黄金の雄牛が吼える時
多少の残虐描写あり
「すまない、イオ。君を妻にすることはできない」
それを聞いた時、婚約者であった彼女は心底驚いたという表情をした。
突然婚約者に婚約破棄を突きつけられた反応としては順当なものであっただろうが、私は見逃さなかった。
彼女の顔に一瞬希望のような、あるいは安堵のようなものが閃いたのを。
「何故でしょうか?私に何か至らないところでも?」
それらはすぐに消え、仮面の様な見慣れた無表情に戻った彼女は胸に手を当て、淡々と抑揚の無い声で問いかけてくる。
「本当にすまない。君に落ち度があったわけではない」
深々と頭を下げて詫びれば、彼女は再びどうしてと繰り返す。
「他に好きな女ができた。私は彼女と結婚する」
「お待ちください殿下!この結婚は陛下のご意思でもあります。殿下の一存で覆すことは許されません」
「それでも、だ。責任は私が取ろう」
振り返って手招けば、花嫁衣装を身に纏った赤毛の少女が進み出てくる。
花嫁衣装だ。
この、婚礼の直前の花嫁の控室に。
「貴女は・・・・・大臣のイタカ様の御令嬢では?」
「はい、エオスと申します」
嫣然と微笑む少女を見て、直舅になるはずだった大神官が眉を潜める。
不快というより探る様な、あるいは何かを見極めようとしているような目つきだった。
「そのエオス嬢を妻にすると、そう仰せですか?」
「そうだ」
「申し訳ありませんイオ様。私、殿下を愛してしまいました。殿下も私のことを・・・・・」
切なそうに目を伏せるエオスは、その名の通り曙の様に美しい。
私の友人達が陰で囁き合っていたように、イオよりもずっと。
しかし私がイオではなくエオスを選んだのは、彼女の美しさ故ではなかった。
「イオ殿、これは貴女の幸せのためでもある。どうか、良い人を見つけて貴女も幸せになってもらいたい」
「殿下・・・・・ありがとうございます」
最早喜びを隠そうともせず、イオは父親に抱きつくと嬉し涙を流し始めた。
恒の表情の無さが嘘のように、それこそ幼子のようにわんわんと声を上げ、顔を崩して父に泣きつく。
「殿下。このアルゴ、終生御恩を忘れず殿下への援助は惜しみますまい」
娘を抱き返す大神官の目にも、涙と安堵の光があった。
私がイオではなくエオスを選んだ理由がそれだった。
すなわち、彼女が私を蛇蝎の如く嫌っていることが。
『まるで闇の中から幽鬼に見られているようだ』
友人が彼女をそう評したのはいつのことだったか?
生気の無い熾き火のような赤い目。
抑揚の無い声。
表情の抜け落ちたような蒼白い顔。
彼女を庇わなければならない立場の私も、内心では頷いていたほど彼女に相応しい表現だった。
冥府から彷徨いい出たる死者が、昏辻に立って生者を見ている様な。
イオはそんな女性だった。
勘違いしないでほしい。
彼女は別に恐ろしげな姿をしていたわけでもなければ、暗く冷たい性質だったわけでもない。
十分に綺麗で、少々大人しくはあったが普通の少女だった。
普通に話し、普通に笑う平凡で愛らしい少女。
恐ろしげな姿をしていたのは、むしろ私の方だ。
父親譲りの厳めしい顔立ちに加え、顔全体を覆う数年前に患った疱瘡の痕。
痘痕に覆われた顔は、王子という私の地位をもってしても他人から褒め言葉を引き出せたことのない代物だった。
大神官の娘として元々面識のあった彼女と、改めて婚約者として引き会わされた時のことは今でも忘れられぬ。
白桃のような頬をして、いつも控えめな笑みを浮かべていた彼女は窶れ果て、魂が抜けたように虚ろな目で私を眺めていた。
大神官を父に持つ若くて綺麗な娘にとって、醜い化け物のような男との結婚は疎ましいものだったのだろう。
せめてもの慰めになればと思い、できるだけ優しく、誠実な態度をと心がけて接していたが、心を殺したような彼女の態度は変わることなく、むしろ婚礼の日が近づく程に酷くなるようだった。
そんな時、私を慰めてくれたのがエオスだった。
「お顔が恐ろしくても、殿下の御心は違いましょう?」
「イオ様にも殿下のお気持ちが通じる日がきっと来ます」
エオスの優しい言葉に、私がどれだけ救われたことか。
私に会うことを苦痛にしか感じていない婚約者に疲れ果て、優しい言葉をくれる少女に心が移ったとして、誰がそれを責められよう。
やがて私も婚約者に会うことを苦痛に感じるようになり、暇を見てはエオスと逢瀬を重ねるようになった。
それが不貞や不義であると解ってはいても、自分を厭う婚約者よりは好意を示してくれるエオスと一緒に過ごしたい。
そも疎ましく思っている私との結婚は、イオにとっても不幸でしかないではないか。
嫌いな男と結婚し、褥を共にして子供を産む。
それが女性にとって幸せなことだろうか?
