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 白い床は硬そうな素材なのに、なぜか足音がほとんど響かない。

 そんなことを思いながら階段を降りる間も、アサキは誰にも会わなかった。

(第一層って、こんなにがらんとしてるの? 空人の数も少ないのかな)

 勝手に入りこんでいる身なので、見咎められないに越したことはない。これ幸いと足を早めたアサキだが、すぐに白い壁に行き当たってしまった。

(あれ、行き止まり?)

 目の前の壁に手を付いて、押してみる。

 すると、パシュっと軽い音がして、壁の一部が中に吸い込まれていく。

 開いた扉の先は、白と灰色が混じった事務的な雰囲気の場所で、そして。

「誰だっ!」

 鋭い声に、アサキの肩がびくっと跳ねる。

 少し離れた所から、険しい表情の空人が駆け寄ってくるのが視界に入った。

「どこから入ってきた!? ここは第一層、一般人は立ち入り禁止だ!」

 身体が後退って、今出てきた扉に戻ろうとする。

「あれ!?」

 つい先ほどまでそこに開いていたはずの扉がなくなっている。背後には壁すらなく、前方と同じように白灰の空間が広がっていて、仕事中らしき空人が幾人かいた。その空人たちもアサキに気付いて慌ただしく動き出す。

(なんか、マズいところに来ちゃったっ?)

 アサキの背中を嫌な汗が流れる。

 とりあえず、捕まるわけにはいかない。

 アサキは人気のない方向に走り出す。

「待て!」

「侵入者だ!」

 背後から複数の声が追ってくる。どこに逃げればよいかなんてわからないので、アサキはただ闇雲に走るしかない。

 机や棚の隙間を抜け、通路の角をいくつも曲がり、ようやく追手の気配が途切れる。荒い息を整えながら、アサキは胸元の遺石に向かって毒づいた。

「もうちょっと人のいないところに出る階段はなかったの!?」

 しかし、遺石からの返事はない。

「そもそも、マシロはこの階のどこにいるんだろ」

 行き当たりばったりで逃げて来たので、アサキは今いる場所が階段を下りたところからどれくらい離れているのか、まったく想像つかない。

 周りはつるりと白っぽい壁が続いていて、ところどころ通路が交差している。行き先や現在地を示すものは見当たらない。どちらに向かったらいいのか検討もつかなくて、逃走の疲れも重なって、アサキは壁にもたれかかる。

 ふう、と深呼吸したところで、ビーッと鋭い音が天井から降ってきた。それに呼応するように、緊迫した人々が行き交う気配も近付いてくる。

 繰り返される警報音に、アサキは慌てて身を起こす。

「なんか、本格的にまずそうな雰囲気?」

 通路の遠くから、再び空人たちが駆け寄ってくるのが見えた。仕方なくアサキはまた反対方向に走り始める。

 しかし、先ほどよりも追手の数が多い。あっという間に距離を縮められる。

 アサキはもう走り疲れて速度が落ちているが、相手は疲れを知らないのか、無表情にアサキに迫ってくる。

 そして空人の手がアサキの背にもう届く、というところまできたとき。

 バリバリバリッと不快な低音が、警報音に割り込んだ。

「何だ!?」

 空人たちも、アサキも、思わず足が止まる。

 その瞬間を見越していたかのように、それは起こった。

 シュッとわずかな音がして、アサキの目の前に壁が出現する。

「えっ!?」

 つい今しがたまで通路だったところに、壁ができていた。アサキに手を掛ける寸前だった空人たちの姿はない。

 壁の向こう側から、壁を叩く音が聞こえてくる。どうやら突然現れた壁が、アサキと追っ手を分断してくれたらしい。

「なんだかわからないけど、助かった……?」

 青緑の瞳をぱちぱちさせて、アサキは呟く。

 だが、安心してばかりはいられない。

《向こうの通路から回れ……! そっちの班は、制御室の災害時配線のチェックに…》

 壁越しに慌ただしい様子が伝わってくる。

 別の通路を回ってこられたら、ここは袋小路だ。いつまでも留まってはいられない。アサキは、通路が繋がっている方向に向かって再び進み始めた。

 そして少し進んだところで、すぐに異変に気付く。

 アサキが進む先で、静かに壁が現れたり消えたりして、通路の形が変わっていくのだ。振り替えると、アサキが通ってきた道も塞がれたり分岐が増えたりしている。

 まるで通路そのものが、アサキの進む先を導いてくれて、さらに追っ手を防いでくれているように感じる。

(……マシロ……?)

