#07 -法皇の番犬-
すっかり陽が昇ってしまうと、多少なりとも空気は暖まって来ていた。
辿り着いた時にはまだ誰もいなかった街道にも人通りが増え始め、少しずつ賑やかになっていく。
冴え冴えと冷え切った身体に熱が通っていくのを感じて、カルメリーナは小さく欠伸をした。
「あふぅ……今日も良い天気だな」
「おやおや、さっきまで全力疾走していた人とは思えない余裕で。
やっぱりリーナみたいな体力バカにいい男はぐはぁ!?」
茶化すクリスの顔に、カルメリーナの裏拳が飛ぶ。
「その話をすると神罰が下ると言っただろう」
「せめて拳はやめようよ!? 痛いんだよ甲冑着けてるからさぁ!」
「なら余計な事を言わない事だ。主は寛容だが婚期の話には厳しい」
クリスの方を見ず前だけを見たまま、カルメリーナが歩き続ける。
山を下りてからずっと、彼女は黙ったまま街道を早足で歩いていた。
どこに行くのかも分からないまま、クリスはその後ろを着いて行っている。
「……それで、今から一体どこに行くのさ? もうずっと歩いているけど」
「ここから街道を通って半日ほど歩いたところに、私の古い知り合いが住んでいる。
こいつが中々の情報通でな。今は少しでも彼らの情報が欲しい」
「でもそれって、聖帝国の諜報機関がつい先日掴んだばかりの情報でしょ?
そんな極秘の情報を知っている一般人がいるのかしら」
クリスの問いに、カルメリーナがふふんと得意げに鼻を鳴らす。
「ああ、クリスはあいつを知らないから仕方がないが……あいつは一般人じゃないよ」
「……一般人じゃない?」
カルメリーナの言葉に、クリスが僅かに眉を顰める。
「そりゃ、リーナも私も今は一般人じゃないけど……そのご時世非凡な人の方が少ないと思うよ?
ましてリーナの昔からの友人なんて大抵が騎士階級かそこらの……」
通常、騎士は騎士階級の家の者がなるのが定例だ。カルメリーナもその例外ではない。
信仰心や技能が尊ばれる聖帝国とは違い、王国は完全な身分社会だ。
王の子が王となり、騎士の子が騎士となり、農奴の子は農奴となる。
そこには一つの例外も無く、この先もずっと続いて行くことなのだ。
その為王国民は必然的に同じ階級同士で固まって生活する様になっている。
基本的に騎士階級であれば騎士階級の知り合いしかいない筈なのだ。
それこそ今のカルメリーナとクリスティアーナの様な、何か特殊な事情でも無い限り。
そんなクリスの心情を読み取ったのか、カルメリーナは呆れた様に小さく嘆息した。
「特殊な事情って奴だよ。これから会いに行くのは貴族、それも法皇陛下の番犬さ」
「陛下の番犬って……まさか……!」
息を呑むクリスに、カルメリーナがにやりと笑う。
「ああ、奴の名前はセシル。王国異端審問会の長であり、紋章持ちの子爵だ」
その屋敷に二人が辿り着いた時、陽はもうすっかりと暮れて辺りは薄暗くなっていた。
事前に便りを寄越していないのにも関わらず、正門の衛兵たちは二人をすんなりと通した。
――うわ、本当に顔馴染みなんだ。
もしくは今の自分達の動きも全て掴まれているのではないか、とクリスは内心疑った。
太陽信仰を基にする聖帝国の宗教は王国の国教である為、国民は全員その信徒でなければならない。
異端審問会は異教徒や不信心者を摘発し、裁判にかけて処罰する役目を負っている。
その為彼らは王国の至るところに情報網を持っており、まるで風の様にその情報は素早く正確に伝播していくとの噂だった。
「……ねえリーナ、そのセシルさんってどういう人なの?」
「変わった奴だよ。こんな仕事を務めているのが不思議なくらいには」
「へぇ……変わってるって、どう変わってるの?」
「一目見れば分かるよ。何せ本当に変な奴だからな」
カルメリーナが遠い目をして、クリスが何かを察した様に下を見る。
やがて庭園の長い坂道を登り終えると、二人の目の前に巨大な建物が現れた。
石造りのしっかりとした壁が周りを圧倒する様に屹立し、窓に填められた鉄柵が重々しい雰囲気を醸し出している。
