まるで彼女は悪魔のよう
悪魔的に可愛いという話。
谷木の脅迫から数日を経た今日。彼女からメッセージが届いた。回想に耽ったのもそのためである。
しかし、俺は彼女に使っているソーシャルメディアのアカウントを教えていなかったはずなので、誰に聞いたのかと問うとどうやら彼女のクラスにいる友人の一人が教えたらしい。
もはや、ツッコミを入れる気力すらなくなってしまった俺は、大人しく要件を聞くことにした。
『明日土曜日だけど、暇だよね。高校近くの駅前にある『ブックシェルフ』って名前の喫茶店で待ち合わせね』
『おい待て、勝手に俺の休日の予定を決めるな』
『別に予定があるならずらしてもいいけど、後が怖いよ? あ、集合は十時ね』
『そういう強引なことしているといつか刺されるぞ』
『その場合、犯人は君一択だね』
その後も言い訳に言い訳を重ねて拒否しようとするも、最終的に向こうからの返信が来なくなった。つまり、来なきゃどうなっても知らねーぞという彼女なりの親切な意思表示である。本当に親切ならこんなことしないとは思うけれど。
結局、心の安寧を保ちたい俺が拒否権などという高尚なものを持っているはずもなく――なんなら彼女との間では俺の人権の存在すら危うい――弱い立場の俺は彼女の要求に従うほかに道がなかった。
次の日。約束した時間の十分ほど前に、俺は集合場所に指定された喫茶店『ブックシェルフ』に着いていた。イタリア語で本棚を表す言葉であるブックシェルフという名前に相応しく、店内の至る所に本が置かれている。どうやら、そこから自由に取り出して読んでもいいらしい。
どうも谷木はまだ着いていないらしいので席についてブレンドを一人分頼んでから、近くの本棚から目についた文庫サイズの短編集を一冊取ってきて、暇潰しに読み始めた。
タイトルを『月花路』という連作短編小説らしく、月と花それから路にまつわる小説がそれぞれ繋がりを持つ形で書かれている。内容は全編通して恋愛ものであり、砂糖たっぷりの洋菓子のように胃もたれしそうなほど甘いものもあれば、一転してほろ苦く切ない失恋を描いた作品もあった。
時間もあるから手頃に読める短編にしようと思って選んだのだが、これがどうにも面白い。
いずれ恋愛というジャンルの中にあるのだが、その全ての系統が違っていて作者の恋愛小説に対する造詣の深さを感じ、思わず読みふけってしまっていた。
惜しむらくは、いくつかの作品に些か物足りなさを感じたが、小説における恋愛はファンタジーだ。多少の違和感は目を瞑って然るべきだろう。
それにこの本に収録された作品はテーマに沿って書かれているから、そのような欠点は致命的ではないだろうし、それをしても傑作だと言わせるだけの力がある。
「良い作品だな……」
そう呟いて珈琲をすすり、本を閉じて元あった場所に戻そうと立ち上がろうとしたときだった。
「へえ、その作品の良さがわかるんだ」
最近よく耳にする声が背後からした。瞬間、何故気づかなかったのだろうと後悔した。
「いつから……」
「一時間前。随分集中して読んでたねぇ。そういうのが好きなの?」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら目の前にやって来た人物、谷木祥子は言った。
「す、すまん、ちょっと集中し過ぎた」
俺が少し慌てて謝ると、谷木は薄茶色の瞳をいつもより少しだけ見開いて様子をキョトンとした顔でみてから、小さく笑った。
「ああ、別にいいよ。自分の小説がそんな風に読んでもらえるなんて、なんだか嬉しいし」
次は俺がキョトンとする番だった。まさか、この秀逸な作品が谷木の小説だとは思いもしなかったからだ。
俺が怪訝な顔をしていると、それがまたおかしかったのか谷木はまた少し吹き出しながら、著者名を見るように促してくる。
「山羊野ショーコって……」
嘘だろ。まんまじゃないか。なぜ気づかなかったのだろう。
「あはは、ほんとに君は面白いなあ」
腹を抱えて笑う谷木。
奇遇なことに決して口には出さないが俺も全く同感である。
こんなに面白い人間が俺以外に果たして存在し得るだろうか。いや、ない。居たとしたら、そいつはよっぽどのバカであると言えるだろう。
つまり俺はバカである。このまま「恥の多い生涯を送ってきました」という書き出しで、小説を書き始めたい気分だ。