 何の確証もないが、ふと灰白の優しい瞳が脳裏に浮かんだ。

 通路に導かれるままに、アサキは足を進める。

 初めのうちは、壁越しに追っ手の慌ただしさを感じていたが、いつの間にか聞こえなくなっていた。たまに壁が動く音以外は、とても静かな空間だ。

 やがて、壁の動きが止まる。

 アサキの前には、まっすぐな一本の通路が伸び、その突き当たりに一つの扉がある。

(……マシロがいるところ?)

 ぐっと顎を引いて、アサキは歩調を早める。

 アサキが進む度に、背後には新たな壁が増えていく。幾層にも重ねて守ろうとしてくれているようにも感じられて、アサキの背筋は自然と伸びていた。

 白いつるりとした扉の前に立つ。取っ手がないのでどうやって開けようか、と首を傾げたところで、その扉が静かに壁の中に吸い込まれていった。

 アサキはもう躊躇わずに足を踏み入れる。

 その部屋の中もこれまでと同じように白っぽくがらんとしていた。広い部屋の正面にいくつかの光が灯る大きな作業卓があり、その上にはどこかの風景が映し出された板が複数並んでいる。

 そしてそれらを一望できる位置に、一つだけある椅子。その椅子の隣に、真っ白い人物が立っていた。

 肩にまっすぐ流れ落ちる、艶やかに輝く白い髪。精巧な人形のように整った顔。そこに埋まる形良い瞳は、店の中薄暗さでは灰色に見えていたが、このぺかりと明るい空間では白銀に輝いている。先ほど最上層で見せられた映像の中と変わらない外見。

 アサキが日頃見慣れた色彩ではないが、その色味もまた見間違えようがない。初めて出会ったときと同じ、真っ白に輝くその姿は、アサキが探していたマシロだ。

(マシロ……!)

 ほんの三日ほど顔を合わせていなかっただけなのに、ずいぶんと久し振りに会ったような気がする。

 鼻の奥がつん、としてくる。

 目頭がふわんとするのを堪えていると、気持ちを一瞬で醒ます、冷えた声がかかった。

「あそこで何をしていたのですか。おそらく天城補マキホに連れてこられたのでしょうが、勝手に出歩いたりしないでください」

 丁寧な口調だが、アサキが馴染んだ温かい穏やかさはない。背中を冷たい何かが這い上がっていくようだった。

 感情を含まない白銀の瞳に見据えられて、アサキは別の意味で泣きたくなった。だが、ここまで来て大人しく引き下がるのは嫌だ。

「勝手にも何も、いきなりど真ん中に放り出されたんだから。仕方ないじゃない」

 顎をしっかり上げて、マシロの顔を見据えて言い返した。

 正面から見据えられて、マシロはどこか怯んだように見えた。

「……そもそも、何しに来たのですか。ここは普通の人間がいるべき場所ではありません」

「マシロに会いに来たんだよ!」

 それだけは、何の迷いもなく答えられる。

 遺石のよくわからない能力でいきなり高所に持ち上げられ、存在すら知らなかった古代の人々の墓標に連れていかれ、重苦しい映像を見させられ、そしていきなり追っ手のただ中に放り出されて。

 こんな苦労をしたのも、すべては目の前のこの青年に会うためだった。

「……なぜ、わざわざ? 私がどのような存在かは聞いたのでしょう」

「聞いたし、見たよ。でも、マシロが空人なことは、わたしが会いたいと思うことと関係ないから」

「……なぜ、会う必要があるのですか?」

「……それはっ! マシロと一緒にいたいからに決まってるでしょ!」

 一つ一つ答えながら、アサキはだんだんと腹立たしくなってきた。

「何なの、マシロ! わたしがここに来たのがおかしい? わたしがマシロに会いたいと思っちゃいけないの!?」

 今度こそ確実に、マシロは返答に窮していた。

 白銀の瞳を見開いて、アサキをじっと見返している。その瞳の奥には、いくつもの感情のさざ波が揺れている。それは人形のように表情の乏しい他の空人たちとは明らかに異なった様子だ。

