顔をしているし、客からも印象良く思われている好青年のマシロだが、彼はよほどの理由がない限り、この店から足を踏み出さない。もっぱら店内に引きこもって日々を過ごしているのだ。
「私はあくまでも店主代理で、本当の店主はお師匠さんですよ」
なぁー、とマシロに同意するかのように、離れたところからヤエが小さく鳴く。
「そんな細かいことは今問題じゃない! とにかく、文句あるなら自分で行ってきて!」
ぎっ、と睨み上げたアサキに、けれどマシロは困ったような微笑みを返すだけだ。ヤエも関わりたくないと言いたげに再び身体を丸める。
(ーーもうーっ!! お祖父ちゃんは、なんでこんなのに店を任せていっちゃったのよー!)
旅立ったままロクに連絡を寄越さない祖父に向かって、アサキはもう何度目になるかわからない心の叫びを上げたのだった。
最後の配線をつなぎ終え、外しておいた銀色のカバーを付け直して、アサキは頷いた。
「うん、これで大丈夫」
側面のボタンを押すと、その銀色の立方体はぶぅん、と微かな振動音を立てる。そして急激に冷たくなった。
それを確認して、アサキは再び側面のボタンを押す。立方体の振動が止まり、表面温度も元に戻る。
「はい、おかみさん、直ったよ」
「ありがとう、アサキちゃん! 助かったよ。うちの商売でこの冷却装置が壊れたら、やってけないからねぇ」
店頭の黒檀のカウンターに身を乗り出すようにしてアサキの作業を見守っていた、どっしりとした中年女性が、ほう、と大きな息を吐き出した。
この女性は近所の総菜屋の女主人だ。アサキが子供の頃からの付き合いで、ときどき調子の悪い遺産を持ち込んで、アサキに修理を依頼してくれるお客さんでもある。
「おかみさん、保存庫の中でこの冷却装置の上にアレコレ物を乗せてるでしょ。重みでカバーが歪んで中の配線をつぶしてた。ダメだよ、物を乗せちゃ」
「そうは言っても、仕込み前の保存庫はぱんぱんだからねぇ……調子が悪くなったら、またアサキちゃんに直してもらいに来るからさ」
「修理にも限度ってものがあるんだけど」
「おや、アサキちゃんほどの修理の腕前でも、直せないものがあるのかい?」
「ありますよ。だいたい遺産はどれも古くて、きちんと動くものの方が少ないし、壊れた部品と取り替える部品もなかなか手に入らないんだから」
「ですので、大切に使っていただけると助かります」
唐突に割り込んできた柔らかな声に、アサキと女主人が同時に顔を上げる。
「マシロ。余計な口出ししないで」
「私はただアサキさんの仕事を増やさないでおきたいと思っただけです」
「それこそ余計なお世話だよ」
「ですが……」
「あ~、はいはい。二人ともそれくらいにしといておくれ。あたしも遺産の扱いには気を付けるようにするからさ」
応酬が続きそうだったアサキとマシロの間に割って入ったのは、おおらかな眼差しの女主人だった。もう成人して独立した子供たちがいる彼女から見たら、アサキたちの言い合いなどたいしたことではないのだろう。
そして、整った容貌の店主代理にもまったく臆することなく、気軽に話し掛ける。
「ちょうどよかった。あんたに見てもらいたいモノもあるんだ」
「私にですか?」
「遺石についてだったら、アサキちゃんよりもあんたの方がいいんだろう? 店の中に引きこもってばっかりだけど目は確かだって、この店のおじさんも言ってたしね」
「お祖父ちゃん、そんなこと言ってたの? まあ、間違ってはないけど、前半部分をなんとかするように、旅立つ前に言い聞かせておいてほしかった」
「お師匠さんにそう言っていただけてたのは光栄ですが……それで、見てほしいというのはどのようなモノでしょうか?」
