校庭の隅に人型の染み
編入試験と入学手続き、その二回に来たきり三度目の訪問だが、やはり味気ない印象の学校だった。私立であり、進学に力が注がれているという校舎から漂う空気は遊びに欠け、備えられた狭い校庭はサッカーもできないほどに狭かった。朝練をする生徒の姿もいない。それで問題は生じないということなのだろう。そういう校風なのだ。
だからこそ、心配があった。春の頭とはいえ、高校受験の天王山である三年生時の転校生である。
「さて、下駄箱はどこだったかな」
校門を抜けてしばし散歩する。早く来すぎて、予定の時刻よりも少し余裕があった。これから一年間通うことになる学校だ。雰囲気を掴んでおいて損はない。
すると、校庭の校舎寄り、コンクリートで固められた一角に、花壇とは違うなにか妙なものを認めた。色味がそこだけ異なっていて、太陽に照らされて浮かび上がるそれは不気味に見える。
近づいてみるとそれは染みだった。
「なんだこれ」
見下ろしてみると、それが思いのほか大きいことに気付いた。不細工な形に歪んだ赤色からは痛々しさが感じられる。その輪郭は歪んんでいたが、その曲線に込められた法則性は少しの思考でありありと想像できる。
この染みは、人の形をしていた。
ならば赤いのは血なのだろうか。冷静に観察を進めていたら、背後に気配を感じ取る。振り返ると、細い体を背広で覆った中年の男が訝し気にこちらを見つめていた。
「……どちら様で?」
と神経質そうに眼鏡をいじっている。その物言いからして、校内の生徒の顔を把握している立場なのだろうか。突き刺すような視線は不審者に対するそれだった。
「あ、すいません。転校してきた者で、本日からお世話になります」
そう告げると、厳しい顔つきが少しだけ和らぐ。もごもごと口が動いているのは「そういえばそんな話があったな」と独り言を言っているようだ。
「昇降口の場所を忘れてしまって。早く来すぎてしまいご迷惑をおかけしました」
「ああ……では、案内するので着いてきてください」
踵を返した猫背の背中を追う。枯れ枝のような背中同様、歩調は弱々しかった。
気まずい沈黙を払うように、疑問を挟んだ。
「あの、ひとつよろしいですか?」
「……なんでしょうか」
立ち止まった彼は、首だけで振り向いた。
「そこの窓近くのコンクリートにある染みって、いったい何ですか?」
質問を言い終わると同時に、その顔がみるみる青ざめていった。
「染みなど、ありませんが」
恐れを斬るように前に向き直り、幾分速足で進んでいく。
なるほど、タブーなのか。染みのことは話題に挙げてはならないと。
ひとつ入手した情報を咀嚼し、自分の解釈を広げていたらいつの間にか昇降口についていた。
「それでは、職員室に案内しますので。上履きは持参していますね?」
素足で廊下に立つ彼に、上履きを見せつけるように履きなおす。
自分のつま先を眺めながら、あの染みを見たとき……驚きも恐怖もしなくて、なぜか喜びのような感覚を抱いた自分の心を見つけていた。
想定通りというべきか。おざなりな自己紹介だけを済ませ席に着くと、何の感慨もなく授業が始まった。授業進度についての質問が挟まる以外、転校生らしい扱いを受けることはなかった。
それに悲観しているわけではなく、むしろやりやすいと思えた。いくつか学力別のコースが設けられ、編入試験を高点数でパスしたらしい俺はトップ進学コースに所属していた。
そんな俺のクラスは、休み時間になっても机から離れる者はまばらであった。一部の余裕のある人間以外は、机に齧りついて単語帳をめくるのに躍起になっている。俺はというとわりと余裕があったので、そんな彼らを見つめて「大変だな」と心に呟いていた。
無味乾燥な日々が流れて、気が付いたら梅雨になっていた。
夏休みも近くにある……といっても受験勉強に費やすだろうが。とにかくその時期に、授業の復習を冷房の効いた図書館でしていた。
「もうすぐ実力テストだけど、意気込みはどうかな」
隣に座る優一が呟いた。
転校してからできた、唯一の話し相手だった。
「どうもなにも、トップ10に食い込めば俺は十分だよ」
本番は、腹さえ壊さなければどうとでもなるだろう。優一もそのクチだった。だから、俺たちは気が合ったのだった。
いや、それだけではなかった。
なぜか優一と話をしていると、胸の中になにかが渦巻いてくる。その感情は遠く、よくわからない。ただ、厭な感覚ではなかった。