 やがてマシロの喉がひゅっと小さく鳴り、それから絞り出すような掠れ声が漏れてきた。

「……私は、あなたに求められるような存在ではありません。あなたの側で伴に過ごす資格はない」

「……何それ!? どうして、側にいるのに資格が必要なの? わたしが一緒にいたいって言ってるのに、他に誰かの許しがいる?」

「いいえ。ですが、私とアサキさんの時間は、本来交わるはずがなかったものです。アサキさんにはアサキさんの時間があり、私には私に課されたものを果たす時間がある」

「それは、この浮都を動かすってこと? ……でも、マシロは、本当にそれがしたいことなの?」

 アサキは、一歩一歩足を進める。突っ立ったままのマシロの前にたどり着くと、再び黙ってしまったマシロを見上げた。

 アサキの青緑の大きな瞳に、困惑したマシロの顔が映る。

「マシロは、本当に、この浮都を動かし続けたいの? ……遺人に託されたときもあんなに辛そうだったし、それに、二年前には自分からここを出てきたんじゃないの?」

 マシロはここに戻りたくはなかったはずだ。でなければ、あんなに頑なに店の中に引きこもっていたはずがない。外に出て、空人たちに発見されて連れ戻されるのを危惧していたからこそ、ずっと店の中にいたのだろう。

「マシロが本当にここにいたいんだったら、わたしも諦める。でも、ここにいることがマシロにとって苦しいんだったら、わたしはマシロと一緒にお店に帰りたい」

 真っ白い服の長い両袖を握って、アサキはマシロを見上げた。

 下から覗き込んだマシロの瞳は、複雑に揺らめいていた。

 最初は真っ直ぐに見つめるアサキから目を反らし、次いで顔ごと上に向き、少しの間があって、そしてアサキはぎゅっと抱き締められた。

「……マシロ?」

 包まれた大きな腕の中は暖かいし、頬に触れるマシロの胸元越しにかすかな鼓動が響くし、顔を埋められた肩口には震える呼吸を感じる。

 たったそれだけのことに安心できて、アサキはマシロの背中にそっと腕を回した。

 やがてマシロの小さな声がこぼれてきた。

「……私は、もう、疲れ果てていました。かつて仕えた主たちの墓標を守りながら、どこかにいるのかもわからない主の同胞を探してさ迷い続けることに。この城の中では、とうに主の存在を忘れた人々が活気に溢れて暮らしている。彼らを守ることも主の望みだったから、そのこと自体は喜ばしい。けれどもいつからか、未来に向かって力強く進む人々を見ていると、虚しさが沸いてくるようになったのです」

 アサキの肩を包む腕に、力がこもる。

「私が普通の空人だったら、きっとそんなことは思いもしなかったでしょう。与えられた任務を適切に実行する機能のみが組み込まれているから。けれど私はこの城の主任運行者マスターコマンダーを務めるために、様々な能力を強化されています。その一つとして、より複雑な感情を持たされた。それゆえに、そのような何の益にもならない意識に悩まされることになったのです」

「何かを思うことに、役に立つも立たないもないよ。マシロがそう感じたのなら、それはマシロにとっては本当のことでしょ」

「けれども、私の感情はこの城の運行には差し障ることでした。そして、更に余計なことに私は気付いてしまったーー私の活動期限が、残り少なくなっている、ということに」

 アサキは、言われた意味を理解するのにしばらく時間がかかった。それは人間に対して使われる表現ではないから。だが、空人の生い立ちを考えれば、意味するものは紐解ける。

「……マシロは、もうすぐ死んじゃう、ってこと……?」

「人の“死”とはいささか異なりますが、もう二度と動作しなくなるという点では同じようなものです」

「そんな……っ。あと、どれくらい……っ?」

「そこまで切羽詰ってはいません。あと数十年くらいでしょうか。人の時間で考えれば、まだ猶予はあります。けれど、この城や空人の時間の中では、残りはあと僅かです」

 マシロの寿命がすぐに迫っているわけではない、とわかって、アサキの強張っていた背中が緩む。だが、別の疑問も湧いてきた。

「浮都や他の空人たちは大丈夫なの? みんな同じように長い時間を過ごしてきているんでしょ?」

「この城は、空人とは構造がまったく異なるので心配する必要はありません。そして他の空人たちも、まだ当分は問題ありません。私は他の空人よりも機能が強化されている分、本体の劣化がかなり早まったようです」

 マシロの口許が歪に微笑む。いつも滑らかに話していたマシロにしては珍しく、詰まりながらの吐露だった。更にアサキの肩越しなので、聞き取りにくさも増す。それでもアサキはじっと聞いていた。

「人々は力強く前に進んでいる。けれど私たちは時が止まったまま、どんどん遠くなる過去を守っているだけなのです。……これまで人々に取り残されていくのを憂えていました。けれどいざ自分の番を迎えるとなったら、自分が先に時を止めることを受け入れられなかった。それはこの城に眠る主たちとの永劫の別れも意味するから。そうして私は、いわば自棄を起こしたのです」

