きっかけの脅迫
俺が通う高校には三人の有名人が居る。
一人は大商社の跡取り娘。一人は小説家にして学内屈指の美少女。そして最後に文武両道でさながら少女漫画のヒーローのような男である。
もちろん、学業も運動も普通並みの俺と、どこぞのラノベの主人公のような存在である三人にこれといった接点などは存在しない。
だから、俺がその中の一人であるその女と関わることになってしまったのは予想だにしない出来事であり、ましてや彼女が俺を認知しているなどとは露ほども思っていなかったのである。
俺が関わってしまった女、名前を谷木祥子という彼女は先に挙げた中の小説家にして学内屈指の美少女にあたる。
そんな彼女が俺に接触してきた理由は曰く、『主人公になってほしい』ということだった。
なにか「主人公」らしい要素が自分にあっただろうか、とも思ったが、残念なことに一つも思いつかない。
中間テストは四百人中百九十位。陸上競技会も百メートル走六位で、所属する部活はなし。男友達はそれなりにいるが、女子との関わりは多すぎず少なすぎずといった塩梅で、教師と特別中が良いということもない。
中学時代に一つだけ目をつけられそうな話はあるが、それを谷木が知っているとは思えない。仮に知っていたとしても、ああ言うのが俺の周囲で頻発しているのならわかるが、ただの一度切りの話だ。
そんな特筆すべきところなど何もないのが俺である。
こんなモブ高校生のどこがいいのか、と再三問うたが彼女はそれに対して毎度毎度、嬉しくもない答えを返してきた。
『普通だからいいんだよ。その過剰なまでの普通さが欲しかったんだ』
正直、普通だと言い張っているのはこっちだが、そこまでバッサリ来られると張り倒すぞと思うし、手が出そうになるのを何度堪えたかわからない。
確かに谷木の容姿は良い。
しかし、彼女は極めて利己的で目的の為なら他人の事情など一切視野に入れないような人間である。
それも普段は猫をかぶっているために多くの生徒は彼女の底意地の悪さを知らないのだから、やり返そうとしても立つ瀬がない。
それでもどうにか現状打破を試みようと、友人に手紙と一緒にこの事実を話しても勘違いだとだけ言われて流されてしまった。
普段から積極的にボランティアに参加していたり、全校生徒と別け隔てなく接する谷木は学校中から称賛と信頼を集めに集めているのだ。
つまり、彼女の性格の悪さを知っているのは俺だけなのである。
谷木が俺を呼び出したのは本当に突然のことだった。
何一つ前触れのようなものもなく、朝登校すると下駄箱に彼女からの手紙が一通入っていたのである。まさかの地味でテンプレな展開だ。
ただハートのシールで封をされたその手紙を見て、俺が初めに思ったのは『また悪戯か』であった。
世の中にはくだらないことを思いつく人間も居るもので、手紙で校舎裏に呼び出され期待していったら誰も居なくて後からジョークだと教えられることや、男が待っていて嘘でしたとその場で言われることが何度かあった。
いずれにしても、友人同士の戯れであるし、俺もやられたことがあればやり返したこともある。
例に倣ってこれもそのような悪戯なのだろうと、高を括って封を開けて驚愕したのと同時に少しの淡い思いを抱いたが、その思いはすぐさま絶望へと変貌を遂げた。
『今宮友弥くん。放課後に屋上に一人で来てください。もしも来なかったらあることないこと酷い噂をばら撒きます。谷木祥子』
折角の美少女からの手紙だというのに恐怖しか感じない不幸を嘆いた。
ゴシック体で書かれたその脅しの手紙は、悲しいかな、俺が抵抗するにはあまりにも全校的な知名度と信頼度が足りなかったのである。
そうして、その日の放課後。友人たちの誘いを断って嫌々屋上に行くと、案の定彼女はそこにいた。いや、正直に白状すればいい噂しか聞かない彼女が本当にそこに居るとは思わなかったし、居ない事を願っていた。