話が長くなりそうだと判断して、マシロは女主人を店の左手奥にある商談用の小机まで促した。アサキも他に急ぎの仕事はなかったので、一緒についていく。
マシロと女主人が椅子に腰を下ろし、アサキは傍にあるショーウィンドウの出窓に軽く腰を掛けた。この出窓はいつもは三毛猫ヤエの指定席だが、店に客がいるときはヤエは滅多に姿を見せないので、今は空席だ。
「それで、そのモノというのは、今お持ちいただいているのでしょうか?」
マシロの穏やかな問いに、女主人はやや外れた応えを返した。
「あたしは呪いだの魔法だのは信じてないけどね。とはいえ、古い遺石の中には不思議な力があるモノもあるらしいってのは、まあ納得してるよ。そもそも遺産の機能だって理屈はわからないんだから、魔法みたいなものさ。ただね、自分のすぐ傍で、まったく意味がわからないことが起こるのは、やっぱり気持ちよくなくてねぇ」
「何か良くないことがあったのですか?」
「良いか悪いかもわからないから落ち着かないんだよ。それで、こういうことがあるものかどうか、あんたに聞いて見ようと思って。……あのさ、遺石が勝手に動くことってあるものかい? それも何度も」
「勝手に、ですか?」
「そうなんだよ。引き出しの中にきっちりしまっておいたのに、気付くと表に出てるんだ。一回くらいなら思い違いかな、とも思うけど、何度も同じことがあると、さすがにあたしのうっかりとも言い切れなくて。しかも、あたしは聞いてないんだけど、なんだか気になる声が聞こえたって人もいて……で、一度見てもらえないかと思って持ってきたんだ。まあ、遺石とはいえ、この店で取り出すのは恥ずかしい安物なんだけどね」
淀みなく喋りながら、女主人は膝に乗せた手提げ袋から小さな巾着を取り出した。紐を緩めて口を開け、掌の上で逆さにする。
水仕事でかさついた肉厚の掌に乗せられたのは、古いブローチだった。
大雑把な細工の黒ずんだ銀色の台座に囲まれて、紫と白が混ざり合って縞模様を描く丸い遺石が嵌っている。
「あたしのずいぶん歳の離れた姉がちょっと前に亡くなってさ、アクセサリーをいくつか形見にもらったんだ。一応、遺石ではあったけど、そこまでたいしたモノでもなかったから、箱ごと引き出しに突っ込んでた。それが、このブローチだけ気付くと引き出しの外に出てる。おかしいなーと思ってたら、こないだ娘が連れて来た孫が言うんだよ。『このいし、イヤだ、っていってるよ』って」
アサキのように遺石の“声”を聞き取れる人間は稀にいる。特に幼い子供などは聞こえることが多いようだ。
「よくわからないけど、遺石が嫌がってそうなことを考えてみた。箱に入れっぱなしなのが嫌なのかと思って服に付けてみたり、仕舞われる場所が嫌なのかと思って立派な箱に入れてみたりしたんだ。でも、相変わらず外に出てくる。どうしていいかもうわかんなくてね」
「なるほど……その遺石を拝見してもよろしいですか?」
女主人はマシロにぽん、とブローチを渡す。
受け取ったマシロは、紫と白が混じった遺石の表面をじっと見つめる。
ふと、マシロの形良い眉根が寄った。
ブローチを目の高さまで近付けて、いくつか角度を変えて光を当てる。
「ど、どうかしたかい?」
その真剣な様子に、女主人はやや怯んだようだ。少し離れたところにいるアサキもマシロの行動が何を意味するかわからず、ただ見ているしかない。
「おかみさん。こちら、安物とおっしゃいましたよね?」
「ああ。だって、その台座は鍍金だろ? 裏側とか剥げかけてるところがある。遺石もアクセサリーにしてはきらきらが足りないし」
「アサキさんはどう思われますか?」
「わたし?」
静かに立ち上がったマシロがアサキのところまで来てブローチを差し出す。