「ヤケ?」

「ええ。城の運行に必要な遺石を破壊して棄て、私自信も棄てさろうとした。……それはなぜが失敗して、アサキさんに拾っていただくことになったのですが」

 アサキは二年前の光景を思い出す。浮都上層部の爆発、落下してきた遺石の欠片、そして、ふわりと舞い落ちてきた真っ白な青年。

 マシロから身を少し離して、アサキは胸元に提げていた遺石を引き出す。

「アサキさん、それは……!」

「マシロを助けたのは、きっとこの遺石だよ。わたしはたまたま居合わせただけ。この遺石は、マシロのことをとても心配してたよ」

 深い艶を持つ青緑の遺石は、今は大人しく浮きも光りもしない。だが、求めていた者の側に来られたことを喜んでいるのか、ほのかに温かくなっていた。

「それを持っていたのですか、アサキさん……」

「ごめんなさい。なんか返しそびれたまま時間が経っちゃって」

「いえ、どうせ集中管理室メインコントロールルーム以外では使い途がない遺石ですから構いませんが」

「すごく粉々になって降ってきたから、いくつかの欠片しか拾えなかった。でも、この遺石が、マシロが安全に降りられるようにしてくれたんだと思う。そしてマシロのところに戻りたくて、わたしをこの最上層まで連れてきてくれたよ」

「この遺石が? 天城補に連れられて来たわけではなかったのですか」

「うん。詳しい説明とかはなかったから、けっこうびっくりしたけどね」

いたずらっぽく笑ってみせたアサキに、マシロがようやく微かな笑みを見せた。だが、それはすぐに消える。

「アサキさんやお師匠さんと出会って、私は新たな時間を得たと思った。ただの店番として、残りの時間を平穏に過ごしていけるとさえ勘違いした。それも、アサキさんと同じ時を過ごせると……!」

「だから、わたしは一緒にいたいって言ってるよ」

「ですが、私たちとアサキさんでは、時の流れが異なるのです。同じ時を歩めない私が、アサキさんを幸せにはできない」

 アサキの背に回っていたマシロの腕がするりとほどけた。それまで包まれていた温かさが消えて、アサキはとたんに寒さを感じる。

「だから、これで良いのです。私は本来の役目であるこの城の運行者に戻り、アサキさんはあの店で石の修理をする。そうしていればそのうち、アサキさんと伴に過ごせる相応しい相手も見付かるでしょう」

 そうして向けられたのは、穏やかな笑顔で。

 けれど、その細められた目の奥で揺れる何かに、アサキは再び腹を立てた。しかも、猛烈に。

「勝手なこと言わないでよ!」

「……私は、アサキさんの幸せを願って」

「それが勝手だっていうの! どうしてわたしの幸せをマシロが決められるの? そんなの、わたしのことなんて本当は考えてない。マシロにとって都合がいい幻想を押し付けてるだけだよ!」

 身体の両脇で手のひらを握りしめて、アサキはマシロを睨み付ける。

「そうやって自分の本心をごまかし続けてたら、マシロもいつか厄介な遺石に取り込まれちゃうよ。そんな遺石の“声”を聞かされたりしたら、わたしは遺石ごと叩き壊してやるから!」

「遺石に取り込まれる、とは……?」

「力の強い遺石は、“声”を出したり、時には幻影を見せたりするのは、マシロも知ってるでしょ。でも、あれは単に遺石の力が強いだけじゃ起こらない。同じくらい強い人の想いがあって、それに触発されて起こるんだよ」

 アサキが遭遇した面倒な遺石たちは皆そうだ。シドネイアの前の持ち主である、浮都に戻りたかった女性。ウィワクシアを引き寄せた、ご隠居さん。レアンコイリアの紡ぐ世界に閉じ籠ってしまった令嬢。

「遺石の声を呼び起こさなきゃいけないくらい本心を無理に抑え込んでいるから、遺石が影響されちゃうんだ。そして、そんな遺石に振り回されるのはこっちなの。自分の都合で気持ちをごまかして、さらに遺石も他人も振り回すなんて、勝手としか言えないよ!」

 アサキはふぅ、と息をひとつ吐き出す。

「……だから、わたしは自分の気持ちはごまかさないよ。マシロを拾ったときはなんて面倒なことになったんだろうと思ったし、暮らしてるときはなんでこんなに生活能力がないんだろうと思ってる。でも、マシロがいてくれるととても安心できるし、これからもずっと一緒にいたいと思ってる」