「ふふ、まあこういうところで読む作品は有名でもないと著者名気にしないよね」
そういうものなのだろうか。俺はこういうブックカフェのような店に入るのは初めてなので、よくわからない。
とりあえず知ったかぶることにして「そうだな」と相槌を打った。
「……で、どうだった? 気に入ったのはわかったけど、詳しく感想が聞きたいな」
「そう言われてもな」
この問いにはどう答えたものだろうか。谷木自身の性格は最悪もいいところだが、彼女の作品自体を気に入ったのは確かだ。
ただの面白かったという言葉ではダメなのだろう。きっとそれこそ彼女の自尊心を傷つける事に繋がる。
何故なら、『面白い』という一言は前向きな言葉ではあるが、決してそれ以上ではないからだ。
理由の伴わない『面白い』という言葉は友人同士の間での戯れの中などであれば許されるが、小説や他の芸術作品に向けるにはあまりにも残酷な一言になり得る。
なぜなら、それはその先の言葉を引き出せないことに他ならないのだから。
「正直に言ってくれて構わないよ」
答えに迷う俺に、彼女は優しく笑いかけてくる。その表情は学校で見るものとはやはり違うが、俺にばかり見せてくる嫌な笑顔とも違う。優しいがどこか哀しさの漂う表情だ。
それは一種の諦めの表情にも見えた。
しかし、そんな表情も谷木はすぐに取り繕った。取り繕った笑顔から覗く瞳は、言わないのならお前をここで社会的に抹殺してやると雄弁に語っていたのである。よって、今の俺にとって大切なのはふとした瞬間に谷木がみせた珍しい表情ではなく、ある程度まとまった彼女の作品への感想である。
「じ、じゃあ、遠慮なく」
おっかなびっくりそう言って、一呼吸おいてから俺は再度口を開く。
全体の連作短編としての出来から、登場人物の心理描写とそれを効果的に表す背景描写についてなるべく触れながらかつ、あまり長くなり過ぎないように注意して話した。
「というわけで、総合的に面白かった、と思う。ただ、二編ぐらい登場人物にうまく感情移入できない作品もあった」
そこまで言うと、すでに冷えた珈琲で乾いた口を潤して彼女の返事を待った。言いたいことは言い尽くしたつもりではあるが、彼女がこの返答で満足したかはわからない。
それでも、及第点は貰えると嬉しい。俺はまだ死にたくはない。
「はは……やっぱり、ね」
俺の感想を聞いた彼女が最初に口にしたのはそんな言葉だった。
「何がやっぱりなんだ?」
「ああ、いや、こっちの話だから気にしないで。それで、君がどの作品がダメだと思ったのか、教えて欲しいな」
「お嬢様と庶民が恋に落ちて紆余曲折の後に成就するやつと、その庶民の方に想いを寄せていた男装の麗人の失恋を書いたやつかな。後半は俺が女じゃないからわからなかったってのはあるんだろうけど、実感として心に響くものがなかった。端的に言えば……」
『他の作品と比べてあまりにも陳腐だった』と、その言葉は思ったよりもスルリと簡単に出た。谷木は特別驚いた様子もみせず、何も言わずその首を二度ほど縦に動かした。
何度も言うように、別に恋愛小説に目立った話の起伏なんてものは必要ない。究極的に言えば、僕と彼女は幸せですということをツラツラと並べて書いたってそれは恋愛小説だと言えるだろう。
しかし、彼女のこの連作短編集においてそれは違和感となって現出する。『月花路』という作品集に収められている作品はテーマとはまた別に、どれもリアリズムに基づいているため現実的な描写が強く印象に残る。だからこそ胸の内から温かくなるような幸せな話も、心が締め付けられるような切なく悲しい話も、行く末が見えていない話もある。
それらはある程度現実に差し替えて納得がいく形でまとめらていて、それこそがこの作品集最大の魅力なのだ。
だが、その仮に『庶民と令嬢』とまとめて呼称するその二作品は他の作品たちに比べると都合が良過ぎる展開が目立つのである。
恐らく、谷木の意図としてはこの対比される二作品を通して「人の幸せの裏には必ず、割を食う奴がいる」ということでも書きたかったのだろうが庶民の男はお嬢様に合わせるためか妙にハイスペックだし、お嬢様の権力は変なくらい強い。
男装の麗人はなんかよくわからないが妙に人格がふにゃふにゃとしていて、彼女の行動の一つ一つが腑に落ちない。