自分と結婚して不幸になった妻を持って、男が幸せだろうか?
互いに不幸になるだけの結婚なら、そんなもの止めた方がいい。
「君を愛している。私の妻になってくれないだろうか?」
そう言った私に、エオスは涙すら浮かべて喜んでくれた。
厳めしい顔つきも、痘痕も関係無い。
ずっと貴方を慕っていたと。
どんな罰を受けても良いから、貴方の妻にしてほしいと。
その答えを聞いた時、自分の判断は間違っていなかったと強く思った。
イオは嫌いな私に嫁ぐより、他の相手を見つけて幸せになれる。
私は愛するエオスと結ばれて、二人で幸せになれる。
誰も傷つかず、誰もが幸せになれる。
最良の判断のはずだった。
イオではなくエオスを伴って現れた私に、広間は水を打ったように静まった。
一瞬不安そうな表情を浮かべたエオスの手を強く握り、大事ないと頷いて歩を進める。
「これは、どういうことじゃ?」
亡き父に代わり国を治める女王たる母の前で一礼すると、母、いや女王は笏で床を一打ちして厳しい声で問い質してきた。
その目は鷲のように鋭く、声は巌のように重い。
「女王陛下。私は大神官殿の娘のイオではなく、このイタカ殿の娘エオスと結婚いたしたく存じます」
「・・・・・っ、それは!それはいけません、殿下!」
それを聞いて飛び出してきたのはエオスの父たるイタカだった。
恐れながらと私の足元に平伏し、それだけは許してほしいと悲痛な声で訴える。
これにはエオスも、私も魂消るほど驚いた。
何故だ?
娘が王子に嫁ぐことがそんなに嫌か?
たった一人の王子である私に嫁げば、娘には王妃の地位が約束されるというのに?
娘が本来の婚約者を蹴落として男を奪った阿婆擦れだと謗られることを嫌ってか?
イオの父親である大神官を敵に回すことを避けたいのか?
あるいは女王の意向に逆らうことを恐れてか?
ならば
「女王陛下、イオ殿は私を嫌っております。故に私に嫁ぐことはイオ殿にとって不幸でしかございません」
「・・・・・で、あろうな」
女王は厳しい表情のまま続けよ、と促す。
「大神官殿もこのことは既に承知のこと。お怒りになるどころかお喜びの様子で、感謝の言葉すら頂きました」
「・・・・・・我が大神官の立場でもそう言うであろうな」
あっさりと認めた女王に、私は少し傷ついた。
私は母にとってすら、婚姻の相手にしたくない程の醜男であるらしい。
「あとは陛下の御心次第です。私も互いに不幸になると解っている婚姻は結びたくはありません。よって互いに愛し合うエオス殿を娶りたく存じます」
「と、息子はこう申しておるが、そなたはどう思っておるのじゃ?」
「陛下、どうかそれだけは!私にとってもたった一人の娘です。どうかお許しを!」
イタカが這い蹲ったまま女王の方へ顔を向けると、縋るようにその裳裾を掴む。
常なら決して無いイタカの無礼にも、女王は視線すら向けずエオスを厳しい目で見据えていた。
「私は殿下を愛しております。殿下のためならこの身も命も惜しくはございません。どうか、私が殿下に嫁ぐことをお許しください」
エオスが膝を着いて深々と頭を垂れると、イタカは今度はエオスの裾に取り縋った。
「馬鹿なことを言わないでおくれ!今ならまだ間に合う。考え直してくれ」
顔色を失くしたイタカがエオスをガクガクと揺さぶり、涙すら流し始める。
対照的に、女王は皮肉っぽく唇を歪めて冷めた目でイタカを見ていた。
「命も惜しくないか。よく言った」
女王がとんとんと二度床を打つと、兵士の手でイタカが引き離され、入れ替わるように結婚の誓約書を捧げ持った巫女が進み出た。
「よかろう。そなたらの婚姻を認めよう。誓約書に署名するがよい」
「ありがとうございます」
ペンを取って互いの名を記し、巫女の手を介して誓約書が女王の手に渡る。
それを満足そうに眺めた後、女王は厳かに告げた。
今この時より、二人を夫婦として認めると。
