#06 -旅の始まり-
棺の中はぞっとするほど冷たくて、肌が粟立つ程静かだった。
崩れた天井からは夜空が覗き、眩い月光が石室全体を照らしている。
その部屋の最奥、壁にぴったりと背中を着ける様にして、一人の少女が立っていた。
アベルの方へと真っ直ぐに両手を伸ばして、少女が微笑んでいる。
「久しぶりね、アベル。わたしはずっと……貴方を待っていたのよ?」
――嗚呼、間違いない。
少女の姿を認めたアベルの目が、大きく見開かれる。
目の前にいる少女は、アベルの知っている少女の姿ではなかった。
黒い髪、青白い肌、血の雫の様な瞳。どれも記憶の中の少女の像とは繋がらない。
しかし瞳の奥の冷たい輝きも、しっとりとした微笑みも、アベルは知っていた。
胸の刻印が更に熱くなってきている。針で刺される様な痛みも、今は微かに感じられた。
――間違いなく……彼女なんだ。
「わたしは信じていたよ。アベルなら必ずやって来るって」
「ああ……勿論だ。勿論だとも……」
言いたい事が沢山あるのに、言葉が上手く出てこない。
上擦った声を出しながら、よろよろとアベルが少女へと近づく。
「俺は……俺はお前の事だけを考えて……ずっと……」
ゆっくりと、少女がアベルの方へと歩み寄っていく。
そして二人は石室の中心で立ち止まり、お互いに見つめ合った。
「ねえ、アベル。わたしが分かる?」
「分かっているよ。例え姿が違っても……お前はお前だ」
「ふふっ、やっぱり」
にこりと少女が笑い、小さな手をアベルの胸に当てた。
あの日、彼女がアベルの前から消えてしまった日。
アベルの胸には月蝕を模した刻印が刻まれ、その刻印が少女へと彼を導いたのだ。
勿論仲間達の助けもあった。
しかしそれとはまた別に、最終的には彼女がここへとアベルを連れて来たのである。
そんな想いが、今のアベルにはあった。
「早くここを出よう。ここを出て、ここじゃないどこかへ行くんだ」
「そうね、早くここから出て――」
少女の言葉が、そこで途切れる。
一本の矢がアベルの頬を掠め、石壁に突き刺さった。
アベルの頬から鮮血が一筋飛び、少女の頬に掛かる。
「二人とも動くな! 武器を捨てて両手を上げろ!」
アベルが振り返ると、数人の兵士がクロスボウや手槍を構えて立っていた。
兵士達の目にはぎらぎらとした焦燥と殺意が籠っていて、手は微かに震えている。
そのうちの一人は来ている甲冑が上等なものだった為、指揮官であると一目で分かった。
「このままなら、どうせ責任取らされて処刑だ……! ならいっそここで……」
指揮官がぶるぶると身体を震わせて、アベル達の方を睨む。
しかし少女は露ほども物怖じせず、頬に着いた血を指で拭ってぺろりと舐めていた。
アベルの胸が急速に熱を持ち、鼓動が早鐘を打つ。
月の光がより一層、その強さを増した様に感じられた。
「月の輝きは……死の輝きである」
再びアベルの胸に手を当てて、少女が呟く。
焼け付く様に刻印が熱い。アベルの身体の中に不思議な力が漲ってくる。
「死は万物に訪れ、昇った陽を日没へと導く」
――これは、何だ……。
アベルの脳裏に、幾つもの映像が浮かんでは消えて行く。
少女の笑顔、少女の泣き顔、無為に流れて行く囚われの日々。
アベルと彼女との別れ、アベルと彼女の出会い、始まりから終わりまでの道程の数々……。
その全てが眩しく、そして哀しく、どこか懐かしかった。
「導け、月光の娘を。結べ、静寂の契りを」
燃える様な熱さが、胸から全身へと広がっていく。
やがてその熱が頭にまで達した時――かちりと何かが噛み合う音がした。
もう一度剣を強く握りしめ、アベルが兵士達の方を向く。