なんか面倒なことを押し付けられた気がしつつも、とりあえず受け取ってショーウィンドウ越しの柔らかい明かりにかざす。
確かに台座は安っぽい。装飾もよくある花と葉の題材だ。だが。
「え? あれ、これって、もしかして……?」
アサキもマシロと同じように角度を変えて遺石の反射を確認する。そのブローチを持つ手が軽く緊張してきた気がする。
「これ、台座の方はおかみさんの言う通り最近の安物だけど、遺石の方はすごく質がいいものだよ」
「えっ! そうなのかい!?」
「はい。普通に出回っている遺石のアクセサリーは、わかりやすく表面の輝きが強い物が使われています。しかし、本当に価値のある遺石はもっと深い色合いの物が多い。この遺石も、紫と白が入り混じっていますが、互いの色は奥の方まで浸食していない。この色味はおそらく、灰湖跡台地の深い層から見つかるとても古い物です。この頃は産出が減っていて、滅多に見かけなくなっている貴重な物です。この台座には、わりと最近取り付けられたように見えます」
再びアサキからブローチを受け取ったマシロは、それを黒天鵞絨が張られた浅い木箱にそっと乗せ、女主人に説明した。
「これが、そんなたいそうな物だったなんて……え、ちょっと待っとくれ。もしかして、他のアクセサリーも、気付いてなかっただけで実は立派な物なのかもしれないのかい!?」
今すぐ残りも持ってくるから調べとくれ! と叫んで、女主人は大きな身体を揺らしながら慌ただしく店を飛び出していく。そしてほんのわずかの間に、小さな箱を抱えて戻ってきた。
だが、結論からいうと、その箱の中にあった残りの遺品は、どれもそこまで価値のないものばかりだった。
黒天鵞絨の木箱の上に広げられたいくつかのアクセサリーを、マシロとアサキも手伝って確認していく。普通の宝石も、遺石も混じっていて、総菜屋の女主人が持つには十分な品質だったが、灰湖跡台地の遺石の足元に及ぶものさえなかった。
「もしかしたら、おかみさんのお姉さんも、このブローチが貴重な遺石だとは知らなかったんじゃない?」
「姉上がこの遺石を手に入れられた経緯をご存知ですか?」
「うーん、どうだろね。どこかで見た気もするけど……姉は、夏霞谷地方の資産家の後添いに入ることになって浮都を出てって、それ以降は会ってなかったからね。婚家にあったのか、旦那に買ってもらったんじゃないかな。うちの実家じゃ、とてもそんな貴重なものは買えないし」
「姉上の他の遺品はどうされているんですか?」
「たぶん、婚家が管理してると思うよ。姉の旦那は歳がいってたから継子たちも大きくて、自分の子供もできないまま未亡人になっちまった。旦那には優しくしてもらったみたいだから、まあいいけど。そのままひっそりと暮らしてて、亡くなる前に自分で身の回りも整理して、ほんのちょっと手許にあった物だけ、知人たちの誰に遺すかを書き置いていたらしい。で、その宛先のひとつが実家だった。でも実家にももう姉を知る人は残ってないから、あたしのところに回ってきたってわけさ」
「そうですか……」
そこまで聞いて、マシロはしばらく顎に長い指を当てて何事か考えていた。
女主人は、黒天鵞絨に乗せられた他のアクセサリーをひとつひとつ慎重に眺め直していた。これらのアクセサリーも、貴重な物ではないとはいえ、女主人が考えていたよりは高価なものだったので、いささか扱いが及び腰になっている。
そんな女主人の向こう側から、ふいにマシロがアサキにちらりと視線を送ってきた。灰の瞳が何か言いたそうに細められる。
それに面倒な気配を感じて、アサキは険しい目を返す。
(……おかみさんにはお世話になってるけど、それとこれとは話が別! 今はあなたのお客さんなんだから、わたしを巻き込むな!)
(まだ私は何も言ってませんよ)
(……!)
