5月19日 私たちの関係
オモテ面 ユリから見た世界
怪物と戦う時は
自らも怪物にならぬよう、心せよ。
深淵をのぞく時、
深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
———ニーチェ
5月19日 私たちの関係
彼とはもう何年付き合っているだろうか。
彼は愛知県、私は岐阜県に住み、中距離恋愛をかれこれ5年以上している。
彼の名前は靴名善之、私は今宿百合といった。
彼は名古屋市内の大学で教鞭をとる准教授だ。
そして私は愛知県内のとある市の市役所の公務員である。
縁あって私たちは出会い、お互い惹かれあった。
若かったは私は彼とともに長い年月を歩んできた。
性格や趣味も合い、価値観も同じで、ケンカというケンカもなく、ゆっくりではあるが、仲睦まじく楽しい交際を続けていた。
彼と出会えた奇跡に常に感謝をしながら。
彼からは結婚の話も出ていて、私の家族とも会ってはくれたが、今の彼は多忙すぎて、婚約については保留されていた。
確かに彼は常に土日も関係ないように大学に出向き、研究室の学生たちと休みなく研究に没頭し、学会論文執筆の締切に終われ、月一ペースの出張に赴き、恒常的に課せられたすべての任務をこなしていた。
そんな彼をかたわらから見続けていた自分には、結婚の話を強引に進めることはためらわれた。
彼の負担にはなりたくない。
自分の感情を押し殺すくせが、染み付いていった。
ただ私ももう子供が欲しい年にもなり、その気持ちを彼につぶやくことがあった。
彼も子供が欲しいと言ってたが、やはりタイミングがまだ噛み合わないようだった。
進展のない日々にあせりは感じていたが、彼との将来を信じて、待っていた。
それなのに今朝送られたこのLINEに、私はめまいを覚えた。
「以前伝えたとおり、私は決断力のないダメな人間なので、今年は少し距離を置きたいと思っています。ご理解いただけるでしょうか。
神戸の友人宅へ行く機会が増えて、あなたに無愛想な自分がとても嫌になります。
やはり子供が欲しいのであれば、これ以上無駄な労力を費やして過ごすのは良くないと思うのです。
朝から失礼なLINEをしてごめんなさい」
彼からもらったLINEは私の休日を台無しにするに十分だった。
綴られた言葉一つ一つが私の心をえぐった。
もう彼は私との関係を収束させたいのだろうか?
彼への信頼は、一変して私への刃になる。
そして神戸の友人とは?
彼からは、以前より神戸を訪れる際の土産話に登場していた人物がいる。
彼は勤務する名古屋の大学の説明会に従事するため、今は関西に出張しているはずだ。
神戸には友人がおり、今回大阪で開催される説明会後に、その友人を訪ねに神戸には行くとは聞いていた。
そして、このLINE。私は真っ先にその友人との関係を疑った。
午前に届いた疑惑のLINEが頭から離れず、まるで頭を殴打された激痛に苦しむように、私の日曜日は一日中寝込んで過ごすこととなった。
彼に送ったLINEにはこう綴った。
「ダメ人間なのは私のほうです」
彼を信じていた私はずっと騙されていたのか?
悲しくて、悔しくて、耐えることがつらすぎた。
彼と会えたのはそのLINEの一週間後の日曜日だった。
私たちの定番のデートは、いつもランチデートだった。
車の運転が好きな彼は、愛知県内にあるお洒落なカフェやレストランを巡って、食事を楽しむことがお気に入りであった。
この日も郊外の小綺麗なカフェレストランで食事を取り、改めて私は彼と対峙した。
あの日のLINEについて、私は聞かざるを得なかった。
「あのLINEはどういうことですか?
靴名さんは神戸の女社長と浮気してるんですか?」
神戸の女社長とは彼から以前より聞いていた知人である。
彼の研究室の学生と神戸で開催されていた学会のため、宿泊したホテルの女社長だと聞いている。
女社長は彼を気に入り、色々親切にしてくれているとは聞いていたが…
「えっ、あの女社長は50歳以上の人だよ。そんなわけないじゃないか」
彼は驚いたように言った。
彼は40代で私は彼の10歳以上年下だった。
確かに彼は年下のほうが好みだろうし、増して年が大分上の女性に恋愛感情は持ちそうにないタイプだ。
「じゃあ、あのLINEに書かれていた、友人の家に行ったとは、誰の家に行ったんですか?」
「その女社長の家に招かれて行ったけど、食事をご馳走になっただけだよ」
彼はそう説明をした。
ならばどうして私にあんなひどいLINEを送ったのか。
「私は日曜の朝に送られたあのLINEを見て、その日は一日中寝込んでいたんです。」
私はこのひどいLINEへの不満をぶつけると、彼は簡単に謝罪をした。
この日のデートの帰り、彼の車の中で私は今までも不安であったこと、心に引っかかり続けていたことを伝えた。
「私は靴名さんに会うことを無駄な労力と思っていないんです。だからこれからも靴名さんに会いたい。距離を置くとは言ってほしくないんです。それは分かってほしい」
彼は同意してくれた。
ただ、車を運転する彼の横顔は遥か遠くを見つめていて、私とはその視線を重なることはないのだ。
はたして彼の言葉は真意だったのだろうか?