「帰ろうか」
荷物をまとめ始める優一に倣い、参考書を乱暴にカバンに捻じ込んだ。
下駄箱で靴を履き替えて外に出る。買い食いくらいして帰ろうか。季節を先取りしてカンカンに照る太陽は容赦なく俺たちを炙っていく。衣替えは二週間も先だ。冷たいものを買うくらいバチは当たらないだろう。
相変わらず静かな校庭を横目に校門に向かおうとする足が、ふいに止まった。
今までずっと、視界の隅に映すだけで流していたあの『染み』が、今日はやけに気にかかったのだ。
あの日、はぐらかされた染みについて。この学校のタブーについて。ところで、あの日俺が会ったのは学年主任の理科の教師だった。
「なあ、優一。あそこに染みがあるよな」
世間話をするように、わざと軽く聞いてみる。
こちらを見返す優一の瞳は、びっくりしたように一瞬開き、その後、優しい笑みに変わった。いつもクールなこの男には、なんだか珍しい反応だった。
「ああ、染みね。わかるのかい」
妙な物言いだった。
「そりゃあ、わかるよ。あんだけはっきりと見えるンだからさ」
冗談めかした声色が滲んでいることに、自分でも気づいていた。
あの日の先生の反応と、優一の言葉から、あの染みは『見えたり見えなかったりする』ような部類の現象であるという結論を導いてしまっていた。
「翔琉君、キミには見せてもいいかな」
「……え?」
優一は俺を君付けで呼ぶ。そういう呼び方をするような性格を伺わせる細い体を、なぜかしきりにまさぐっていた。
それは、制服の下に来たワイシャツをずらして裾を出しているのだった。
裾がすっかり垂れ下がり中途半端なヤンキーのような出で立ちになった彼が、おもむろに裾をまくり上げ、己の腹をさらけ出した。
俺は、息を飲んだ。
白く細い腹には、夥しい数のアザとタバコの押し付け痕に見えるくすみがこびりついていた。一度や二度でできる代物ではない。もっと数多く、習慣的なそれによるものに俺は見えた。
「もう痛くはないんだけどね」
それだけ言って、裾を戻しながら校門へと歩いていく。
俺は、わかりすぎるほどにその事実を直視していた。
この学校にはいじめがあって、それが原因で誰かがあそこに染みを作ったんだ。気の合う優一に、いじめの傷ができている。頭の中にフラッシュバックし始める光景に、俺は頭痛を覚える。だけど、それよりもずっと心が痛かった。
今日は優一に奢ろう。と決めながら彼を追った。
衣替えが済み、期末テストの結果も返却されて夏休みがもう目前まで迫っていた。
俺の順位は学年で四位。まずまずというところだろう。優一はトップだった。
さて、夏休みをどうやって過ごそうか。そんなことを考えながら、今期最後のホームルームの時間を迎えようとしていた。
「あれ? 大森の姿が見えないな」
教壇から教室を一瞥して、担任教師が呟く。そう言われると、教室の隅の席に、あの小さな体が見えなくなっていた。
「誰か知らんか?」
と問いかけるも、教室は沈黙したままだ。まあ、大方トイレか体調を崩して保健室かのどちらかだろう。
俺の知っている大森という男は、なぜトップ進学コースに進んだのかわからないほど要領の悪い男だった。いつも成績は学年で中間ほどで、教師にすら諦められていた、落ちこぼれ。確か編入試験はマークシートだった。入学試験もそうなのだろうか。学年が上がるときに振り下としの試験などはないのだろうか。三年に上がるまではまともだったのだろうか。あるいは、親がゴネているのかもしれない。
そう考えていた俺の耳に、つんざくような強烈な音が聞こえてきた。窓の外からだ。
「なんだ!?」
驚き立ち上がる。窓の外に駆け寄ろうとしたとき、窓際の席にいる優一と目が合った。
その目が語っていた。
大人しくしていろ。と。
少し冷静になってみると、教室の空気がどこか異様なことに気付く。
誰もが顔面を蒼白に染め、なにかに怯えるように震えていた。担任教師もまた、同じだった。
「……座っていなさい」
と彼が言って、窓を開けて下を覗き込む。その大きな体が、ひとつビクリと震えた。
あけ放たれた窓から、絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。
担任教師が出ていくのを合図に、にわかに立ち上がり窓へ寄っていく者が溢れだした。