そうして、神官達の手で一台の御輿が運び込まれてきた。
それは真鍮でできたほぼ等身大の雄牛の像だった。
広間の中央に据えられたその周囲に、薪が山と積まれ、その上を覆うように香草の束が重ねられる。
「母上、これは?」
「あれは、そなたが疱瘡から回復したばかりの頃じゃった」
女王が私の手を引き、屈強な若い神官が両脇からエオスの腕を取る。
あっと言う間に私達は引き離され、エオスは雄牛の像の前へと引き立てられた。
「母上?あの像は何なんです?!」
「そなたの父上、先代の王が口を滑らせたのは」
雄牛の像の脇腹に取り付けられた扉が開くと、中は空洞になっていた。
「酷い痘痕の残ったそなたを見て嘆く我を慰めようとて、王はこう言ったのだ。『だが、母親譲りの髪の美しさは変わらぬ。女神も羨む炎の如き髪だ』と」
母は金の冠の下の己が髪を撫でて見せる。
私が唯一母から引き継いだ、赤みがかった金の髪を。
「あとは予想がつこう。女神の怒りに触れて、その日の内に神託が下ったわ!『王族の中より炎の色を宿した者を生贄に捧げて償うべし』と」
そこで、私はあの雄牛の像と周囲に積まれた薪の意味を悟った。
あれは中に生贄を閉じ込め、火で炙るためのものだと。
そして王族の中で炎の色を宿しているのは二人、いや三人だけだ。
母と、私と、私の妃。
「は、母上!では・・・」
「お前か、我か、どちらかを生贄に捧げなければならん。そこで名乗り出たのが大神官の娘で、巫女であったイオじゃ。自分が王子の妃になり、王族の女として生贄になると」
その明かされた真実に、私は何を言おうとしたかも忘れてただ母の顔を見ていた。
イオが、自分から名乗り出た?
私の妃になって、王族として生贄になると?
「何故・・・・・・・」
「お前の父は先々代の王の娘である我の夫故王となった。この国の王家の血を引いてはおらん。よって我を生贄にするわけにはいかなかった。ならばお前を生贄にするしかなかろう?」
だから、と母は再び鋭い目で私を射抜いた。
「『愛する王子の身代わりに』と名乗り出たのじゃ」
お前は賢明な男よ、と母は、女王は告げる。
「お前は、生きながら焼かれても構わないほどお前を愛する乙女の命を救ったな。イオの愛情と献身に報いたぞ」
それを皮肉と解らない程、私は愚かではなかった。
私は、私の身代わりに生きたまま焼かれると自ら名乗り出るほど愛してくれたイオの気持ちも知らず、他の娘に心を移し、他に愛する女ができたのだと彼女を捨てたのだ。
イオが私との婚約以来変わってしまったのは、生贄の儀式への恐怖に耐えていたからだったのだ。
「あ・・・・・・あぁ・・・すまない。すまない、イオ。すまない、君に何と詫びればいい?」
私は、イオの命がけの愛と献身を裏切ってしまった。
命すら差し出したというのに、不貞を持って応えられた彼女はどんなに傷ついたことか。
「裏切り者!」
そうだ。
私は裏切り者だ。
恩に仇で報いた裏切り者。
しかし、そう私を責める声はイオのものではなかった。
「騙したわね!?私を騙したのね!?」
神官達に抱え上げられ、今まさに雄牛の中へ押し込められようとしているエオスが憎しみを込めて叫ぶ。
「『イオは私を愛していない』?嘘吐き!嘘吐き!本当はイオを助けたかったんでしょ!呪ってやる!この化け物が!醜い化け物」
「母上・・・」
「おや?王子のためなら命も惜しくないと言っていたはずじゃが?」
「母上」
「世継を失うわけにはいかん。諦めよ」
扉が閉じられ、薪に火が放たれる。
炎に炙られた雄牛が黄金に輝き、その口からは牛そっくりの咆哮が放たれた。
文中の雄牛の像は「ファラリスの雄牛」という名前の道具です。
使い方は文中の通り(生贄を捧げるためのものではなく処刑道具ですが)
頭の部分に仕掛けがあって、中で叫ぶと口から牛の吼えるような声が聞こえるらしい。