 今度はアサキの方からマシロを抱き締めた。マシロはまだ身体を硬くして動かなかったが、構わずに語りかけ続ける。

「わたしは、マシロに幸せにしてもらうなんて思ってないよ。わたしの幸せはわたしが掴まえる。そして、マシロが幸せを掴まえる手伝いをしたい。……もしマシロが浮都の中にいたくないんだったら、どこかの地上の街に行ってもいいよ。ここはマシロにとってはいろんな想いが詰まってるところかもしれない。でも、わたしにとってはお祖父ちゃんやマシロと過ごした場所、という以上の意味はないの。空人も遺人も、わたしには関係ない」

「アサキさん……ですが、私がいないとこの城の運行が……」

「四六時中いないとだめなの? 今まで二年間いなくてもなんとかなってたじゃない。たまに様子を見に来るとかじゃだめ?」

 そう言われて、マシロの瞳が見開かれた。

「……そういうことは、考えたことがありませんでした」

「ええっ!?」

「空人にとっては、任務以外のときは第一層にいるのが当たり前です。そこから飛び出した私が異端だったのです。ましてや第一層と下層を行き来することなんて、まったく考えもしませんでした……」

「じゃあ、今考えて!」

 勢い込むアサキに、マシロは苦笑する。

「あとね、マシロはわたしと時間が違うって言ったけど、マシロの寿命はあと数十年くらいなんでしょ? わたしだってそれと同じくらいだよ」

「ですが、私は外見の変化もほぼありません」

「でもでもばっかり! 見た目が変わらないくらい何なの!? どうせマシロはお店の中に引きこもってるんだし、せいぜい『あそこの店員さん、いつまでも若いわねぇ』って言われるくらいよ。……あとは、しわしわのお婆ちゃんになっちゃったわたしを、マシロが我慢できるかどうかだけど……」

 急に勢いの弱まったアサキに、マシロの目が細まった。そして。

 マシロが再び、アサキを抱き締め返した。

「マ、シロ……?」

「……たとえどんなアサキさんになっても、私はあなたが好きです」

 こぼれおちるような囁きは、アサキの中にゆっくりと染み渡っていく。

 それが胸の奥にまでたどり着くと、ふわっと身体中に温かさが広がった。

 アサキも、マシロに回した腕にぎゅっと力を込める。

「うん。わたしもだよ。だから、一緒にいようよ?」

「……そうですね」

 今度のマシロの微笑みは、アサキの見慣れた穏やかなものだった。

 そのことが更に嬉しくて、アサキはいっそうマシロの胸元に顔を埋める。

 そうしてどれくらい時間が過ぎただろう。

 突然、バリバリッと耳障りな機械音がどこからか割り込んできた。

『……ようやく、音声回路がつながったわ……! 天城、そこにいるの!? どうやらアサキさんが入り込んでいるみたいだけど、何が起こってるのか報告して!』

 聞き覚えのある声に、アサキはびくっと身体を硬くする。

 そんなアサキの耳許に、マシロはごく小さな声で優しく囁いた。

「大丈夫です。まだ音声が届くようになっただけで、この部屋には近付けていません」

 そして天井に向かって、一転して無機質な声を発する。

「不躾に何事ですか、天城補」

『しらばっくれないで。空人たちから断片的に報告は上がってきてるわ。それに、集中管理室メインコントロールルームをそこまで隔離できるのは貴方しかいないでしょう』

 声のみでもマキホがかなり苛立っているのがわかる。

 それは他の空人たちとは明らかに違うところで、マキホにもマシロと同じように感情が備えられている、つまりマキホも高い能力を持っていることの証のように思われた。

 となると、マシロの能力のおかげで邪魔されずにいたこの場所にも、マキホなら辿り着けるのかもしれない。

 マシロをここに連れ戻したマキホだ。マシロがアサキと共に店に帰ることを阻止されてしまうかもしれない。

 そんなアサキの不安を裏付けるように、マキホの声の後ろで、通路の壁が動くような音がしている。

『隔壁のロックを、外側から順に外していってるわ。貴方よりは時間がかかるけれども、そのうちそこに到達する。そうしたら詳しく話してもらうわよ』

 アサキはマシロの腕を掴む手に力を入れる。唇の動きと同じくらいの小さな声でマシロに訴えた。

「どうしよう、マシロ。マキホが来ちゃったら、きっと大人しく帰してもらえないよ」

「そうですね……」

『天城! あと隔壁三枚よ。空人たちが待機してるから、覚悟してなさい。アサキさんを引き渡してもらうわ』

「それはできません」

『第一層に、しかも集中管理室メインコントロールルームに、人間を置いておくわけにはいかないわ。それくらい貴方もわかっているでしょう』

「ええ。なので私がアサキさんと共にここを出て行きます」

『……また任務を放り出すというの!?』

「いいえ、そういうわけではありません。この城の運行を見るために、ここには定期的に戻ってきます。そうですね、月に一回か二回ほど保守メンテナンスをしに来ます。それで支障はないかと」

