1 境目の春期講習(8)
男子にとっての「卒業」とは、いわゆる学業のものではなく、もっと原始的なところにある。少なくとも青大附属の場合はそう使われてきた。乙彦もこの学校に一年在籍してきてその辺りはよくわかっているつもりだ。流石にここでは、女子の阿木もいることだし深いところまでは話せないが、他の男子たちが同じように感じていることだけは確認することができた。
──相手は誰だろう。
特定したくもないのだが、春休み中のよしなを重ねて見る限り一人の女性がどうしても浮かび上がってくる。今回だけではない。火消しこそされてきたにせよ、去年から噂は存在した。立村は素知らぬ顔で過ごしてきたがこれだけ違和感を感じる連中が増えている現状、ごまかすにも限界があるのではないか。乙彦はまだ、「道を踏み外しかけている立村」という味方を崩していないが、更科の言葉を鑑みる限り、とっくの昔に手遅れという可能性もなくはない。
──本当に、立村、このままだとまずい。
今の段階で自分からは口に出せない。乙彦のやり方ではない。
「関崎、今度は何を飲む?」
細々と更科がマグカップの目配りをする。
「コーヒー貰いたい」
かろうじてそれだけ答えた。
「おはよう! もうみんな来てたんだね。遅くなってごめんね!」
爽やかな声が響き渡った。扉の向こうを見なくてもわかる。生徒会長清坂美里の登場だ。一週間ちかく顔を見ていないがどうも相変わらずのように聞こえた。姿を見るまでは。
「会長、あ、あれ?」
阿木の素っ頓狂な声が生徒会室に響き渡った。
「清坂さんあれ?」
声を出したくなる気持ちは乙彦もよくわかる。あえて何も言わないのは関わりたくないからそれだけである。もし相手が別の奴ならこうはしない。ちらと羽飛を伺う。
「美里、朝飯食ってねえだろ」
「え? なんで?」
羽飛は答えず鞄から水筒を取り出した。
「悪い、こいつのマグカップ取ってくれねえか」
「あいよ」
更科が手早く渡す。羽飛は水筒からどろどろした緑色っぽい液体を注ぎ、立ったままの清坂に、
「ほら」
手渡した。戸惑いつつも受取り清坂も、
「なにこれ」
呟く。未知の液体だ。遠目からは魔女の妖しい薬にも見える。
「うちの母ちゃんが、美里に絶対飲ませろって聞かねえんだよ。俺と悪いけどこんな不気味な野菜ジュース飲む趣味ねえからな。お前、とにかく片付けろ、座れ」
言われるがままに清坂は羽飛の隣に席を取った。ちらと乙彦の方にも目をやって、
「こんなところでやめてよ、変に思われてるじゃない」
口を尖らせた。羽飛は無視して続けた。
「ばっかじゃねえの。お前がこんなにガリガリになっちまってたら、俺が何かするよりもみんな変だと思うに決まってるだろうが。まず飲め。話はそれからだ」
──羽飛は、清坂が心労のあまり寝込んだと話していたんだが。
それどころの問題ではなさそうだ。更科と阿木が顔を見合わせて清坂をまじまじと観察している。乙彦も同様に、一週間前とは打って変わってやせ細った清阪の姿を視界の隅から覗き込んだ。マグカップをすする指先は、骨がくっきりと浮き出ている。隣で清坂がしっかり謎の野菜ジュースを飲みきるか、見張っている羽飛の目つきが気になった。
「あー、美味しかった! もう一杯ちょうだい!」
いっぱい飲み終えたとたん、清坂の表情に声と同じ明るさが戻ってきたかのように見えた。
「おばさんにありがとうって伝えておいてね! あ、あとで貴史んちに私が行ってお礼言えばいいのか。これ、作り方知りたい!」
「なんか緑の野菜大量にミキサーへぶち込んでがたがたやってたぞ、うちの母ちゃん」
言いながら羽飛が自分のマグカップに少量たらして味見している。思い切り顔をしかめる。
「なんだこれ、草食動物の気持ちを知れってことかよ? お前ら飲むか?」
断れずその場にいた面子全員が味見せざるを得なかった。
ジュースというよりも野菜を細かく砕いたどろりとした飲み物で、まずくはないけれどもおかわりしたいとは思えなかった。
「馬か羊だったらおいしいのかも」
阿木の発言に、清坂はふくれっ面しつつもすぐ機嫌を直して二杯目を飲み始めた。
「美味しい! なんか久しぶりに美味しいって思えたなあ、ありがとね」
味の感想を控えた更科が乙彦にささやきかけた。
「あれだけいろいろあると、食べ物も喉を通らないよなあ。味覚もちょっと狂うよね」
──もっともだ。
頷くしかなかった。