長い亜麻色の艶やかな髪が風になびいていて、そこだけ切り抜いてみればその端正な顔立ちと合わさって一種青春的なニュアンスを感じさせる光景である。ともすれば、彼女がそこにいるのは比較的前向きな理由であると錯覚してしまうほどだ
だが、彼女の表情を見て俺はすぐに察した。してやった、貶めてやったそんな感情が透けて見える嫌なにやけ顔。
そこには思惑が上手くいったことへの喜びがあったから彼女が手紙を出したのだということは嫌でも分かったし、これから起こることが良からぬことであろうというのもまた、自明であった。
それでも信じられなかったのは彼女のその下卑た笑顔だ。その顔は今まで幾度か彼女とすれ違った中でもみたことはないし、そんな表情をしたなら噂になっているだろう。何故なら、普段の彼女は穏やかさや慈愛の心に満ち溢れた表情をしているのだから。まあ、その時の表情だけ見たなら自愛で心が一杯だというのはよくわかった。
「なにが目的だ」
俺はあまりのことに怯えながらそう尋ねた。恐らく声が震えていただろう。記憶の中なので見栄を張っているが「なにが」も、どもっていたように思う。
「あはは、そんな警戒しないでよ! ちょっと頼みごとがあるだけだからさ」
ビクビクとしている俺に彼女はその気味の悪い表情のままそんなことを言った。それだけで、その言葉に悪意が宿っているような気がして、俺は頭を抱えたくなった。
ただ、実際彼女にあったのは好意はもちろん悪意でもなく、純粋な創作への意欲だけだったのだから笑える話だ。もちろん、俺以外の奴が笑うことは許さない。
それに彼女のせいで俺の平穏な日常は崩れてしまったのだから、俺自身も言うほど笑えない。
その時の俺は、何故こんな状況になったのかとひたすら自問していた。そんな俺が面白かったのか谷木は繰り返し笑う。それはもう大口を開けて笑っていた。そうして、ひとしきり笑うと言った。
「今宮友弥くん。君には私の小説の主人公になってもらいます」
「……はい?」
「聞こえなかったかな、主人公なれって言ったんだけど」
「……」
当たり前だが、ここに来た時点、いや最初の手紙を開けた時点で断るという選択肢は残されていない。
あんな脅迫染みた手紙を出すぐらいだから断っても同じ目に合うのはよくわかっているし、何よりも彼女の目が『断ったらどうなるかわかるよな』と雄弁に語っていたからといのが俺の心を挫いた。
目は口程に物を言うとはよく言うが、少しは黙ってくれないかとこの時ばかりは思った。おかげさまで「何言ってんのお前?」というもっともなツッコミをビビり過ぎて入れられなかった。
「俺とお前には接点なんて無いはずだ」
「そんなことは関係ないよ。だって、私があなたを使いたいと思ったんだもの」
俺の苦しい反論も、彼女はスルリとかわして笑った。
「君にはこれから色々やってもらうから、よろしくね」
にっこりといつもの笑顔でそう言って笑う彼女に、俺は黙り込むことしかできなかった。これ以上一切の異論や反論すらも許されないのだとその時悟ったからだ。そうして、屋上から立ち去るときにはすっかりとその笑顔が取って付けたもののようにしか見えなくなっていた。
それ以降、彼女が校内で俺に声をかけてくるようになったのは言うまでもない。ただ、彼女は外面を取り繕った状態であったし、その時はまだ学校内だけで彼女との関係が完結していたのでまだよかった。
せいぜい飲み物を買いに走らされる程度でそれ以上の無茶な要求をされるわけでもなかった。「これのどこが主人公なんだ」と言いたくはなったが、谷木の考えなどわかるはずもないので黙って従っていればそこまで不都合もないので大人しくしていた。
我ながら、まるで犬のようだと自嘲する他になかった。