視線だけでそんなやりとりを交わし、アサキがむっ、としたとろで、マシロが女主人に向き直った。
「今日はもう時間も時間ですし、とりあえずこのブローチだけお預かりして調べてみます。それでよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん。そうしてくれると助かるよ。別に急いではないからさ。さて、あたしも夕方の掻き入れどき前に戻んなきゃ」
女主人も時間を思い出したように立ち上がる。残りのアクセサリーと、最初にアサキに直してもらった遺産を抱えて帰って行った。
マシロは穏やかな微笑みで扉口に立って、そんな彼女を見送った。扉を閉めて店内に戻ってくると、いつの間にか戻ってきていたヤエが、さっそくマシロの足元にすり寄っている。
カウンターにもたれてそれを見ていたアサキは、机の方に戻ろうとしたマシロに疑わしい視線を向けた。
「わたしは、何もしないからね? ややこしいモノが舞い込むたびに、巻き込まれるのはゴメンだからね?」
「今までも私からアサキさんにご依頼することはなかったかと思いますが」
「でも、言外に期待してることは何度もあったよね!?」
「さて……どうでしたでしょうか」
「マシロ!」
「まあ、でも、今回は何とかなるのではないかと思っています。心当たりがないこともないので」
飄々とした笑顔を向けられて、アサキは今ひとつ不安は拭いきれなかったものの、とりあえずそれ以上追求するのはやめたのだった。
陽が傾く頃に店を閉めたら、アサキとマシロとヤエは狭い階段を二階へと上がる。
建物の一階は大半が店舗で、一角にアサキの作業部屋がある。住居部分は二階で、台所がついた居間と水回りの他には、小さな部屋が二つ。それがアサキとマシロの寝室だ。三階にも狭い納戸ほどの空間があり、それでこの建物のすべてだ。平民街の建物はどこも基本は同じ造りになっている。ただしの必要に応じて好き勝手に増改築が続けられているため、基本形が残っていない建物も多いのだが。
先頭にいたアサキが住居部分の扉を開けたところで、ふと嫌な予感に捕らわれる。
「どうしました? アサキさん」
「……なんか、香ばしい? においがするんだけど」
「え? ああ、そうかもしれないですね」
あっさり答えたマシロの声が、妙に弾み気味な気がして、アサキの不穏感はさらに強くなった。
無言で居間の奥にある台所に向かう。仕切り壁の向こうには予想通りの惨状があった。
青緑の大きな瞳をさらに大きく広げて、それから見たことをなかったことにしたくて目を伏せた。だが、そうしたところで香ばしいを通り越して焦げ臭いにおいまでは防げない。
「……台所には入るな、っていつも言ってるでしょ」
何度も何度も繰り返しすぎてすでに怒鳴る気力はなくなっている。けれども苛立ちを感じるのは抑えられなくて、擦れそうに低い声で呟いた。
遺産の加熱器具に乗せられた大きな鍋は、何が入っているのかわからないが、縁が黒く焦げついている。包丁も調理器具も汚れたまま出しっぱなしだし、何のために使ったのかわからない皿や椀も洗い場に重なっている。今朝アサキが家を出る前には、朝食の片付けはきちんとしていった。つまり、この惨状を作り出したのは、残っていたマシロしかいない。
しかし、当のマシロは、悪びれた様子はない。
「今日はアサキさんが仕入れで外出されるので、夕飯は私が用意した方がいいと思いまして。いつもアサキさんがいろいろとやってくださるので、たまには私もお役に立とうと」
言外に『よくやったでしょう!』という空気が溢れていて、アサキは頭痛を感じる。
「役に立たないどころか、わたしの仕事を増やしてる自覚を持ってほしいんだけど……」
マシロがアサキを困らせようとしているつもりがないことはわかっている。それどころか、アサキのためを思ってくれていることもわかっている。その気持ちは嬉しい。……けれども、マシロには、決定的に生活能力が欠けているのだ。
ずっと店に引きこもっているのであれば、家事くらいできるようになれ、とマシロにあれこれ教え込もうとした時期があった。だが、あまりの成果のなさに、ずいぶん前からアサキはマシロに家事をさせることを諦めている。
それでも時折、今夜みたいにマシロが室内を盛大にかき乱して何かをしでかしてくれることがある。そのたびにアサキは深く深く溜息をつきながら、後始末に追われるのだった。