いつのまにか扉の前には一人の使用人らしき女性が控えており、二人に向かって一礼していた。
「遠いところをお疲れ様です。カルメリーナ様、クリスティアーナ様。
応接間にてシエル様がお待ちです。ここは寒いでしょう、どうぞこちらへ」
「うぇ? 何で私の名前を……」
自分の方を指さしたままぽかんとするクリスに、使用人がにこりと微笑む。
「カルメリーナ様の御友人であるとセシル様から伺っております。
……ああ、私はここの使用人のエルサです。御用がありましたら何なりとお申し付けを」
エルサはもう一度軽く一礼して、大きな扉を特に手古摺る様子も見せずに開いた。
耳障りな音を立てながら木製の扉が開き、屋敷へと三人が踏み入る。
屋敷の中は無骨な外装とは全く違い、南方の屋敷の様な豪華な設えだった。
白く塗り固められた壁には各地の風景を描いた絵画が飾られ、床には上等な絨毯が敷いてある。
階段の手すりは黒檀で、触れれば跡が付きそうな程丹念に磨き込まれていた。
しっかりと換気を行っているせいか籠った空気はどこにもなく、絨毯には泥ひとつ着いていない。
異常なまでに清潔な空間が、そこにはあった。
「ここはセシル様の意向で清掃が徹底されているんですよ」
息を呑んで辺りを見回しているクリスをちらりと見て、エルサが歩きながら喋る。
「セシル様は仕事柄か、自分の空間に汚れがある事を非常に嫌います。
この屋敷には常に二十人ほどの使用人がいますが、まずは徹底的に清掃のイロハを叩き込まれますね。
朝はキッチンメイドや料理人、執事長を除いた全員が二時間もかけて屋敷中を掃除するんです」
中々大変な仕事ですよ、とエルサが苦笑いする。
エルサはクリスの目にはまだ十代後半であるように見えた。
肌に少し日焼けの跡が残っていて、矯正されているものの歩き方や発音に独特の癖がある。
彼女が地方から出てきた農家の娘である事は、教会育ちのクリスにもはっきりと分かった。
大家族の農家の娘は、家の稼ぎ手となる為に使用人として働きに出されるケースが多い。
彼女の様に爵位持ちの家で働くのならばまだ良いが、中には家畜同然の扱いを受けている娘もいる。
それがどれほど辛いものか、働きに出される事がどれほど寂しい事かは告解を聴いてよく知っていた。
「セシル様、客人をお連れしましたよ」
廊下の最奥にある大きな扉を叩きながら、エルサが呼びかける。
かつかつと硬い音が何度か響き、扉の向こうで誰かが立ち上がる気配がした。
「セシル様、いらっしゃいませんか? カルメリーナ様とクリスティアーナ様が――」
「ああ、いるとも。通してくれ」
中から中性的なよく通る声が聞こえ、数拍待ってエルサが静かに扉を開く。
扉が開かれると同時に、クリスは大きく目を見開いた。
「やあメリィ、随分と久しぶりじゃないか!
君が訪れなかった六百と五日、僕は一日千秋の想いで君を待ってたよ!」
部屋の中央で、赤いドレスを着た女性が笑顔で大きく手を広げている。
細くて白い肢体は舞踏会に着ていく様な贅沢なドレスに包まれ、香水がふわりと香っている。
コルセットで締められた腰は折れそうな程に細く、ヒールを履いた脚は彫像の様だ。
「一体何をしていたんだい? きちんと食事は摂ってる? 睡眠は?
何だか顔が疲れてるみたいだけど……」
セシルがカルメリーナの手を取って、ぶんぶんと勢いよく上下に振る。
見かけによらず快活な人だとクリスは思った。
――いったい、どこがそんなに変わっているんだろう。
多少大袈裟なところを除けばどこに出しても恥ずかしくない様な出で立ちだ。
そこまでおかしいものでもない。ただの貴族の娘だ。
しかしセシルを見るカルメリーナの目は、どこか婦女子を見る目とは違っていた。
「二年近く沙汰無しにしていたのは謝ろう。私は元気だよセシル。こちらは私の友人で――」
「く、クリスティアーナです。どうかお見知りおきを」
跪こうとしたクリスに微笑みながら、セシルが手を振って制止する。
「堅苦しいのは無しだ。友人の友人は僕にとっても友人さ」
――うん? 僕……?
