恩人の試食
「三浦社長!こんちはー!」アブラゼミが"ガーガー"と五月蝿く鳴く梅雨が明けたばかりのある日、山崎 和浩は手土産を持って昼前の三浦製作所を訪れた。
「おぉ、久しぶりやな。元気しとったんか?何や、今はイタリアンちゅうのをやっとるんやて?」三浦の作った工業油まみれの笑顔が、より一層に目尻の皺を深く浮き立たせていた。
「イヤな、今月からは、教官の助言でフレンチの方に行く事になったんや。ほんで、その前に半年間のイタリアンの成果をイタリアンなんか縁もないジジィにでも食ってもらおうと思て、これを」
和浩は持っていた風呂敷に包んだ重箱を掲げた。
「そないなトマトやらパセリやらチーズなんかが乗ったあれか?アカン、アカン、ワシは乳製品でもチーズだけは食たらアカンと死んだバアさんにきつう言われとったから無理や」大阪独特の亡くなった親類の遺言のように言って、苦手な物を断わる話術だった。
「そんないつ死んだか分からん人の言葉なんかどうでもエエって。それより食ってみてくれ」和浩は風呂敷を解き、重箱を広げた。
「な…なんや、この見た事もないような食い物は?」三浦は和浩が言うように、食事はほとんどが和食で、たまに食べても日本で進化を遂げた洋食や中華料理くらいのものだ。当然、イタリアンと言っても、ナポリタンスパゲッティかデリバリーピザくらいしか食した事がない。
「これはな、ボンゴレビアンコって言うて、アサリの出汁をソースに使こたスパゲッティや。ほんで、これはラザニアっちゅうて、分かり易う言うたら、イタリア風の餃子や。でもスパイスは効かしてても、ニンニクは入っとらん。そんで最後がポークピカタっちゅうて、豚ロースに玉子と粉チーズを入れた衣をつけてバターでカツレツ風に焼いた洋風のトンカツみたいなモンや」和浩は三段重の一つ一つのメニューを分かり易く説明した。
「何や!結局はチーズが入っとるんやないか?これはイラン!」三浦は子供が駄々を捏ねるようにピカタを拒んだ。
「社長!チーズや言うても粉チーズやし、一旦臭みを取る為に乾煎りしとるから、そないに気にならんはずや。騙されたと思って食うてみてくれ」和浩は割り箸を二つ割にして三浦に渡した。
「まぁ、お前には今までもいっぱい騙されて来たからなぁ、仕方ないのぉ」憮然としながら三浦はピカタを口に運んだ。
「ふーん、こりゃ洋風のトンカツやな」(せやから、そう言うたやろ!)
「ほんで、この味が付いてなさそうなスパゲッティは?……アサリの酒蒸し風ラーメンやなぁ」(なんじゃ?その例えは?)
「最後に赤い餃子は?……うん、餃子って言うより、トマト味の雲呑やなぁ。これが一番美味い」(変な例えばっかししやがって…これやからジジィはアカンねん)
「ほんで、どないやねん!全体に美味いんか?不味いんか?」和浩はイライラして答えを求めた。
「3800円!こんな量、一人では食えんけど、ニ、三人で行ったとしてそれくらいやったら払うわ」和浩としては、微妙な評価だった。しかし、ランチで出したとなれば、十分にお釣が来る値段と言えるだろう。
「ほなら、合格か?」和浩は真剣な眼差しで問い掛けた。
「合格か不合格かは自分で決めぃ!大体、こんなハイカラなモンの味が分からんワシに試食さすな」憎まれ口を叩いていながらも、三浦の表情は満更でもなさそうだ。
「イヤ!社長やなかったらアカンねん。オレが料理の道で行こうって決めたんは、オッサンのお陰やからな。今度はフレンチを勉強して、オッサンのその皺だらけの顔を、もっと皺クチャにしたるからな!覚悟しとけよ」そう言い残して三浦に背を向けて工場を後にする和浩の顔は、満面の笑みを湛えていた。
和浩は、四月から翌年一月までを和食コースで、七月までの半年間をイタリアンコースで学んだ。そして年内いっぱいフレンチコースで学んだ後、三コースのいずれかを選び、学校のOBが経営する本格的な名店で修行と称した実施訓練を三ヶ月間行い、通常三年間のカリキュラムを二年間で卒業する見込みになっていた。和浩の夢はもう直ぐ、そこまで来ていた。
和浩は希望に胸を膨らませて調理師学校へと戻って行った。