『……何を言っているの!? そんなこと……』

 音声回路の向こう側で、明らかにマキホも戸惑っているようだった。ここに通うという発想は、やはり彼女の中にもなかったようだ。

『そんなことで、この城の運行が成り立つわけないでしょう!』

「貴女がいるから大丈夫でしょう」

『わたしはあくまでも貴方の補佐よ!』

「ですから、わたしが不在の間の補佐をお願いします」

『……アサキさん! そこにいるのでしょう。天城を唆したのは貴女ね。無責任なことをさせないで。貴女と天城は存在が異なることは話したでしょう。大人しく引き下がりなさい』

「そ、唆してなんかないよ! それよりも、マシロ一人に全部押し付けてるあなたたちの方がひどいよ!」

『それだけの能力を与えられているのだから当然です』

「だからって、嫌なことまでやらなきゃいけないのはおかしい! その人が何でもできるからって、まわりがその人に甘えて任せていいってことにはならないよ!」

 アサキにも、彼女に特有の能力がある。だが、だからといって遺石の声を聞くことをすべて任せられるなんて冗談ではない。責任感の規模は違えど、マシロだってそれと同じだ。

「マシロはずっと一人で頑張ってきたんだもん。ちょっとくらい休憩させてあげてよ」

『けれども、天城がいなければこの城は動かせないの。そうしたら貴女も困るでしょう?』

「だったら浮都を出ていくよ。浮都にいろんな想いを抱えている人たちだって、浮都がなくなったら、きっとどこか別の暮らせる場所を探す。あなたが考えてるほど、人は弱くないよ」

 アサキの言葉を聞いていたマシロが、ひとつ息を飲んだ。

「……天城補。もう、納得してもらえませんか?」

『しないわ』

「では、今度は、操作卓コンソールだけでなく第一層全体を破壊していくことになります」

『そ、そんなこと貴方にできるわけがないわ。この城は主が眠るところ。それを運行不能にするなんて……』

「できます。私がこの城の運行に戻ろうと思ったのは、アサキさんの暮らしを維持したかったから。アサキさんがこの城がなくても構わないと言うのなら、それまでです」

『……!』

 壁の向こう側にいるであろうマキホに向ける白銀の瞳は、鋭く冷たかった。

 そのままマシロの指が操作卓コンソールの上を滑って、ブツ、っと何かが途切れるような音がする。そしてそれ以降、マキホの声は届かなくなった。

「さあ、帰りましょう、アサキさん」

「いいの?」

「彼女もなかなかに強情ですから、簡単には聞き入れてくれないでしょう。しばらくは納得しないかもしれませんが、気長に説いてみます。そのうち理解してくれるのではないでしょうか。どちらにしろ、私を無理矢理ここに留めたり、連れ戻すことは彼女にはできません」