その一人称が気に掛かり、クリスティアーナがもう一度よくセシルを見てみる。
一見すれば見た目の整った淑女だ。貰い手がいないのが不思議なほどに。
しかし女であるクリスからすれば、その骨格は普段見慣れない物だった。
肩の辺りが少しがっしりしていて、細く引き締まった腕は僅かに筋肉質だ。
何より必要以上に着飾ったその風貌が、クリスからすれば違和感を抱かざるを得ない。
――……一目見れば分かるよ、何せ本当に変な奴だからな。
「あぁっ!?」
クリスの頭の中で、二つの歯車がかちりと噛みあう。
それを見たカルメリーナはやれやれと言わんばかりに肩を竦め、セシルはにんまりと笑った。
「そ、そんな事が……ねぇリーナ、セシル子爵ってもしかして――」
「……ああ、クリスの考えている通りだよ」
ふぅ、とカルメリーナが大きなため息を吐き、セシルの方を見る。
「そいつは女ではなく、女装した男なんだ。……だから言っただろう、一目見れば分かる変な奴だって」
「ふふふっ……皆驚いてくれるけど、君は格別良い反応をするね」
苦虫を噛み潰した様な顔をしているカルメリーナと、腹を抱えて笑っているセシルを見て、エルサが気まずそうに笑う。
一頻り笑った後でその姿を認めたシエルは、滲んだ涙を拭いて一つ手を叩いた。
「さあセシル、客人が来ているのにお茶の一つも出さないのでは我が家の沽券に関わるぞ。
ケイトと一緒に紅茶と菓子の準備をしてくれ。ディナーまではまだ時間がある」
「畏まりました。アーレ・グレイでよろしいですか?」
「いや、ドラゴンムーンにしてくれ。メリィはそっちの方が好きらしいからね。
菓子は……そうだな。キッチンメイドの新入りに中々良いスコーンを焼く子がいただろう?」
「マリエッタですね。彼女は南方の菓子屋の出身ですので」
「そうそう、マリエッタにスコーンを焼かせると良いよ。出来がよければ手当を弾むと伝えて」
「分かりました。それでは失礼します」
エルサが一礼して扉を開き、再び一礼して扉を閉める。
彼女の足音が遠ざかって小さくなり、やがて聞こえなくなったところで、セシルが大きく息を吐いた。
「……それで? 今日は何を聞きに来たんだい?」
カルメリーナの眉根が僅かに動き、クリスが僅かに身体を震わせる。
何もかもこの男には御見通しなのだ。それをカルメリーナは重々承知していた。
「君達を歓迎しない訳じゃないが、僕も最近は少々忙しい身でね。
何しろ他に例を見ない事件が起きてるんだ。法皇陛下も国王様も、今はその対応にてんてこ舞いだ」
「……月光の娘、か」
カルメリーナの言葉を聞いて、セシルがぱちんと指を鳴らす。
「そう、君の今の任務は報告で聴いていたが……本当にそうだったんだね。
なら話は早い。僕も君も今や世界で一番忙しい人種だ。何せ教義どころか世界に関わるのだからね」
「……その、世界に関わるという事が私には分からないんだ」
一歩前へと足を踏み出し、カルメリーナがセシルへと歩み寄る。
「なぁセシル、月光の娘とは何なんだ? 先日彼女を奪ったという男は一体何者なんだ?
月光の娘が世界にどう関わっているのか、私達には何も情報が与えられていない」
一息にそこまで言ってしまって、カルメリーナが一度言葉を切る。
セシルは暫くの間呑まれた様に彼女の顔を見ていたが、やがて思い出した様に再びにやりと笑った。
「……なるほど、まずは舞台に上がる為の台本が欲しいという事だね?」
「そういう事だ。台本がなければ立ち回れないし、踊る事もできない」
「…………」
はぁ、とセシルが小さくため息を吐き、革張りの椅子にどっかりと座り込む。
「立ちっ放しだと疲れるだろう? 掛けなよ」
カルメリーナの近くの長椅子を顎でしゃくってみせて、セシルが微笑みかける。
二人が頷き合って長椅子に座ると、セシルは満足そうに何度も頷いた。
セシルが小さく息を吸い、微笑みを崩さないままそっと口を開く。
「いいだろう。それでは今から、月光の娘について話そうじゃないか。
昼の世界に冷たい夜を持ちこもうとしている――愚かで穢れた少女の話を」