「まずは夕飯をどうにかしないと。材料くらいは残ってるよね」
アサキが貯蔵棚を覗こうとしたとき、件の鍋の近くで、なぁ、と声が聞こえた。いつの間にか台所に入り込んでいたヤエだ。
「なあに、ヤエ姐さん? そこに食べられる物はないよー」
いくら猫でも、マシロが作った正体不明な料理もどき(いや、そんなことを言ったら料理に失礼だ、というシロモノ)を食べさせるわけにはいかない。特にヤエは年の功か、食べ物の好みがうるさいのだ。
ヤエを台所の外で待たせようと近付くと、するりとアサキの足元を抜けて出ていった。その丸っとした後ろ姿を見送って、ふと件の鍋の中に目が行く。
「……あれ?」
鍋の縁は焦げついているし、鍋周辺の汚れもひどいが、鍋の中身自体は普通に見える。おそるおそる匙で掬ってみると、野菜を煮込んだスープっぽい。多少煮崩れてはいるが、匂いもおかしなところはない。
さらに警戒しながら、小皿に少量を乗せて、そっと味見をしてみる。味は薄いが、食べられないことはない。塩胡椒を足してやれば、何とかなりそうだ。
「……食べられるものができてる。どうしたの、マシロ。あなたの壊滅的な料理能力に何の奇跡が起こって、どんな進化があったの?」
「それは誉めていただいてるんでしょうか、アサキさん」
「当たり前でしょ。今までマシロが作ったもので、食べ物ができたことがあった? すごいよ、進化だよ。ヤエ姐さんもよく気が付いてくれたね」
「……お役に立てたのなら何よりです」
すっきりしきらないマシロのことなど気にかけず、アサキはそのスープを温め直し始める。味を整えて、堅焼きのパンを揃えたらそれなりの夕飯になった。
食事場所は二人ではいささか大きい机だ。アサキの祖父が昔から使っている机なので年季が入っている。その足元ではお裾分けをもらったヤエが静かに食べている。ヤエが口をつけているのだから、やはりマシロの作ったものはそこそこの味なのだ。
スプーンを口に運びながら、アサキはふと目の前に座るマシロをしみじみと見つめてしまった。
(あの(・・)マシロが、よくここまでできるようになったよね)
それは、単にスープを作った、というだけにとどまらない。
夕飯の準備をする、しかもアサキの予定を考慮して、という段取りをしたことなど、二年前のマシロからは想像できない。
ーー出逢ったばかりの頃のマシロは、なんというか、“生活そのものに興味がない”状態だった。
炊事や掃除などの家事以前に、放っておけば食事もしないし身支度も怪しい。いったいどれだけ使用人に任せきりのお坊ちゃんだったんだろう、とアサキは何度も呆れたものだ。
頭の回転は早いし、遺石を扱う手先は器用なのに、なぜか家事にはその能力が発揮されないマシロ。それでもアサキは根気よく(ときに怒鳴りながら)教え込み、あまりの成果のなさにほぼ諦めかけていた。それが、まだまだ課題は山積みながらもようやくここまできたのだ。感慨深くもなるというものだ。
「アサキさん? どうかしましたか?」
手が止まっていたアサキに気付いたマシロが、軽く首を傾げる。滑らかな黒髪が、さらりと肩から滑り落ちた。
燈火を弾く黒髪の艶に、ふいに彼の本来の色味を思い出した。
まるで、それ自身が光を放っているかのように艶やかな白い髪。流れ零れる水のように長いその髪の下にある切れ長の瞳は、冷ややかな白銀色に煌めいていて、その姿はまるでーー
「アサキさん?」
心配気な薄灰色の瞳に覗き込まれて、アサキははっと我に返った。
「っえ、あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫ですか? 仕入れで集中していて疲れたのでしょうか」
「ううん、平気。ただ、ちょっと考えごとしてただけ」
マシロの瞳に、ちゃんと人らしい表情があることに内心どこかで安心して、アサキは言葉を続ける。
「いつになったら、マシロは台所をまともに使えるようになるのかなぁ、って」
「それは……これでも、だいぶ進歩したと思うのですが」
「だって、あの台所の惨状はどうしてくれるのよ。誰が片付けると思ってるの」
「それは、私も一緒に……」
「よけいにひどくなるから、手を出さなくていいよ」
うなだれたマシロの足元で、先に食べ終えたヤエが、なぁご、と鳴いたのだった。