 空人には厳然とした能力の序列があることを示すような台詞に、アサキの心の隅がざらりとする。が、のんびりそれに浸っている余裕はない。

「じゃあ、早く帰ろう!」

「はい。ちなみにアサキさん。あなたはどこからこの層に昇ってきたのですか? 昇降機では一般人の利用は許可されませんよね?」

「えーっと、外側、から?」

「外側?」

「第四層の外縁広場にいたときに……」

 ざっくりとここまで辿り着いた経緯を説明すると、マシロは驚いたようにアサキの持つ遺石を見つめた。

「この遺石にそんな力が残っていたのですね……」

「この遺石は、マシロの側にすごく行きたがってたよ。あ、もうマシロに返した方がいいよね」

「それは後にしましょう。今はここから帰ることの方が優先です。その遺石が飛ぶ力を残しているなら、アサキさんが来た経路が使えるかもしれません」

 マシロはアサキの背に手を添えたまま、操作卓コンソールの前に移動し、指を滑らかに滑らせる。

 すると、アサキが入って来たのとは別の面の壁に、薄い光の線が走り、新たな通路に繋がった。

「こちらです」

 マシロに促されるままに、アサキはそこに足を踏み入れる。マシロも入ったとたんに、入り口は閉じられた。

 中はアサキが最初に降りてきた階段と同じ、光沢のある白っぽい空間だ。

「え、上の層から、さっきの部屋にも繋がってたの!?」

「はい。普段は閉じていますが、この通路が本来の経路です」

「ええーっ!? だったら、最初にここに連れてきてくれれば良かったのに」

 アサキは胸元の遺石に抗議の声を掛けるが、遺石の反応はなかった。

 アサキはマシロと共に早足で階段を駆け上がって、円く広がる真っ白な空間に出てくる。

 マシロの足が、そこでわずかに止まった。

「……マシロ、わたし、どこかで待ってようか?」

 半歩先にいたアサキは、おずおずと声をかける。

 それにマシロは落ち着いた微笑みで首を振って返した。

「いいえ。私はもう十分にここで過ごしていますから、今は結構です」

 その穏やかさを得るまでに、どのくらいの時間が必要だったのだろう。先にこの空間で見せられた過去の映像と、マシロの経た時の長さを思って、アサキの胸の奥がきゅっと引きつれる。

「行きましょう、アサキさん」

 いつの間にか先に進んでいたマシロが、アサキに手を差し伸べる。

 アサキがそっと手を出すと、長い手指がアサキの手を温かく包む。

 その温かさを握り返して、アサキは足が軽くなった気がする。

「うん」

 手をつないだまま、二人は白い空間を抜け出た。

 外に出ると、かなり長い時間を第一層の中で過ごした気がしていたが、陽はやや傾きかけていたものの、まだまだ青い空が広がっていた。

 陽光の眩しさに、思わず目を細める。

 心なしか浮都の速度がいつもより速い気がする。遮るものの少ない最上層を吹き過ぎる風が、アサキの黒緑石のような髪と、マシロの真っ白い髪を吹き混ぜた。

 そのまま層の縁まで移動して、マシロは軽く下を覗き見る。

「……本当にここから昇ってきたんですか、アサキさん?」

「うん。外縁広場からそのまま持ち上げられて、気付いたらここにいたよ」

 マシロに続いてアサキも下方を覗きこみ、そして硬直してしまう。

「乗り出しすぎは危険です」

「……え、ほんと? こんなにここ、高かったの……?」

 胸部を支えてくれたマシロの腕にすがって、アサキはそろそろと後ずさる。

 足元の床が途切れた先は、多少の凹凸があるだけの砂色の壁がずっと下まで続いている。四階層分の高さは、人の背の十倍以上ありそうだ。

 しかも上から見ると、外縁広場の広さはごくわずかで、そこから外れればさらにずっと下方、浮都の外にこぼれ落ちてしまう。今この浮都が飛行しているのは乾いた草地の上空で、もし落下したら確実におしまいだ。

「の、昇ってきたときは、下なんて見てなかったから!」

「なるほど……見てしまったら、とても躊躇する高さですね」

「そういうマシロこそ、ここから飛び降りたことあるんだよね!?」

「……あのときは、平常心ではありませんでした」

 さらりとそう言われて、アサキはなんだかおかしくなった。

「今は落ち着いてるの?」

「はい。アサキさんと一緒ですから」

 きっぱりと言い切るマシロに、アサキの口許も引き上がった。

「じゃあ、思い切って行こうか」

 アサキは胸元の遺石を目の前に掲げる。

「ねえ、もう一度、力を出してくれない? マシロと一緒に、第四層に戻りたいの」

 そういえば、この遺石の名前はまだ聞かされていなかった。いつもは遺石の方から勝手に名乗ってくることが多いし、名前を教えられても使い途はないので、アサキから尋ねることはないのだ。