構成力と語彙力、表現力の三つによって作品として昇華されてこそいるが、この小説群の本旨である『リアリティ』が決定的に欠けている。
それでも、作品全体に漂う空気との不調和を度外視して読めば傑作だと言えてしまう辺りが癪ではあるが、その二編は『月花路』という短編集に収録されてしまっている都合、どうしても他の作品と比べて見劣りする。
「以上だ。色々言ったが、素人の意見だし気に障ったら、すまん」
「いや、君絶対に結構読む方でしょ」
カラカラと谷木は俺の言葉を一笑に付した。先程の何とも物悲しい表情と言い、今日の谷木は嫌なぐらい表情が豊かだ。ここ数日学校で声をかけてきたときは終始同じような笑顔だったが、あれはやっぱり繕った表情だったのだろう。
本性を知った俺に対してわざわざ好かれようと振舞う必要はないのだという意思表示なのだろうが、正直胃に悪いから学校での笑顔でお願いしたい。
「……で、今日はどういった用事なんだ」
彼女の言う通り本は好きで昔から特に海外文学を中心になんでも読んでいたが、それを言うと面倒くさくなりそうな空気を感じたので、話を逸らした。
いや、どちらかといえば本来は彼女の要件を聞くためにこのカフェに入ったのだから、軌道修正と言った方が良いだろう。
「ああ、すっかり忘れてた。今話すよ」
別に話してくれなくてもよかったのだが、するならするでさっさと終わらせて欲しいので彼女が次の言葉を出すまで黙っていることにした。しばらく大人しく待っていると谷木は手提げカバンからファイルを取り出してこちらに渡してくる。
「これは?」
ファイルを受け取ってそう言うと、まず中身を取り出せと谷木が言うので大人しく従って中に入っていた紙の束を取り出す。紙には明朝体で文字がびっしりと書かれてあり、細かい赤線で修正がされていることから一目でそれが小説の原稿であることが分かった。
「それは今、友弥くんが指摘した二作品の原稿だよ。私自身、無理に書いたところはあったからどうしても納得いかなくてね。どうにかして直そうと考えていたんだ」
「それはいいが、どうして俺にこれを? あと俺が主人公ってのはどういうことか、いい加減教えて欲しいんだが」
俺がそう尋ねると谷木の口の端が歪んだ。あの日、彼女に『主人公』になることを強要された日に見た嫌な笑顔だ。
俺はその表情を見た瞬間、嫌な予感がした。元々、主人公になることだけでも意味が分からなかったのに、それに加えてさらに無理難題が入り込んでくるようなそんな気配だ。
「今君に話した事を編集に話したら、今丁度指摘されたその二作品を長編でリメイクして単体で出版しようってことになったんだ。うちの学校っておあつらえ向きの人がいるでしょ? 特にお金持ちのお嬢様とか、ね」
背筋を得も言われぬ悪寒が走った。
「お前まさか……」
「まさかもなにも、ここまで話したらそれしかないでしょ。お察しの通り、友弥君にはお嬢様と恋に落ちる庶民の男役になってもらうんだよ。光栄でしょ?」
ふざけるな! と、大きな声で叫びそうになる気持ちを必死で抑える。
人の気持ちは誰かが勝手に操作していいものじゃない。そんなことをすれば、相手には一生癒えない傷が残る。
この女はそれを理解しているのか……!
「ああ、もちろん失敗しても、途中でやめても私は君を追い詰めるからね」
あっけらかんとした調子でそんなことを宣う谷木に、俺はただただ苛立ちとそれを表に出すことができない歯がゆさを感じる。
「……お前は人を何だと思ってるんだ」
唇を噛みしめながら、苦し紛れにそんな無意味なことを宣った。ここまで来たら平穏な学校生活も、心の安寧もあったもんじゃない。では、断ってしまえばいいだろうと思うだろうが、そうはいかない。もしも、ここで俺がこの『よりリアルな小説』を書くことにしか興味がない女の言うことを聞かなければ、待っているのは社会的な死である。
断れば、きっと彼女はあることないことを本当に言い触らすだろう。それぐらい平気でやってしまうだけの歪んだ器が彼女にはある。
「舞台装置。私が小説を書くための道具ってところかな」
そう言って、谷木祥子はまた口の端を吊り上げて悪魔のように笑った。
こうして俺は彼女の正体の一端を垣間見た。
谷木祥子は小説のためなら人を人とも思わない、そういう類のろくでもない女であることを知ったのである。