だが、優一は想像以上のことをしようとしていた。
「現場に行ってみようか」
と彼が出ていくのを追って、外に出ると沢山の教師が校庭の片隅に固まっていた。電話をかけて叫んでいる者、ただ茫然としている者。
優一が臆せず近づいていくので、その有様をすぐそばで見ることとなった。
大森という生徒が、へしゃげた姿で事切れていた。手足が折れ曲がり、その勢いでか常人の1.5倍まで伸びている。壁に投げると張り付くカエルのおもちゃが思い浮かばれた。
彼は、仰向けだった。死んでいるというのに、無表情で空を眺めている。血が染みているのは直関した背中なのだろう、露になった腹は意外なほど綺麗だった。
いや、厳密には、綺麗とは言い難かった。
青く沈んだ小さなアザが、回答が終わったマークシートのようにビッシリと浮かんでいたのだから。
「ちょっとあなた達、なにをしているの!」
ようやく俺たちに気付いた女教師のヒステリックな声。それと同時に振り替える他の教師たち。
だが、説教を食う前にパトカーのサイレン音が聞こえてきた。
「すいません」
とだけ短く謝罪し、小走りでその場を去る。
「大森だったね」
と走りながら優一が言った。
だが、俺の心にはそれ以上に引っかかることがあった。
あのアザは、数こそ多かったが、小さかった。優一の腹に刻まれたそれよりも。
そして、タバコの焼け痕がなかった。
俺の胸中で、また何かが渦巻き始めた。
急遽開かれた全校集会は、急遽ということを差っ引いてもテンプレ通りなものだった。
大して関りのなかったクラスメイトのために黙とうをして、その場で解散となり、ばらばらと生徒たちが掃けていく。
その中の一組、クラスメイトの女子が雑談をしていた。内容がかすかに聞こえてくる。
「前もこんなことがあったよね」
「ねー。大森ってなんで死んだんだろう」
「さあ、受験ストレスじゃないの。あ、でもお腹にアザがあったらしいよ」
「マジ? もしかしたら今度こそイジメで死んだってこと?」
「マジっぽいよ。だとしたら誰なんだろね、アイツは自殺したはずなんだけど」
きゃいきゃいと話し合いながら、去っていく背中を呆然と見ていた。
頭の中で組み上げられた仮説を、俺はただ抱えるばかりだった。
夏休みが開始して二週間。
なにか突き動かされるような心に従って、太陽照りつく外を歩いている。
歩みの先には学校があった。
図書館で勉強をする人のためだろうか。校門は小さく開けられていて、校舎からもかすかに人の気配を感じる。
俺は校舎には入らず、校庭の一角を目指して歩いた。
そこに、優一がいたからだ。彼は驚いた顔をしていた。俺自身、優一がいるとは思わなかった。臭い台詞をあえて言うのならば、運命のように。
「やあ翔琉君。奇遇だね、本当に」
そう答える優一は、立っていた。
浮かび上がった染みの上に、踏みつけるように。
「気づいていたかい。この染みの上に、大森は落ちたんだ」
ああ、そうだろうな。染みのすぐそば、校舎に立てかけるように花束や菓子類が置かれていた。大森の家族が置いたものだろう。
だが、染みはひとつだけだった。大森のと思われるものは、綺麗さっぱり洗われていた。たとえ重なるようにこの上に落ちたとしても、器用にぴったり重なるわけがなかった。染みの形は、何一つ変わることなく、ただそこに沈んでいる。
俺は、心の中でわだかまっていた質問を、優一にぶつけた。
「なあ、この染みは、誰の染みなんだ?」
優一は、難問の正解にたどり着いた生徒を見る教師のような顔をしていた。足がグリグリと染みをなじる。
「こいつはね、みんなから『ギガ』って呼ばれてた、いじめっ子だよ」
過去を想うように彼は目を伏せる。俺にはそれが、栄光の記憶を回想しているように、誇らしげに見えた。
「大森と同じく、ギガもまた中途半端に勉強ができるだけの馬鹿だったんだ。だけどね、こいつは大森とは違う道を選んだ。キノコのように陰気に生きるのではなく、自分より上の存在をいじめることで精神の安定を図ろうとした」
「精神の安定?」
「ま、ストレス解消だよ。こいつは勉強の才能はなかったけど、いじめの才能はあった。ターゲットは常に成績トップを維持する僕だった。タバコを押し当てたり、散々殴ったりね」
優一の語り口に悲壮感はなかった。薄く笑みを浮かべてすらいた。