 紺青と緑が混じった遺石は、陽光を弾いて複雑に輝く。わずかに震えて熱を持ちーーけれど、それだけだった。

「え? あれ? ちょっと、聞こえてる!?」

 焦って遺石を軽く振ってみたりするが、それ以上の反応は返ってこない。

「マシロの側に来れたから、満足しちゃったのかな……もうちょっとだけ手伝って!」

「きっと、アサキさんを私の元に連れてきたところで、残っていた力を使い切ってしまったのではないかと」

 脇から伸ばされたマシロの手が優しく遺石に触れる。

「こちらの都合で、いろいろと無理をさせました。ここまでありがとうございました」

 マシロの手のひらに包まれて、遺石は小さく震え、そして完全に静かになった。

 傍で見ているアサキも目の奥がじわりとして、鎖を静かに上着の内側に仕舞い直す。

 そしてそこで、直面している事態に意識が戻った。

「ど、どうしよう、マシロ? この遺石の力が使えなかったら、ここからは帰れないよ」

「もう一度、内部に戻りましょうか」

「でも、第一層には、マキホも他の空人たちも待ち構えてるんだよね」

「おそらく。円滑には通り抜けられないと思われます」

「大変なのはマシロだから、それは避けたいんだけど、でも、だったらどうしたら……」

 アサキは口許に手を当てて考える。

(空人が使う飛行翼みたいな物があればいいけど、何か似た物は……遺人たちの空間に何か遺されてないのかな。でも、あそこに何か使える物があればマシロが使ってるよね……空を飛べなくても、浮かんだりゆっくり降りられたりするものなら……あ!)

 脳裏を過ったのは、古びた切り株のような老人の姿。

 あの濃紺の夜空に星を散らした遺石は、店内のアサキの作業部屋の棚に置きっぱなしだ。こんな遠くから呼び掛けて、声が届くかどうかわからない。だが、試してみる価値はある。

 アサキは大きく息を吸うと、下方に向かって叫んだ。

「ウィワクシアさんー!! わたしたちを助けてーっ!!」

『……ほーい』

 ずいぶん遠く感じるが、それでもあの戯けた“声”がアサキの頭の中に返ってきた。

「良かった! 詳しいことは後で説明するから、わたしとマシロが、ここから第四層に戻るのを手伝ってください!」

『ほいほい。なんか面白そうなことやっとるのね。何を手伝ったげればいいのー。前にも言ったけど、ワシ、何かを飛ばしたりするほどの力は残ってないのよ』

「前に、落ちるのをゆっくりにできるって言ってたでしょ。わたしとマシロがここから無事に降りられるくらいにゆっくりにしてほしいの」

『ふむ。それくらいなら大丈夫そうの』

「良かった!」

『では、そこから飛び降りてくれるかの』

「……は?」

『とりあえず落ちてくれれば、あとはワシに任せておけばいいのね』

「え、えー!?」

「どうしました、アサキさん? やはり別の遺石の力でも難しいのでしょうか?」

 ウィワクシアの“声”が聞こえないマシロが心配そうに声をかけてくれる。アサキは、眉を下げてウィワクシアとの会話内容を伝えた。

「思い切って、飛び降りれる?」

「それが今一番の方法でしょう。行きましょう」

「ほんとにいいの? 上手くいく保証はないんだよ?」

「アサキさんは信じているんでしょう? それならば私も信じます」

 白銀の瞳がアサキをじっと見つめる。アサキは青緑の瞳を細めた。

「責任はとれないよ!」

「アサキさんを信じるところから私の責任ですから、お気になさらず」

 そして二人は手を固くつないで、床石ぎりぎりに立つ。

 顔を見合わせて、笑顔で頷き合う。

 深く息を吸って、床石を蹴る。

 胸の奥がくわっと上に取り残されるような感覚。

 直後に全身に掛かる下からの圧力。

 身体を駆け抜ける強風に思わず目をつむりーーそこで、ふわりと何かに受け止められた気がした。

 黒緑石色の髪と白色の髪が優しい風に翻って、陽光を複雑に弾き輝く。

 その輝きがゆっくりと降下していくのを見ていたのは、遥か上空を流れる雲だけだった。




《ーーお前に詫びなければならぬ。他の空人よりも深い感情を与えたがゆえに、お前は他の誰よりも哀しみに耐えねばならなくなった。そんなつもりでお前に感情を授けたわけではなかったのに》

 かつて何よりも大切だった人の言葉が脳裏を過ったのは、いま何よりも大切な人の手を握りながら風を受けている途中。

 それを言われた時には、その理不尽さに哀しみがいっそう深まった。

 けれど、今のなら、そう告げたかつての主の方がよほど悲痛な顔をしていたことがわかる。

 そして、今なら穏やかな微笑みで返すことができるのだ。

(……いいえ。私は豊かな感情を与えられたことをありがたく思っています。この感情がなければ、主の方々を大切に思う気持ちもなかったし、今こんなに愛おしいと思う人に出会えることもなかった)

 青空の下でより鮮やかに煌めく青緑の瞳を見つめて、その瞳が自らのすぐ隣にあることによりいっそうの喜びを感じる。

(ですから、残りの時間も、私はこの感情を大切に過ごしていきますーー)

 この城に眠るかつての主たちに向かって、長年この城を守り続けてきたは、きっぱりと誓ったのだった。

 

 


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