その目には欠片ほどの迷いも無く、瑞々しい程の勇気と闘志が滾っている。
――もう、何も恐れる事はない。
半分に別れた二つの月は、今満月へと戻ったのだ。
ゆっくりとアベルが剣を振りかぶり、少女が手を離す。
刀身は月光に照らされて、青白く輝いている。
その輝きは次第に強くなり、目も眩む程の光を放ち始めた。
「……っ、撃て撃て撃て! 何もさせては駄目だ!」
指揮官が射手へと命令した、その時。
「「月が導くその先で、死者は歓びの踊りを踊るだろう――!」」
二人でそう唱えて、アベルは剣を振り下ろした。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
アベルの剣から放たれた輝きは、まるで堰を切った濁流の様に溢れ出して兵士達を呑み込んだ。
逃げ惑う兵士も、棺の方へと向かう兵士も、立ち尽くす兵士も分け隔てなく。
ロゼリア達は既に戦場から離脱していた為、月光の範囲にはいない。
光はそれだけに留まらず、崩れた棺から溢れ出して戦場へと瞬く間に拡がっていく。
それに呑まれた兵士達は残らずその命を失い、草木も一瞬にして枯れ果てた。
月の輝きは、死の輝きである。
その言葉の通り、圧縮され解放された月光は浴びたもの全ての命を等しく奪っていく。
あっという間に戦場へと月光は満ち――まるで潮が引いて行く様に薄れて消えて行った。
ぞっとする程の静寂が雪崩の様に辺りを覆い、枯れ果てた草木が音も無く崩れ去る。
可視化された死が、肌で感じられるほど濃密な死がその空間には満ちていた。
命を失った血の匂いと、鼻を抜けて行く夜風の匂い。
そして少女の匂いだけが、アベルの鼻腔をくすぐっていた。
「……さあ、行こうよ。私を連れて行ってくれるんでしょ?」
剣を振り下ろしたままの体勢で呆然としているアベルに、少女が触れる。
はっとした様にアベルの身体は一度痙攣し、すぐに少女の方を見た。
――何が……起こったんだ。
意識を胸の方へと移す。痛みも熱も、既に引いていた。
アベルの背中を、冷や汗が一筋流れ落ちる。
必死だった。彼女を護ろうと無我夢中だった。
眩い光が視界を覆い、気が付いた時には辺り一面屍の山になっていた。
それがアベルの認識していた一部始終である。
しかし、その屍の山を築いたのが他ならぬ自分である事も、アベルは確かに実感していた。
「月の輝きは……死の輝きである」
「ええ、そうよ。貴方は前のわたしの時に、導き手の刻印を刻まれたの」
つう、と少女の指が甲冑の胸部をなぞり、にっこりとほほ笑む。
「月光は死に絶えた光。命を奪う絶対的な力。
私の力と導き手の力が合わさった時、月光は初めてその力を解き放つの」
少女の手がアベルの頬を撫で、髪に触れる。
「あるべき場所にわたしと貴方が至る時に、世界は初めて世界となるわ」
少女の手がアベルの剣の柄から手を解き、ゆっくりと握る。
「私を連れて行って。それが貴方の――貴方達とわたしの望みなのだから」
「……ああ。分かっている」
アベルが少女の手を握り直し、剣を背負う。
二人はかつて扉のあった方向を真っ直ぐ見つめていた。
その背中を押す様に、一陣の追い風が二人へと優しく吹く。
「連れて行こう。この世界を――来たるべき夕暮れへ」
どこに行くのかは分からない。しかし、何をすべきかは分かる。
アベル達の旅は、今ようやく始まったばかりなのだ。
世界をあるべき形へと導く、長い長い使命の旅は今始まったのである。
――今はまだ、この旅の行方は分からないけれど……。
「これが、俺の使命だ」
力強くアベルが言い、少女がそれに頷く。
秋の涼風に導かれる様に、二人は同時に、ゆっくりと最初の一歩を踏み出した。