「でもね、現実ってのが見え始めたんだ。いつの間にか、誰も味方がいなくなっていた。勉強をしなくては。将来がある、未来がある。こんな、未来を放棄したクズに付き合っているわけにはいかない」
「…………」
「チャンスだったよ。一人でもいじらしく俺を殴ろうとする彼に、言葉を浴びせかけ、現実を浴びせかけた。親にバレていないとでも思ったのか、僕が一声出せば誰もが敵になる。少年院に入れられるかもしれない。ただでさえ暗い未来が、終わる。ってね」
誰もいない校庭の中、太陽だけが俺たちを見下ろしている。どこかで蝉が鳴いた。
「こういう口八丁は得意な方なんだ。あとは、暴力ではかなわなかった代わりに、それ以外の嫌がらせをたくさんした。今度はこっちがストレスを解消する番だってね。そうしたら……」
ジャリッ! と大きく音を立て、染みに強く蹴りを入れた。
「死んだんだ。アッサリとね」
「そう、か」
いや、知りたい真実はそれではないような気がしていた。その奥にまだなにかがあるような、そんな予感。
察知したのだろうか、あるいは全部話すつもりだったのだろうか。優一が舞台俳優のように手を広げ、宣言するように過去を紡いでいく。
「それでわかった。馬鹿に生きている価値はないって。その真実を悟った今年の春、翔琉君が来る前の三年生に上がりたての日、教室に大森がいて、僕はどれほど驚いたかしれない。こんな落ちこぼれがどうやって年度末の試験に合格したんだろうって。まあ、大方親が過保護だったんだろうね。だから僕は、大森をいじめることにしたんだ」
校舎の壁に添えられた供え物は、よく見ると、幼稚園児が喜ぶようなラインナップに固定されていた。
「大森にね、お前に生きている価値はないと植え付けて、腹を蹴った。呻いたらまた言葉を投げた。そして、死んだ。ギガの奴みたいに群れを成すんじゃなく、僕一人で実行したんだ。おかげで誰にも悟られることがなかったよ。本当は遺書なんか残していないか心配だったけど、どうも報道の情報が更新されないあたり、大丈夫みたいだね。生きる価値がないと信じている人間は、なにかを残すことなくひっそりと死ぬものだからさ」
俺は言葉を失っていた。何を話せばいいのかわからなかった。
ただ、胸に渦巻いていた感情が増幅していく。次第に形を伴い、正体がわかってくる。だけど目を逸らせない。優一がすぐそこにいるから。
「ねえ、今度は僕が翔琉君に質問していいかな」
優一の笑みが深まる。そのまま、さも楽しそうに彼は言う。
「翔琉君。キミは、なんで転校することになったの?」
その言葉を引き金に頭の中に鮮烈な映像たちがフラッシュバックしていく。セピアカラーなどではなく、明確な色を伴って頭の中を駆け巡る。ただ、その顔は全て大森になっている。
水をかけられて薄汚い服装の大森が喘ぎ叫んでいる。それを見て、たくさんの人が笑っていた。濡れそぼった顔に、便器用のブラシをこすりつけ、また笑った。
小太りの背中を蹴り飛ばされた大森が、地面に這いつくばった。土を舐めながら立ち上がろうとするその手足を払い、芋虫のように蠢くその体に足跡をつけていく。柔らかな肉の感触を楽しんでいるのは男子で、残る女子たちは指をさして甲高い声で笑っている。
朝の教室の中心で、首を吊って大森が死んでいる。その黒い瞳は鏡となって、驚愕の表情を浮かべた……俺の姿を写している。
「この学校で、染みが見えるのは恐らく僕だけだった。ギガが死んで、学校は平和だったように見えた。僕が大森を痛めつけている以外はね。なんでか、わかる?」
「優一はわかるのか?」
「ううん。正直、なんとも。だけど、感じるものがあったんだ。キミなら答えを示してくれるんじゃないかってさ」
「……ああ、俺にはわかる」
「へえ、教えてよ」
「……この染みは、染みの持ち主であるそのギガって奴と……同類の人間にしか見えない」
そこまで言ってからようやく、自分に渦巻いていた快楽を伴う感情の正体が、嗜虐心であると知った。
アスファルトに浮かぶ陽炎を車が切り裂いて抜けていった。その傍らの歩道を二人で歩いていく。
大森が死んだとき、優一と話しているとき、俺は確かに喜んでいた。
だけど、清々しい気持ちだった。優一もきっと、同じだろう。
「なあ、アイスでも買って帰るか。奢るよ」
「え、いいの? ありがとう」
先を行く優一が、真面目そうな顔に笑みを浮かべる。
この日がきっかけとなって、俺たちは親友になった。